燦燦さんぽ日和   作:加藤泰幸

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第十二話/山頂銭湯

「ふぁ~あぁ~あ……」

 フロントの受付台で、ヒロは頬杖をつきながら大きな欠伸をする。

 

 ヒロの一日の中で、もっとも暇な時間が、正午から夕方にかけての時間である。

 この時間は、食材の仕入れや、客の確認、備品確認等の雑用に割り当てているのだが、

 食材の仕入れに少々時間を要するだけで、他の仕事はそれ程手間ではなく、すぐにやる事はなくなるのである。

 だが、やる事がないからと言って遊び呆けていては、万が一予約なしの客が来た時に体裁が悪い。

 その為、ヒロはこの時間を受付台の前で過ごしている。

 

 

「……まだ、外は暑そうだなあ」

 海側に面している、開け放たれた窓の外を眺める。

 

 季節はもう九月だが、差し込んでくる太陽の日差しはまだまだ暑く、そして眩い。

 中年の男性が外を歩いていたが、衣服は外の暑さを表すように丈が短く、そこから覗いている四肢は浅黒く日焼けしている。

 耳には、蝉の鳴き声が微かに届く。

 それでも、八月に比べれば鳴き声も大分弱まっている辺り、夏は少しずつ終わりに近づいているのだろう。

 

 

 その蝉の鳴き声の中に、元気な足音が混じりだした。

 付近を駆けているような足音が、海桶屋の前で止まる。

 足音の主を察したヒロは腰を上げると、隣接する厨房からよく冷えた麦茶を取り出した。

 コップに注いでフロントに戻ってくると、案の定、海桶屋の土間でセンダンが靴を脱いでいた。

 ヒロと同じく正午以降が暇であるセンダンは、この時間にウメエの所に料理修行に行く事が多い。

 この日も彼女はウメエの所に料理修行に出かけていたのであった。

 

 

 

「た~だいま~! う~暑いよぉ~……」

「お疲れ様です。麦茶用意しましたよ」

「おっ、気が利くじゃないの!」

 受付台の上に麦茶を置くと、餌に飛びつく犬のように、センダンがフロントに上がってきた。

 彼女は喉を鳴らしながら、麦茶を一気に飲み干してしまう。

 見ていて気持ちの良い飲みっぷりだった。

 

「ぷはあっ! ご馳走様~」

「いえいえ。……で、修行の方はどうでしたか?」

 ヒロはあまり期待を込めずに尋ねた。 

「うん、バッチリ! 今日のお客様に出す夕食の準備、手伝うから!」

「いや、間に合ってます」

 即答する。

 突っぱねても食い下がるのがセンダンだが、突っぱねなければ、なお乗り気になる。

 

 

 

「あそ。まあ良いわ」

 だが、この日のセンダンは違った。

 あっさりと引き下がると、肩にかけていたバッグを漁りだす。

「……何かあるんです?」

「うん、何かあるのよ」

 そう告げて、センダンがバッグから小瓶を取り出した。

 コルクの蓋がしてある小瓶で、中には茶色い粒が詰まっている。

 なにやら文字が書かれた紙が貼ってあるのだが、相当古いもののようで、

 紙は薄茶色に変色していて、文字も擦れて読み難い。

 

「これ、温泉の素!」

 センダンが小瓶を受付台に置く。

「はあ……」

「ウメエさんが蔵を掃除していたら出てきた物を貰ったの。

 思い出せない位昔の物らしいけれど、ただの温泉の素じゃないのよ!

 マナの力が篭っていて、ぽこぽこ泡が吹き出るんだって!」

「………」

 ヒロは何も言わずに眉をひそめる。

 

 海桶屋の風呂は、温泉ではない。

 そもそも兄花島には源泉がなく、温泉の引き様がないのである。

 浴場に張られるのは、ただのお湯なのである。

 すなわち……温泉の素は有効なのだが、まともな品に限った話だ。

 

 

 

 

 

(そんな古い物、絶対怪しいって……)

 いぶかしみに満ちた表情でセンダンを見れば、彼女は楽しげに小瓶を回している。

 温泉の素に夢中になって、ヒロの事はあまり気にしていないようだ。

 

 逃げよう。

 

 瞬時に、その言葉がヒロの脳裏に浮かび上がる。

 物音を立てないよう、ゆっくりと立ち上がった……その時である。

 

 

 

「ねえヒロ君、良い事思いついたんだけど!」

「そらきた……」

 先にそう言われては、そのまま逃げるわけにもいかなかった。

 額に手を当て、浮かした腰を下ろす。

 一方のセンダンは、肩を交互に揺らして、ヒロが腰を据えるのを待ち構えていた。

 

「そらきた、とは分かってるじゃない」

「いや、そういう意味じゃありませんが……で、今回は何を思いついたんですか?」

 大方の予想はできているが、一応尋ねる。

 

「もちろん、この温泉の素を使ってみるのよ!」

「駄目です。危ないですよ、それ。

 得体が知れないし、使用期限だって絶対切れていますよ!」

「大丈夫、大丈夫だって!」

「大丈夫な根拠、何もないじゃないですか! 水道代だって馬鹿になりませんよ!」

「安い、安いって!」

「安くありません!!」

 センダンと押し問答を繰り広げる。

 だが、そうしてセンダンの言葉を突っぱねながらも、ヒロにはうっすらと結果が見えていた。

 センダンの『良い事』を説き伏せるのは、なかなかに難しいものなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 燦燦さんぽ日和

 

 第十二話/山頂銭湯

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 海桶屋の入浴施設は小さい。

 四畳程の更衣室と六畳程の浴場があるだけで、当然ながら五人も十人も同時に入る事ができる程のものではない。

 その為、チェックインの際に入浴希望時間を確認し、団体毎に時間を決めて使用してもらっていた。

 小さい上に温泉ではない事は経営側も気にしており、せめて見た目だけでも風情があるものにしようと、

 更衣室は侘びた木製部屋に仕上がっており、浴槽も、直径三十センチ程の大きさの石を並べて作ってある。

 

 チェックインと同時に入浴したいという客も少なくない為、大抵は午前中のうちにセンダンが浴槽の掃除を終えている。

 この日も既に掃除を終えており、湯を溜めるだけですぐに入浴できる状態であった。

 ……センダンに提案を押し切られてから、約一時間後。

 湯気が立つ浴槽の前には、バスタオルを腰に巻いただけのヒロと、衣服を纏っているセンダンの姿があった。

 

 

 

 

「……で、温泉の素を使うのに、なんでお風呂に入らなきゃいけないんです?」

 ヒロは腕を組みながら、隣にいるセンダンに問う。

 バスタオルを巻いているとはいえ、それ以外は何も纏っていない状態はさすがに恥ずかしい。

 その動揺を誤魔化す為に、ヒロはわざと、怒ったような声を出していた。

 

「だって、効能を確かめなきゃいけないじゃない」

 センダンはあっけらかんとした口調で答える。

「確かめてどうするんです?」

「もちろん、お客様に提供するのよ。今日は女性三人組の予約があるし、ちょうど良いわ」

「じゃあ、自分で入れば良いじゃないですか」

「あら~? ヒロ君、私と一緒にお風呂に入りたかったの?」

「……む、むう」

 突然の言葉に、ヒロは動揺を隠すように唸り声を漏らす。

 センダンは、愉快そうに目を細めて、そんなヒロの反応を見ていた。

 いつも通り、からかわれただけである。

 

 

 

「……それより早い所済ませましょう。温泉の素、入れて下さい」

「はいはいっと。ええと……一つまみで十分効果があるみたいね」

 ヒロに急かされたセンダンが、小瓶の掠れた文字を読んでから、コルクの蓋を捻る。

 小気味良い音がして蓋は開き、ほのかにビャクダンのような甘い香りが漂ってきた。

 中の粒を一つまみ浴槽に注ぐと、注がれた箇所が茶色く変色する。

 

「ぽこぽこ~」

「なんですかそれ」

「温泉の素の歌。ぽこぽこ~」

 センダンが聞いた事もない鼻歌を歌いながら、掻き棒でお湯をかき混ぜる。

 変色は瞬く間に浴槽全体に浸透し、それと同時に、湯の中から無数の大きな気泡が浮かび上がるようになった。

 湯面は気泡で大いに波立ち、センダンの鼻歌通りに、ぽこぽこと間の抜けた音が浴室に響き渡る。

 

 

「あれ……意外と、普通に使えそう……?」

 浴槽に手を掛けて湯面を覗き込みながら、ヒロが言う。

 試しに湯を手ですくってみたが、特に痛かったり痒かったりする事はなかった。

「ほらね。言った通りでしょ? 大丈夫なんだって」

「ふむ……それじゃあ……」

 センダンの言葉に背中を押されて、思い切って浴槽に脚を入れる。

 湯はやや温めにしていたが、それでも熱が急激に伝わってきて脚が瞬時に温まる。

 脚を振って湯をかき混ぜつつ腰を下ろす事で、その熱気が全身に行き渡った。

 

 

「ふむ……」

 湯に漬かりながら、両手で湯をすくって顔を近づける。

 色のみならず、ビャクダンの香りもしっかりと湯に浸透している。

 体に吹き上げてくる気泡の感触も良かった。

 

 

 

 

 

「ヒロ君、ど~お?」

 センダンが中腰になり、間延びした口調で尋ねる。

「気持ち良いですよ。ちゃんと温泉っぽくなってます」

 ヒロは正直に答える。

「おぉー、まさか本当に大丈夫だったとは」

「センダンさん……?」

「あ、いやいや、気にしないで良いわ。それより、これならお客様が入浴する時にも使えそう?」

「……まあ、良いか。ええ、使えると思いますよ。喜んで貰えるでしょうし、早速今日から使ってみましょう」

「よーし、きーまりっ!」

 センダンがガッツポーズを取る。

 それが良くなかった。

 勢いが付きすぎたのか、彼女の手に握られていた小瓶がすり抜けてしまい、浴槽の中へ飛び込んでしまう。

 

 

 

「「………」」

 二人して、沈みゆく小瓶を見る。

 小瓶の中の粒はすぐに解けてしまった。

 

「……一つまみで良いんでしたよね?」

「うん。……全部、入っちゃったね……」

 

 薄茶色の湯の色は濃茶色へと変色する。

 気泡の量も、じわじわと増え始めた。

 量だけではない。浮かび上がる速度もより早く、サイズもより大きくなっている。

 気泡が弾ける音が、ポコポコという可愛らしい音から、ボコボコという不気味な音へ変わる。

 そのボコボコが、ボボボ、と地鳴りのような音に変わるまでには、そう時間を要しなかった。

 

 

「……センダンさん」

「……ヒロ君」

 顔を見合わせあう二人。

 次の瞬間、二人は弾き出されるように立ち上がる。

 

 

 

 

 

 

「「逃げろ~~っ!!!」」

 

 

 

 

 

 

 内部に凄まじい熱膨張が発生した湯が、強烈な炸裂音を立てて浴槽の一部を破壊するのは、

 彼らが更衣室に逃げ込んだ、まさにその瞬間であった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 兄花島の中央には、標高百メートル程の小さな山がある。

 見目麗しい樹木が植えられているわけでもなければ、珍しい生物が生息しているわけでもない、

 生態系としては取り立てるべき点がない普通の山なのだが、夕方から夜にかけて山を登る者は多い。

 それというのも、山頂に銭湯が建っている為である。

 海桶屋同様に温泉ではないが、兄花島全体を見渡す事の出来る展望露天風呂の評判が良い。

 観光客のみならず、島民にも人気のある銭湯なのである。

 

 この日の夜、ヒロはその銭湯に向かう馬車を操っていた。

 複数名が乗り込める幌を引いた照明付きの馬車で、ギルドから借りたものである。

 幌付きで馬の疲労も大きい為に、貸し出し料は馬鹿にならないのだが、借りざるを得なかった。

 

 日中の温泉の素騒ぎで、海桶屋の浴槽が壊れたのである。

 幸いな事にヒロもセンダンも怪我はしていないが、積まれていた石の幾つかが吹き飛んだ。

 そこから湯が洩れてしまう為に、ロビンから業者を呼ばなくては直す事が出来ない状態だ。

 当然、その日の予約客が使用する事はできない。

 自分達も汗を流す事ができない。

 そこでヒロらは、客に事情を説明して同意を得た上で、急遽ギルドから馬車を借りて、山頂銭湯に案内する事にしたのである。

 

 

 

 

(こういう時はセンダンさんがいると助かるなあ……)

 馬車の手綱を握りながら、ちらと幌の中を振り返る。

 

 中では、この日の宿泊客である若い三人の女性客とセンダンが、早くも打ち解けて雑談に興じていた。

 長々とよそ見をするわけにもいかないのですぐに前を向くが、耳に届く声によれば、

 どうやら女性客らが、海桶屋の仕事について質問しており、それにセンダンが回答しているようである。

 はっきりとは聞こえないが、時折笑い声も漏れる辺り、センダンが砕けた話題を提供しているのだろう。

 

 自分では、こうはいかない。

 案の定、この女性客らにも、初対面の際には大いに怖がられてしまった。

 仮に怖がられなかったとしても、センダン程に客と打ち解けられる自信はない。

 時たまドジを踏むのが玉に傷、今回は風呂にまで傷が入ってしまったが、それでも彼女は海桶屋にとって欠かせない人物である。

 

 

「それでね、ヒロ君がまた子供を泣かせちゃったんですよー!」

 一際大きな声が聞こえてきた。

 本当に欠かせないのか、改めて考えるヒロであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 山頂銭湯に着いた。

 山頂銭湯は円錐台状のコンクリート製の建物で、屋上には露天風呂が設けられているらしい。

 というのも、実はヒロも、山頂銭湯に来るのは初めてであった。

 

 一応、客を先導して先に銭湯の暖簾を潜る。

 土間を上がるとすぐにフロントがあったので、全員分の料金を渡すと、大きいバスタオルを貸し出された。

 バスタオルは持参しているのだが、いらないというのも気が引けて、何も言わずにバスタオルを受け取る。

 

 それから、周囲を見回す。

 内装には木材を使っている箇所が多いが、海桶屋とは異なり、使われているのは比較的新しい木材である。

 畳二十畳程の広い休憩スペースがフロントに隣接しており、休憩スペースは総畳敷きだ。

 折りたたみ式のテーブルが幾つか置かれていて、利用者はそこで備え付けの新聞を読んだり、将棋を指したり、飲み食いをしたりできるようになっている。

 休憩スペースでは十人程が寛いでいたが、島民らしき者が多い。特に子連れの利用者が目立った。

 

 

 

「新しい建物なんですね。もっと古い所かと思っていました」

 女性客三人組のうちの一人が、同じく辺りを見回しながら言う。

 痩せた体格に袖が長い衣装を纏っており、レンズが丸い眼鏡を掛けている、落ち着いた印象の女性だった。

「実は、僕もここに来るのは初めてなんです。結構綺麗ですね」

「そうですね。これはお風呂も期待できそうです」

 女性客は嬉しそうに言う。

 自分達の不手際で浴槽を利用できない事で、客に不満を抱かせたのではないかと心配していたが、

 眼鏡の女性客のみならず、他の二人も好印象を表情に出していた。

 ヒロは、誰にも分からない位小さな安堵の息を零す。

 

 

「んっと、男性はあっちで、女性はこっちね」

 センダンが、フロントと休憩スペースの間に伸びている廊下を指差す。

「それじゃあ、センダンさん、後は宜しくお願いします」

「はいはい~。お客様がいるんだから、ヒロ君は私達よりも先に上がってくるのよ」

「ええ、分かってますよ」

 センダンの言葉に苦笑しながら答え、ヒロは女性陣と別れた。

 ぴたぴたと、廊下に吸い付くような足音を立てて廊下を歩き、男性用更衣室に入る。

 更衣室にも客が数名いたが、ヒロはその中に見知った顔を見つけた。

 

 

 

「あれ……ベラミさん?」

「いや~、ヒロ君じゃないかー」

 日中のヒロ同様、腰にバスタオルを巻いたベラミは、ヒロに声を掛けられると返事をしながら近づいてきた。

 

「ベラミさん、銭湯に来る事あるんですね」

「そりゃ来る事もあるさ。むしろ常連レベルだよー」

「猫亜人なのに、お風呂好きなんですね」

「そういう猫なのだー」

 ベラミは胸を張りながら答える。

 小柄な彼がふんぞり返っても、大して迫力は出ない。

 

「ヒロ君こそ、銭湯に来る事があるんだね。初めて見かけたよ」

「いや、実は今日が初めてです。ちょっとわけありで……」

「ふむ?」

「実は、海桶屋の銭湯が壊れてしまいまして。

 今日はお客様の予約があったので、お客様を連れて来たんです」

「ふむ。お客様とな」

 ヒロの言葉を受けて、ベラミの尻尾がピンと立ち上がる。

「それは是非おも「お餅は売らないで下さいね」」

 ベラミの言葉を途中で遮る。

 立ち上がった尻尾は、すぐにしょんぼりとしおれてしまった。

 

 

 

「まあ、良いか……そんな事より、いつまでも裸じゃ風邪を引いてしまう。

 僕は先にお風呂に入ってるから、ヒロ君も脱いじゃいなよー」

「はい」

「あ、初めて来るんだったら、そこの注意書きは熟読しておくようにねー」

 ベラミは壁に貼られた注意書きを指差してそう言うと、浴室に行ってしまった。

 残されたヒロは、言われた通りに注意書きを見る。

 掛け湯をする、泳がないといった、ごく普通の注意書きが並んでいた。

 だが、注意書きの最下部にある一文だけは、ヒロが初めて目にするものだった。

 

 

「フロントで貸し出したバスタオルを巻いてご入浴下さい……?」

 注意書きを言葉にしながら、首を傾げる。

 バスタオルを巻く事は、何の抵抗もない。

 洗顔等に使用したタオルを湯船に漬けるわけではないのだから、不浄でもないだろう。

 しかし、何故ルールとして定めているのかが分からない。

 

 

 

「……まあ、良いか」

 いつまでも考え込んでいる暇はない。

 ヒロは服を脱ぎ始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 注意書き通りバスタオルを巻き、浴室に通じるガラス戸を開けると、むわっとした湿気に覆われる。

 湯気の漂う浴室には、かけ湯、浴槽、洗面場、シャワー、サウナと一通りの設備が整っていた。

 奥を見通せば、屋上露天風呂に通じていると思われる扉もある。

 

 ひとまずかけ湯を頭から被ると、それだけで全身の汗が流れ落ちた気がしてさっぱりする。

 先に体を温めてしまおうと浴槽に向かうと、既に三名程が湯に浸かっている。

 その中の一人が、ベラミだった。

 

 

 

「ヒロ君、こっちこっち~」

 ヒロを呼ぶベラミの声が浴室に反響する。

 無視するわけにもいかず、呼ばれるがままにベラミの隣で湯に浸かる。

 湯は思っていたよりも熱く、全身に軽い痺れのような熱気が押し寄せてきたが、堪えずにすぐ出るのもみっともない。

 我慢して浸かり続けると、すぐに慣れる事ができた。

 海桶屋と同じく、何の変哲もないただの湯ではあるのだが、気持ちが良い。

 

「おおっ。お湯を被って髪を後ろに流すと、ますますその筋の人に見えるね」

「ほっといて下さい」

「あははぁ~。ヴアァ~」

 ベラミはヒロを笑い飛ばすと、両腕を水面に浮かべて、蛙の鳴き声を叩き潰したような奇妙な声を漏らす。

「ベラミさん、変な声出さないでくださいよ」

「いやあ~、こうも気持ち良くっちゃねえ。ヴアァ~」

「また言ってる」

 そう言って苦笑する。

 とはいえ、この気持ち良さでは、そのように脱力してしまうのも無理はない、とヒロは思う。

 

 そうしてベラミと話していると、ふと、誰かと風呂に入るという経験が殆どない事に気がついた。

 社会人になってからは、確実に一度も経験していない。

 中級アカデミーの修学旅行の時は、風邪を引いていて入浴できなかった。

 父のダイスケは仕事が忙しい為、家族旅行で経験した事もない。

 経験が殆どないどころか、最後の記憶が掘り起こせなかった。

 おそらくは幼児の頃か、下級アカデミー低学年の頃に、親と一緒に風呂に入った以来である。

 

 

「ヒロ君、どったの? 黙り込んじゃって」

 ベラミが相変わらず脱力しながら聞いてくる。

「あ……なんでもありません。たまには銭湯も良いな、と思っただけです」

「おお、銭湯が気にいったかい?」

「ええ」

「それじゃあ、兄花島観光に精通しているこの僕が、この銭湯のスペシャルな所を特別に教えてあげよう~」

「そんなものがあるんです?」

「うむ。実は、この銭湯の屋上にはだね……」

「銭湯の屋上には?」

「露天風呂があるのだよ~」

「観光に精通していなくても、それ位知ってますよ」

 銭湯にきた事がないヒロでも知っている事だし、知らずとも、建物を下から見上げれば分かる事である。

 

「お~、知っていたなら話は早い。それじゃ、一緒に屋上露天風呂に行こうじゃないの~」

 ベラミはヒロの返事を待たずに、湯を滴らせながら立ち上がった。

 どうせなら露天風呂にも入っていきたい。

 特に断る理由のないヒロも立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 浴室の扉の先には、階段が螺旋状に伸びていた。

 階段を上がりきって屋上扉を開けると、ようやく屋上に出た。

 十分に温まった体が、外気で一瞬にして冷える。

 まだ残暑が厳しい九月だが、夜風は涼しくなっており、タオル一枚では寒くさえ感じてしまう。

 

「へえ……広いんですね」

 ヒロは屋上を見渡す。

 屋上は円形で、中央には露天風呂が設置されており、ヒロ達が上がってきた箇所の反対側にも扉があるようだった。

 露天風呂は檜製で、十人以上は入れそうな大きさだが、先客は誰もいなかった。

 透明な湯の底で揺らいでいる檜の模様が、面白く感じられる。

 風呂の端には、五体程の狸の置物が並べられていた。

 

 ヒロは、その露天風呂にすぐには入らず、屋上を囲っている手摺の傍に来て、外を見下ろした。

 山を覆う森の辺りは、暗くてよく見えない。

 その麓にある観光地区ならば、小さな明かりのお陰で建物の輪郭が見えた。

 空を見上げれば、鮮やかな夏の月と星とマナ。

 観光地区の奥を見渡せば、フタナノ海に、空の光景がぼんやりと鏡写しになっている。

 

 明かりが少ないこの島では、空と海の境目が分かり難い。

 上も下も、全てを闇に覆われたような錯覚を覚える。

 その闇の中で輝く幾多の小さな光は、とても美しかった。

 

 

 

 

 

「綺麗だなあ」

「うんうん、ホント綺麗な所よねえ」

 夜景に見とれていると、すぐ近くから相槌を打つ声が聞こえた。

 声に反応して、ヒロは首を横に向ける。

 

「え……!??」

「やっほ~」

 一瞬、自分の目を疑ってしまった。

 声の主は、そこにいるはずのない人物。

 ヒロと同じく、バスタオルを纏っただけのセンダンであった。

 

 

「セ、センダンさん、なんで……!?」

 さすがに声が裏返る。

 と同時にセンダンを直視できず、視線が宙を泳いでしまう。

 そんなヒロの狼狽っぷりが面白かったのか、センダンは恥ずかしがる素振りを見せず、ケラケラと声を立てて笑った。

 

「ヒロ君驚き過ぎ~」

「え? だ、だって、どこから……」

「あっち」

 センダンがもう一つの扉を指差した。

「あ……も、もしかしてここ女性風呂、ですか? だったりしちゃいますか? 間違って入っちゃいましたか? 出ちゃいましょうか?」

「なんだか言葉が変だよ?」

「や、だ、だって……」

「ううん、大丈夫だよ」

 センダンの口ぶりは冷静そのものである。

 

「大丈夫って……」

「だって、露天風呂は混浴なんだもん」

「……こんよく?」

 初耳である。

 顔を上げ、ギギギ……と錆付いた人形のように、首だけを後ろのベラミに向ける。

 ベラミは、相変わらずへらへらと笑っているだけだった。

 その表情からは、ヒロのような困惑の色は、全くと言って良い程感じられない。

 

「怖い顔しちゃって。なんだい~?」

(……知ってて、わざと言わなかったな)

 暫しベラミを睨みつけるが、後の祭りである。

 同時に、タオル着用のルールの意味がようやく分かった。

 男性風呂で使用している者もいたが、本来は、混浴風呂での無用なトラブルを避ける為のものなのである。

 

 

 

 

 

 

 

「そんな事より、早くお風呂入ろうよ。流石に寒いわ」

 センダンが自分の肩を抱いたようだったが、視線を外しているヒロにはよく分からない。

「そ……それは良いんですが、お客様は?」

「恥ずかしいから混浴の露天風呂は止めておくって。でも普通のお風呂でも十分楽しんでるみたいよ」

「……なら良いんですが」

 その点は一安心である。

 センダンの言う通り、大分寒くなってきたので、彼女やベラミと一緒に、浴槽に浸かる。

 体が温められているからか、先程までは冷たく感じられた冷気が、今度は心地良く感じられた。

 

 

(……むう)

 だが、今のヒロに湯や風を堪能する余裕はない。

 穴ならず、お湯があったら入りたい、と言わんばかりに、鼻から下までを湯に沈めてしまう。

 とにかく、気まずい。

 第三者のベラミがいてくれたから、これでもまだ良かったのかもしれない。

 二人きりであれば、間違いなく適当に理由を付けて男性風呂に逃げ帰っていた。

 

 

 

「ウィ~」

 そんなヒロとは対照的に、センダンは自然体で湯に浸かりながら、酔っ払いのような吐息を漏らしている。

 胴体が湯船の中に隠れたので、出くわした時程に目のやり場に困る事はないのだが、

 それでもヒロは、なるべく視線をセンダンに向けないようにした。

 

「センダンさん、酔っ払いみたいだなあ。ヴアァ~」

 ベラミがセンダンを笑いながら、また潰れた蛙の声を漏らす。

「なによ。ベラミーンだって変な声出してるじゃないの」

「いや~。だって、気持ち良くてねえ~。ヴアァ~」

「まあ、そりゃそうよねえ。ウィ~」

「ヴアァ~」

「ウィ~」

「ヴアァ~」

「ウィ~」

 酔っ払いと蛙の奇妙な合唱が始まる。

 何度か張り合うように二人は声を出したが、先に止めたのはセンダンだった。

 檜風呂の一角に、狸の置物が並べられているのに気がついた彼女は、湯を掻き分けるようにして置物に近づいた。

 

 

 

「ねえねえ、狸の置物があるわよ」

「おお、センダンさんが並ぶと、狸と狐だね~」

 ベラミが言う。

 その言葉に興味をそそられて、ヒロも置物を見る。

 丸い体に丸い瞳、とぼけた様な顔つきの狸だが、そこが可愛い置物である。

 

「私と狸、どっちが可愛く見える?」

 センダンがベラミに尋ねる。

「うん~? そうだねえ。ううん……」

「さあさ、どっち?」

「うん~、うんん~……」

「………」

「う~~~ん……」

「ベラミーン考え過ぎ。お風呂から上がったら尻尾逆撫での刑ね」

「ノウ! それだけはご勘弁を~」

「あはは~。駄目~!」

 センダンは声高らかに笑ってみせた。

 

 

(……どうして二人とも、いつも通りなんだろ)

 一方のヒロは、まだ顔を湯から出そうとしない。

 だが、こうも変わらない姿を見せられると、なんだか恥ずかしがっている自分の方がおかしい気がする。

 檜風呂の隅でその様な事を考えていると、センダンが平泳ぎのようなポーズを取りながら近づいてきた。

 

 

 

「ヒロく~ん、さっきから隅っこでどうしちゃったの?」

「どう、って……」

 言葉を濁しながら顔を背ける。

 それだけで大方の察しはついたようで、センダンはケタケタと声を上げて笑った。

 

「あはは~! ヒロ君ってば、まだ照れてるの?」

「……いけませんか?」

「いやいや。ヒロ君らしくて良いと思うわ。ふふっ」

「センダンさんは、随分楽しそうですね」

「うん。そりゃあもちろんよ」

 センダンはそう言うと、立ち上がって浴槽の縁に腰掛けた。

 夜空に浮かぶ月を見上げながら、彼女はしみじみと言葉を続ける。

 

「こんなに綺麗な所で、皆とお風呂だなんてとても楽しいじゃない。なんだか学生時代みたい」

「………」

「それに、お風呂って気持ちが開放的になるから、なおさら良いわ。

 ついつい饒舌になっちゃうの」

 落ち着いた口調だった。

 その平穏さに感化されて、ようやく視線の中心にセンダンを据える。

 月を見上げるセンダンは、屈託のない笑顔を浮かべていた。

 なかなか絵になっている、とヒロは思う。

 

 

 

(学生時代……か)

 センダンの言葉に思いを馳せる。

 団体入浴経験がないから、彼女の懐かしさを共感はできない。

 

 だが、こうして自然に囲まれて語らうのは、悪くなかった。

 センダン達は、恥ずかしさよりも語らう事の楽しさの方が強いのだろう。

 その域に達する事はできないが、恥ずかしいだけの場所ではない。

 そう考えると、ヒロも多少気が楽になった。

 

 

 

「ヒロ君は、楽しくないの?」

 センダンがヒロの方を見た。

 答えは分かっている、といわんばかりの口ぶりである。

 意地を張って『楽しくない』と言う選択肢は、ヒロの中にはなかった。

 これもセンダンのいう、気持ちが開放的になる、という事なのかもしれない。

 

「……恥ずかしいですけど、不快じゃありませんよ」

「でしょ~?」

 口を大きく開けて笑う。

 それにつられて、ヒロも小さく笑ってしまった。

 

 

 

「おう、ようやく笑ったな! ならば遠慮はせぬ。これでも食らえい!」

 センダンは湯の中に戻ると、両手を組んで水鉄砲を放ってきた。

「ち、ちょっと! 子供じゃないんですから!」

「あはは~! いいじゃないの、たまには!」

「たまにじゃなくて、センダンさん、しょっちゅうでしょうに!」

「おおっ、ヒロ君ってば、センダンさんとしょっちゅうお風呂に入っているのかい~?」

 ベラミが猛烈な勘違いをかます。

「そ、そういう事じゃなくて、悪ふざけが……」

「こりゃあとんでもない事を知ってしまった……お餅でも買ってくれれば、黙っていても良いんだけど……」

「ベラミさーん!!」

 

 兄花島の夜に響く三人の愉快な声は、暫く止む事はなかった。


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