「ふぁ~あぁ~あ……」
フロントの受付台で、ヒロは頬杖をつきながら大きな欠伸をする。
ヒロの一日の中で、もっとも暇な時間が、正午から夕方にかけての時間である。
この時間は、食材の仕入れや、客の確認、備品確認等の雑用に割り当てているのだが、
食材の仕入れに少々時間を要するだけで、他の仕事はそれ程手間ではなく、すぐにやる事はなくなるのである。
だが、やる事がないからと言って遊び呆けていては、万が一予約なしの客が来た時に体裁が悪い。
その為、ヒロはこの時間を受付台の前で過ごしている。
「……まだ、外は暑そうだなあ」
海側に面している、開け放たれた窓の外を眺める。
季節はもう九月だが、差し込んでくる太陽の日差しはまだまだ暑く、そして眩い。
中年の男性が外を歩いていたが、衣服は外の暑さを表すように丈が短く、そこから覗いている四肢は浅黒く日焼けしている。
耳には、蝉の鳴き声が微かに届く。
それでも、八月に比べれば鳴き声も大分弱まっている辺り、夏は少しずつ終わりに近づいているのだろう。
その蝉の鳴き声の中に、元気な足音が混じりだした。
付近を駆けているような足音が、海桶屋の前で止まる。
足音の主を察したヒロは腰を上げると、隣接する厨房からよく冷えた麦茶を取り出した。
コップに注いでフロントに戻ってくると、案の定、海桶屋の土間でセンダンが靴を脱いでいた。
ヒロと同じく正午以降が暇であるセンダンは、この時間にウメエの所に料理修行に行く事が多い。
この日も彼女はウメエの所に料理修行に出かけていたのであった。
「た~だいま~! う~暑いよぉ~……」
「お疲れ様です。麦茶用意しましたよ」
「おっ、気が利くじゃないの!」
受付台の上に麦茶を置くと、餌に飛びつく犬のように、センダンがフロントに上がってきた。
彼女は喉を鳴らしながら、麦茶を一気に飲み干してしまう。
見ていて気持ちの良い飲みっぷりだった。
「ぷはあっ! ご馳走様~」
「いえいえ。……で、修行の方はどうでしたか?」
ヒロはあまり期待を込めずに尋ねた。
「うん、バッチリ! 今日のお客様に出す夕食の準備、手伝うから!」
「いや、間に合ってます」
即答する。
突っぱねても食い下がるのがセンダンだが、突っぱねなければ、なお乗り気になる。
「あそ。まあ良いわ」
だが、この日のセンダンは違った。
あっさりと引き下がると、肩にかけていたバッグを漁りだす。
「……何かあるんです?」
「うん、何かあるのよ」
そう告げて、センダンがバッグから小瓶を取り出した。
コルクの蓋がしてある小瓶で、中には茶色い粒が詰まっている。
なにやら文字が書かれた紙が貼ってあるのだが、相当古いもののようで、
紙は薄茶色に変色していて、文字も擦れて読み難い。
「これ、温泉の素!」
センダンが小瓶を受付台に置く。
「はあ……」
「ウメエさんが蔵を掃除していたら出てきた物を貰ったの。
思い出せない位昔の物らしいけれど、ただの温泉の素じゃないのよ!
マナの力が篭っていて、ぽこぽこ泡が吹き出るんだって!」
「………」
ヒロは何も言わずに眉をひそめる。
海桶屋の風呂は、温泉ではない。
そもそも兄花島には源泉がなく、温泉の引き様がないのである。
浴場に張られるのは、ただのお湯なのである。
すなわち……温泉の素は有効なのだが、まともな品に限った話だ。
(そんな古い物、絶対怪しいって……)
いぶかしみに満ちた表情でセンダンを見れば、彼女は楽しげに小瓶を回している。
温泉の素に夢中になって、ヒロの事はあまり気にしていないようだ。
逃げよう。
瞬時に、その言葉がヒロの脳裏に浮かび上がる。
物音を立てないよう、ゆっくりと立ち上がった……その時である。
「ねえヒロ君、良い事思いついたんだけど!」
「そらきた……」
先にそう言われては、そのまま逃げるわけにもいかなかった。
額に手を当て、浮かした腰を下ろす。
一方のセンダンは、肩を交互に揺らして、ヒロが腰を据えるのを待ち構えていた。
「そらきた、とは分かってるじゃない」
「いや、そういう意味じゃありませんが……で、今回は何を思いついたんですか?」
大方の予想はできているが、一応尋ねる。
「もちろん、この温泉の素を使ってみるのよ!」
「駄目です。危ないですよ、それ。
得体が知れないし、使用期限だって絶対切れていますよ!」
「大丈夫、大丈夫だって!」
「大丈夫な根拠、何もないじゃないですか! 水道代だって馬鹿になりませんよ!」
「安い、安いって!」
「安くありません!!」
センダンと押し問答を繰り広げる。
だが、そうしてセンダンの言葉を突っぱねながらも、ヒロにはうっすらと結果が見えていた。
センダンの『良い事』を説き伏せるのは、なかなかに難しいものなのである。
燦燦さんぽ日和
第十二話/山頂銭湯
海桶屋の入浴施設は小さい。
四畳程の更衣室と六畳程の浴場があるだけで、当然ながら五人も十人も同時に入る事ができる程のものではない。
その為、チェックインの際に入浴希望時間を確認し、団体毎に時間を決めて使用してもらっていた。
小さい上に温泉ではない事は経営側も気にしており、せめて見た目だけでも風情があるものにしようと、
更衣室は侘びた木製部屋に仕上がっており、浴槽も、直径三十センチ程の大きさの石を並べて作ってある。
チェックインと同時に入浴したいという客も少なくない為、大抵は午前中のうちにセンダンが浴槽の掃除を終えている。
この日も既に掃除を終えており、湯を溜めるだけですぐに入浴できる状態であった。
……センダンに提案を押し切られてから、約一時間後。
湯気が立つ浴槽の前には、バスタオルを腰に巻いただけのヒロと、衣服を纏っているセンダンの姿があった。
「……で、温泉の素を使うのに、なんでお風呂に入らなきゃいけないんです?」
ヒロは腕を組みながら、隣にいるセンダンに問う。
バスタオルを巻いているとはいえ、それ以外は何も纏っていない状態はさすがに恥ずかしい。
その動揺を誤魔化す為に、ヒロはわざと、怒ったような声を出していた。
「だって、効能を確かめなきゃいけないじゃない」
センダンはあっけらかんとした口調で答える。
「確かめてどうするんです?」
「もちろん、お客様に提供するのよ。今日は女性三人組の予約があるし、ちょうど良いわ」
「じゃあ、自分で入れば良いじゃないですか」
「あら~? ヒロ君、私と一緒にお風呂に入りたかったの?」
「……む、むう」
突然の言葉に、ヒロは動揺を隠すように唸り声を漏らす。
センダンは、愉快そうに目を細めて、そんなヒロの反応を見ていた。
いつも通り、からかわれただけである。
「……それより早い所済ませましょう。温泉の素、入れて下さい」
「はいはいっと。ええと……一つまみで十分効果があるみたいね」
ヒロに急かされたセンダンが、小瓶の掠れた文字を読んでから、コルクの蓋を捻る。
小気味良い音がして蓋は開き、ほのかにビャクダンのような甘い香りが漂ってきた。
中の粒を一つまみ浴槽に注ぐと、注がれた箇所が茶色く変色する。
「ぽこぽこ~」
「なんですかそれ」
「温泉の素の歌。ぽこぽこ~」
センダンが聞いた事もない鼻歌を歌いながら、掻き棒でお湯をかき混ぜる。
変色は瞬く間に浴槽全体に浸透し、それと同時に、湯の中から無数の大きな気泡が浮かび上がるようになった。
湯面は気泡で大いに波立ち、センダンの鼻歌通りに、ぽこぽこと間の抜けた音が浴室に響き渡る。
「あれ……意外と、普通に使えそう……?」
浴槽に手を掛けて湯面を覗き込みながら、ヒロが言う。
試しに湯を手ですくってみたが、特に痛かったり痒かったりする事はなかった。
「ほらね。言った通りでしょ? 大丈夫なんだって」
「ふむ……それじゃあ……」
センダンの言葉に背中を押されて、思い切って浴槽に脚を入れる。
湯はやや温めにしていたが、それでも熱が急激に伝わってきて脚が瞬時に温まる。
脚を振って湯をかき混ぜつつ腰を下ろす事で、その熱気が全身に行き渡った。
「ふむ……」
湯に漬かりながら、両手で湯をすくって顔を近づける。
色のみならず、ビャクダンの香りもしっかりと湯に浸透している。
体に吹き上げてくる気泡の感触も良かった。
「ヒロ君、ど~お?」
センダンが中腰になり、間延びした口調で尋ねる。
「気持ち良いですよ。ちゃんと温泉っぽくなってます」
ヒロは正直に答える。
「おぉー、まさか本当に大丈夫だったとは」
「センダンさん……?」
「あ、いやいや、気にしないで良いわ。それより、これならお客様が入浴する時にも使えそう?」
「……まあ、良いか。ええ、使えると思いますよ。喜んで貰えるでしょうし、早速今日から使ってみましょう」
「よーし、きーまりっ!」
センダンがガッツポーズを取る。
それが良くなかった。
勢いが付きすぎたのか、彼女の手に握られていた小瓶がすり抜けてしまい、浴槽の中へ飛び込んでしまう。
「「………」」
二人して、沈みゆく小瓶を見る。
小瓶の中の粒はすぐに解けてしまった。
「……一つまみで良いんでしたよね?」
「うん。……全部、入っちゃったね……」
薄茶色の湯の色は濃茶色へと変色する。
気泡の量も、じわじわと増え始めた。
量だけではない。浮かび上がる速度もより早く、サイズもより大きくなっている。
気泡が弾ける音が、ポコポコという可愛らしい音から、ボコボコという不気味な音へ変わる。
そのボコボコが、ボボボ、と地鳴りのような音に変わるまでには、そう時間を要しなかった。
「……センダンさん」
「……ヒロ君」
顔を見合わせあう二人。
次の瞬間、二人は弾き出されるように立ち上がる。
「「逃げろ~~っ!!!」」
内部に凄まじい熱膨張が発生した湯が、強烈な炸裂音を立てて浴槽の一部を破壊するのは、
彼らが更衣室に逃げ込んだ、まさにその瞬間であった。
◇
兄花島の中央には、標高百メートル程の小さな山がある。
見目麗しい樹木が植えられているわけでもなければ、珍しい生物が生息しているわけでもない、
生態系としては取り立てるべき点がない普通の山なのだが、夕方から夜にかけて山を登る者は多い。
それというのも、山頂に銭湯が建っている為である。
海桶屋同様に温泉ではないが、兄花島全体を見渡す事の出来る展望露天風呂の評判が良い。
観光客のみならず、島民にも人気のある銭湯なのである。
この日の夜、ヒロはその銭湯に向かう馬車を操っていた。
複数名が乗り込める幌を引いた照明付きの馬車で、ギルドから借りたものである。
幌付きで馬の疲労も大きい為に、貸し出し料は馬鹿にならないのだが、借りざるを得なかった。
日中の温泉の素騒ぎで、海桶屋の浴槽が壊れたのである。
幸いな事にヒロもセンダンも怪我はしていないが、積まれていた石の幾つかが吹き飛んだ。
そこから湯が洩れてしまう為に、ロビンから業者を呼ばなくては直す事が出来ない状態だ。
当然、その日の予約客が使用する事はできない。
自分達も汗を流す事ができない。
そこでヒロらは、客に事情を説明して同意を得た上で、急遽ギルドから馬車を借りて、山頂銭湯に案内する事にしたのである。
(こういう時はセンダンさんがいると助かるなあ……)
馬車の手綱を握りながら、ちらと幌の中を振り返る。
中では、この日の宿泊客である若い三人の女性客とセンダンが、早くも打ち解けて雑談に興じていた。
長々とよそ見をするわけにもいかないのですぐに前を向くが、耳に届く声によれば、
どうやら女性客らが、海桶屋の仕事について質問しており、それにセンダンが回答しているようである。
はっきりとは聞こえないが、時折笑い声も漏れる辺り、センダンが砕けた話題を提供しているのだろう。
自分では、こうはいかない。
案の定、この女性客らにも、初対面の際には大いに怖がられてしまった。
仮に怖がられなかったとしても、センダン程に客と打ち解けられる自信はない。
時たまドジを踏むのが玉に傷、今回は風呂にまで傷が入ってしまったが、それでも彼女は海桶屋にとって欠かせない人物である。
「それでね、ヒロ君がまた子供を泣かせちゃったんですよー!」
一際大きな声が聞こえてきた。
本当に欠かせないのか、改めて考えるヒロであった。
◇
山頂銭湯に着いた。
山頂銭湯は円錐台状のコンクリート製の建物で、屋上には露天風呂が設けられているらしい。
というのも、実はヒロも、山頂銭湯に来るのは初めてであった。
一応、客を先導して先に銭湯の暖簾を潜る。
土間を上がるとすぐにフロントがあったので、全員分の料金を渡すと、大きいバスタオルを貸し出された。
バスタオルは持参しているのだが、いらないというのも気が引けて、何も言わずにバスタオルを受け取る。
それから、周囲を見回す。
内装には木材を使っている箇所が多いが、海桶屋とは異なり、使われているのは比較的新しい木材である。
畳二十畳程の広い休憩スペースがフロントに隣接しており、休憩スペースは総畳敷きだ。
折りたたみ式のテーブルが幾つか置かれていて、利用者はそこで備え付けの新聞を読んだり、将棋を指したり、飲み食いをしたりできるようになっている。
休憩スペースでは十人程が寛いでいたが、島民らしき者が多い。特に子連れの利用者が目立った。
「新しい建物なんですね。もっと古い所かと思っていました」
女性客三人組のうちの一人が、同じく辺りを見回しながら言う。
痩せた体格に袖が長い衣装を纏っており、レンズが丸い眼鏡を掛けている、落ち着いた印象の女性だった。
「実は、僕もここに来るのは初めてなんです。結構綺麗ですね」
「そうですね。これはお風呂も期待できそうです」
女性客は嬉しそうに言う。
自分達の不手際で浴槽を利用できない事で、客に不満を抱かせたのではないかと心配していたが、
眼鏡の女性客のみならず、他の二人も好印象を表情に出していた。
ヒロは、誰にも分からない位小さな安堵の息を零す。
「んっと、男性はあっちで、女性はこっちね」
センダンが、フロントと休憩スペースの間に伸びている廊下を指差す。
「それじゃあ、センダンさん、後は宜しくお願いします」
「はいはい~。お客様がいるんだから、ヒロ君は私達よりも先に上がってくるのよ」
「ええ、分かってますよ」
センダンの言葉に苦笑しながら答え、ヒロは女性陣と別れた。
ぴたぴたと、廊下に吸い付くような足音を立てて廊下を歩き、男性用更衣室に入る。
更衣室にも客が数名いたが、ヒロはその中に見知った顔を見つけた。
「あれ……ベラミさん?」
「いや~、ヒロ君じゃないかー」
日中のヒロ同様、腰にバスタオルを巻いたベラミは、ヒロに声を掛けられると返事をしながら近づいてきた。
「ベラミさん、銭湯に来る事あるんですね」
「そりゃ来る事もあるさ。むしろ常連レベルだよー」
「猫亜人なのに、お風呂好きなんですね」
「そういう猫なのだー」
ベラミは胸を張りながら答える。
小柄な彼がふんぞり返っても、大して迫力は出ない。
「ヒロ君こそ、銭湯に来る事があるんだね。初めて見かけたよ」
「いや、実は今日が初めてです。ちょっとわけありで……」
「ふむ?」
「実は、海桶屋の銭湯が壊れてしまいまして。
今日はお客様の予約があったので、お客様を連れて来たんです」
「ふむ。お客様とな」
ヒロの言葉を受けて、ベラミの尻尾がピンと立ち上がる。
「それは是非おも「お餅は売らないで下さいね」」
ベラミの言葉を途中で遮る。
立ち上がった尻尾は、すぐにしょんぼりとしおれてしまった。
「まあ、良いか……そんな事より、いつまでも裸じゃ風邪を引いてしまう。
僕は先にお風呂に入ってるから、ヒロ君も脱いじゃいなよー」
「はい」
「あ、初めて来るんだったら、そこの注意書きは熟読しておくようにねー」
ベラミは壁に貼られた注意書きを指差してそう言うと、浴室に行ってしまった。
残されたヒロは、言われた通りに注意書きを見る。
掛け湯をする、泳がないといった、ごく普通の注意書きが並んでいた。
だが、注意書きの最下部にある一文だけは、ヒロが初めて目にするものだった。
「フロントで貸し出したバスタオルを巻いてご入浴下さい……?」
注意書きを言葉にしながら、首を傾げる。
バスタオルを巻く事は、何の抵抗もない。
洗顔等に使用したタオルを湯船に漬けるわけではないのだから、不浄でもないだろう。
しかし、何故ルールとして定めているのかが分からない。
「……まあ、良いか」
いつまでも考え込んでいる暇はない。
ヒロは服を脱ぎ始めた。
◇
注意書き通りバスタオルを巻き、浴室に通じるガラス戸を開けると、むわっとした湿気に覆われる。
湯気の漂う浴室には、かけ湯、浴槽、洗面場、シャワー、サウナと一通りの設備が整っていた。
奥を見通せば、屋上露天風呂に通じていると思われる扉もある。
ひとまずかけ湯を頭から被ると、それだけで全身の汗が流れ落ちた気がしてさっぱりする。
先に体を温めてしまおうと浴槽に向かうと、既に三名程が湯に浸かっている。
その中の一人が、ベラミだった。
「ヒロ君、こっちこっち~」
ヒロを呼ぶベラミの声が浴室に反響する。
無視するわけにもいかず、呼ばれるがままにベラミの隣で湯に浸かる。
湯は思っていたよりも熱く、全身に軽い痺れのような熱気が押し寄せてきたが、堪えずにすぐ出るのもみっともない。
我慢して浸かり続けると、すぐに慣れる事ができた。
海桶屋と同じく、何の変哲もないただの湯ではあるのだが、気持ちが良い。
「おおっ。お湯を被って髪を後ろに流すと、ますますその筋の人に見えるね」
「ほっといて下さい」
「あははぁ~。ヴアァ~」
ベラミはヒロを笑い飛ばすと、両腕を水面に浮かべて、蛙の鳴き声を叩き潰したような奇妙な声を漏らす。
「ベラミさん、変な声出さないでくださいよ」
「いやあ~、こうも気持ち良くっちゃねえ。ヴアァ~」
「また言ってる」
そう言って苦笑する。
とはいえ、この気持ち良さでは、そのように脱力してしまうのも無理はない、とヒロは思う。
そうしてベラミと話していると、ふと、誰かと風呂に入るという経験が殆どない事に気がついた。
社会人になってからは、確実に一度も経験していない。
中級アカデミーの修学旅行の時は、風邪を引いていて入浴できなかった。
父のダイスケは仕事が忙しい為、家族旅行で経験した事もない。
経験が殆どないどころか、最後の記憶が掘り起こせなかった。
おそらくは幼児の頃か、下級アカデミー低学年の頃に、親と一緒に風呂に入った以来である。
「ヒロ君、どったの? 黙り込んじゃって」
ベラミが相変わらず脱力しながら聞いてくる。
「あ……なんでもありません。たまには銭湯も良いな、と思っただけです」
「おお、銭湯が気にいったかい?」
「ええ」
「それじゃあ、兄花島観光に精通しているこの僕が、この銭湯のスペシャルな所を特別に教えてあげよう~」
「そんなものがあるんです?」
「うむ。実は、この銭湯の屋上にはだね……」
「銭湯の屋上には?」
「露天風呂があるのだよ~」
「観光に精通していなくても、それ位知ってますよ」
銭湯にきた事がないヒロでも知っている事だし、知らずとも、建物を下から見上げれば分かる事である。
「お~、知っていたなら話は早い。それじゃ、一緒に屋上露天風呂に行こうじゃないの~」
ベラミはヒロの返事を待たずに、湯を滴らせながら立ち上がった。
どうせなら露天風呂にも入っていきたい。
特に断る理由のないヒロも立ち上がった。
浴室の扉の先には、階段が螺旋状に伸びていた。
階段を上がりきって屋上扉を開けると、ようやく屋上に出た。
十分に温まった体が、外気で一瞬にして冷える。
まだ残暑が厳しい九月だが、夜風は涼しくなっており、タオル一枚では寒くさえ感じてしまう。
「へえ……広いんですね」
ヒロは屋上を見渡す。
屋上は円形で、中央には露天風呂が設置されており、ヒロ達が上がってきた箇所の反対側にも扉があるようだった。
露天風呂は檜製で、十人以上は入れそうな大きさだが、先客は誰もいなかった。
透明な湯の底で揺らいでいる檜の模様が、面白く感じられる。
風呂の端には、五体程の狸の置物が並べられていた。
ヒロは、その露天風呂にすぐには入らず、屋上を囲っている手摺の傍に来て、外を見下ろした。
山を覆う森の辺りは、暗くてよく見えない。
その麓にある観光地区ならば、小さな明かりのお陰で建物の輪郭が見えた。
空を見上げれば、鮮やかな夏の月と星とマナ。
観光地区の奥を見渡せば、フタナノ海に、空の光景がぼんやりと鏡写しになっている。
明かりが少ないこの島では、空と海の境目が分かり難い。
上も下も、全てを闇に覆われたような錯覚を覚える。
その闇の中で輝く幾多の小さな光は、とても美しかった。
「綺麗だなあ」
「うんうん、ホント綺麗な所よねえ」
夜景に見とれていると、すぐ近くから相槌を打つ声が聞こえた。
声に反応して、ヒロは首を横に向ける。
「え……!??」
「やっほ~」
一瞬、自分の目を疑ってしまった。
声の主は、そこにいるはずのない人物。
ヒロと同じく、バスタオルを纏っただけのセンダンであった。
「セ、センダンさん、なんで……!?」
さすがに声が裏返る。
と同時にセンダンを直視できず、視線が宙を泳いでしまう。
そんなヒロの狼狽っぷりが面白かったのか、センダンは恥ずかしがる素振りを見せず、ケラケラと声を立てて笑った。
「ヒロ君驚き過ぎ~」
「え? だ、だって、どこから……」
「あっち」
センダンがもう一つの扉を指差した。
「あ……も、もしかしてここ女性風呂、ですか? だったりしちゃいますか? 間違って入っちゃいましたか? 出ちゃいましょうか?」
「なんだか言葉が変だよ?」
「や、だ、だって……」
「ううん、大丈夫だよ」
センダンの口ぶりは冷静そのものである。
「大丈夫って……」
「だって、露天風呂は混浴なんだもん」
「……こんよく?」
初耳である。
顔を上げ、ギギギ……と錆付いた人形のように、首だけを後ろのベラミに向ける。
ベラミは、相変わらずへらへらと笑っているだけだった。
その表情からは、ヒロのような困惑の色は、全くと言って良い程感じられない。
「怖い顔しちゃって。なんだい~?」
(……知ってて、わざと言わなかったな)
暫しベラミを睨みつけるが、後の祭りである。
同時に、タオル着用のルールの意味がようやく分かった。
男性風呂で使用している者もいたが、本来は、混浴風呂での無用なトラブルを避ける為のものなのである。
「そんな事より、早くお風呂入ろうよ。流石に寒いわ」
センダンが自分の肩を抱いたようだったが、視線を外しているヒロにはよく分からない。
「そ……それは良いんですが、お客様は?」
「恥ずかしいから混浴の露天風呂は止めておくって。でも普通のお風呂でも十分楽しんでるみたいよ」
「……なら良いんですが」
その点は一安心である。
センダンの言う通り、大分寒くなってきたので、彼女やベラミと一緒に、浴槽に浸かる。
体が温められているからか、先程までは冷たく感じられた冷気が、今度は心地良く感じられた。
(……むう)
だが、今のヒロに湯や風を堪能する余裕はない。
穴ならず、お湯があったら入りたい、と言わんばかりに、鼻から下までを湯に沈めてしまう。
とにかく、気まずい。
第三者のベラミがいてくれたから、これでもまだ良かったのかもしれない。
二人きりであれば、間違いなく適当に理由を付けて男性風呂に逃げ帰っていた。
「ウィ~」
そんなヒロとは対照的に、センダンは自然体で湯に浸かりながら、酔っ払いのような吐息を漏らしている。
胴体が湯船の中に隠れたので、出くわした時程に目のやり場に困る事はないのだが、
それでもヒロは、なるべく視線をセンダンに向けないようにした。
「センダンさん、酔っ払いみたいだなあ。ヴアァ~」
ベラミがセンダンを笑いながら、また潰れた蛙の声を漏らす。
「なによ。ベラミーンだって変な声出してるじゃないの」
「いや~。だって、気持ち良くてねえ~。ヴアァ~」
「まあ、そりゃそうよねえ。ウィ~」
「ヴアァ~」
「ウィ~」
「ヴアァ~」
「ウィ~」
酔っ払いと蛙の奇妙な合唱が始まる。
何度か張り合うように二人は声を出したが、先に止めたのはセンダンだった。
檜風呂の一角に、狸の置物が並べられているのに気がついた彼女は、湯を掻き分けるようにして置物に近づいた。
「ねえねえ、狸の置物があるわよ」
「おお、センダンさんが並ぶと、狸と狐だね~」
ベラミが言う。
その言葉に興味をそそられて、ヒロも置物を見る。
丸い体に丸い瞳、とぼけた様な顔つきの狸だが、そこが可愛い置物である。
「私と狸、どっちが可愛く見える?」
センダンがベラミに尋ねる。
「うん~? そうだねえ。ううん……」
「さあさ、どっち?」
「うん~、うんん~……」
「………」
「う~~~ん……」
「ベラミーン考え過ぎ。お風呂から上がったら尻尾逆撫での刑ね」
「ノウ! それだけはご勘弁を~」
「あはは~。駄目~!」
センダンは声高らかに笑ってみせた。
(……どうして二人とも、いつも通りなんだろ)
一方のヒロは、まだ顔を湯から出そうとしない。
だが、こうも変わらない姿を見せられると、なんだか恥ずかしがっている自分の方がおかしい気がする。
檜風呂の隅でその様な事を考えていると、センダンが平泳ぎのようなポーズを取りながら近づいてきた。
「ヒロく~ん、さっきから隅っこでどうしちゃったの?」
「どう、って……」
言葉を濁しながら顔を背ける。
それだけで大方の察しはついたようで、センダンはケタケタと声を上げて笑った。
「あはは~! ヒロ君ってば、まだ照れてるの?」
「……いけませんか?」
「いやいや。ヒロ君らしくて良いと思うわ。ふふっ」
「センダンさんは、随分楽しそうですね」
「うん。そりゃあもちろんよ」
センダンはそう言うと、立ち上がって浴槽の縁に腰掛けた。
夜空に浮かぶ月を見上げながら、彼女はしみじみと言葉を続ける。
「こんなに綺麗な所で、皆とお風呂だなんてとても楽しいじゃない。なんだか学生時代みたい」
「………」
「それに、お風呂って気持ちが開放的になるから、なおさら良いわ。
ついつい饒舌になっちゃうの」
落ち着いた口調だった。
その平穏さに感化されて、ようやく視線の中心にセンダンを据える。
月を見上げるセンダンは、屈託のない笑顔を浮かべていた。
なかなか絵になっている、とヒロは思う。
(学生時代……か)
センダンの言葉に思いを馳せる。
団体入浴経験がないから、彼女の懐かしさを共感はできない。
だが、こうして自然に囲まれて語らうのは、悪くなかった。
センダン達は、恥ずかしさよりも語らう事の楽しさの方が強いのだろう。
その域に達する事はできないが、恥ずかしいだけの場所ではない。
そう考えると、ヒロも多少気が楽になった。
「ヒロ君は、楽しくないの?」
センダンがヒロの方を見た。
答えは分かっている、といわんばかりの口ぶりである。
意地を張って『楽しくない』と言う選択肢は、ヒロの中にはなかった。
これもセンダンのいう、気持ちが開放的になる、という事なのかもしれない。
「……恥ずかしいですけど、不快じゃありませんよ」
「でしょ~?」
口を大きく開けて笑う。
それにつられて、ヒロも小さく笑ってしまった。
「おう、ようやく笑ったな! ならば遠慮はせぬ。これでも食らえい!」
センダンは湯の中に戻ると、両手を組んで水鉄砲を放ってきた。
「ち、ちょっと! 子供じゃないんですから!」
「あはは~! いいじゃないの、たまには!」
「たまにじゃなくて、センダンさん、しょっちゅうでしょうに!」
「おおっ、ヒロ君ってば、センダンさんとしょっちゅうお風呂に入っているのかい~?」
ベラミが猛烈な勘違いをかます。
「そ、そういう事じゃなくて、悪ふざけが……」
「こりゃあとんでもない事を知ってしまった……お餅でも買ってくれれば、黙っていても良いんだけど……」
「ベラミさーん!!」
兄花島の夜に響く三人の愉快な声は、暫く止む事はなかった。