朝の早くから開いている、いつも使う店から出て、彼女――ジュディアは道を走っていく馬車を見送った。土煙が上がり、馬の蹄の音と共に車輪の音は遠くなっていく。
荷物のなくなった体は軽く、ジュディアは背を伸ばして腰を叩いた。
少しばかり空腹を感じ、頭上を仰いで空を見てみる。そこには常通り輝く太陽が在り、位置からすれば
「あぁ、もう昼前くらい?」
「だよー……はらへったぁ」
大人しくついてきた仲間、エリィの、舌足らずな口調にジュディアはにやりと笑い頷く。こういった相の方が似合うのが、エリィだ。
「んじゃ、近くのカフェにでも入りましょうか?」
「カフェー? カフェってあんまりがっつり行けないじゃんか」
「がっつりいくな……あぁ、いや、今日は仕事ないし、がっつりでいいのよね」
冒険者らしくない、と言われるジュディアでも、冒険者として守っている事はある。そのうちの一つが、仕事の前は腹に物を詰めない、だ。一撃も貰うつもりはないが、もし腹に一発貰えば目も当てられない。故に普段は軽く済ませるのだが、今日は――いや、最近は仕事の無い日ばかりだ。 こんな時くらいは、確り食べても良いだろうと思うが――
「でもねぇ……やっぱりカフェ」
「えぇー……軽い上に高いって、カフェ」
「あんたも乙女でしょうが。偶にはそーゆーの食べなさい」
「んー……」
ぼりぼりと頭を掻きながら、背に魔法剣を携えたエリィは、仕方ない、といった相で首を縦に振った。
「まぁ、詰め込めるなら、いいか」
一応の納得を見せたエリィを一瞥して、ジュディアは周りを見回す。
このくらいの時間ともなると、道を歩く人々は皆しっかりとした物だ。欠伸をしている者など無く、荷物や道具を手に歩き、鎧をまとって迷宮へと向かっていく者達もちらほらと見える。
そしてジュディアは、近場にあった適当な、そこそこ洒落たカフェへと入り、空いていた席に座って女給を呼んだ。
「モーニングセット二つと……」
「肉があればそれ」
割り込んできたエリィの言葉に、呼ばれた女給は仕事用の笑みで応じる。
「それでしたら、合わせ肉のハンバーグがありますが?」
「……ん、じゃそれで」
「はい、以上で?」
「うん、それで」
頷き、去っていく女給の背を見ながら、ジュディアはテーブルに置かれていたメニューを手にとって、特に見るでもなく、なんとなくぼうっと眺めた。
――別にレベルの低い接客って訳でもないんだろうけれど。
けれど、しかし。明らかに下だと思ってしまう。自身の冒険者としての拠点、『魔王の翼』亭の、メイド二人に比べて、だ。
明らかに比べる対象が間違っている事は、ジュディアも理解しているのだが、それでも同じ様な職種につく存在を比較してしまうのは、仕方のない事であった。
「げ、やっぱ高いぞこれ」
自身の正面で、同じくメニューを手にしたエリィが、目を見開いてあげた声に、ジュディアは溜息をついて反論しようとしたが、
「あ、マジで高い」
メニューの上を走った目に入ってきた数字に、思わず同意してしまった。
「……あぁもう、仕方ない。頼んだ後だし、良いわよ」
「……そうか?」
「そうよ」
何か探る様な目で自身を見るエリィに、ジュディアは目を細めて指を突きつけた。
「何?」
「んー……」
その目同様、鋭い語気にもさして怯まず、エリィは真っ直ぐにジュディアを見たまま続けた。
「さっきの、あれ金だろ?」
「……えぇ、そうね」
先程、ジュディア達が出た店は、ヴァスゲルド中央区にある荷物の集合場所である。
中央区に届けられる一般的な荷物の全ては一度ここに預けられるのだが、特別運搬料金が支払われた荷物だけは更にそれぞれ記された住所まで運ばれる。
それを取りに行く事も彼女達には稀にあるが、今日の用事はそれと逆だ。
荷物を取りに行ったのではない。ジュディアの手には、バズの店を出た時に持っていた荷物は無いのだから、それを運んで貰いに行ったのだ。
「……仕送りくらい、普通でしょ」
「うん、まぁ、そうだけど」
エリィは、ジュディアが貧しい村の生まれだと知っている。水のみ百姓の娘だとも、知っている。かつてそれを心の中でせせら笑っていた黒い部分があったのも、どうしようもない事実だ。
だが、接し方が変われば感じ方も考え方も変わってしまう。今のエリィは、それを笑おうとも蔑もうとも思わない。人の心と言うのは、ある意味で簡単で単純だ。
「この店の分、出そうか?」
「お嬢様、それはどういう意味かしら?」
だからこそ、簡単にやってしまう。大きなミスを。
「馬鹿しようと笑おうと、そんなのあんた達の勝手だけど、安い同情はやめてくれる?」
冷たい声で正面のエリィを睨むジュディアの相は、全てを拒絶していた。触れるなと、入るなと鋭く細められた目が如実に語っていた。
「ご、ごめん……」
俯き、体を縮こませるエリィの姿に、ジュディアは息を大きく吐いて目を閉じ、瞼の上から目を揉んだ。そして、目を開いて肩から力を抜き、相を常の物に戻した。
「……謝らないわよ。でも、言い過ぎたかもね」
もう一度、何もするでもなくメニューに目を走らせ、ジュディアは視界の端でちらりとエリィを見た。叱られた大型犬の様なその姿が、黒い感情を未だ腹の底から払拭できない自身を馬鹿馬鹿しく思わせる。
ジュディアはまだ注文は届かないのかと小さく舌打ちし、その舌打ちの音でエリィの肩が小さく跳ねたのを見て、再び溜息を零した。
「決まった日に送らないとね」
目を上げたエリィに、ジュディアはモンスターにも果敢に切って掛かる人間が、どうして少女一人の言葉にそうも怯えるのだと思いながら、口を動かし続けた。
「あいつら、こっちまで来るのよ」
そのジュディアの言葉に、エリィは目を見開いた。
かつて、一度。ジュディアの収入が安定しなかった頃、仕送りが滞った事があった。彼女がまだゴミ漁り時代の事だ。一日二日、一週間程度大丈夫だろうと考えていたのだが、痩せこけた貧相な父親は、村から中央区までやってきて、催促したのだ。早く金を出せ、と。
なんだそれは、と目を見開いたままのエリィに、ジュディアは笑った。笑うしかない。世界はこうも不平等だ、と。思いは声にならず、ジュディアは首を横に振りながら続けた。
「仕送りは確りする、って言うのが、私が村を出る時の約束でね。しかもあいつ、私が貧相な安鎧を着てたもんだから、娼婦をやってるんじゃないのかって目を剥いて怒り出してさ。普通娘にそれをやれって言う?」
けらけらと笑うジュディアの口から零れる声は、何か淀んだ死水にさえ似て、エリィはまた目を伏せた。そして、口を開いた。開くしかなかった。
「私、お嬢様だからその辺分からない」
すねた様な声で、何かを誘発させる様な声だ。
ジュディアは耳に届いたその言葉に、一瞬全ての相を失い。また笑った。
「あんたに気遣われるとか、今の私、相当酷いわね」
ぶつけても良いとエリィは言外で語ったのだろう。甘えろと言われたが、ジュディアはそれに甘えられるほど幼くは無い。稚拙過ぎて、素直すぎて、ジュディアは笑ったのだ。
それでも、それを嬉しく感じた自身が居た事を、ジュディアは無視できない。
「あんただって、何一つ不自由の無いお嬢様の生活捨ててここに来たんでしょう? あんま、いつまでもそんな顔してるんじゃないわよ」
「う、うるせぇーなぁ」
顔を伏せたまま、目だけを上げて睨むエリィの姿が、ジュディアにはなんとも可愛く思えた。あぁ、と胸中で呟く。
――こいつが男だったら、私の好みに大分近いかもしれない。
馬鹿で、単純で、脳筋で、どこか抜けたところがあるが、性格は腐っていない。単純だが素直で、馬鹿であっても愚かではない。実家は名家の様であるし、体つきも少女として見ればマイナス点に近いが、異性として見れば魅力的だ。
ジュディアはエリィを遠慮なくじろじろと見つめた後、大きく頷いた。
「ねぇ、あんたを男に出来るようなアイテム、迷宮にあるかしら?」
「いきなりなんで?」
「あんたもその方が幸せじゃない?」
「やだよ!」
女給が注文した物を持ってくるまで、二人は話し続けた。今までの不足分を補うかのように。
○ ○ ○
「さて、では参りましょうか」
「……」
いつも通り、昼頃になると暇になった店内で、カウンターを挟んで男一人と女達四人が向かい合っていた。男、エリザヴェータ、少女、そして、ミレットとウィルナである。
バズは前に買出ししたばかりだと言うのに、買出しに出ると行って出かけ、タリサは厨房に置かれた小さなテーブルに頬杖をついて座り、彼と彼女達を楽しげに眺めていた。
「何か問題がありますか? 前は姉さんに譲ったのです。今回は私だと思うのですが?」
「……」
常通り、表情筋など元々ないといわんばかりの無表情で口を動かすミレットと、こちらも同じく、一切表情を動かさないウィルナが見詰め合っていた。傍目にはそう見えるだろう。傍目には。
が、男からすれば、二人の様子が危険領域一歩前だと嫌でも理解できた。
――なんでこうなった。
と、額に手を当てて天を仰いだ。男の視界に映るのは木造の天井と、吊り下げられたランプだけだ。そんな男と、隣に立つエリザヴェータ、少女を置いてけ堀で、ミレットとウィルナ二人は、会話、なのだろうそれを止めない。
「前は前、と? 姉さん、なんという事を言うのでしょう。妹に、常に、耐えろ等と……姉さんはなと残酷な女性なのでしょう、ねぇ旦那様?」
「……」
「俺に振るな」
言葉を区切り、同時に自身を見つめてきた二人に、男は一歩下がって距離を取った。巻き込まれるのは御免だからである。
そんな彼に、助け舟が出された。隣に立っていたフードを被った少女、エリザヴェータだ。
「ふむ……お二人の言い分がなんであるのか、ウィルナさんの意図するところを感じられない私達には分からないのだけれども、時間は有限だと私は思うんだ。どうだろう、そろそろ結論を出さないかい?」
肩をすくめて言い放つ、この店で一番小柄な少女の言葉に、ミレットとウィルナはなるほどと頷き、男は、やっとか、と安堵の溜息を零した。
暇になったら図書館に行く。
と決めてはいた。暇になったのだから、行けば良い。何かそれまでに壊れた少女は、エリザヴェータの軽い拳骨で修理されたのだし、さぁ行くかと皆が足を動かすと、ミレットとウィルナが当たり前の様について来たのだ。それを止めたのは、タリサである。
「いや、私一人で店を見ろってのは、流石に無理さね?」
当然の言葉である。ある冒険者達を気遣い、店から出たバズ以外、残っているのは男とメイド二人とタリサだけだ。その四人から三人も出てしまえば、流石に暇な店でも、急な来客に対応出来ない。
さて、ではどうするかと言う事になったのだが、男はまず決定である。男がエリザヴェータと少女、この三人で出る事は約束されていた事だ。となれば、残るのはミレットとウィルナ、どちらかだが。
「姉さん」
「……」
二人とも自身が、と譲らなかった。勿論、ついて行く事を、だ。
男は未だ見つめあう、と言うよりは、男の目には睨みあう様にしか見えない二人に向かって、溜息混じりの声をかけた。
「ウィルナ」
呼ばれたウィルナは楚々と男の傍に寄ろうとし、呼ばれなかったミレットは黙って男を見つめる。しかし、寄ってこようとしたウィルナに、男は手のひらを見せてその場に留めた。
「今回はお前が残ってくれ」
黙って男を見ていたミレットが楚々と男の背後に立ち、ウィルナは男を見つめたまま動かない。「早くにこうしていれば良かったんじゃないのかい?」
「……言うなよ」
分かっていても、今現在感じている居心地の悪さを経験したくなかった男からすれば、拗れない限り自身が前に出たくはなかったのだ。
空気を読む事をまず大前提として生活してきた男である。場が悪くなる様な空気を、自分から作りたくは無かったのだ。結局そうなるだろうと諦めてはいても、可能な限りは。
そして、店を出ようとする彼らの目に、階段からゆっくりと降りてくる冒険者達が見えた。
「あ、おはようございます」
「……おう、おはよう坊主……と、エリザヴェータ達とミレットさんも、おはようだな」
「おはよう御座います」
「どうも」
男の背後で優雅に一礼するミレットと、男の隣で軽く頭を下げるエリザヴェータ、そしておずおずと頭を下げる少女に、ヒューム達はらしかぬ、おずおずとした仕草で近寄ってくる。
いや、その中でも一人、ブレイストだけは、エリザヴェータを目にせぬようにそっぽ向いていたが。
とにかく、男の傍まで来た彼らは、ゆっくりと周囲を見回し、
「……ば、バズさんは?」
「買出しに出かけましたよ」
「……買出しって、前に行ったよな?」
「はい……まぁ、そういう事みたいです」
バズとエリザヴェータの会話は、男の隣でなされたのだから、当然男の耳にもはいっている。つまり、バズの買出しはただの気遣いだ。もっとも、その気遣いはヒューム達にとって更に痛い一撃にすぎない。
「……うわぁ……餓鬼か、俺達は」
「まじで会わせる顔ねーなぁー……これ」
しまった、と言った顔のヒュームの隣で、ディスタとベルージが肩を落として呟き、ブレイストは無言のまま天を仰いでいた。
自分達の感情が落ち着くのを待ってから、意を決して降りてきたのだろう。怒鳴られてもいいだけの覚悟で降りてきた筈の彼らに、しかしバズは気遣った。
それが、ヒューム達を更に惨めな思いにさせてしまったらしい。。
完全に落ち込んでしまった彼らに、敢えて声をかけず男達は素通りしていく。この場合、これ以上気遣う方が失礼で、滅入らせてしまうからだ。
店を出て、扉が閉まる音を耳にしてから、少女が一度振り返った。
「……大丈夫、でしょうか?」
「大丈夫だよ。私達が心配できる様な、柔な人達じゃない」
エリザヴェータの言葉に、少女は小さく頷いた。
そんな二人の様子をなんとなく眺めた後、男は肩を落として空を仰いだ。
――あぁ、きつい。
陽の光は肌を焼く様で、碌に舗装されて居ない路は相も変わらず歩くたびに嫌気がさす。広い場所は落ち着かず、たった一人だけの男は、いつも外に出る度疎外感を覚えていたが、ここ最近はそれが特に酷い。
それでも、向かう先は図書館、静かな、狭く暗い場所である。男は気を取り直して歩き出し――ふと周囲の音のなさに気付いた。見慣れた道を視界に映すと、そこには唖然とした人々が居た。
「あ」
背後から聞こえた小さな呟きが、やけに大きく聞こえたのは果たして気のせいだろうか。聞きなれない、恐らく声の主であろう少女に視線を向けるため振り返ると、案の定そこには小さく口をあけたままの少女が居た。男に視線を向けられた少女の目は、一点を見つめている。
男の後ろに影が如く控えている麗人のメイド、ミレットだ。
「あぁもう、出る度これかよ……ミレット、やっぱり戻れ」
「申し訳ありませんが、その命令だけは承諾しかねます、旦那様」
呻く男と、手を前に組んで一礼する女。その会話にようやっと我に返ったのだろう。少女が小さく口を開いた。
「あの……」
「ん?」
男が返事をすると、少女はエリザヴェータの背後に隠れてしまった。これから図書館まで一緒に歩き、そこでも同じ空間にいる予定なのだが、これで大丈夫かと思う男をよそに、少女はエリザヴェータの背に隠れたまま、
「あの……フードを……ミレットさんに」
「……あぁッ」
納得、と頷く男の声の大きさに、首をすくめる少女へ男は慌てて頭を下げた。
「ご、ごめん……じゃなかった、すいません」
「あの、いえ……その、いつも通りの喋り方で」
「あ、うん……じゃあ、そうする」
社交辞令的な物が多く含まれた会話の後、男は通りに目を走らせながらミレットに向かって口を開いた。
「フードだ。お前もエリザヴェータみたいに」
「お断りいたします」
「……じゃあ、命令だ」
男の有無を言わせぬそれに、ミレットは自身の胸に手を当てて応じた。
「旦那様、私はメイドで御座います。フードなど被れば、それはもうメイドの皮を被ったフードで御座います。」
「何がそこまでフードを大きな存在にさせたんだ」
「何よりも旦那様、旦那様もご愛用のDVDなどでもコスチュームプレイ系の物でコスチュームを脱がしに掛かる男優を旦那様はどう思われますか」
「お前も男優も死ね。特にそんな駄目男優死ね。それお前ただの裸のねーちゃんじゃねぇか。コスチュームってのは脱がしちゃ駄目だろ。ナースならキャップ、バニーならタイツとウサギ耳カチューシャ、メイドならドレスとヘッドドレスは最低残していやそうじゃなくて、なんでこの面子でそんな例え出した」
と、言い終えてから男は、しまった、と眉を顰めた。どう考えても若い女性達の前ですべき話ではない。DVD、などと言ってもエリザヴェータと少女にはとんと分からぬ言葉である。あるのだろうが……男がそろりと少女二人を見ると、
「そんなにんまりとした口で俺を見るな。だからといってそんな距離を取ろうとするな」
そういった物に敏感な年頃だ。分からないものがあれど、なんとなく理解できたのだろう。エリザヴェータはフードから見える口元をにやりと歪ませ、少女は男から更に距離をとって警戒心むき出しの相で腰を落としてしまっている。
――あぁ、くそ。
舌打ちしながら、男は少女達から目を離して周囲を見回す。どこかに目的のものが在った筈だと目を動かす男の視界には、ミレットを見て呆然と立ち尽くす人々だけが入ってくる。いや……そんな棒立ちの人々の中、やけに平凡な、まったく特徴の無い中年男性が、慌てて去る姿も見えたが、男は特に気にしなかった。
何かを探す男の耳を、玲瓏な声が打つ。
「猫耳フードや猫耳カチューシャなら起源的にいざ知らず、ただのフードなどメイドとして断固拒否する所存に御座います」
「お前の価値観は本当に分からん」
内容は非常に馬鹿げていたが、その分声の美しさは尚際立つ。
と、きょろきょろと動かしていた目が目的の物を見つけた。男の目に映るのは、ドレスが描かれた古ぼけた看板である。男はウィルナにしたように、ミレットに手のひらを見せた。
「そこで待ってろ、すぐ戻ってくる」
猛ダッシュでその目的の場所――店に走りより、勢い良く扉を開けて店内に転がり込んだ。広くも無い店内は静まり返っており、客も全くいない。カウンターでこちらを唖然と見つめてくる中年の店主に、男は早口で、一秒でも惜しむが如く問うた。
「フードつきのコートとかありますか?」
「……ん、ん? あぁ、あんちゃんのかい? じゃあ、それなんてどうだ?」
突如転がり込んできた客に戸惑い気味な店主の、その指差した先にあるコートを碌に確かめもせず、男は無造作に掴み、ポケットから取り出した数枚の硬貨と共にカウンターに置いた。
「これで足りますか?」
「あ、あぁ、多分十分だろうが……」
「じゃあ、もし足りなかったら魔王の翼亭まで来てください、足りなかった分払いますからッ」
やはり、これも早口に言い放ち、男は来た時同様勢い良く扉を開けて店から去って行った。
後に残されたのは中年の店主と、カウンターに置かれた硬貨である。店主は自身の前、カウンターにある硬貨の枚数を見て、
「いや……これ多分多いぞ?」
ぼそりと呟いた。
男が息を切らして店から出ると、ミレットが一礼して男を迎えた。立っている場所は、男が待っていろと言った、そこである。一歩も動いては居ない。
男は先程買い取った、手に無造作に掴まれたコート、外套をミレットに突き出した。
「とりあえず、これを着ろ」
「……これ、で御座いますか」
男性用の無骨な藍色のそれは、ミレットの手には酷く不似合いであった。
「……これは、旦那様が選ばれたので御座いますか」
「俺の分の給金で、買った」
選んだわけではないので、男はその質問には答えず、ただ身銭を切ったと言う事だけを強調しておいた。卑怯かもしれないが、これなら命令を聞く筈だと男は考えたのである。
ミレットは手渡された外套を広げて見つめ、次いで男を見た。
「旦那様、どの様になるかを見たいので、少しわがままをよろしいで御座いましょうか?」
「ん、なにが?」
「よろしいで御座いましょうか?」
「……まぁ、いいけど?」
ぞんざいな返事をした男の前まで歩み寄り、ミレットはフードつきの外套を一瞬で男に羽織らせた。フード部分を男の頭部に掛け、ミレットは一歩引いてそれをゆっくりと眺める。居心地が悪い、と身を僅かに竦める男の姿に、ミレットは頷き。着せた時同様の速さでそれを脱がせ、今度は自身へと外套を掛け、最後にフードを被った。
一瞬、とはいかぬが、それなりの速さで行われた奇矯に、男は外套のフードによって相の隠れたミレットをただじっと見つめた。
秘された貌は何も語らず、ただ時間だけが過ぎていく。
そんな奇妙な沈黙の中、見つめられている当人、外套を羽織ったミレットは男の背後三歩後ろまで音も無く静々と歩み、影を踏まぬように佇むそこで、
「時間は有限なのでは御座いませんか?」
「……お前が言うな」
「これは失礼を致しました」
男の背後で恭しく一礼するミレットに、疲れた相の男は肩を落とした。男にとっては見えぬ背後の出来事である。恭しく一礼したかどうか、実際のところは分からない。ただ、やったのだろうと感じた事だけは確かだ。男は疲労と困惑の相でエリザヴェータと少女に目配せする。少女二人はなんとも言えぬ雰囲気で、ただただ黙ったままであった。
――なんだこれ?
目的の場所である図書館に行く前から、男はもう疲労感に苛まれていた。それは、エリザヴェータと少女も同様で在ったのだが。
それはそうとして。男には気になる言葉があった。どうでもいい筈である。しかし、どうしても無視できない言葉だ。
「ミレット」
「はい」
「起源的に、ってなんだ?」
ミレットは確かにそう言った。猫耳フードだの、猫耳カチューシャだの、珍妙なインパクトに隠れる筈の言葉は、それでも男の中に楔を打ち込んだ。そこに何かがあると。
「……」
「なんなんだ」
ミレットは応えず、ただ無言のまま一礼した。
我侭で、勝手な事をして、応えない、と男は思い。どうしようもない程、安心した。
――剣じゃない。こいつはやっぱり、人間だ。
と。
20130213 後半部分を修正。