第19話
「……ん」
唇から枯れた声が漏れた。眠っていた間に失われた水分が、声から潤いを奪ったのだ。
タリサはゆっくりとシーツを払い、軽く背伸びをしてうなじを手の甲で叩いた。窓へと目を移し、まだ陽が出ていない事を確認して、欠伸を零す。次いで、ベッドの横に在る、寝る前に用意した服に手を伸ばして……隣のベッドを見た。
早朝の薄暗い室内でも、シーツに包まり未だ起きる気配を見せない男の、そののんきな……いや、幸せそうな顔はよく見える。
常はどこか思考に埋もれがちで、腰の定まらない気弱な相ばかり見せるのに、寝顔はこうも安穏とした物だ。
――それにしたって、ねぇ?
すぐ傍に女が居るのに、この男は安穏とした寝顔を浮かべている。それはどうなのだ、とタリサは思わないでもない。ないが、手を出したら、と脅したのも彼女だ。
それでも、歳若い男がこれでは、タリサの自信が少々崩れそうになる。
――あぁ、それがそもそもの間違いかね?
女と言う自信越しに見て良い存在はないのだろう、この男は。
そう結論付けて、さて、今日はどうやってからかってみようか、等と考えながら服を着替え、終えてから寝巻きを畳み出すと、彼女の耳を小さな音がくすぐった。まさしく、その程度の些細な音である。
タリサは毎朝の事ではあるが、よくもその木製の頑丈な扉を、そうも静かに開けられる物だ、と感心しながら、扉を開け、部屋に静々と入ってきた人影達を見る。
未だ日の上がり切らぬ仄かに暗い部屋で、篝火の様に灯る四つの赤い瞳が強く映えた。
「おはよう御座います、タリサ様」
「おはよう、ミレットさん、ウィルナさん?」
挨拶を返された二人――ミレットとウィルナは従者らしい一礼を見せ、畳み終えた服を片したタリサの隣で、今もってのんきな顔で眠っている男の傍へと、足音一つ立てず近づいていく。
そしてウィルナが男の耳元に唇を寄せ――ふぅー、と優しく息を吐いた。耳かきが終わった後、最後に行うあれである。
「なんぞッ」
それをされた男が勢い良く上半身を起し、息をかけられた耳を押さえながら、目の前に居るメイド二人を睥睨する。寝起き特有のきつい目つきが、珍奇な起し方によって更にきつい物になっていた。
眠っていた時とは打って変わって、眦を危険な角度に変えた男に、メイド達は表情筋が死んだ様な無表情のまま深々と一礼し、
「おはよう御座います、旦那様」
「おはよう御座います、じゃないだろう」
「今日のお召し物はこちらで御座います」
「いや、お前ら……」
平然と言葉を紡ぐミレットと、恭しく服を渡してくるウィルナの顔を見ながら、男は溜息を吐いた。首を横に振りながら、男は差し出された服を受け取り、肩を落とした。
「あのなぁ……普通に起せば良いんだ。声を掛ければいいし、それでも駄目なら、揺すればいいだろう?」
「申し訳ありません、姉さんが今日はこの方法で起したいと申しましたので、私といたしましても、旦那様のお体に無断で触れるよりは良いかと思いましたので」
「普段も無断で触るだろうが、お前らは」
「恐れながら、無防備な姿と、起きておられる時は、また別かと存じます」
「……」
ミレットの言い分に、男は苦虫を噛み潰したような相を見せ、頭を一度手のひらで打ってから、乱暴に髪を掻いた。
「とりあえず、さっきのは禁止だ。心臓に悪い」
「如何様。旦那様は流石、お綺麗な体のままで御座います」
「でっかいナイフで刺しに来るな」
男は半眼でそう返した後、シーツを払い受け取った服を広げて、動く気配を見せないタリサとメイド二人に向かって口を開く。
「いや、着替えるんだけど?」
「チップなら弾むさね?」
「退室を命令されておりませんので」
「……」
男は、長く深い溜息を吐いて、扉を指差した。
「朝からしんどい」
部屋から出されたタリサとミレット、ウィルナは時間が過ぎるのを閉ざされた扉の前で待った。が、ただ待つ様な事は無い。
「いやはや、あの子はいつまで経っても初心さねぇ?」
「それが旦那様の良い所で御座います」
「……ふむ? じゃあミレットさん?」
「なんで御座いましょう?」
タリサは、真っ直ぐとミレットを見て呟いた。
「悪いところは?」
「お着替えを手伝わせてくれないところ、で御座いましょうか」
「そっか、そっか?」
ミレットから目を離し、狭い廊下の、その壁にある染みをなんとなく見ながら、彼女は笑う。
そして、扉が開いた。
「あぁー……眠たい……」
着替え終えた男が部屋から出てくると、メイド二人が男へと近づき、襟元と髪を正し始めた。まったく淀みなく、だ。
「少々歪んで御座います」
「それなおす前に、お前の人格も正せ」
「あぁ旦那様、動かれては困ります。どうぞ泰然となさって下さいませ」
ミレットは、何も聞こえません、と言った相で――いや、無表情にしか見えない筈の相で襟元を直し続ける。
男の背後に回り、髪を手に持った櫛ですくウィルナの相も、ミレットと同じだ。これも、傍目には、だが。
そんな朝だった。タリサからすれば、彼女達がここに来て以来、いつも通りの朝だった。いつまでも続くのだと、彼女は信じた。なんの確証もないままに。
○ ○ ○
いつも通りの時間にバズが厨房へ顔を出すと、男がテーブルに突っ伏していた。男はバズの顔を見ると、軽く手だけを上げ、ぐったりとした相に相応しい声で言葉をかけて来た。
「……おはようございます」
「おう」
が、バズはいつも通りだと言わんばかりの顔でそれに応じただけで、心配もしない。事実としていつも通りだからだ。
メイドが来てから今日まで、男がぐったりと、また眠そうな顔をしていない朝は無い。メイド達が来る以前も、欠伸交じりで寝ぼけた顔であったから、朝は弱いのだろう、程度にしか彼は思わなかった。
バズには、当然この時間が早すぎる起床だと思う事は無い。一応の飲食店であるから、多少は早いと感じるが、まさか男にとってこれが馴れぬ起床時間だとは思いもしない。日が昇れば起き、陽が沈めば家に帰る。というのは、男が居た場所では百年前程の生活サイクルだが、ここではこれが当たり前なのだ。
バズは突っ伏した男の背後で、朝食の準備をするタリサと、それを手伝うメイド二人を眺めつつ、前もって置かれていた木製のコップを手に取った。湯気がゆらゆらと立ち上り、彼の鼻腔にコーヒーの苦い匂いが運ばれてくる。
それを一口程口内に含み、ゆっくりと嚥下してから、バズは男に問うた。
「お前、今日の昼はどうするんだ?」
「いつも通り、暇なら図書館に行こうかと思ってます。忙しいなら、手伝いますけど」
「いや、どうせ今日も暇だろう。好きにしろ」
何故聞いたのだ、と男が問うよりも早く、バズはポケットから取り出した皮袋を男の前に置いた。
「……あぁ、もう給金の日でしたっけ?」
男がさらっと発した言葉に、バズは目を細めた。労働を行えば、報酬が与えられる。バズの店では一週間に一度、またリーヤのような急働きはその日の内に給金が出るのだが、いつも男はこれだ。催促などした事もなく、その上給金がどれほどかも聞きはしない。
若い頃、金銭に嫌と言うほど苦労したバズからすれば、
「お前は、どれだけ無欲なんだ」
それも、度を越えた、である。
「無欲って事は無いんですけど……いや、でもこれ」
男は目の前に置かれた皮袋を手にして、やっぱり、と呟いた。男の記憶にある、前までに貰っていた給金袋はもっと小さかった筈だ。それが今、男の目の前にある物は三倍近い大きさに変わっている。
男の寝ぼけた頭でも、それは分かる事だ。男以外からは報酬を受け取れないと言ったのは、果たして誰だったか。であれば、どうすれば報酬が渡せるのか。つまり、これがバズなりのやり方だ。
「あー……すいません。気を使って貰ったみたいで」
「何も使っちゃいねぇ。ただで人を使うなんざ、店の主がするこっちゃねぇ、ってだけだ」
頭を下げる男を無視して、バズは手に持っていたコップを呷った。そして、男から視線をはずした事により、頭を下げている男の背後で、同じ様に頭を下げているメイド達二人を見てしまった。
バズは少々強めにコップをテーブルに戻し、目を閉じて口を曲げながら早口に
「やった分、出たってだけだろうが。簡単に頭を下げるんじゃねぇ」
「いや叔父さん、頬染めちまってかわいーやねぇー、もう?」
「お前の見間違いだ。おい、コーヒーもう一杯入れろ」
コップをタリサに突き出し、バズは、ふん、と強く鼻から息を吐いた。
タリサは楽しそうに笑い、男は少しばかり目尻を下げ、そしてメイド達は常の無表情だ。バズは腕を組み、早くコーヒーが来ないものかとひたすら願い、自身の太い腕を何度も指で叩いた。
「おや、やっぱり少し早かったね」
そんな彼らの耳に、少女特有の高い声が飛び込んできた。バズが腰を上げるより先に、男が腰を上げ厨房からカウンターに寄り、フロアの様子を見、
「あ、エリザヴェー――……どうする、俺下がる?」
「あぁいや、今日はまぁ、なんだろうね、大丈夫……だよね?」
「は、はい」
何やら戸惑った男の声に、先程の声の主、エリザヴェータが続き、その後をまたもう一人の少女の声が続いた。バズはもう少し声が続くのではないかと思ったのだが、それ以上声は上がらない。恐らく、フロアにジュディア達の仲間の二人だけが降りてきたのだろう、とあたりをつけた彼は、珍しい事もあったもんだ、と呟きながら、ゆっくりと腰を上げ男の隣まで足を運んだ。
「今日は早いな……仕事じゃないんだろう?」
「はい、今日はまぁ、私はただのおまけですよ、バズさん」
応えるエリザヴェータの隣で、いつも仲間の影に隠れる少女が、おずおずと頭を下げた。
この少女は、いつもそうだ。人が――と言うよりは、男が苦手らしく、この店の客の中で一番浮いてしまっている。流石に主であるバズにはそれなりに馴れている様だが、一度ブレイストが声を掛けた時など、一緒に居たジュディアの背にすぐ隠れたものだ。
そんな少女が、仲間が一人いるとは言え、こんな朝の早くからフロアに顔を出し、バズ以外の男が居るのに誰の背にも隠れようとはしてない。小柄なエリザヴェータより頭半分程高いだけの、一般的に見れば小さく細い体からは、恐る恐るといった感じは消せていないが、それでも確りと隠れず立っている少女の姿に、バズは妙な感動さえ覚えた。
「しかし、お前らが朝一番から顔を出すか……」
バズの記憶が確かなら、これははじめての事だ。エリィ達の冒険者グループは、もっと遅くから仕事をする。ジュディアの、早起きは美容に悪い、等と言うバズからすれば意味不明な理由からだ。だが、そうなると、どうでも良い事が気になる。
「あいつら……ヒューム達は、どうしたんだ?」
「一度二階の廊下で会ったんですけれどね……何やら、バズさんに会わせる顔が無い、とかで。また部屋に戻っていきましたよ」
「……そのうち顔をあわせるってのに、何を言ってるんだあいつらは」
早朝、一番早くに顔を出すのは殆どヒューム達だ。その彼らが、今ここに居ない理由を知って、バズは首を横に振った。
「本来なら自分達が受けた仕事なのに、バズさんに迷惑をかけたと思っているんでしょう」
「そんな考え、百年早いんだ」
先日、ミックスのミックスがこの都市の商店区画を襲うという事件があった。その事件はそこに居合わせたバズ、そして冒険者達、ウィルナによって解決されたが、そのミックスのミックスの情報を集め、捕獲するというのがヒューム達の仕事だった訳である。
彼らからすれば、恩人に自身達の仕事から生じた穴を埋めてもらった形であるから、顔を出せないという気持ちは分からないでもない。ないが、それはある意味で仕方の無い事でもあった。
「あぁいうタイプの襲撃なんざ、久方ぶりの物だ。迷宮から出そうになった、だから今日出てくる、とは普通思わん」
実際、想定しろと言われても無理だ。いつか出て来るとしても、それがいつか等分かり得ない。まして、その日の内に出て来る等、誰が思うだろうか。一度冒険者と交戦したのだから、普通は暫く警戒して身を隠すものだ。
そこまで考えて、バズは嫌な事に気付いた。
それはつまり、普通ではないと言う事だ。何かが違ってきていると言う事だ。
会話を切って、何事か考え込み始めたバズに、エリザヴェータは肩をすくめ男に笑いかけた。フードに閉ざされていない口元は穏やかに笑っているのだから、それは笑貌だ。
「で、だ。君に用事があるんだ」
「俺か?」
男は自身を指差し、きょとんと首を傾げた。幼い仕草だが、どこかそれがらしく見える。
「少し付き合って欲しいんだ。今日は……時間は大丈夫かい?」
「今日は……昼が暇なら、図書館まで足を伸ばそうかと思ってるけど……」
探ってくるエリザヴェータに、男は特に考えず応じた。
「しかし、君は本当にあの場所が好きだね。紹介した甲斐があるよ。でも、あの図書館だと……もう読む本なんて殆どないんじゃないのかい?」
「まぁ、大抵は読んだけど。でも、まだ知りたい事もあるし、もしかしたら、何か出てくる事もあるだろうしれないだろ? それに、狭くて暗い場所は、落ち着くしなぁ」
「ほぅ……となると、君はますます本当の学者様みたいだね」
「いや、学者ってのが全員暗くて狭い場所好きって事もないだろう」
「なるほど、偏見で物を見た私が悪い。人の在り方を職業なんて一つの肩書きだけで決め付けてしまう……私は、恥じるべき愚か者だ」
「なんでお前はそんな難しい方向にばっかり持っていくの?」
呆れた顔の男に、エリザヴェータは肩をすくめ、そして隣に居る少女の肩を小さく叩いた。
「ほら、こんな人間だよ。君も大丈夫だ」
「……は、はい」
エリザヴェータの隣に佇む少女は、男の顔を見上げて――一旦俯き手のひらに文字を書き、それを飲み込むような仕草を見せた。
――いや、だからなんでそんなジェスチャーとか仕草が共通なんだよ。
頭を抱えた。未だに考え込むバズと、その隣で頭を抱え始めた男を双眸に映しこみ、エリザヴェータの隣に立つ少女は、
「あ、あの……! 今日、図書館にご一緒してもいいでしょうか!!」
大きな声でそう言った。
思考に沈んでいた筈のバズは、その言葉に、大きな声に、目を細めてじっと少女を見つめ。
厨房の奥に居たタリサは口元に微笑を浮かべて少女を見守り。
タリサを手伝っていた二人のメイドは常通りの淡い相で少女を見据え。
そして男は。
「あ、あぁ……うん。暇だったら」
やはり何も考えず、頷いた。
流石に今回の章ではダンジョン行かせます。主人公以外が、ですが。