燦燦さんぽ日和   作:加藤泰幸

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竜伐祭編
第一話/古民宿『海桶屋』


 今日も、マナは空で燦燦と輝いている。

 そのマナを眺めるべく、木造の建物から出てきたのは、一人の青年だった。

 

「今日も良い天気だなあ」

 青年は、空を見上げながら表情を緩める。

 暖かな春の風に包まれた空には、幾多もの光球が浮かんでいた。

 一つ一つは、片手で握れる位の小さなものである。

 

 

「うん。光のマナがたくさん見えるや」

 青年がその光球、光のマナに軽く手を振ると、マナは返事をするかのように瞬いた。

 青年は体を大きく逸らして、朝の日光を存分に浴びながら、視線を建物の向かいに広がる海に向ける。

 海は天気と同様に穏やかで、気持ちの良い微かな波音を立てていた。

 

 

 ……彼の出てきた建物は、ヒノモト諸島のうち、本土側から数えて四番目の兄花島にある。

 兄花島に本土側である北から入ると、道はすぐに東西それぞれに伸びている。

 東に進めば近代的な建物が多い居住地区に通じ、西側に進めば古い町並みの観光地区に通じている。

 

 その建物、築二百年を誇る古民宿・海桶屋は、そのうちの観光地区に存在していた。

 

 

 

「これでお店の予約があればなあ」

 背伸びを終えた青年が苦笑する。

 

 青年は、名をヒロ・タカナと言った。

 ちょうど一年前の春に上級アカデミーを卒業した、二十一歳の若者である。

 卒業後、祖父母が営む海桶屋に、若旦那兼板前見習として就職して以来……彼には一つの悩みがあった。

 正しくは卒業前からの悩みではあったのだが、就職後に一層悩まされる事になったのである。

 

 

 

 

 

「あれ?」

 悩める青年が道路の北側を見た。

 道の奥から、二人組の女性が歩いてくる。

 その先の観光案内所で配っている地図を手に持っているのが見えた。

 おそらくは観光客なのであろう。

 

「おはようございますー」

 やや距離があるうちから、声を掛ける。

 彼の声は穏やかで、見知らぬ人でも安心感を感じる事ができる。

 声は相手には届いたようで、二人組もヒロに気がついてくれた。

「あ、おはようございます」

「いい天気ですねえ」

 明るい声で返事をしながら二人が近づいてくる。

 

「ええ、本当に。観光の方ですか?」

 ヒロは微笑む。

 二人組との距離は大分縮まり、それぞれの顔つきを伺う事ができた。

 一人はまだ学生と思わしき外見の女性で、もう一人はややしわの目立つ中年の女性である。

 母娘での観光だろうか、とヒロは思う。

 そして、それはともかく……ヒロが二人の顔を見る事が出来たという事は、二人もヒロの顔を見る事が出来るのである。

 

 

 

「ええ、そうなんですよ」

 若い女性が言う。

「主人が出張に出たものでね。その間に娘と……」

 次いで、中年の女性がそう言葉を続けて……その言葉は途中で途切れた。

 彼女の表情がみるみるうちに青冷めていく。

 若い女性も同様であった。

 

 

「お母さん、わ、私財布無くしたみたい」

「あ、あらそう? じゃあ急いで探しに戻らなきゃ。それでは失礼……」

「あっ……」

 ヒロが声を漏らした時には、二人組は踵を返していた。

 来た道を猛烈な勢いで駆け戻っていく。

 逃げ出した、という言葉が適切な動きである。

 

 ヒロは呆然と二人の背中を眺めていたが、その背中はすぐに見えなくなる。

 それでも暫く路上に立ち尽くしていたが、やがてトボトボとした足取りで海桶屋に戻っていった。

 

 

 

 

 

 ヒロの目は大きいのだが、黒目は対照的に小さかった。

 やや太い眉は常時つりあがっており、眉間にはこれまたいつでも皺が寄っている。

 身長はやや高い方なのだが、必然的に相手を見下ろしながら会話をする事がある。

 どうやら、それが強い威圧感を生んでいるようである。

 

 すなわち……彼は、怖かった。

 それは、客商売をする上で最大の悩みであり、また解消のしようがない悩みでもある。

 

 

 

 

 

「この顔、そんなに怖いかなあ……」

 強面が力なく呟いた。

 たとえ嘆こうと、それはそれで怖い顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 第一話/古民宿『海桶屋』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あははははっ! ヒロ君ってば、まぁた観光客に逃げられちゃったの?」

「そんなに笑わないで下さいよ、センダンさん。本気で落ち込んでるんですから」

「だってさぁ。くふふふふっ!」

 

 海桶屋の土間のすぐ側には、休息用のソファがある。

 そこに腰掛けたヒロは、自分の顔を両手で覆う。

 ヒロの向かいには、ポニーテールの女性、センダン・コトノハが座っていた。

 センダンが腹を抱えて笑い声を漏らすたびに、彼女の頭部に生えた狐耳も楽しそうにピコピコと揺れていた。

 

 

 

「ふふふっ、はははっ!」

「それ以上笑うと……」

「く、くく、あっはっはっ!」

「昨日割った分のお皿の代金、お給料から引いてもらいますよ?」

「はは……はえっ!?」

 笑いがピタリと止まる。

 代わりに、間の抜けた声が漏れた。

 

「ち、ちょっと! そりゃないんじゃないの!?」

 センダンが口を尖らせる。

 なんとも子供っぽい仕草である。

 

 それが、年相応の仕草なのか、それとも実年齢にそぐわない仕草なのか、ヒロは知らない。

 ヒロが海桶屋に就職した一年前には、狐亜人のセンダンは、もう仲居として働いていた。

 外見年齢は自分と大差なさそうな事と、初対面の時から年長者のように振舞われた為に、一応はセンダンを年上だと思って接している。

 だが、彼女はが楽しい時に見せる表情や仕草は、少女のそれを連想させる。

 何かにつけて笑うものだから、幼げな印象はなおさら強い。

 実際の年齢は、ヒロが就職する前に海桶屋を切り盛りしていた祖父母しか知らぬ所であった。

 

 

 

 

 

「そ、それよりさ、今日は予約ないよね?」

 センダンが話題を変える。

「入ってませんよ」

 ヒロも話を皿の事に戻そうとはしない。

 

 センダンは相当そそっかしい所があり、皿を割るのも一度や二度ではない。

 加えて言えば、家事全般が不得意である。

 仲居として致命的な欠点を抱えているのである。

 だが、仕事への取り組み方は真剣そのものだった。

 ヒロとしても、本気で天引きしてもらうつもりはなかった。

 

 

 

「それじゃさ、今日はロビンに出かけない?」

 センダンが提案する。

「ロビンの都に?」

「そうそう。馬車なら昼前に着くわ」

「都に何しに行くんです?」

「備品の買出しとか」

「民宿協会に所属しているから、備品はそっちで安く買ってるじゃないですか」

「じゃあ、美味しい食材でも買出しに」

「近所のお店の食材で間に合ってますよ」

「都の人気旅館の調査とかどう?」

「調査費がないんです」

 にべもない。

「ぐう」

 センダンからぐうの音が漏れた。

 

「……遊びに行きたいんですか?」

 センダンの顔色を伺いながら尋ねる。

 海桶屋の営業は、ヒロとセンダンの二名で回っていた。

 経営は近所で暮らすヒロの祖父が担当し、忙しい日にはヒロの祖母がヘルプに入ってくれる。

 とはいえ、常時海桶屋にいるのは二名だけである。

 その分、休日は得難い。

 センダンが気晴らしに出かけたいとしても、無理はない話である。

 だが、おそらくそうではないのだろうとヒロは思っていた。

 

 

 

 

 

「うーん、そうじゃないのよね」

 センダンが耳を畳みながら言う。

「お店、暇よね?」

「残念ながらそうですね」

「お客様、来て欲しいよね」

「来て欲しいです」

「それなのよ!!」

「うひゃっ!」

 突然の力強い声。

 ヒロは思わず身を引いてしまう。

 

 

「私もそうなの。もっとお客様に来て欲しいし、島や宿を楽しんで欲しいの!」

 センダンがグッと握り拳を作って立ち上がった。

「は、はあ」

「そこで、その為にはどうしたものかといつも考えてるのよ」

「ふむ」

「暇だから考える時間はあるし」

「それはそれでちょっと」

「とにかく、何か変えていくべきだと思うの!」

「その結果がロビンに行くって事ですか」

「いえ~す。そういう事」

「なるほど……」

 ヒロは深刻そうに腕を組む。

 そう言われれば、邪険に出来ない提案である。

 海桶屋の閑古鳥っぷりは、ヒロとしても悩みの種だった。

 

 

「ま、それだけじゃなくて、もちろん遊びに行きたい気持ちもあるんだけれどね~」

「ありゃ」

 センダンがニパッと笑って言った。

 同調して悩んでいる所に話題をひっくり返されたヒロは、思わずこけかける。

 だが、暗い顔をしていてはそれこそ客に逃げられてしまう、と考え直した。

 彼もまた、センダンに笑みを返す。

 

 

 

「……確かに、僕も最近ロビンに行ってませんし、たまには行きたいな」

「そうだよねえ~。……ちなみにヒロ君、学生の頃はロビンに住んでたよね」

「ロビン生まれのロビン育ちです」

「その頃はロビンのどこで遊んでたの?」

「遊んでた所、ですか?」

 ふと、考え込む。

 自身が長らく過ごしてきたロビンの町並みを思い出そうとする。

 

 ロビンは、ヒノモト諸島と橋で繋がっている港街だ。

 三百年前の内乱時代に造られた防壁や城跡といった、古い建造物が所々に残るものの、

 街の中心の商業地区には、近代技術であるコンクリート製の建物が多く並んでいる。

 ショーや模擬戦で剣の技量を競い合う剣術興行のチームも存在している、国の主要都市の一つである。

 

 一方のヒノモト諸島は、ロビンとは異なる光景を持っている。

 この諸島は、異国の海賊であるヒノモトが長らく支配していた事からそう呼ばれていた。

 内乱時代が終わった後も、ヒノモトの子孫が中心となって発展させた為に、

 木造を中心とした建築様式や、本土では見かけない絹製の行事用衣服等の風習が多々残る、特殊な地帯である。

 ヒノモト諸島でも生活するのに支障はないのだが、娯楽施設は圧倒的にロビンの方が揃っていた。

 

 

 

 

 

「あまり、遊びに出かける事は無かったんですけれども……」

「うんうん」

「強いて言えば、西部の地下街かな」

「へえ、意外。あの辺りって雑多な所よね」

「そうですけれど、意外ですか?」

「うん。東部の劇場とか美術館とか、もっとスマートな所に行くものだと思ってた」

「学校から遠いし、東部はあまり行かなかったんですよ。

 地下街は、地下街の古書センターがお気に入りだったんです。

 マナや精霊に関する古い本とかたくさん売ってますから」

「なるほど、マナ絡みなのね」

 合点がいったようで、センダンが一つ頷く。

「やっぱり上級アカデミーでマナ学を専攻していただけの事はあるわね」

「そ、そんなのじゃありませんが……」

 本音なのかおだてなのかは分からないが、何にしてもこそばゆい。

 視線をセンダンから逸らしながら、話題を変えようと思い立つ。

 

 

 

「ま、まあ……日にちを見計らって、そのうち行きましょうか。

 お婆ちゃんも、たまには店番を任せて遊びに行け、って言ってくれてましたし」

「おおっ!」

 センダンが目を輝かせる。

「そうこなくっちゃ! 話が分かるねえ~!」

 頭をぶんぶんと縦に振る。

 木綿製のスカートから覗く尾も、頭と同様に振られている。

 そんな嬉しそうなセンダンを見ていると、自らの気持ちもどこか賑やかなものになった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 ――古民宿である海桶屋の二百年は、国の歴史と共にあった。

 

 ヒノモト諸島は、太古から現在に至るまで、農業と漁業が主要産業である。

 しかし、歴史の中の一時期において、兄花島はもう一つ特殊な産業を抱えていた。

 その産業は、サービス業ではあるのだが、男性のみを顧客としている。

 有り体に言えば、売春業である。

 

 

 内乱時代の末期である二百年前の事。

 過酷な漁業を終えた船乗達が兄花島に戻ると、まず向かうのは自宅でも酒場でもなく、若い女性を多く抱える売春宿であった。

 気象予想が発達しておらず、海賊も多々出没する当時の漁業は、過度な精神の消耗を伴う。

 船乗達は、売春宿の遊興でその消耗を回復させる事を好み、島もそれに応えようとしたのである。

 ヒノモト風の瀟洒な通りには、多くの売春宿が明々とした提燈を下げて並んでいた。

 その売春宿の一つが海桶屋であった。

 

 売春宿の転機は百年前に訪れた。

 その当時、国は隣国との戦争の最中で、ロビンは軍港として大いに栄えていた。

 だがロビンの隆盛とは対照的に、近代化に伴う漁業の安定化によって、売春業は下火となる。

 幾つもの売春宿が閉店する中、海桶屋はモデルチェンジする事で存続を図った。

 兄花島の風情、ロビンから水路で一時間の地理、そして戦争中という情勢を生かし、

 将校を相手にした、贅沢で絢爛な遊女遊びを行う揚屋として、営業を続けていたのである。

 

 それが続いたのも、戦時中の僅かな期間となる。

 終戦後に揚屋の限界を悟ったヒロの曽祖父が、業務内容を民宿にシフトした事で、

 他の売春宿が全て潰れる中、海桶屋はしぶとく生き残ろうとする。

 有名な観光名所を持たぬ兄花島での営業は楽なものではなかったが、

 何度も塗り直された朱塗りの内装と、提燈の照明によって昔の風情を再現した事により、

 その様な異国情緒を好む者に支持され、海桶屋は細々とその名を残していた――

 

 

 

 

 

 

「……なんだか、外が騒がしくない?」

 センダンが耳を土間の方へ向けた。

 少し前から、歓声にも似た複数の声が聞こえていたのだが、言われてみれば、その声が店に近づいている。

 ヒロはこくりと頷く事で返事をし、土間へと降りる。

 暖簾を両手で搔き分けた所に……歓声の震源はあった。

 

 

 

「やあやあ、ここが民宿と聞いて来たのだが」

 暖簾の先には男がいた。

 鮮やかな亜麻色の長髪で、端正な顔立ちの長身男性だ。

 容姿に相応しい背筋の伸びた佇まいで、ヒロに怯える事なく笑顔で尋ねてくる。

 心なしか、彼の純白の歯が輝いているようにさえ見えた。

 彼の背後では四名の女性が彼を取り巻いている。

 歓声は、どうやら彼女達によるもののようだ。

 良く見れば、そのうちの二人は先程逃げていった二人組だった。

 

 

「あ……はい、いらっしゃいませ!」

 男性の言葉から飛び入りの客だと察し、慌てて出迎えの挨拶をかわす。

「予約はしていないのだが、部屋に空きはあるだろうか?」

「もちろんございます。どうぞこちらへ」

「やあやあ、ありがとう」

 男性は暖簾を潜って土間に足を踏み入れた。

 背後の女性達もそれに続くのかと、ヒロは暫し見守るが、女性達は男性の後姿を見つめるだけで店の中に入っては来ない。

 正確には、後を追いかけようという素振りは見せるのだが、どこか怯えているようで、本当に追いかける事はないのである。

 思い至る理由は、一つだけだ。

 

(また怖がられてる……)

 ヒロは深く嘆息した。

 

 

 

 

 

 

「ようこそおいで下さいました……」

 いつの間にか、フロントに回っていたセンダンが男性を迎える。

 だが、どこか元気がない。

 何かを考え込んでいるようにも見えた。

 

 男性は宿泊者カードへの記入を終えて、カードをセンダンに差し出した。

 それを受け取ったセンダンは暫し固まり、カードと男性を交互に見やる。

 

 

 

「あ~っ、やっぱり!」

 突然の大声。

「い、いきなり大声を出してどうしたんですか!?」

 ヒロは慌ててセンダンを窘める。

 だが、当の男性は動じる事もなく、来た時と同じ笑みを携えていた。

 

 

「ヒロ君、ヒロ君! このお客様、どこかで見た事があると思ってたけれど、ナポリさんよ!」

「ナポリさん?」

「知らないの!? ロビンで大人気の精霊歌歌手、ナポリ・フィアンマさんよ!

 キャー、初めて有名人に会っちゃった! ねっ、ナポリさんですよね?」

 目を輝かせながら男性に聞く。

 

「人気なのかは分からないが、いかにも精霊歌歌手のナポリだ」

 ナポリと名乗った男性は、目を細めて頷いた。

 同時に、また彼の歯が輝く。

 誰かが照明でも当てているのではないか。

 

「ほらほら! うわー、ナポリさんみたいな有名人に泊まって頂けるなんて!

 あ、失礼しました! どうぞ。どうぞこちらでお寛ぎ下さい!!」

 センダンは大いにはしゃぎながら、ナポリをソファに案内する。

 なんともミーハーなものである。

 

 

「ええと……ナポリさん、外の方々は?」

 ヒロが気になっていた事を尋ねた。

「うん? ああ、路上で出会った女性達だよ。同行者ではない。

 彼女達から、ここに民宿がある事を教えて貰ったのだよ」

「そうでしたか」

 要するに、路上で有名人を見かけて追いかけてきたのである。

 

(音楽あまり興味がないからナポリさんの事は知らなかったけれど、

 皆の反応を見ると、凄く有名な人なんだろうな。

 それにしてもかっこいいや)

 そんな事を考えながら、ソファで寛ぐナポリに見とれる。

 男のヒロでも息を飲む容姿と雰囲気の持ち主だ。

 例え有名人でないとしても、女性達の反応は同じだったかもしれない。

 

 

 

 

「おぉ~またせしました~!」

 フロントに隣接する厨房に一旦下がったセンダンが戻ってきた。

 盆の上に陶器のカップを乗せて運んでいる。

 

「どうぞ、ナポリさん。島の名産物のオレンジで作ったジュースです」

 センダンがソファの前のテーブルにカップを差し出す。

 海桶屋のサービスの一つだった。

「これはありがとう。オレンジは好物なんだ」

 ナポリがカップを手に取った。

 だが、それを口にした彼の眉が、微かに動く。

 

「ふむ……?」

「どうかしましたか?」

 センダンが盆を抱えながら尋ねる。

「……これ、グレープフルーツジュースではないかい?」

「えっ!?」

 センダンが慌ててカップを覗き込んだ。

 遅れてヒロも覗き込む。

 味は分からないものの、カップの中の液体はオレンジジュースにしては色が薄い。

 どうにも、ナポリの言う通りのようである。

 

 

「わ、私ったら!」

「申し訳ありません! センダンさん、すぐに換えを……」

 センダンとヒロが慌てて頭を下げる。

 だが、ナポリは相変わらずの笑顔で、カップを掲げてみせた。

「いやいや、これで構わないよ。グレープジュースも大好物でね」

 また、キラリ。

 

 

((か、かっこいい……))

 胸を打たれる二人であった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「いやあ、これは良い部屋だ。見晴らしは良いし、内装も美しいね」

 二階の客室に案内するなり、ナポリは感嘆の声を漏らして部屋を見回した。

「お褒め頂きありがとうございます。海桶屋自慢の一室なんですよ~。ふふっ!」

 彼の一言に気を良くしたセンダンの頬が緩む。

 

 ナポリを通した部屋は、二階の全四室のうち、西側の部屋である。

 海桶屋の正面でもあるその部屋からは、兄花島を囲うフタナノ海を一望する事が出来る。

 その部屋の内部は当然の事、そこに通じるまでの廊下に至るまで、

 柱や手すりを朱塗りで仕上げた海桶屋の内装は、この民宿の数少ないウリの一つである。

 

 

 

「予約もしていないのに、こんな良い部屋に通して貰って良かったのかい?」

「ええ、今日は他のお客様の予約もありませんので」

 センダンは肩をすくめた。

「そうなのかね。それでは遠慮なく満喫させてもらおう」

「ごゆっくりとお寛ぎ下さい。

 ……ところでナポリさん、一つ伺っても良いです?」

 ナポリの表情を見上げるようにして彼女は言う。

 

「うん、何かな?」

「兄花島には観光で来られたんですか?

 でしたら、お邪魔でなければ私達が案内しましょうか?」

「それはありがたい提案だ」

 ナポリは穏やかに言う。

 だが、彼の首は横に振られた。

 

「それも悪くはないが……今回は遠慮しておこう。

 実は観光で来たわけではないのだよ」

「あら、そうでしたか。ではどなたかを訪ねに来られたのですね」

「いや、実はそういうわけでもなくてね」

 ナポリはそう言うと、部屋の窓を開けた。

 彼の視線は、快晴の空に向けられている。

 その瞳は澄み渡っていた。

 

 

 

「年に一度か二度か、自然が多い所に旅行に出かけるのだよ。

 それ以外の事は調べずにフラリと行くものだから、宿の予約もしていなくてね」

「自然ですか。確かにここは、海沿いで緑も多い所です」

「そうだね。そして、自然が多い所には欠かせないものがあるだろう?」

「欠かせない……あっ!」

 センダンは顎に手を当てて考え込んだが、すぐにポンと両手を合わせる。

「そう、マナだ」

 ナポリが振り返った。

 

「私の仕事の精霊歌がどの様なものか、知っているよね?」

「はい。あらゆる自然を司る精霊達に歌を奉げる事で、

 精霊が放出する万物のエネルギー、マナの分泌量を増加させるのですよね」

「うん、その通りだ。

 そして採取したマナは、照明、調理、移動……

 様々な生活のエネルギーとして、我々は用いている。

 ……ただ、思う所があってね」

「思う所、ですか?」

「うん」

 ナポリが一呼吸置く。

「私は元々、そのエネルギーを生み出す為に精霊歌の歌手になったのではないんだ。

 皆が応援してくれるのは嬉しいけれど、応援して貰う為になったわけでもない」

「はい」

「滅多に姿を現さない精霊達に、日々の暮らしを営める感謝の気持ちを伝えたい。

 それが、私が精霊歌を歌う理由。そしてここに来た理由だ」

「おおっ……」

 感嘆の声が漏れる。

 目の前のナポリが一層格好良く見えた。

 

 

「そして歌う理由はもう一つ」

 だが、ナポリは更に言葉を続けた。

 

 センダンに近づき、体を屈めて視線の高さを合わせると、

 彼は内緒話を打ち明けるように、小さな声で言った。

 

「……私が歌う事が好きだというのが、最大の理由なのだよ」

「それは素敵」

「良かったら君も歌うかね?」

 センダンとナポリは顔を見合わせて、思わず吹き出した。

 一度笑い出すと、楽しくて楽しくて仕方がなく、笑い声は徐々に大きなものになる。

 二人とも、口を大きく開け、歯を見せて笑いだした。

 その笑いは、なかなか止みそうになかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「それでね、良い事思いついたのよ!」

「またですか……」

 

 その日の夕方。

 ヒロはナポリの夕食を作る為に、フロント横の厨房に篭っていた。

 センダンは料理の腕も壊滅的な為に、料理はもっぱらヒロが担当している。

 ヒロが来るまでの数十年、調理室に立ち続けていたのは彼の祖母だった。

 その祖母から一年間みっちりと仕込まれたヒロは、

 民宿レベルではあるが、なんとか及第点と言える位の料理を作れるようにはなっていた。

 

 海桶屋で出される食事は、地域柄、殆どが魚料理である。

 本来は飛び込み客の夕食は保障できないのだが、

 この日は他に客がいない事と、タイミングよくマダイを仕入れる事ができた為に提供ができた。

 マダイの刺身に、鯛めし、潮汁。

 それから、春キャベツを用いた祖母特製の漬物。

 以上がこの日のメニューである。

 宿の食事としてはボリュームに欠けるが、その分リーズナブルだった。

 

 

 

「むー。またってどういう事よ」

 料理をしているヒロの側で、女性が不満げに言う。

 センダンである。

 

「センダンさん、いつも良い事思いつきますけれど、結果は散々じゃないですか」

「散々な事あったかしら?」

「新年に七草粥を出そうと山菜を取りに出かけて、山で迷った事がありましたよね」

「む」

「誕生日のお客様にサプライズでケーキを作ろうとして、失敗して蒸し器を壊した事もありましたし」

「むむ」

「そもそも変な事思いつく事もありましたよね。靴を人肌で温めるとか」

「むむむ」

 反論の余地はなかった。

 

 

 

「……ごめん」

 耳をペタリと閉じながら頭を垂れる。

 珍しく、しおらしい態度だった。

(あ、ありゃ)

 ヒロは内心動揺する。

 失敗しているとはいえ、いずれも厚意からはじまった行動である。

 むしろ、彼女の客を思う気持ちには見習うべき所があった。

 

「あー……違いますよ、違います」

「うう」

 頭を垂れたまま、ヒロを上目遣いで見てくる。

「本当に違います。責めてるわけじゃないですよ」

「……うん」

「ちなみに、今回は何を思いついたんですか?」

「……んっと」

 センダンの耳が少しだけ持ち上がった。

 

「ナポリさんが精霊歌を歌いに来たって話はしたよね」

「はい。さっき聞きました」

「それでもって、ヒロ君はマナの扱いに詳しいよね」

「ええ、まあ」

 ぽりぽりと鼻を掻く。

「だから、ヒロ君の協力があればできると思うのよね。こういう事が」

 そう言うと、センダンはヒロに耳打ちした。

 他に話を聞く人は誰もいないのに、という突っ込みを抑えて、ヒロは彼女の提案を聞く。

 

 

 

「……というわけ。どうかな、どうかな?」

「ううん」

「ねっ、ねっねっ! やってみようよ!」

「ううん」

 提案を聞き終えたヒロは、腕を組んで唸る。

 だが、ポーズだ。

 内心では、彼の答えは九割がた固まっている。

 彼の趣味であるマナ絡みの提案を受けては、断るという選択肢はないに等しかったのである。

 

「……ううん」

 もう一度、ヒロは無意味に唸った。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 夕食後、ヒロの案内を受けたナポリは、一階中央のフロアに座していた。

 そこは、部屋というよりも、フロアという言葉の方が適切なのである。

 板張りの廊下とは異なり、畳こそ敷かれてはいるものの、四本の大柱に囲まれているだけで、そこに壁は無い。

 天井は吹き抜けになっていて、見上げてみれば、二階廊下の朱塗りの手すりが見えた。

 

 

 

 

「やあやあ、見せたいものがあるとは、なんともいたせりつくせりだね」

「ありがとうございます。お楽しみ頂けると良いのですけれど」

 ナポリを案内しているヒロが、少し自信なさげに言う。

 それから、ちらと横目で廊下の隅を見やると、壁の奥からセンダンの突き立てられた親指が見えた。

(ぐー! ばっちぐー!)

(はいはい……)

 しつこい位に、何度も親指を動かしている。

 準備完了の合図である。

 

 

「それでは」

「ああ」

 ナポリの返事を受けたヒロは、両手を打ち鳴らした。

 それに反応して、海桶屋全体が暗闇に包まれる。

 

 海桶屋のみならず、この国の照明は殆どがマナをエネルギーにしている。

 好天の日に空に漂っている光のマナを採取・加工し、照明用機器に埋め込む事で、

 その機器は、マナのエネルギーを効率良く放出し、太陽の如き光を周囲にもたらしてくれる。

 先程までの海桶屋も、そのエネルギーによって日中の様な明るさを保っていた。

 

 その照明が、同時に全て落とされたのである。

 ナポリがその変化に反応して、周囲を見回す。

 だが、消灯から少し遅れて、小さな光がフロアを灯した。

 それまでの明るさには遠く及ばない光。

 それは、フロアを囲うように吊るされた、ほのかな光を生み出す提燈の輝きだった。

 

 

 

「これは……」

「兄花通りの象徴の提燈です。本来は外を灯すのですけれど、今日は中に吊ってみました」

「この赤い輝きは、光ではなく炎のマナだね」

「その通りです」

 ヒロが灯かりの中で微笑む。

 暗闇の中に浮かび上がった彼の表情は、相当に不気味である。

 さすがのナポリも少し怯えたような表情を見せたが、

 幸か不幸か、ヒロは彼のそんな表情を見落とした。

 

 

「……奇麗なものだ」

 ナポリが呟く。

 それはいずれも小さく、か弱い赤色だ。

 だが、そこには確かにマナの灯火がある。

 自然の輝きがある。

 この世界において、尊い輝きがある。

 

「さて、はじめさせて頂きますね」

「ふむ? これを見せたいわけではなかったのかね?」

 ナポリが首を傾げた。

「実はここからが本番です」

「なんと」

 

 

 

 こつり、と足音が聞こえた。

 廊下から誰かが近づいてくる。

 提燈の灯かりの下、狐耳が見えた。

 

「センダン君」

 ナポリが息を呑む。

 

 センダンは、日中に纏っていた木綿地とは異なる服を着ていた。

 絹製の赤い袴に、同じく絹製で白一色の着物。

 足には、綿製の白足袋を履いていた。

 いずれも、ナポリが見た事のない装束である。

 ほのかに甘い香りも漂ってくる。

 センダンの衣装には、香が焚きつけられていた。

 

 

「ヒノモトの伝統衣装なんです。普段は着る事はないんですけれど」

 センダンが恥ずかしそうな様子で、だがそれを吹き飛ばすようにけらけらと笑う。

 神秘的な出で立ちとは異なる、いつも通りの彼女である。

 

 それから、彼女はすっと瞼を閉じた。

 彼女の両腕が、水平になるように持ちあげられる。

 両手の指はそれぞれが意思を持ったように、力強く横に伸びていた。

 衣が擦れあう音が微かに聞こえる。

 

 

「ヒノモトに伝わる、精霊に奉げる舞です。

 私、元々この島の者ではありませんし、未熟ですが」

 センダンの足が、畳の上を擦るようにして動いた。

 

 

 

 

 ――彼女の身がくるりと翻る。

 

 それに遅れて、ポニーテールと両腕の下に広がっている大きな袖がはためいた。

 

 袖が戻るのを待たずに、畳の上を摺り足で動く。

 

 また、回転。

 

 センダンの体が動く度に、何度も袖がはためく。

 

 広げられた両腕が円を描く。

 

 静かな駒のように、彼女は舞う。

 

 何度も、何度も。

 

 センダン・コトノハは舞い続ける。

 

 そこには『動』を感じさせる力強さがあった――

 

 

 

 

「ン~♪」

 センダンが明るい吐息を漏らす。

 

 彼女の瞼は相変わらず開かれていない。

 口もしっかりと閉じられていた。

 だが、闇の中で目を凝らして彼女を見れば、口の端は上向きの弧を描いている。

 笑っているのである。

 

 実の所、彼女の動きは洗練されているという程のものでもない。

 時折、足がもつれかける事もあった。

 その都度、二人に照れ笑いを見せて、彼女は舞い続ける。

 

 実に、楽しそうだった。

 

 

 

 

 

「……やあやあ、これは我慢ができないね」

 不意にナポリが立ち上がった。

「ナポリさん?」

「私もそんなにジッとしていられない性質でね」

 ナポリはそう言うと、ヒロに軽く手を振る。

 その手はすぐに、敬礼のようにナポリの胸に宛がわれた。

 彼の口が開く。

 

 

「精霊よ……」

 口から洩れる声。

 それは、精霊歌だった。

 

 即興なのだろうか、センダンの足取りに合わせて、精霊と自然を称える歌声が流れる。

 低く澄んだ声には、心を掻き立てられるような力があった。

 胸を叩き、脚を揺らしながら、テンポを整えている。

 その音と歌声が作るリズムは強弱が激しい。

 だがそこからは生命を感じる事が出来た。

 

 

 

 

「ナポリさん!」

 センダンが目を開き、だが踊り続けながら歓喜の声を漏らす。

「君はそのままで。私が合わせよう!」

 ナポリが歯を輝かせて笑った。

「やっは~い!」

 センダンも意味の分からない笑い声を上げる。

 その二人の笑みは、はっきりと見る事が出来た。

 

 

「おや……?」

 ナポリが頭上を見上げた。

 

 そうなのである。

 目を凝らさずとも、センダンの笑顔を見てとる事が出来るのである。

 気が付けば、フロアが当初よりも明るくなっていた。

 そこを照らしていたのは、提燈の赤い灯かりだけではない。

 いつの間にか、宙には青い灯かりも浮かび、ぽつぽつと瞬いていた。

 

 

「海から流れてきた、水のマナです」

 二人を見守っていたヒロが説明する。

 

「ナポリさんの歌と、センダンさんの舞で引き寄せられるようにと、

 扉や窓を開けて、マナが入ってこれるようにしていました。

 あとは、センダンさんが纏っているお香です」

「お香?」

「実は、水のマナを引きつけるお香なんですよ。

 流木で作る特別製なんです」

「そうだったのか……」

 ナポリがマナを見上げたままで呟いた。

 

 

 夜のキャンバスには、なおも水のマナが引き寄せられてくる。

 その一つ一つは小さな光だ。

 だが、赤も青も一つではない。

 それらが並び、絡みあう事で、輝きは一層強くなる。

 次第に星空の如き輝きへと変わっていく。

 それは、精霊達が自然を、この星を作った太古より不変の輝き。

 生きる人々を祝福する耀き。

 美しかった。

 ただただ美しい輝きだった。

 

 

 

「……この島のマナは、こうも活気があるのか」

 ナポリが感慨深そうに言う。

「そうでもありませんよ……」

 センダンが呟いた。

 舞う事を止め、ナポリと同じようにマナの輝きに見とれている。

「こんなにたくさんのマナが輝くのを見るの、私達も始めてです。凄い……」

「それは二人のお陰だと思いますよ」

 今度は、ヒロが言った。

 

「確かにお香は焚きましたけれど、何よりも二人のお陰です。

 精霊は、楽しげな舞と歌に惹かれて、より強いマナを産み出すんです。

 二人が楽しそうに舞い踊るお陰ですよ」

「……そうか」

 ナポリがまだ見上げたままで言う。

 

「そういえば、そうだったな。

 精霊歌を学び始めた頃、最初に師から教わった事だ」

 彼はそう言って瞼を閉じた。

 何かを思い出しているのか、暫しの間、そのままでいる。

 だがすぐに瞼を開くと、彼はヒロとセンダンに向かって両手を広げた。

 

 

 

 

「さあ、もう一曲だ! 今度はもっとハイテンポなものにしよう。

 ヒロ君も、一緒に舞い踊ろうじゃないか!!」

 ナポリが勢い良く指を鳴らす。

「い、いいんですか?」

「いいじゃない! さっ、ヒロ君!」

「わ、わわっ!」

 センダンがヒロに手を差し伸べた。

 それを握ったヒロは、たたらを踏みながら立ち上がる。

 だが、そんな彼の表情もセンダンやナポリと同様に、楽しげであった。

 

 

 マナの輝く夜は、まだ始まったばかりである。


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