目が覚めたらいつも通りの天井だった。
むくりと上体だけをベッドから起こして、寝ぼけ眼で辺りを見渡す。見慣れた壁紙、箪笥、殆どゲーム用になった中古のテレビ。そのテレビの前に置かれたゲーム機と、まるで投げ捨てられたようなコントローラーがある。
「あぁそっか、寝る前にやったゲーム……最後の所で躓いたんだっけ……」
自分の意思とは関係なく勝手に出てくる欠伸をかみ殺して、俺は腰の辺りに纏わりつく掛け布団を払いのけてベッドから降りた。箪笥の前まで行き、三段目からシャツと靴下を取り出す。壁に掛かった黒一色の面白味も何も無い学ランを流し見、
――今日の朝飯はなんだろうなぁ。
気楽にぼけっと胸中で呟いて。
「おはよー?」
「……へ?」
目が覚めた。
「起きたかねぇ? 今日は初日なんだから、さぁ、さっさとぱぱっと着替えて、ちゃちゃっと顔洗って、下に降りるよ?」
視界一杯に映りこんだ女の人は、そう言ってからにんまりと笑った。
「おまえさんが私と一緒に着替えたいってのなら、そりゃあゆっくりとして貰っていいけどねぇ?」
「ちょッ……」
目の前の顔をよけるようにして上体を慌てて起こし、室内に目を走らせる。そこはさっきまで在った見慣れた自分の部屋なんかじゃなく、昨日案内された従業員用の部屋だった。
「はいはい、起きたらこれに着替えて部屋から出るこったさ? 顔は一階の厨房の流しで洗うんだよ? あぁ、ちゃんと歯ブラシもおまえさんの用意してあるから? 黒いのさ? 赤いのは私のだから、使うんなら丁寧に使いなよ?」
「使いません」
「寝ぼけてました、って言やあ誰もおまえさんの可笑しな性癖に文句もつけやしないけどねぇ?」
「そんな性癖ないしッ」
俺は目の前の女性――タリサさんが手に持っている衣類を奪うようにして手に取り、ベッドから転がり出た。昨日から着っぱなしの服の、シャツのボタンに指をかけて、それから気づいた。
「いや、なんでそんなじっと見るし」
「うん、やっぱ脱いだ服のポケットにチップをねじ込まなけりゃいけないかとさ?」
「ストリップショウじゃねぇ」
「なるほど……? じゃあ舞台の踊り子にも触っていいわけだ?」
「寝起きからなんでこんなハードモードッ」
「ようし、イージーモードならこっちが脱ぐよ?」
「なんで」
○ ○ ○
「おお、起きたか坊主」
「おはようございます、バズさん」
タリサを一時的に部屋から追い出し、渡された服に着替えて顔を洗い歯も磨いた男は、着慣れぬ異邦の服に言葉にならない気恥ずかしさを覚えながら、これから自身の職場となる一階のフロアに足を向けた。
フロアでは既に、この宿屋兼酒場の主、バズが木製のテーブルを磨いている。丈夫そうなテーブルも、バズが寄りかかっていると今にも割れてしまいそうに思えるのは何故だろうか。
自分も仕事をするべきだと思った男は、床にある布のかけられたバケツを見つけるとそれに近づき、布を手にとって適度にぬらして絞った。
――冷たい。
顔を洗ったときにも男はそう思った。窓から見える風景に目を移しても、どこかボケた様な日の光が町並みを照らすだけで、今が何時ごろなのか判然としない。ただ水がこうも冷たいのだから、今は、或いは常に、温暖な季節ではなく、かなり早い時間だという事だけは男にも理解できた。
「こっちの方はまだですか?」
「あぁ、俺はまだこっち側しかやってねぇ。坊主はそっちをやってくれ」
「はい」
男がテーブルを二つ磨き上げ、三つ目のテーブルに取り掛かろうとしていると、つばの狭い帽子を被ったタリサがメモを片手に厨房から出てきて、バズに声をかけてきた。
「叔父さん、鶏肉の在庫がちょっと不安なんだけど、どうするね?」
「豚と牛がまだあったろ?」
「んー……じゃあ今日はそっちで攻めてみるかね?」
「おう。オレンジとブドウはまだあったか?」
「うん? あんだけありゃ今日にも二樽分は仕込めるさね?」
しっかりと仕事はしているらしい。男がじっと自分を見ている事を分かっているのか、タリサは厨房に戻る間際、男へとニンマリ笑って見せた。そんな姿に、バズは顎を撫でながら男を睨む。
いや、当人に睨んだと言う気は無いだろう。だが男には睨んだようにしか見えないのだから、身を縮こませるには十分だ。
「んー……随分気に入られたみたいだなぁ」
「いいように遊ばれてるんですが。この短い間に」
「まぁ、坊主のその細腕じゃあ、なんも出来ないだろうが……」
そんなバズの言葉に、男は思っていたことを口にした。
「いくらなんでも、男と女が一緒ってのはどうなんです?」
「どうなんですも何も……坊主、おまえタリサをどうにか出来るのか?」
「無理です」
「だろう?」
バズはさも当然と返すが、それが兄の子を預かる人間として正しい姿であるかと言えば否だ。だから男の口はついつい滑る。
「でも倫理的な問題がある訳で」
「金銭的に見てくれ。俺の店はそんな広かねぇんだぜ?」
「あー……」
「まぁ坊主がタリサをどうにか出来ても、責任取るってんなら、俺はかまわねぇ。兄貴も花嫁修行と婿探しでこっちに来させたからな。……ただ」
バズはそこで言葉を区切って、自身の右手を握り締め、それを左手で包み込んだ。何やら威圧的なオーラと共に痛覚を刺激するような音が男の耳に入ってくる。
「責任とれねぇってんなら……分かるな?」
「……はい」
拳が飛んでくるのだろう。そうなったら自身はどこまで飛ぶのだろう。相当吹っ飛ばされるのは確かだ。それも一発二発のパンチで済むかどうか、怪しい物である。
男は絶対に手を出す事はしまいと心に決め、磨きかけのテーブルに意識を戻した。
と、階段から数人の足音が聞こえて来る。ちらりと見ると、そこには昨日酒場に居た四人組の冒険者達が居た。彼らはバズと、そして新しい従業員である男に手を上げ、笑いかけてくる。
「あぁ、やっぱマスターに言いくるめられて仕事する事になったのかよ」
「言いくるめってか、脅してじゃないのか?」
「バズさん、やめてやれよ? こいつにも選ぶ権利ってのあるだろ」
「うるせぇ。なんとも平和的に雇ったてんだ」
そりゃそうか、などと笑いながら、男達は朝の早くだと言うのに、既に鎧を着こんで磨かれたテーブルに腰を下ろし注文を始める。
「俺コーヒー」
「オレンジジュース」
「大和の濁り茶」
「俺は……たまにはエールでいいか」
「おう」
冒険者達の注文を聞いて、バズは厨房に入っていく。タリサに伝えに行ったのだろう。男はテーブルを磨き終え、そのままカウンターへと近づき、今度はその辺りを磨き始めた。ただ、意識は冒険者に向いたままだ。
「さて……じゃあ今日の仕事の確認だな」
四人組の一人、銀色のプレートアーマーを着込んだ男が懐から紙を取り出し、他の三人に目配せした。
「ギルドからの仕事だが、どうにも北部迷宮の下層辺りで見慣れないモンスターがでたらしい。多分ミックスだろうな」
「あそこは類似系のモンスター多いからなぁ。で、それは捕獲か? それとも証拠だけでいいのか?」
「あー……待て。書いてあるな。捕獲が望ましいそうだ。死体だと報酬が八割まで下がるとさ」
「なら、捕獲の方向で頑張らんとな」
「俺達以外には他の誰がこの仕事貰ってたんだ?」
「確か……」
冒険者達の、それもまだ若く見える彼らの交わす言葉に、男は畏敬の念を抱いた。見たところ二十になったばかりの、男より少しばかり年上でしかない彼らが、あぁも真面目に仕事に取り組んでいる。それもベテランのような雰囲気を持って、だ。
ミスをすれば死に近づくと言う事をある程度理解はしても、実感できない男には、彼らのその仕事に対する姿勢が眩しく見えた。何せ自身の世界のあれくらいの年頃の連中なら、適当に日々を過ごす者が多いのだから。
そして彼らは、バズの持ってきた飲み物をそれぞれ口にして、軽く冗談を交わしてから腰を上げ、カウンターまでやって来た。
「坊主、仕事だ」
「あー……はい」
メニューを片手に持って、伝票を受け取り計算する。手早くそれをやって見せると、冒険者達は昨日同様の笑顔を見せた。
「いいのを雇ったよな、マスター」
「そう思うなら長く贔屓にしろよ、おまえら」
「おうよ」
バズは彼らの出した数枚の硬貨を受け取り、自然な仕草で拳を突き出した。それに、リーダー格の男が自身の拳をぶつける。
「帰ってきたら美味いの頼む!」
「食える口があるならな」
男臭い笑みを浮かべ、彼らは店から出て行った。男は彼らの背中を見送ってから、隣にいるバズに眉を顰めて、
「文字読めるんですよね?」
「あん? 当たり前だろうが。冒険者が文字読めないでどうする」
「いやでも、計算できないですよね?」
「そりゃあ坊主、算術なんざ得物振り回すのに役立たねぇだろ」
「え、えぇー……」
逆ではないのか。男は自身の世界に居た大陸の英雄の逸話を思い出しながら、眉間を揉んだ。
大陸において初めて統一を成し遂げた英傑の死後、巨大なカリスマを失った覇者の国は麻のように乱れた。その混乱の中名乗りをあげ、歴史に名を残した英雄達が居る。
二人の農夫、犯罪者上がりの刺青者、滅ぼされた国の貴族。しがない下級役人。
そして、その力山を抜き、その気天を覆う、と謳われた英雄。
彼は戦略にも外交にも特に力を入れず、ただ戦場の中でその力を発揮し、従う者を率い逆らう者を潰し、文字通り埋めた。そんな彼の言った言葉で、有名な言葉がある。
『文字などは名前を書ける程度でいい』
力、武の信奉者らしい言葉である。であるから、当然冒険者もそういった傾向が強いのだと男は思っていたのだが。
「金なんてな、重さがちょっと違うだけで半分の価値になったり、通用しない国があったりで面倒だろ? その辺の狩人ともなりゃあよ、あいつら仕留めた獲物の毛皮と肉と骨で物々交換したりもするから、金ってモンを使った事のない奴だっているんだぜ」
軽く息を吐いて、バズは続ける。
「それに俺も冒険者時代散々思ったがよ、できる奴に任せりゃいいんだ、計算なんてな。武器の手入れやビール一杯、肉一つの計算ならまだしも、てめぇが走りきった分を金額にして見ちまうと、色々つぶれそうになるぜ、ありゃあ」
バスはその金額とやらを見たのだろう。いや、見た筈だ。この店を用意する時、この筋肉に覆われた大男は自身の現役を通しての財を見てしまったのだろう。
その時、この男らしいからりとした人物がどのような相を浮かべたかなど、男は知りたくなかった。
しかし、それはそれ、これはこれ。疑問は疑問なのだ。
「じゃ、じゃあ、なんで文字は読めるんです?」
「あとで条件が違うとか、契約ではこうなってた、なんて言われねぇ為だ」
「あぁー」
それで男は納得した。確かに先ほどの冒険者達も何度も紙に目を通し、お互いに見落としはないかと確認しあっていたのだから。ただ、納得した男の相を見たバズは、一度厨房に目を向けてから、男に聞こえる程度の呟きを発した。
「それから、読めるだけの奴と、読み書きできる奴が居る」
「なんとなく分かります」
読めるが書けない、というのは男の世界でも良くあった事だ。殊に男の居た日本は文字に関しては他国より余程酷い。文法だって世界的に見れば特殊なのである。ただ、どうしてバズが声を落としているのか、それが男には分からない。
「が、まぁおかしな事に男の冒険者は読み書きできる奴が多いんだ……こりゃ男の冒険者だけだが、良い娼館の女ってのはよ、何度か手紙でやり取りして気に入ってもらえないとやれないってルールがあってな」
「……」
そりゃ文字も覚えるわけである。さぞ必死に覚える事だろう。
「叔父さーん?」
「お、おう!」
厨房から聞こえてくるタリサの声に、バズはギョッとした。応じた声にも何か虚勢が見える。
「その子を染めるのは私の仕事だから、叔父さんは叔父さんの仕事しておくれよー?」
「お、おう……?」
何やら疑うような視線を向けてくるバズに背を向けて、男はカウンターを磨く仕事に戻ることにした。
「……責任取れなかったら、ぶっ飛ばすぞ?」
「いや、大丈夫ですって」
男の、異なる世界に来て初めての仕事は、店主の拳を気にして他の事が疎かになる、そんな幕開けだった。
○ ○ ○
迷宮の、ダンジョンの、深い深いそこで、底で、影さえも無い未踏の森閑の中、何かが蠢く。それは球体にも見え、六面体にも見え、人にも見え、獣にも見えた。
剣の様な鋭さがあり、盾の様な堅さがあり、息吹の様な揺らめきがあり、終の様な玲瓏たる静寂があった。その何かの中に、文字がある。ただの四文字だ。見慣れた、どこかで見ても特に気にする様なモノではない。
それはただ、漢字四文字で書かれただけの文字だった。ただの、そう、それだけのモノだ。
これにて序章終了という事で。