燦燦さんぽ日和   作:加藤泰幸

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第二話/女神の丘

 宿泊業の朝は忙しい。

 季節や土地にもよるが、太陽の日差しを感じられる頃には、彼らの仕事は既に始まっている。

 まだ就寝している宿泊者も多い早朝に何をするのかと言えば、起床後のもてなしの準備に他ならない。

 つまりは、朝食の用意である。

 

 

 海桶屋の二人も、七時には仕事に取り掛かっている。

 朝食を作るのは、板前であるヒロの仕事だ。

 一方のセンダンの仕事は、宿の内外の掃除と、朝食を出す為の用意である。

 食事は客室にて提供しているが、寒い時期には一階の囲炉裏部屋で食べて貰う事もある。

 その為の用意なのだが……冬場だけの仕事で、大した手間でもない。ヒロに比べれば暇を持て余してしまう。

 ならばヒロを手伝えば良いのだが……そうはいかない。彼女が厨房に立つと、大抵は逆に邪魔になってしまう。

 

 朝の掃除を終えて暇になると、センダンはよく宿の外に出る。

 とはいえ、外でも特に用事はない。

 やる事は、あくびをしながら海を眺めるか、散歩中の島民と雑談に興じる位の事しかしないのである。

 

 

 

 

 

「ふぁ~あ……ねむ……」

 

 この日の朝も、彼女は暇だった。

 頭から生える狐耳が、眠気を示すように力なく垂れている。

 店の壁に背中を預け、ただ海を眺める。

 その様子は、さながら狐の干物である。

 干物がそうして朝の日差しを浴びている所に、自転車に乗った郵便局員が姿を見せた。

 

 

「あ、おはようございますー!」

 郵便局員の姿を見つけた干物は、人懐っこく手を振って声を掛ける。

 

「おはようございます。海桶屋さん、郵便です」

「おおっ。お疲れ様です」

 郵便局員から差し出された葉書をセンダンが受け取る。

 次の配達先に向かう郵便局員を見送ってから、葉書の表面を見た。

 ヒロ宛の葉書で、差出人欄にはナナ・ナバテアと記されている。

 センダンの知らない名前だった。

 丸みを帯びた、女性らしい文字だった。

 

 

 

 

 

「郵便ですか?」

 センダンの背後から声が掛かった。

 彼女が振り向くと、ヒロが割烹着を脱ぎながら近づいて来ていた。

 

「そだよ、ヒロ君宛。はいこれ」

「どれどれ? ……へえ、ナナちゃんからか」

 葉書を受け取ったヒロは差出人を見るなり、少し嬉しそうな顔をする。

「ねね! ナナちゃんって誰?」

 センダンが興味心身で尋ねる。

 ぴんと起き上がった耳が、その心境を表していた。

 

「中級アカデミーの時の同級生です。僕を怖がらないでくれた数少ない友達なんですよ」

「ほほう。随分肝が据わった人ね」

「肝が据わると言うか、マイペースと言うか、天然と言うか……。

 上級アカデミーに入ってからも何度か会ったけど、それから二年位経ちますね」

「で、そのナナちゃんが、どうしてお手紙くれたの?」

「それなんですが……」

 ヒロが葉書をセンダンに戻した。

 読んでも良い、という事である。

 センダンは遠慮なく葉書の裏面を見る。

 真っ先に目に留まったのは、印刷された教会の写真だった。

 

「ええっと、なになに?

 古教会を改装した書店『ロレーヌ』をオープンします。近くに来たら遊びに来て下さいね……。

 わあ! ナナちゃんって人、お店を開いちゃったの!?」

「そうみたいですね」

「ヒロ君の同級生って事は、二十一歳でしょ? 凄いねえ」

「そうですね。精霊信仰が深くて、本も好きな人でして、

 いつかはこういうお店を開きたいとは言ってたんですけれど……もっと先の事だと思っていたんで、僕もびっくりです」

「そっかあ。なんだか自分の事みたいに興奮しちゃうね!」

 センダンが無意味に飛び跳ねながら言う。

 眠気はもう完全に覚めたようである。

 

 

「……オープン、明後日みたいですね」

 ヒロが言う。

「うん、そう書いてあるね」

「写真を見る限り、なかなか大きそうな教会ですよね」

「うんうん」

「準備とか大丈夫なのかな……」

「ん……?」

 センダンの視線が、葉書からヒロに移る。

 ヒロは顎に手を宛がい、何やら考え込んでいるようだった。

 

 

 

 

「……ヒロ君、オープンの手伝いに行きたいんでしょ?」

「うえっ!?」

 突然の指摘に、ヒロが裏返ったような声を漏らす。

「な、なんで分かるんです?」

「顔に書いてあるもん」

「ありゃあ……」

「いいよ、行ってきなよ。明日は予約入ってないし」

「そ、それじゃあセンダンさんも……」

「私も行きたいんだけれどねえ……」

 センダンの顔色が曇る。

「ほら、明日はウメエさんの所で料理修行があるじゃない」

 

 彼女には、ヒロの祖母との先約があった。

 決して、先代板前のウメエ・タカナを嫌っているわけではない。

 むしろ慕っており、ウメエが常勤ではなくなった今でも、時間を作ってはウメエに料理の教えを乞うている。

 ただし、その成果はと言うと……努力が実るのはまだまだ先のようである。

 

 

 

 

 

「……そ、それじゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」

 ヒロが申し訳なさそうに、だが笑顔で言う。

「ん。是非そうしなさいな。……その代わり!」

 センダンがズバッと指を一本突き立てた。

 

「絶対お土産買ってきてよ! 食べ物!

 絶対だか『ぎゅう~~~~~っ』」

 彼女の力強い主張は、彼女自身の腹から鳴った音にかき消される。

 

 腹を空かせたセンダンは、大いに赤面した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 燦燦さんぽ日和

 

 第二話/女神の丘

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヒノモト諸島を出ると、建造物の雰囲気は幾度か変化する。

 

 まず、木造建築を主としたヒノモト風の景観が、ヒノモト以外の地区の一般的な建造物に用いられる組積造の景観へと変貌する。

 ヒノモトを出て少し行くと着くロビンの都も、基本的には組積造の建物が多く建ち並んでいるのだが、東部、中央部、西部それぞれに特徴が出ている。

 港のある西部には、百年前の戦争で用いた軍事施設の跡がスラムとして残っており、中央部の商業地区では、コンクリート製の建物が目立つ。

 そして、この日ヒロが向かう東部には、三百年前の内乱時代に建った歴史的建造物が多く残っている。

 いずれにしても、ヒノモトとは全く異なる景色である。

 

 葉書に記された元教会の書店ロレーヌに着くまでには、それなりの時間を要した。

 兄花島ギルド支部で馬を借り、三つの島を越えるのに一時間半。

 そこから幾つかの小さな町を経て、ロビンに辿り着くまでに一時間。

 ロビン南門を潜り、中央部まで出るのに三十分。

 そこからロレーヌがある東部に着くのにまた三十分。

 東部には景観保護地区があり、馬で奥まで乗り入れる事が出来ない為、繋ぎ場で下馬する。

 ロレーヌは開発された丘の上に建っており、徒歩でそこまで辿り着くのに二十分程掛かった。

 

 そうして約四時間掛け、やっと辿り着いたロレーヌの前には、一人の少女がいた。

 

 

 

 

 

 

「うわっ! ヒロ君だ」

「うわっ、て……」

 ヒロを見つけるなり、少女は辛らつな言葉を投げかけてきた。

 その一言に、ヒロは大きく肩を落とす。

 

 

「あ、ごめん。だって来るなんて思ってもみなかったから」

「……というか、カナちゃん、よく僕の事覚えてたね」

「当たり前でしょ。ヒロ君の顔を忘れる方が難しいわ」

 ボブカットに整えられた鮮やかなブロンドヘアーが印象的なその少女、カナ・ナバテアの口調には少しキツいものがあった。

 

「まあ、怖い顔なのは否定しないけれど……でも何年ぶりだっけ?」

 そう尋ねながら、記憶を遡る。

 記憶にあるカナは、とても小さかった。

 ナナの妹であるカナと最後に会ったのは、上級アカデミー在学中だった事だけは覚えている。

 上級アカデミーは五年制の為、卒業後の一年を足し、最長で六年ぶりという事になる。

 

 

「四年じゃないかな。ヒロ君と最後に会った時、私まだ下級アカデミーだったもん」

 カナが言う。

「そうだっけか。今は?」

「中級の三年生。もう今年で十五歳よ」

「そっか。来年は上級に行くの? それとも就職?」

「……多分、就職かな。上級に行ける程賢くないから。それより何しに来たの?」

「あ、そうだ。お店お店」

 ヒロは思い出したように言葉を繰り返す。

 

「お店、明日開店なんだよね」

「そうだけれど……ヒロ君、もしかして何か手伝いに来てくれたの?」

「一応ね」

 そう言いながら、眼前のロレーヌを一瞥する。

 古い教会を改装したと聞いていたが、白い壁は明らかに真新しく見える。

 おそらくは改装の際に塗り直したのだろう。

 意外と奥行きはないのだが、その代わりに高さがある。

 外から見る限りではあるが、三階建てのように見受けられた。

 入口は年季の入った木製扉で、重厚感が感じられる。

 

「奇麗でしょ? お姉ちゃん、改装にはお金かけたみたいよ」

「うん。奇麗だねえ」

 二人してロレーヌを見上げる。

 暫くそうしていると、店の扉が開いた。

 

 

 

「あ、ナナちゃん」

 ヒロが声を上げる。

 中から出てきた女性、ナナ・ナバテアも、すぐにヒロに気が付いた。

 カナと同じ色合いのブロンドヘアーを肘辺りまで伸ばした彼女は、その髪をなびかせながら小走りで駆け寄ってくる。

 

「わあ、ヒロ君だあ!」

「ナナちゃん、久しぶり」

 ヒロは手を上げながら挨拶をする。

「久しぶり~。二年位会ってなかった?」

「そうだね。二年ぶりだと思うよ」

「そっかあ。ヒロ君、また少し背が伸びたんじゃない?」

「ん、そうかな?」

「うんうん。伸びたと思うよ。大人びたみたい」

 ややゆったりとした口調の彼女が微笑む。

 近くでナナを見ると、前髪が中分けされているのに気が付いた。

 二年前に会った時は、前髪を下ろしていたはずである。

 ナナの雰囲気も、昔より少し大人びたような気がした。

 

 

 

「ところでヒロ君、なんで来てくれたの?」

「開店の手伝いに来てくれたんだって」

 ナナの問いにカナが答える。

「かいてんの手伝い……?」

 ナナは首を傾げた。

 カナの言葉をすぐに理解できないようである。

 首を傾げたままで、その場でくるくると体を回転させてみせる。

 彼女のロングスカートがふわりと揺れた。

 

「その回転じゃないから……」

「あら、違うの?」

「ここで『かいてん』って言ったら、お店のオープンの事に決まってるでしょ」

「あ、そうね。なんで私回ったのかしら」

「知らないわよ」

 カナが呆れたように言う。

 そんな二人のやり取りを、ヒロは笑って眺めた。

 見た目は大人びても、ナナの天然っぷりは、相変わらずのようである。

 

 

 

 

「そうだったんだ。お店の手伝いに来てくれたんだ。わざわざありがとう」

 回るのを止めたナナは、ヒロに頭を軽く下げた。

「いやいや、急に来ちゃってごめんね」

「なんで謝るの。仕事はまだあるから、凄く嬉しいわ」

「なら良かった。教会大きそうだったから、準備とか大変なんじゃないかな、って思って」

「そう。搬入が凄く大変だったのよ。

 カナも手伝ってくれて、やっと昨日終わった所だったの」

「ありゃ。搬入は終わってたんだ」

 別に悪い事をしたわけではないのだが、どことなく申し訳ない気持ちになる。

 ぽりぽりと頭を掻いていると、カナが助け舟を出してくれた。

「搬入はね。でも、もう一つ大事な仕事が残ってるのよ」

 腕を組みながら言う。

 カナはその姿勢のままで、ヒロを吟味するかのようにまじまじと見つめる。

 

 

 

「……なに?」

「ううん」

 唸るようなカナの声。

 少し体を引いて、ヒロを観察し続ける。

 彼の事を訝しんでいるようにも見えた。

 

 

「……ヒロ君には向いてない仕事かもねえ」

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「書店ロレーヌ、明日オープンです」

 

 

 

 

 

「丘の上の書店ロレーヌです。明日オープン……」

 

 

 

 

 

「ロレーヌ……です……明日……」

 

 

 

 

 

 ――ロビン中央広場は、多くの人が行き交う活気に満ちたスペースだ。

 大きな噴水と、おそらくは内乱時代に作られたのであろう年季の入った石畳、

 そしてそれらを囲うようにケヤキが植林された、奇麗な景色の広場である。

 広場が活気に満ちる一因はその美しさであるのだが、何よりも立地が最大の理由だった。

 

 ロビンの北門、南門、東門、そして西の貿易港からは、中央部に向かう大きな通りが伸びている。

 その全ての通りに繋がっている中央広場は、交通の便が良く、待ち合わせ場所として用いられる事が多い。

 更に、その四本の通りの中でも、貿易港から伸びる市場通りに繋がっている事が大きかった。

 貿易港を持つ都市柄から、市場通りの露店は品揃えが豊富であり、この街でも特に人が多い地区である。

 この市場通りから、特に多くの人が流れてくるのである。

 

 

 その中央広場において、この日に限って、人が近づこうとしない一角が出来ていた。

 広場でチラシを配ろうとするヒロの周辺である。

 

 

 

 

 

 

「あの……ロレーヌ……」

 

「ヒ、ヒロ君、少し休もう……」

 

 同じくチラシを配っていたカナが、見るに見かねて、紙コップを二つ手にして声をかけてきた。

 そのうちの紙コップを一つ差し出された。

 受け取ると、中味はアイスコーヒーだった。

 紙コップ越しに冷気が伝わってくる。

 おそらくは、公園内にあるカートの軽食店で購入したものだろう。

 

「……ありがと」

 力の籠らない礼を述べ、カナと一緒に広場奥のベンチに腰掛ける。

 楽な姿勢になると、まだ疲れていないはずなのに、体がどっと重たくなるような錯覚を覚えた。

 チラシを受け取ってもらえない心労だろうか。

 慣れない事をした心労だろうか。

 おそらくは両方だろう、とヒロは思う。

 

 

「ナナちゃんは?」

「お姉ちゃんはまだ配ってる。もう少ししてから休むんだって」

「そっか。じゃあお先にコーヒー頂いちゃおうか」

 紙コップを口につけ、アイスコーヒーを喉に流し込んだ。

 木漏れ陽の程良い暖かさを感じつつ、冷たいものを飲むと、

 冷やされた部位から順に、爽快感が全身へと沁み渡っていくような感覚を覚えた。

 

 

 

 

「……ヒロ君のチラシ、まだ残ってるね」

 同じくコーヒーを口にして一息ついたカナが、ヒロが膝の上に置いたチラシを一瞥する。

「皆、怖がって受け取ってくれないからね。そんなに怖がらなくてもいいのになあ」

 はあ、と重い嘆息。

 膝の上にある百数十枚のチラシが、随分と重い物のように感じられた。

 

「いやあ、チラシ配りってそんなものよ。なかなか貰ってくれないって」

 カナがフォローを入れてくれる。

 だが、そう言う彼女が傍に置いているチラシは、既に半分以上なくなっている。

 現実とは、かくも目に見えるものであった。

 

 

 

「そういえばこのチラシ」

 ヒロがチラシを見ながら呟く。

「チラシがどうかしたの?」

「女神みたいなイラストが描かれてるよね」

「ああ、うん」

「これ、カナちゃんが描いたんじゃないの?」

「……どうして分かるのよ」

 カナの声色が不機嫌そうなものになる。

 理由に思い当たりは全くなかった。

 余計な事を聞いてしまったかと後悔しながら、カナを覗き込むようにしておずおずと理由を口にする。

 

「どうしてって……カナちゃん、絵を描くのが好きだったでしょ? 四年前に会った時に言ってたじゃない」

「そうだけれど、なんで覚えてくれてるのよ」

「なんでと言われても……」

 特に理由はない。

 覚えているものは覚えている、としか返事のしようがなかった。

 しかし、カナの様子を見る限り、釈然としない返事をすれば、一層不機嫌にさせそうである。

 

 

 

 

「……ま、いいわ。ところでどう?」

 返事に窮していると、先にカナが口を開いた。

「どう、って?」

「イラストの出来はどう? って事よ」

 カナが少し早口になる。

「あ、そっかそっか」

 こくりと頷き、またチラシに視線を移す。

 描かれた女神は、少し凛々しい顔つきをしていた。

 

「僕は絵の事は良く分からないから、どこがどうと説明できないんだけれど……」

「うん」

「上手いと思うよ。とにかく、上手い」

 顔を上げ、真顔で言う。

 言ってから、もう少し具体的な言い様はなかったものだろうか、と自責する。

 ナナも、それを求めてくるかもしれない。

 

 

「……変なの」

 だが、それ以上の言葉は求められなかった。

 少女は、そう言って笑ってくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 休憩後には、ヒロのチラシもそこそこ受け取って貰えるようになった。

 ナバテア姉妹の近くでチラシを配ってみたのだが、それで少しは不信感が薄れたのかのかもしれない。

 チラシを配り終えた頃には、夕陽が徐々に沈み始めていた。

 一度ロレーヌに戻ろうという話になり、一行はロレーヌへ通じる丘を昇っていた。

 

 丘とは言っても、その一帯は、内乱時代には既に開発されていた。

 煉瓦の住居や商店が立ち並び、その間を縫うようにして石造りの道と階段が伸びている。

 この辺りも景観保護地区に指定されており、内乱時代の雰囲気を連想させる町作りが実施されている。

 そんな風情ある町並みに見惚れて歩くのも一興ではあったが、ヒロにはそれ以上に気になるものがあった。

 

 

 

 

(……最初にここ通った時には、いなかったよなあ)

 そんな事を考えながら、周囲を見回しつつ階段を昇る。

 

 彼の視線の先には、多数の絵描きがいた。

 画板を首から吊り、絵画道具を携えて階段の端に座っている。

 そうして、そこから見える光景をキャンバスに映しているのである。

 

 更には、絵描き達を見かけた事で意識が向いたが、この辺りは絵画店が多い。

 そのうちの一つを道中に覗いたが、額縁に収まっていない絵が無造作に陳列されていた。

 値札に記された金額は殆どが一万以下。海桶屋の宿泊料金と大差がない。

 おそらくは、アマチュアや画家の卵の絵を販売しているのだろう、と思う。

 

 

 

 

「絵が気になる?」

 隣を歩くナナに声を掛けられた。

「まあね。絵描きさんが多いんだね」

「夕方が近づくと、増えるのよ」

 ナナが目を細める。

 

 

「……ここに絵描きさんが多いのには、理由があるんだ。

 ここで育って、ここの歴史を幾つも描き残した、ライルという画家が昔いたの」

「ふむ」

「凄く名のある画家で、ライルにちなんで、この丘はライルの丘と名づけられた位よ。

 それで、画家の卵がここで絵を描く習慣が生まれたの。有名な話なんだけれど、ヒロ君、知らなかった?」

「あ、うん。あまりこの辺に来る事もなかったし……」

 ヒロは正直に答える。

「ふふっ。ヒロ君、昔からマナの事ばかり考えてて、他の事は無頓着だったものねえ」

「それ程だったかな……」

 確かに、学生時代は生活の中心にマナを添えたような日々を送っていた。

 その趣向そのままにマナに関わる仕事に就きたいと思っていた。

 今では多少他の事にも関心が向くようになったが、それでもマナという言葉には耳ざとい。

 否定はできなかった。

 

 

「そ、それより、皆画家の卵なんだね。 趣味で描いている人はいないの?」

「いない事もないでしょうけれど、上級アカデミーで絵画を専攻している人が殆どみたいね。

 あの子も、そうなるのかもしれないわ」

 ナナが前方を指差した。

 彼女の指の先では、カナが先行して元気良く階段を昇っている。

 後方から差す西日が、カナの背中を眩しく照らしていた。

 

 

 

「カナちゃんも?」

「ええ。趣味でイラストも描くけれど、凄く上手な油絵も描くのよ。

 中級アカデミーに入ってから、才能が開花したみたいね」

「へええ」

「学校の先生も、上級アカデミーの油絵専攻に合格できると太鼓判を押してくれてるわ。

 でもあの子、自信がな「うわあああああっ!!」」

 

 唐突な叫び声がナナの言葉を遮った。

 すぐ傍から聞こえた声だ。

 声の聞こえた辺りを見れば、絵描きの男性の一人が、尻餅をつきながらヒロを指差していた。

 男性の考えている事は容易に想像できる。

 反応から察するに、自分の顔を見たのであろう、とヒロは思う。

 

 

 

「ご、ごめんなさい。なにか僕が驚かせたみたいで……」

 なぜかヒロが先に謝る。

 強面とは対照的な、静かな声を聞かされて落ち着いたのか、男性は立ち上がりながら頭を下げた。

「い、いや、こちらこそ。

 ああ、違うのだよ? 君が怖かったわけではないのだ!」

 どうやら、怖かったようである。

 だが、男性は更に言葉を続けた。

 

 

 

「ロレーヌ様みたいな女性と一緒に歩いていたものだから、てっきり、その……」

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 書店ロレーヌの内装は、なかなかに目を見張るものがあった。

 外からの見立て通り、建物は吹き抜け三階建てで、どの階にも本棚が壁を背にして並んでいた。

 壁は表同様、真新しい白に塗装されていて、古さは一切感じられない。

 祭壇近くにはレジカウンターが設置され、その奥の扉は事務室に繋がっている。

 窓から入る夕陽や、光のマナを取り入れた照明は眩く、教会というよりは結婚式場のような雰囲気を醸し出していた。

 

 

「中も立派なお店なんだな。ナナちゃん、頑張ったなあ」

 ナナとカナが、休息用の飲食物を事務室で用意している間、ヒロは誰もいない店内をぽつぽつと歩き回っていた。

 本屋特有の静かな空気が、元教会という建物の構造とマッチし、その中を歩いているだけでも高揚感を覚える。

 

 

 

 

 

「……ん?」

 そうしているうちに、一つの絵画が目に留まった。

 壁に掛けられた油絵だ。

 道中に絵描き達が首から掛けていた画板に収まる位のサイズなので、そう大きなものではない。

 二手に分かれた人々が何やら争いあっており、その中央には女神のような女性が天に昇る姿が描かれていた。

 ヒロが気になったのは、その女性である。

 

 

 

「この人、どこかで見たような……」

 絵画の前で首を捻って考え込む。

 

 絵に造詣のないヒロにとっては、絵画に描かれる人の顔は全て同じ顔に見える。

 だが、今回は同じ顔に見えるのではなく、その女性自身に見覚えがある気がした。

 知り合いではなく、教科書か何かで見た気がする。

 であれば、おそらくは歴史上の人物である。

 そこまでは推測できるのだが、それが誰なのかまでは、どうしても思い出せなかった。

 

 

 

 

「ヒロ君、お待たせ」

 そうして考え込んでいる所に、ナナが紅茶をトレイに載せて運んできた。

 

「ナナちゃん、この絵なんだけれど……」

「あ、それ?」

 ヒロが絵に見入っている事に気がついたナナは、トレイをカウンターに置いてヒロの傍に来る。

 

「この女の人、どこかで見た気がするんだけれど……」

「うん。ヒロ君なら知っていてもおかしくない人よ」

 ナナも絵画に視線を向けた。

 

「これはロレーヌ様の絵なの」

「ロレーヌ様……そういえば……」

「そう。このお店の名前の由来よ。

 帰ってくる途中に話した絵描きさんも、ロレーヌ様の事を話してたね」

「結局あの人、決まりが悪そうにどこかに行っちゃったから、あれ以上聞けなかったけどね。

 それで、この人って有名なの?」

「内乱時代……別名、精霊戦争の時代の人よ」

「あ、精霊戦争!」

 ヒロが目を丸くしながら両手を打ち鳴らす。

 

「ふふっ、思い出したみたいね」

「精霊戦争で精霊信仰側に付いた軍人……戦乙女ロレーヌだよね?」

「正解~」

 ナナが小さく拍手をした。

 

 

 

「精霊信仰者と精霊弾圧者の精霊戦争では、ここロビンでも大きな戦いがあったそうよ」

 ナナは、教師が教科書を読み聞かせるように喋る。

 理知的な口調だった。

「その時に、一度弾圧者に制圧されたこの都市を奪還し、解放に導いて下さったのがこのロレーヌ様」

「でも、確かこの人の最期は……」

「ええ。結局は弾圧者に再び攻め落とされて、ロレーヌ様は処刑されたの」

 

 ナナはそう言うと、振り返って窓の外を見た。

 ヒロもそれに続く。

 もう大分陽は暮れ、窓から見える丘の下の町並みが眩く見えた。

 

 

 

「具体的な場所までは伝わっていないけれど、処刑はこの丘で行われたそうよ」

「……そっか」

「でも、それからが素敵な話なの」

 ナナの声は沈んでいなかった。

 

「ものの本によれば……処刑された直後、ロレーヌ様が女神となって昇天される姿を見た人がたくさんいたの。

 そういう経緯もあって、内乱終結後、ロレーヌ様は国から女神として正式に認知されたわ。

 国が勝利の象徴を欲しただけという説もあるし、本当に女神様になったのかどうかは、分からないけれどね」

「うん。中級の頃のマナ学授業でそういう話を聞いた気がする」

「そうよ。ヒロ君の得意分野なんだからちゃんと覚えてないと」

 ナナが悪戯っぽく笑う。

 

 

 

「そしてもう一つ」

「もう一つ?」

「この丘で育ったライルの絵の中でも、とりわけ有名な絵があるわ。

 ライルの丘で争う人々と、女神となったロレーヌ様を描いたものよ」

「えっ? それじゃ……」

 ヒロが振り返って絵画を見る。

「ふふふっ、さすがにこの絵は違うわ。

 でも、ライルを真似て、ロレーヌ様の絵を描く人は多いわね」

「なあんだ」

「ちなみにこの絵は、お店の為にカナが描いてくれたの」

「えっ?」

 ヒロがまた振り返り、ナナを見る。

 くるくると回るような動きになり、そんなヒロを見たナナは思わず吹き出した。

 

 

 

「……帰る途中で話しかけたよね。カナ、上級に合格する自信がないって」

「そう言われれば、そんな話しかけてたね」

「……あの子、意外と自分に自信が持てないタイプなんだ。

 そういう子だからかな。私がお店を開く事になったら、

 卒業後は私のお店を手伝う事も選択肢に入れだしたみたいなのよ」

 ナナが困ったように言う。

 

 

「そういえば、進路は多分就職って言ってたよ。

 ……そっか、このお店を手伝うつもりだったんだ」

「せっかく才能があるんだから、上級に挑戦すれば良いのにね」

 ナナが苦笑した。

「もちろんカナも、逃避の為だけにお店を手伝うわけじゃないわ。

 私がお店の準備で苦労している所を見せちゃったから、手伝うなんて言い出したのね」

「………」

「カナのそういう気持ちは凄く嬉しいわ。

 でも私は進学を薦めるつもり。

 あの子の未来だから、最終的に決めるのはあの子だけれど……」

 

 そう言って、ナナは窓を開けた。

 夕陽を存分に浴びた春の風が室内に入ってくる。

 ナナの鮮やかなロングヘアーが風に揺れる。

 暖かな何かに包まれるような、心地良い風だった。

 

 

 

 

 

 

「……カナちゃん、良い子だね」

「ちょっとキツい所はあるけれど、本当は凄く良い子よ」

 ナナが髪を整えながら頷く。

「そうねえ……ギャップがあるという意味では、ヒロ君と同じかも?」

「え、ええっ?」

 困惑の声が出てしまった。

「ごめんごめん、冗談」

 ナナが口に手を当てて笑う。

 あまり冗談を口にするタイプではなかったので、意外な一言だった。

 

 

「でも、悪い意味じゃないわ。

 ヒロ君はちょっと怖い。確かに怖い顔よ。

 ううん、結構怖い顔かも」

「本当に悪い意味じゃないの……?」

 三度も怖いと言われては、疑わざるをえなかった。

 

「だって内面は違うから」

「内面?」

「優しくて、気が利いて、人の事を想ってくれる人。

 私、学生時代の頃からヒロ君を怖がった事ないよね」

「う、うん……」

 むず痒い言葉の羅列を受け、曖昧に頷く。

 

「少し話して、ヒロ君が本当は優しい人って分かったから、怖いと思わないのよ。

 今日だって、お店の手伝いに来てくれたし、ヒロ君のそういう所って変わってないね」

「い、いや、ナナちゃんこそ」

 首を左右に振りながら言う。

 さすがにこれ以上賛辞の言葉を受けるのは気恥ずかしいものがあった。

 

「ナナちゃんこそ、学生時代から変わってない所、多いと思うよ。

 本が好きな事もそうだし、精霊信仰が厚い所もそうだけれど……

 なにより、マイペースな所。僕達くらいの歳でお店を開くとは思わなかったよ」

「あら、ヒロ君だって民宿を開いてるじゃない」

「僕は古宿を受け継いだだけ。ただのボンボンだよ」

「ボンボン?」

 ナナが両手を胸の前で前後に振るような仕草をしてみせる。

 さながら、チアガールのような動きだ。

 

「ナナちゃん……それはポンポン」

 やはり天然ぶりは不変であった。

 

 

 

 

 

 

「あーっ! そ、そこでなに話してるのよ!!」

 不意にカナの叫び声が聞こえた。

 声に反応すると、トレイの上にケーキを乗せたカナがいた。

 カナもトレイをカウンターに置くと、慌てて二人の傍に駆け寄ってくる。

 

「あらカナ。お菓子の準備、お疲れ様」

「お、おおお疲れ様じゃないわよ! その、なんで、そこで……」

 あたふたとどもりながら、カナがなおも声を張り上げる。

 怒っているような声だったが、表情には照れが見えた。

 

 

「この絵、カナちゃんが描いたんだよね。凄く上手いと思うよ」

 ヒロが目じりを下げながら言った。

 カナを励ましたいという気持ちも、確かにある。

 だが、本心からくる言葉でもあった。

 

「う、あっ……むう……」

 カナが言葉に詰まる。

 横を向いて視線をヒロとナナから外す。

 ヒロ達の方に向けられる事になった頬は、赤々と紅潮していた。

 

 

 

 

 

「……ありがと」

 暫しの間の後、消えてしまいそうな声で、カナはそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 陽が完全にフタナノ海に落ち、群青色の夜空に月が浮かぶ。

 その月明かりの下で、ヒロはナバテア姉妹に見送られていた。

 

「今日は本当にありがとう。凄く助かったわ」

「……夕食くらい食べていけば良いのに」

「そうねえ。それ位のお返しはしたかったわね」

「いやあ、あまり遅くなると仲居さんが怒るから」

 そう言ってヒロは指を折り、時間を数える。

 今から帰れば、日付を跨ぐ事はなさそうだった。

 

 

「それじゃあ、また今度。お店、頑張ってね」

 時間を数え終えたヒロが二人に手を振った。

 二人も、ヒロと同じように手を振って答える。

 

「ええ。お互いにね」

「そのうち、また遊びに来なさいよね」

「そうだね。それじゃあ」

 

 

 

 

 

 

 

 挨拶を終え、丘を下る階段の方へと歩き出す。

 妙な違和感を覚えたのは、その時だった。

 

(……あれ、何か忘れてないかな……?)

 

 ポケットに手を入れる。

 財布と、馬繋ぎ場の番号券の手応えはあった。

 

 首だけで振り返って書店ロレーヌを見る。

 もう明日の準備は全て終わった、とナナは言っていた。

 ロレーヌでやり残した事もないはずだ。

 

 考え込む事暫し。

 その答えは、すぐに浮かび上がってきた。

 

 

 

 

 

「ああっ! センダンさんの約束!!」

 今朝受けた言葉を思い出す。

 お土産である。

 センダンは、食べ物の土産を所望していたのである。

 そして、陽の落ちたこの時刻では、土産屋は次々と閉まっているのである。

 

 ヒロは転げ落ちるように、階段を駆け下りていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――それから数日後。

 

 書店ロレーヌは宣伝の甲斐あって、順調な客の入りを見せていた。

 カナは、その日の学校が終わると、ロレーヌでナナの仕事を手伝っている。

 だが、学業と仕事の合間を縫って、カナは以前にも増してデッサンに時間を割くようになった。

 その将来がどの様なものになるのかは、まだ誰にも分からない。

 

 

 

 

 そして、書店ロレーヌ近くの絵画屋。

 画家の卵達が納めた絵を売るこの店の片隅に、また一つ新しい絵が納品された。

 それは、ライルの丘の石段を、女神ロレーヌが昇っている絵。

 

 丘の風景と女神ロレーヌの組み合わせは、既に散々描き尽くされた構成である。

 だが、その絵には、過去の絵とは異なる点があった。

 

 

 

 

 

 強面の悪魔が、ロレーヌの隣に描かれていたのである。

 悪魔はその容貌とは裏腹に、ロレーヌと親しそうに会話を交わしている。

 それは、戦争がなくなって久しい現在のロビンを表すかのような一枚だった。


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