燦燦さんぽ日和   作:加藤泰幸

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第二十六話/家族

 ようやく満開に漕ぎ着けた梅の花は、一日で散ろうとしていた。

 

 ヒロは溜息をつきながら、店の軒先に咲く梅を窓越しに眺めたが、はっきりとは見えない。

 というのも、酷く強く降る雨が窓を叩き、強風が度々に窓枠を揺らす為である。

 梅の花も、その風雨によって散らされている。

 客に満開の梅を楽しんで貰えるようになった矢先の事で、なんとも間が悪い。

 

 目線を少し奥に移せば、路上では時折、折れた木の枝等が飛んでいた。

 更にその奥の海上では、波が生き物のようにあらぶっている。

 上空には黒々とした雨雲が敷き詰められていて、日中とは思えない薄暗さを醸し出していた。

 

 

 

「随分酷い嵐がきたものねえ」

 同じく外を眺めていたセンダンが、呆気にとられたように呟く。

「雨や風も凄いですけど、時々雷も落ちているみたいですよ」

「怖わ。こんな嵐初めて見るんだけれど、ロビンや兄花島ではよくあるの?」

「いやいや、そんな事はありませんよ。

 なので、ウチも含めて備えがない所ばかりでしょうね」

「あらー。災害とか起こらないと良いんだけれどねえ」

 センダンは不安げにそう言って、ソファに腰掛けた。

 

 

 春の嵐の到来である。

 

 昨晩までは晴天そのものだった天候は、今朝方には豪雨と暴風へと姿を変えてしまった。

 梅のみならず、芽生えだした緑は、殺人的に降りつける雨に打たれ、

 海桶屋を含む古い町並みは、家屋を壊さんばかりの勢いで吹きつける風に晒されている。

 

 この様な天候だから、外を歩こうとする者は基本的にはいないのだが、一人だけ例外がいた。

 島の外からやってきたミクリである。

 まだ早朝である先刻、久々にやってきた彼女の第一声は「途中で降られた」であった。

 短い言葉ではあったが、全身濡れ鼠状態で、疲労困憊の様子からも、散々な目に遭った事は十分伝わってくる。

 何にしてもまずは体を温めようという話になり、彼女は現在、急遽焚かれた風呂で体を温めていた。

 

 

 

 

「……ところでヒロ君。良い事思いついたんだけれど」

 センダンがソファに座ったままで言う。

 顔を見れば、口を限界まで開く、彼女特有の笑顔を浮かべていた。

 猛烈に嫌な予感が過するが、聞かずに済むものでもない。

 

「またくだらない事思いついたんですか……」

 顎を引いてジト目で睨む。

「くだらないってどういう事よ!」

「例えば、嵐に合わせて100メートル走ったらどんな記録が出るか、とか」

「あ、それ良いわね」

 ヤブヘビである。

「でも、それは次の機会にしましょう。ミクリちゃんの事よ」

「む……」

 ミクリと聞いて、反射的に背筋を伸ばした。

 浴場の方に視線を移すが、まだミクリが出てくる様子はない。

 

 

「なんでしょうか。上がってくる前に、手短に」

「ミクリちゃんを笑わせる計画なんだけれど、あれ、今日で決めちゃわない?」

「今日で、ですか」

「ミクリちゃんの気持ちは揺れつつあるんでしょう? じゃあ、今こそ勝負する時だと思うのよね」

「ふむ……」

 

 センダンの言葉を受けて、先月の梅見祭の夜を思い出す。

 確かに、彼女は戸惑いを口にしてくれた。

 落ち着く時間が欲しいとも言っていた。

 その事はセンダンにも掻い摘んで話していたので、次に来た時が好機だと思っていたのだろう。

 自分も似たような事を考えていたのだから、異論はない。

 

 

 

「……でも、できるかな」

「なに。反対なの?」 

「いえ。異論はありませんが、自信もなくて。

 確かにミクリちゃんは変わってきていますけれど、

 この数ヶ月間、仕損じ続けている事を思うと、どうにも……」

「大丈夫! なんとかなるって!!」

 センダンは声を張り上げて主張した。

 同時にソファから立ち上がり、力強く片腕を掲げてみせる。

 言葉通りの、自信に満ち溢れた振舞い。

 成功する根拠もないのに、大したものである。

 彼女の、勢いだけの行動を楽しく感じるようになったのは、いつ頃からだっただろうか。

 

 

 

「……分かりました。やってみましょうか」

 呆れたような口調で、だが口の端を緩めながら、ヒロは頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 燦燦さんぽ日和

 

 第二十六話/家族

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サリッ……サリッ、サリッ……サリッ。

 

 不定期なペースで本を捲る音が、フロントに響く。

 風呂から上がって一息ついたミクリは、フロントのソファに腰掛けて読書をしていた。

 ページに触れる指先と、切れ長の目の奥で輝く瞳だけを動かしながら、一ページ一ページの内容を脳裏に刻む。

 もう、かれこれ三十分はそうして本を読み続けているだろうか。

 その行為に没頭する彼女の姿は絵になっていて、受付台の前に座るヒロは、時折そんなミクリに見惚れてしまった。

 

 

 

「ふぅ……」

 ミクリが小さく息を吐いて本を畳む。

 ようやく小休止を取るようである。

 このひと段落を、ずっとヒロは待っていた。

 即座に立ち上がって厨房に入り、冷蔵機からオレンジジュースを取り出してミクリの傍に向かう。

 

「はい、どうぞ」

「ん……」

 本が閉じられてから、十秒強。

 ミクリが読書に復帰する前にジュースを差し出す事に成功した。

「ああ、すまない。ちょうど喉が渇いていたんだ」

「それなら良かったよ」

「ヒロは気が利くな。……うん。美味しい」

 ミクリは小さく会釈すると、喉を鳴らしながらジュースを飲んだ。

 これで、掴みは問題ない。

 

 

 さて、勝負はここからである。

 ようやくミクリに声を掛ける事が出来たのだから、今こそ仕掛けなくてはならない。

 これまで、何をやってもミクリは笑ってくれなかった。

 そんな彼女を、一体どうやって笑わせれば良いのか。

 まだ試していない手は残っているのか。

 あったとしても、それが通用するのか。

 考えに考え抜いたヒロが弾き出した結論は……残念ながら、斬新なものではなかった。

 

(このオレンジジュース、柿を混ぜてアレンジジュースにしてみたよ。

 ……よし、いける)

 

 いけない。

 脳内でシミュレーションをするヒロは、本気でそれで勝負するつもりだった。

 彼の結論は、なんの事はない、ただのダジャレである。

 それも、凄まじく酷い出来。

 だが、ヒロには他に何も妙案がないのだ。

 これが、彼の笑いのセンスの限界だった。

 

 

 

 

 

「この……」

「そうだ、ヒロ。虹の卵の事なんだが」

 満を持して、破滅の一言を発しようとした所で、ミクリの言葉がそれを制した。

 思わずつんのめりそうになるが、すぐに気を取り直す。

 そう言えば、ミクリを笑わせる事ばかり考えていて、虹の卵の事は忘れていた。

 それはそれで、気になる話である。

 

「ああ、うん。何か分かったの?」

「ヒロの友人が言っていた『手にした者の気持ちに応えて』という路線でも調べてみたんだよ。

 だが、残念ながら何も分からなかった」

「あらら」

「もう一つ何か情報があれば、ドミノ倒しのように謎が解けそうな気もするんだけれどね。

 私の方では、もう何も分かりそうにない。後で返すよ」

「分かった。わざわざありがとうね」

 明るい声でそう言うが、内心では肩を落とした。

 

 どうやら、虹の卵に関してはこれで完全にお手上げだ。

 だが、分からないのだからどうしようもない。

 それに、そもそもはウィグから出会いを記念してもらったものである。

 友情の証として、また飾っておけば良いだけだ。

 それよりも、今はもっと重要な事がある。

 ヒロは、改めて意を決した。

 

 

 

「ところでミクリちゃん」

「うん?」

 ミクリが首を傾げた。

 今度こそ、決める時。

 

「このオレンジジュース、柿を混ぜてアレンジジュースにしてみたよ」

「へえ。言われてみれば、味に深みが出ている気がするよ」

「………」

 

 通じなかった。

 気づかれもしなかった。

 当然の結果である。

 

「どうした? 急に小難しい顔になったが」

「えっと、今のは……」

「今のは?」

「……いや。なんでもないや。はは、ははは……はぁ」

 

 ダジャレの解説ほど虚しい事は無い。

 ヒロは、深く嘆息した。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「はぁん! 駄目ねえ。ヒロ君は本当に駄目ねえ!」

 厨房改め、良い事作戦本部。

 その奥で、ふんぞり返りながら椅子に座るセンダンは、

 とぼとぼと帰ってきたヒロを、早速鼻で笑い飛ばしてきた。

 

「そ、そこまで言う事ないでしょうに」

 ヒロとしては、自信があるダジャレだったのだ。

 結果は惨敗であったが、さすがに悔しくて抗議をする。

「だって全然だったじゃないの。今の、オレンジとアレンジをかけたんでしょ?」

「そうですが」

「分かりにくすぎ! 実際、気づいてもらえなかったじゃない!」

「ぐう」

 思わずぐうの音が漏れる。

 反論の余地は無かった。

 

 

「じ、じゃあ、センダンさんならどうするんですか?」

「うむうむ。よくぞ聞いてくれました!

 まずダジャレという選択が間違ってるわ。

 そんなの何回も試してきたんだから、今さら通用するはずないじゃない」

「それはそうかもしれませんけれど、他に何も思い浮かばなくて……」

「いいえ。まだやり様はあるわ」

 センダンは不敵な笑みを浮かべた。

 尾はブンブンと振られていて、どうやらテンションが高まっているように見受けられる。

 それ程の隠し玉が、まだ残っていただろうか。

 ヒロには何も思い当たりはない。

 もう、それは散々考え尽した事なのだ。 

 

「私達はこれまで、ミクリちゃんの感情に語りかけようとばかりしてきたわよね」

 センダンが椅子から立ち上がった。

 フロントの方に向いながら、彼女はなおも喋る。

「でも、最初の一回は感情からくる笑いじゃなくても良いと思うのよ」

「はあ」

 今一つ、センダンが何を言いたいのか分らないが、曖昧な相槌を打つ。

「ま、私がバッチリ決めてくるから、ヒロ君はここで見てなさいな」

 

 

 

 センダンは、そのまま厨房からフロントへと出た。

 後を追いかけて、遠目にフロントの様子を伺うと、ミクリは読書を再開していた。

 外では相変わらず嵐が激しくて、風雨が窓を叩き続けているが、

 ミクリからは、それを気にする様子は一切感じられない。

 場所や状況は関係なく、集中できるのかもしれない。

 そんなミクリに対して、センダンはどう声を掛けるつもりなのだろうか、とヒロは思う。

 自分の場合は、一服するタイミングを見計らったが……

 

 

「ねえねえ、ミクリちゃーん」

 普通に話しかけた。

 センダンは、そんなもんである。

「ん……?」

 ミクリは反応こそしてくれたものの、声の調子は生返事だった。

 顔も上げてはくれず、案の定の対応。

 この状態では、どれだけ面白い事を口にしても難しい。

 ……だが、センダンの選択は『言葉』ではなかった。

 

 

「失礼~! こーちょこちょこちょこちょー!!」

「むっ!??」

 センダンが、ミクリに飛びかかった。

 ミクリに抱きつくように腕を回し、十本の指をそれぞれ過敏に動かして脇をくすぐる。

 服の上からという事もあってか、しっかりと刺激が伝わるように、その動きはダイナミックでもあった。

 そして一方のミクリはというと、あまりにも突然の事だからか、思わず本を手放して、されるがままにくすぐられている。

 

「こちょこちょー! こーちょこちょこちょー!」

「………」

 センダンは、なおもくすぐり続ける。

 なるほど、確かにこの方法は盲点だった。

 心ではなく、体で笑わせるという事は、ミクリを魔法の呪縛から解き放つという本来の趣旨からは離れている。

 だが、これがきっかけになって、ミクリが開放的になる可能性も考えられるのだ。

 センダンにしては、妙案を思い付いたものである。

 これで、ミクリがくすぐったがって笑ってくれれば、ベストであったが。

 

「こちょこちょー! こちょ……ぉ……?」

「………」

 ミクリは、笑うどころか口を開こうともしない。

 無表情になって、自分をくすぐってくるセンダンを黙って見下ろしている。

「……あ、あの、ミクリちゃん?」

 センダンが指の動きを止めた。

 汗をかき、気まずそうな表情でミクリを見上げる。

 

「……なんだろうか?」

「もしかして、ミクリちゃん……くすぐりに強い?」

「いかにも、そうだが」

 淡々とした返事。

 センダンは、がくりと崩れ落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「………」

「どうした、ヒロ。元気がないようだが……

 昼食、早く食べないと冷えてしまうぞ?」

「あ、うん。そうだね……」

 

 ヒロは元気なく返事をして、お椀を手に取った。

 眼前の囲炉裏に掛かった鍋では、味噌汁がもう十分に煮立っているので、それを自分の椀に注ぐ。

 彼の動きは、酷く緩慢なものだ。

 その理由が自分であると気が付いていないようで、ミクリは不思議そうな表情をしていた。

 

 

 

(惨敗かあ。はぁ……)

 内心ではまだ溜息をつきながら、ご飯と、緑釉の向付に盛られたイカの刺身を一緒に食べる。

 それにしても、散々だった。

 ヒロの渾身のダジャレは通用しない。

 センダンがくすぐっても反応を示さない。

 他にも、笑ってくれそうな事は片っぱしから試してきた。

 だというのに効果なしで、もうミクリを笑わせる術の持ち合わせは、何もない。

 

 それは、単なる『良い事』の失敗で終わるものではない。

 現時点においては、ミクリが感情を解き放つ事はないという話だ。

 そして、仮に今後もミクリに笑う機会が訪れなければ、人との交流を避けて魔法に没頭するのであれば……ミクリは、孤独な日々を送るという話だ。

 そうあって欲しくない。

 相手が誰であろうと、その様な悲しい話は聞きたくない。

 長らく共に生活してきたミクリであれば、尚更だ。

 

 

 

(だと言うのに……どうしようもないのかなあ)

 暗い表情のままで、またイカの刺身に箸を伸ばす。

 ……が、向付には、もう何も乗っていなかった。

 さすがに、考え事をしながら、知らぬうちに全部食べてしまうほど耄碌はしていない。

 

「……あれ?」

 二、三回箸を空振らせながら、周囲を見回す。

 答えは、斜め隣に座るセンダンの向付の上にあった。

 彼女だけ、イカ刺の量が約二人前。

 無論、特別に沢山食べているわけではない。

 

 

 

 

 

「センダンさん、なんで人の刺身取るんですか?」

「いや、食欲がなさそうだったから、いらないと思って」

 さも当然の如く言ってのける。

 横暴ここに極まったりだ。

 ヒロは一度ぐったりと肩を落としたが、すぐに機敏に顔を上げ、センダンの向付を丸ごとひったくった。

 

「食欲ありますよ。勝手に取らないで下さい」

 ギロリと睨みつけながら、センダンに抗議する。

「あ、何するのよ。だからって私のごと取らないでよね」

「一つ一つ取り返してたら、邪魔してくるじゃないですか」

「そりゃそうだけれど、全部取るんなら、それはそれで考えがあるわよ」

 すっ。

 センダンが、向付を手元に寄せ返した。

 

 

「ああ、また刺身を!」

「当たり前でしょ。私の刺身なんだから」

「半分は僕のですよ」

 すすっ。

 

 

「また取ったわね。ケチヒロ!!」

「センダンさんには言われたくありません!」

 二人とも、声が大きくなり始める。

 一人蚊帳の外のミクリは、きょとんとしながらヒロ達を眺めていた。

 

「センダンさんは味噌汁をたくさんどうぞ。油揚げも入っていますから!」

「それはそれ、これはこれよっ!」

 すすすっ。

 

 

「はい頂き!

 こういう時は『お母さんはいいから、あなた食べなさい』って気遣うものよ」

「誰がお母さんですか! 家族同然ですけれど、それにしたってお母さんはありませんよ」

「ええい、うるさい、うるさーい!」

 先にひったくり合戦から降りたのはセンダンだった。

 両手を振り上げて大声で喚くと、向付の上で箸を滑らせる。

 あろうことか、一手で全ての刺身をすくいあげ、それを口の中に放り込んでしまった。

 

 

「あーあー、あーー! 泥棒! 泥棒狐!!」

「むぐもぐ……ぷはっ! なによ、ヒロ君の方がよっぽど泥棒っぽい顔してるじゃない!」

 とうとう二人して、声をなおも張り上げながら立ち上がった。

 

「顔は生まれつきなんだから、どうしようもないでしょう! センダンさんは性根を叩き直して下さい!」

「なにおう!? ミクリちゃんが勘違いするような事言わないでよね!」

「今更勘違いするような間柄でもないでしょうに! 周知の事実です!!」

「おお、言ってくれるじゃないの! ヒロ君といえども、今回だけは許せないわ!!」

「それはこっちのセリフですよ! 犬みたく尻尾逆立ててみっともない!!」

「ええい、もう怒ったわ! 表に出ろっ!!」

「嵐なのに無茶苦茶言わないで下さい!!!」

「これが言わずにいられるか~っ!!!」

 

 

 

 

 

「ははっ」

 

 

 

 

 

「「………!?」」

 不意に、二人の間に第三者の声が割って入った。

 同時に視線を感じ、二人して鏡写しのように視線を辿る。

 

 

 

 ――声の主は、一人しかいない。

 

 ミクリ・トプハムは、口に手をあてがって笑っていた。

 

 

 

「ミクリ……」

「ちゃん……?」

 ヒロらは、そう声を捻り出すのが精一杯だった。

 突然の笑いに固まってしまっている。

 

「あははは、はははははっ」

 ミクリは、なおも笑った。

 少女そのものの純真な笑顔と声で、腹を押さえながら笑い続けた。

 他の感情も、ヒロらの視線も、いっさい入り込む余地がないような笑い。

 ヒロらが求め続けたものが、そこに突然沸いて出たのである。

 はじめのうちは、ただただ笑うだけであったが、次第に彼女の笑いには言葉が加わりだした。

 

「ははは、はははははっ……

 二人とも……はは……まるで、本物の家族だ……あははっ。

 こんなに、こんなに本気になって喧嘩して……あははははははっ」

 

「「………」」

 ヒロとセンダンの首が、ようやく動いた。

 また鏡写しのように顔を動かし、互いの顔を見やる。

 何も理解できていない、ぽけっとした表情。

 自分と同じ疑問を相手も抱いているのは、一目瞭然だった。

 

 

「なんで、笑ってくれたんだろ……」

 ヒロがぽつりと呟く。

 その理由に、まったく思い当たりがない。

 直前までセンダンと口喧嘩をしていたのだが、それが面白かったという可能性は考えられる。

 だが、とことん手を尽くしてきたのだ。

 今更、口喧嘩なんかを面白く感じてくれるかというと、疑問が残る。

 では、何なのだろうか。

 本物の家族のようだ、と言っていた。

 本来は赤の他人の自分達が遠慮なく接しあっているのが、面白いのだろうか。

 それも、笑いの原因ではない気がする。

 ならば、一体……

 

 

「ふふっ」

 また笑い声が聞こえた。

 ミクリの声ではない。

 センダンが、眼前で破顔していた。

 

「センダンさん……?」

「ミクリちゃん、笑ってくれたね……うふふっ!」

 センダンが笑う。

 ミクリの笑いも、まだ止まっていない。

 

 ……良いではないか。

 ミクリが笑ってくれたのだから、それで良いではないか。

 二人の笑いは、ヒロの思考を吹き飛ばしてしまった。

 外は酷い嵐だというのに、輝く太陽が差したような、暖かい気持ちを覚える。

 ミクリの心のタガは、ようやく外されたのだ。

 ヒロは、それが嬉しかった。

 ただただ、それだけが嬉しかった。

 

 

 

「ははは……わははははっ! ははははははっ!!」

 気がつけば、ヒロも笑い出していた。

 笑いながら、センダンの肩を乱雑に二度叩く。

 それを受けたセンダンは、ヒロではなくミクリの肩を同じように叩いてみせた。

 笑いすぎたせいだろうか、ミクリは目尻に微かに涙を滲ませながら、ヒロとセンダンの腕を揺すってくる。

 

「あはははは、はははっ」

「うふふふふっ! ふははははっ!」

「はははは、わっはっはっはっ!」

 

 なぜか、その行為さえもおかしい気がして、三人は更に声を大きくして笑う。

 一体、いつまで続くのだろうかと思われる笑いの連鎖。

 ……それを断ち切ったのは、囲炉裏部屋の外から聞こえてきた物音だった。

 

 

 ドダダダッ!

 

 

 何かが落ちるような音。

 だが、それが落下音ではない事を、ヒロは瞬時に感じ取った。

 その音と同時に、風が強く荒れ狂う音も聞こえている。

 誰かが、海桶屋に入ってきたのかもしれない。

 

 

 

 

 

「はは、はっ、はぁ……ち、ちょっと見てきます」

 なんとか笑いを納めながら、センダンとミクリに断りを入れて、囲炉裏部屋を出る。

 それを受けた二人も、まだ小さく笑いながらヒロに着いてきた。

 

 フロントには、案の定、男が上がりこんでいた。

 玄関は開かれていて、やはり外からは嵐の音が聞こえてくる。

 先程の音は、この男が上がりこんできた音に間違いはなさそうだ。

 とはいえ、ヒロの知人であった為に、その状態については驚きを覚えない。

 

 

「はあっ……はあ! はあっ……はあっ……!!」

 長く駆けてきたのだろうか、男は四つんばいになって荒い息を必死に整えていた。

 ミクリが来たとき同様、全身ずぶ濡れになっていたが、それを気にする様子は欠片も感じられない。

 

 その男……ゴウ・ゴダイゴは、ヒロの視線を感じてようやく顔だけを上げた。

 だが、まだ息を整えていて、言葉を出す事はできないようである。

 彼のその目は鋭く見開かれていて、口元には微かに震えが浮かんでいる。

 この状況にこの表情。

 何も聞かずとも、尋常ではない事は十分に伝わってきて、ヒロは思わず口を強く結んだ。

 後ろにいるセンダンとミクリも何かを察したようで、いつの間にか、二人も笑う事を止めている。

 

 

「ゴウ君、大丈夫? 突然どうしたのさ」

 ゴウの傍で片膝を付き、ゴウの背中をさすりながら語りかけた。

 その問いにもすぐに返事はできない位、ゴウの呼吸は荒れている。

 暫く待ってもまだ整いはしなかったが、彼は必死に、荒い息遣いの間に言葉を捻り出してくれた。

 

 

「はあ、はああっ……! サヨコが……はあっ……サヨコが、急病だ……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 居酒屋ちとせには、モモトセ家が隣接している。

 そのモモトセ家に上がり込んだヒロらがサヨコの部屋に飛び込むと、

 真っ先に目に入ってきたのは、布団の中で苦しそうに唸っているサヨコの姿だった。

 

「サヨコ……!」

 まずサヨコに駆け寄ったのは、ミクリだった。

 再びずぶ濡れになった身体を厭わず、泣きそうな顔でサヨコに声を掛ける。

 だが、サヨコは返事をしない。

 意識はあるようだが、まるでミクリが傍にいないかのように、ミクリに対して一切反応を示さず、唸り続けている。

 

「ミクリちゃん。雫が飛ぶといけないから……」

 サヨコの事も心配だが、まずはミクリを落ち着かせる必要がある。

 持参していたタオルをヒロが手渡すと、ミクリはなおもサヨコを気にする素振りを見せつつ、雨を拭った。

 

 その間に、ヒロとセンダンも、サヨコのすぐ近くまで来て様子を伺う。

 サヨコの顔中には、脂汗が酷く滲んでいた。

 白く奇麗な肌からは、平常時のような血の気が感じられない。

 同じ白い肌でも、病人のそれである。

 軽い風邪の類ではない事は、それだけで十分に伝わってきた。

 ふと、猛烈に嫌な予感が脳裏を過ぎる。

 だが、すぐに顔を左右に振ってその予感を吹き飛ばす。

 それから、ゆっくりとした手つきで、毛布の上からサヨコの体に触れる。

 呼吸によって体が上下しているのを感じ取る事で、少しだけ落ち着く事ができた。

 

 

 

「お邪魔しています」

 背後から、ゴウの声が聞こえた。

 振り向くと、水の入った洗面器とタオルを手にしたサヨコの父の姿があった。

 家に上げてくれた時には、介抱する為の道具を改めてくると言っていたので、おそらくは手にしているのがそれなのだろう。

 

 

「皆、わざわざありがとう。心配をかけてすまないね」

 サヨコの父の声色に、動揺は感じられなかった。

 自分達を労おうとしてくれる、穏やかな声である。

 ただ、ほんの少しだけ声量が小さいような気はした。

 

「おじさん、サヨちゃんは……?」

 センダンが早口で尋ねる。

 口元が、微かに震えているような気がした。

「うん。多分カグツチ熱だね」

「カグツチ熱……?」

「あまり一般的ではない病だね。

 通常の発熱以上の、超高温の発熱が長く続いてしまう熱の事だよ。

 ヒノモトで稀に見られた病で、感染しやすい遺伝子を持っているのか、

 ヒノモト人の子孫には、稀に罹ってしまう者が出るんだ」

 サヨコの父はそう言いながら、サヨコの傍に正座する。

 タオルを水に浸してから強く絞り、サヨコの額に置いた。

「ここ最近体調が悪そうだったのだが、今朝、急に倒れてね……。

 なに、命に別状はない病だよ。ただし、発熱が本当に酷い病だ。

 なので、完治するまで……そうだな。約一週間。

 その間、二十四時間付きっ切りで、冷やしてやる必要がある」

 

「医者は、いないんですか?」

 続いてそう尋ねたのはミクリだった。

「観光地区にはいないのだよ。島の東の居住地区にならいるのだが……」

 サヨコの父は、途中で言葉を切った。

 言われなくても、その先はヒロにも分かっている。

 今日のような嵐では、馬を使って居住地区まで呼びに行く事はできない。

 徒歩で行くという手も一応はあるのだが、往復で約五時間。

 しかも嵐の中を行くのだから、相当過酷である事は想像に難しくはなかった。

 それに、病状柄、誰かが常時サヨコについていなくてはならない。

 それを考えれば、サヨコの両親が医者を呼びに行くのは、現実的ではない。

 

 ならば……

 

 

 

「ヒロ」

 ミクリが、短くヒロの名を呼んだ。

「私達で、呼びに行こう。サヨコを助けようよ」

 そう告げながら、立ち上がる。

 彼女の目は、驚くくらいに澄み渡っていた。

 使命感に燃えているというよりも、それが当然の事であるといった風の顔つきをしていた。

 この少女が、これ程までに人の事を想った事が、これまでにあっただろうか。

 思えば、言葉遣いにも微かに変化が生じているような気がする。

 

「うん。行こう」

「俺も行くぞ」

 センダンとゴウが続けて宣言する。

 ヒロにも、異論はなかった。

 ゆっくりと、しっかりと頷いてみせる。

 

「分かった。そうしよう。でもゴウ君は残っていた方が良い」

「なんでだよ」

「なにも全員で行く必要はないよ。

 それに、サヨちゃんの病状が変わって、おじさん達に人手が必要になるかもしれない」

 ゴウの瞳を見つめながらそう告げる。

 他にも、ゴウは既に自分達を呼んできた事で体力を消耗しているという理由もあったが、

 それを口にすれば、彼が無理を言い出すような気がしたので、そちらは伏せておいた。

 

「………」

 ゴウは眉を無念そうにひそめて、顔を伏せた。

 そのまま、顔を上げずに、ヒロの胸を握り拳で軽く小突いてくる。

 

「……頼む」

「分かった」

 ヒロの答えは、力強かった。

 

 

 

「ヒロ君。皆……しかし……」

 サヨコの父が、不安げに皆の顔を見回す。

 やはり、自分達を心配してくれているのだろう。

 だが、彼は呼び止める言葉を飲み込んだ。

 その代わりに、この上なく深々と頭を下げてくる。

 

「……ありがとう」

「いえ。おじさん達は、サヨちゃんを宜しくお願いします」

 そう言って、もう一度センダンとサヨコを見る。

 

 それが合図になったかのように、三人は立ち上がる。

 窓の外では、嵐がなおも吹き荒れていた。


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