では、どうぞ。
Side Out
殆どの人間が休日を過ごす中、正午を回った辺りの海鳴市の公園には多くの人影があった。
まだ雪は降り出していないが本格的に冬を迎えた今の時期の気温は少々低い。それでもこの場に多くの人が集まっているのは、温かな陽だまりのおかげだろう。
その公園に足を踏み入れたシノンはフードを被ったまま公園内を一通り見渡し、偶然視界に留まった背中を向け合わせたタイプのベンチに歩み寄って腰を下ろす。
深く座り込んでコートのポケットに両手を突っ込み、シノンは流れる潮風を感じながらぼんやりと海を眺める。
そのまま数分程黙って海を眺めていると、反対方向のベンチに誰かが座った小さな衝撃を感じた。シノンの目はそちらを向かず、まだ海を見ている。
そんな時……
「その様子から見て、特に体の不調は無いみたいだな」
「お互い体が縮んだことを除けば、な。というか、奇襲仕掛けて左肩斬り裂いた奴が言うことか? オレでなければ今頃ギブス装備だぞ」
「お前の死に難さを知っての上だ。あの時も言ったが、お前相手に手を抜けるような余裕は俺にも無いんだ」
……何の前振りも無しに言葉が投げられ、当然のように会話が始まった。
背中合わせで座る2人は互いに相手の顔を見ていないが、自分の後ろに座っている人物が誰なのかは理解していた。
この場に居合わせた2人、シノンとゲーデにとっては、相手の姿がマトモに見えているなら気配と雰囲気でソレが誰なのかは大体理解出来る。
「……ゲーデ、さっそくで悪いが訊きたいことがある」
「ソレは、俺が此処にいる理由か? それとも……あの後、グラニデがどうなったのか、か?」
「両方だ。グラニデはどうなって、お前はどうして此処に来た」
虚偽は許さない。
静かに話すシノンの言葉の中に込められた威圧感を感じながら、ゲーデは分かった、と返答して言葉を続けた。
「お前が最後に放った術を受けた後、俺はディセンダー、ノアに敗けた。そして、アイツに負けたのを引き金に、俺は自分の心が……望んでいたことが分からなくなった」
そう言いながら虚空を見るゲーデの声には、いくつもの感情が渦巻いているように思えた。過去を懐かしんでいるのか、苦しみを思い出しているのか、またはその両方か。
「あの時の俺は、何もかもが憎かった。俺が俺でいる為に、どうしようもない渇きを満たすために。でも、同じくらいに怖くて、苦しかった。まだ憎まなければ、まだ痛みを受けなければならないのかと」
続いて広げた両手を見るゲーデの表情は当然シノンには見えないが、徐々に重くなっていく声のトーンからして明るい顔はしていないだろう。
だが、話を聞いてふとシノンの頭の中に疑問が浮かぶ。
「待て。その言い方……もしかして今のお前の体は……」
「ああ。理由は分からないが、体が縮んでいることを除けばこの体は普通の人間のものだ。おかげで、今はグラニデの時のような渇きも無い」
決して満たされることの無い渇き、飢餓の衝動。
ソレはゲーデの存在を形作る根幹とも言えるものであるが、同時にゲーデの存在を必ず破滅に導く致死の猛毒でもあった。
痛み、苦しみ、悲しみ、恐怖、憎しみ……様々な負の感情が塊であるゲーデは、破壊行為や人々を不安にさせたりすることを行動原理とし、その負の感情を取り込むことで存在を保つことが出来ていた。
だが、負の感情を取り込むということはその中に込められた想念をその身に追体験させるということだ。
時には、身が引き裂かれるような痛みを。
時には、呼吸を止められたような苦しみを。
時には、最愛の恋人を失ったような悲しみを。
時には、生きることから逃げたくなるような恐怖を。
時には、目に見える全てを破壊したくなるような憎しみを。
そんな思いを自身の身に刻みながら、ゲーデは自分の飢餓を満たしていた。
だが、幾ら負の感情を取り込んでもそれはすぐに渇き、また飢餓の衝動が膨れ上がっていく。いくら壊しても壊し足りず、いくら憎んでも憎み足りない。
それも当然のことだ。生物の持つ負の感情……特に人間などの悪性は文字通りの底無しだ。感情には明確な形や量の概念など存在しないのだから。
故に、ゲーデの体はすぐに渇き、その身に取り込んだ負の感情がゲーデの心と体を絶えず傷つけ、苦しめた。
だが、ゲーデは自分の渇きを満たす為に負を生み出し、負を取り込まなければならない。自分の存在を繋ぎ止める為に、自分が自分である為に。
そして、そこから先は簡単に想像出来る。
汲めども汲めども満たされない飢餓の衝動、それをまた満たす度に大きくなり心身を汚染していく負の感情、その苦しみを嘲笑うように渇く肉体。
まさしく負の連鎖。救われない境遇とはこのことだろう。
「痛いのがいやだ……怖いのがいやだ……あの時は取り込んだ負が俺を押し潰しそうとする苦しみにもう耐えられなかった。だから俺は、もう何もかもがどうでもよくなって、自分の身を負に委ねた」
それでも、アイツ等には勝てなかったがな。
そう言ったゲーデはベンチに背中を預け、ゆっくりと息を吐いた。
気持ちを落ち着けているのだと理解したシノンはすぐに話の続きを促さず、海に向けていた視線を上方の青空へと持ち上げる。
「……それで、その後はどうなった」
「本来の流れに戻っただけだ。俺を含めた全ての負は世界樹へと流れ、新たに生まれ変わったマナがグラニデに満ちた。俺が覚えているのは、世界樹の中でノアのヤツが“一緒に行こう”と言ったところまでだ」
「そうか……もう、あそこは何もかも終わったんだな」
認識した事実を噛み締めるように呟き、今度はシノンがゆっくりと息を吐く。
その心中に、別段辛さや悲しみなどは無かった。元よりシノンの命はとっくの昔に消えているはずのものなのだ。そんなヤツが未練などおこがましい話だろう。
むしろ、シノンが感じていたのは安堵に近いものだった。
アルハザードの森の中で目覚めた時から、ずっと心の奥底で気にしていた。ノアやカノンノ、自分が信じて後を託した仲間達がどうなったのかを。
抱えていた不安が取り除かれ、シノンの心中は久しく晴れ晴れとした状態に戻る。
「そっちの疑問には答えた。今度はこっちの質問に答えてもらうぞ。管理局は……いや、お前は『闇の書』について現状どれほど理解している」
「資料に目を通した程度だが……あのロストロギアは遥か昔から自身の主として素質のある人間をランダムで選出し、選び抜かれた者をマスターとして登録してきた。
守護騎士、ヴォルケンリッターと呼ばれる存在が完成までの666の
そして、去闇の書の主に選ばれた人間は全員死亡している……知っているのはこの程度だな」
「いや、前提としては充分だ。内容も間違っていない。次の質問だが……お前は闇の書をその目で直接見てどう思った?」
ゲーデの問いに対し、シノンの脳裏に闇の書の姿が浮かぶ。
目にしただけで凄まじい悪寒を感じたあの本は、どう考えても危険なものだ。グラニデでも魔導書と呼ばれるものは幾つか見たことはあるが、あそこまで禍々しい雰囲気を纏ったものは記憶に無い。
「その様子だと、お前もあの魔導書がどれだけヤバい代物かは理解しているみたいだな。当然、あの中にいる封じられてるモノを解き放てば、それこそ世界を滅ぼす大災害になりかねない」
「そう言うのなら、何故お前はあの4人に協力する。というか、アイツ等は本当に完成した結果で何が起こるのか理解しているのか?」
「その辺の話が一番重要なんだ。まず、シグナム達が魔力蒐集をしている一番の理由は今代の主、八神はやてを救う為だ」
八神はやて。
それが現在の闇の書の主の名前なのかとシノンは認識し、無言で続きを促す。
それを理解したゲーデも、数秒の間を置いて話の続きを口にした。
「元々、はやては足が不自由なことを除けばただの一般人だった。1年程前にこの世界で目覚めた俺を拾ってくれた恩人でもある。だが、彼女が9歳の誕生日を迎えた時、闇の書が覚醒し、守護騎士が彼女の前に現れた」
半年前、という言葉を聞いて、シノンの肩がピクリと動く。
1年前となると、ジュエルシードの事件が起きるよりもさらに半年は前になる。つまり、ゲーデはジュエルシードの事件を知っているということだ。
だが、今話すことではないと思い、出掛けた言葉を飲み込む。
「守護騎士が現れたところまでは何の問題も無かった。はやては幼い頃に両親を失くしていて寂しい思いをしていたから、共に暮らす家族が増えるとむしろ喜んでいた。幸せ、だったと思う……だがある日、悲劇が始まった」
楽しそうに話していたゲーデの口調が一変し、重苦しいものへと変わる。
「ある日、何の前触れも無しにはやてが胸に苦しみを感じて倒れた。そして、その原因は闇の書にあった。闇の書は幼い頃からはやてのリンカーコアと融合……いや侵食し、命を蝕んでいた。はやてが下半身付随になったのは、その影響だったんだ」
話しながら、ゲーデは己の膝の上に置いた両手を強く握り締める。
守護騎士達よりも長くはやての傍にいたというのに、はやての命が蝕まれていることにまったく気付かなかった自分に強い怒りを感じているのだ。
「原因が分かり、シグナム達は動き出した。はやての命を蝕んでいるのが闇の書によるものだというなら、闇の書を完成させればはやての命を救えるとな。それから、アイツ等はずっと蒐集を続けている」
「それで今に至る……というわけか」
納得と理解を表すようにシノンは呟くが、その声は何処か不満そうだった。
その意味を理解したゲーデも、溜め息を吐きながら言葉を続ける。
「言いたいは分かってる。俺も、闇の書が完成したらはやてが助かるとはどうしても思えない。“負”に深く関わっていたことからの経験……いや、勘だがな」
「それは恐らく間違っていない。オレも散々“ヤバい”と思えるモノに関わってきたから理屈が無くても分かる。アレは、“封じていなければいけないもの”だ」
その声には嫌悪感などの感情も一切無い。
確かな根拠も理屈も無いが、この2人には分かってしまったのだ。
長く危険な戦いの中に身を置いてきた故に、人間の悪性である負の感情をその身に溜め込んで生きてきた故に……この2人には分かる。
アレは……闇の書は決して誰かを救う力には成りえない。
あの力は……どうしようもなく、
「何故あの守護騎士達は原因が分かった時に管理局などに助けを求めなかった? 確かに胡散臭い所もあるが、司法組織としての力は本物だ。事情を話せば、その主を助ける為の助力だって得られるかもしれなかったのに」
「……俺も、アイツ等が蒐集をしていると分かってすぐに同じことを話した。だが、それでは自分達の犯した罪ではやてが管理局に捕まるからダメだ、の一点張りで聞く耳を持たなかった」
「つまり、自分達の身勝手さと主への忠誠心をごちゃ混ぜにして暴走していることすら気付いてないわけか」
申し訳無く答えるゲーデの言葉をシノンはバッサリと切り捨てる。
ゲーデに言うのは少し違うとは思っているが、正直言ってシノンは内心でシグナム達に怒りを覚えていた。
自分達が他人を傷付け、その罪で主が捕まるから管理局を頼れない?
なんだソレは。そう思うのならばどうして蒐集を始めるよりも先に、最初に助けを求めなかった。どうして最初に他人を傷付けることを選んだ。
今にしたってそうだ。本当にその主を助けたいと、絶対に死なせたくないという想いが有るのなら、例え罪を問われようと助けを求めるべきだろう。
目的の為なら手段を選ぶな、というわけではない。
だが、意地と願望を貫こうとして自分達から状況を悪化させ、果てには目的を履き違えたら世話が無いだろう。
「お前の言うことは、俺にも分かる。本来、はやてに命の危険が迫っていることに気付けなかった俺が言えたことではないんだろうが……今のアイツ等、特にヴィータは余裕が無いんだと思う」
主の死が迫っている。その事実が守護騎士達を徐々追い詰め、冷静な思考能力を奪っているのだと、ゲーデは思った。
助けなければいけない。そのことだけで他のことに関心さえ湧いていないのだ。
「……それで? そっちの事情は諸々分かった。その上で、お前はどうしてオレをこの場に呼んだ? お前は、どうしたいんだ? ゲーデ」
軽く息を吐いて、聞いた話の全てを理解して、シノンは改めてゲーデに問う。
どうするべきか、などではなく、どうしたいのか。
負の塊としてではなく、1人の人間と同じ体を得たい今のゲーデが本当に望んでいることを、シノンは知りたいのだ。
やがて、数秒の間を置いてゲーデは答えを口にした。
「俺は……助けたい。はやてだけじゃない……シグナムも、ヴィータも、シャマルも、ザフィーラも……また皆が揃って笑って暮らせるようにしたい。だから、頼む。力を貸してくれ」
それが、ゲーデの選んだ選択だった。
はやてを殺せば、少なくとも闇の書の脅威を先送りに出来ると分かっている。
だが、それでもゲーデは助けたいと思えたのだ。
曇り無く笑うはやての笑顔が、皆と過ごした時間の幸せが、何の理由も無い悪意などに奪われてしまうようなちっぽけなモノだと思いたくないから。
それを守ろうとしているシグナム達の想いと努力が、無駄なモノだなんて思いたくないから。
「皆助けたい、か……お前、人間と同じになったら随分欲深くなったな」
呆れるような口調で呟くシノンだが、その声は何処か嬉しそうだった。
その反応が不思議なゲーデは首を傾げるが、シノンはすぐに言葉を続けた。
「分かった、手伝おう。ずっと前から苦しんできた八神はやても、彼女を助けようと傷付いてる守護騎士達も……皆を助けよう」
「……ああ、ありがとう」
互いに背中合わせで視線を合わせず。
だが、かつて敵対していた2人は異なる世界の空の下で、確かに志を同じくした。
* * * * * * * * * * * * *
「……それで? 助けるというお前の意思は理解したし、賛同もした。けど、これからどう動いていくつもりだ?」
協力を約束した後にそう口にしたシノンの疑問は、簡単に言えば今後の方針だ。
助ける、と言っても、この2人がこれからやろうとしていることはもちろん簡単なことでない。
闇雲に動いたところでどうにもならないのは当然のこと。
だからこそ、シノンはその疑問を口にした。どう動くのか、と。
だが、問いを投げられたゲーデは何故か答えを返さず、沈黙している。
それを不思議に思ったシノンは内心で首を傾げるが、1つの心当たりが浮かんで少し呆れたような声で再び疑問を投げる。
「ひょっとしてお前……何も考えてなかったのか?」
「………………すまん」
数秒の沈黙を置いて、ゲーデは申し訳無さそうな声で答えた。
その答えに、シノンは溜め息を零しながら現状で把握している全ての情報を整理しながら思考を回転させる。
管理局に外部協力者……傭兵のような立場で雇われている自分と、闇の書の主である八神はやてや守護騎士達と暮らしているゲーデ。
互いの立ち位置とその立ち位置でしか出来ないこと、それらの中から現状で必要なことを探すならば何か。
巡らせた思考の中で、シノンはひとまずの答えを弾き出した。
「ひとまず、オレは雇い主に適当に話を通して管理局の記録の中から闇の書に関する情報を探してみる。何をするにしても、現状では判断材料が少なすぎる」
「分かった。それで、俺はどうしたらいい。シグナム達をどうにかして止めるか? それとも、同行して蒐集の場所をお前に伝えるか?」
「さっきの話を聞いた限り、お前が説得しても聞く耳は持たないだろう。出発前に止めてもダメだったら同行はするな。そんなスパイみたいな真似すれば真っ先にお前が疑われる。お前は出来るだけ八神はやての傍にいてやれ」
「はやての傍に? 何故だ?……」
「幼い頃に両親を失くして寂しい思いをしていた、そう言ったのはお前だろう。だったら、今はお前だけでも傍にいてやれ」
さも当然のように答えたシノンの言葉に、ゲーデはハッとなると共に頭をハンマーで殴られたような衝撃を感じた。
そうだ。はやてを救う為だと言っておきながら、自分達の行動は結果的にあの子を一番蔑ろにしてしまっているではないか。
あの子の命と同じく、あの子の笑顔を守りたいと思っていたはずなのに、いつの間にかそれを忘れ去ってしまっていた自分をゲーデは情けなく思ってしまう。
「一番の理由はそういうことだ。それと、傍にいてやれというのは八神はやての護衛の意味も有る」
「護衛? 管理局から守る為、ということか?」
「違う。あくまで根拠の無いオレの勘だ。とにかく今は彼女の傍にいてやれ。この一件、まだ見えてないだけで他にも何か絡んでいるような気がする。オレも、まだ雇い主にはお前との協力関係を黙っておく」
「……分かった」
ゲーデの返答を訊き、シノンはベンチから立ち上がって歩き出す。
その中で、ポケットから抜かれたシノンの右手が小さいメモ用紙を放り投げた。
本来であればフラフラと宙を漂って地面に落ちる筈のその紙は何の前触れも無く突如吹いた風に舞い上げられ、ゲーデの膝元へと落ちた。
そこには、恐らくシノンのモノだと思われる通信コードと、短いメッセージが一行だけ書かれている。
『何かトラブルがあったら何時でも連絡しろ』
(……やはり、アイツに相談して良かった)
心の中で呟きながら微笑み、ゲーデはフードを深く被り直して歩き出す。
目標までの道のりは困難であり、その道さえ現状は手探りの状態。だが、ゲーデの心の中には上手く言葉に出来ない安心感のようなものがあった。
あの男となら……シノンとならきっとやれる。
かつて文字通りの殺し合いをしていた相手を何故こんなにも頼れるのか理由は分からないが……そう思えることを、ゲーデは悪いこととは思えなかった。
ご覧いただきありがとうございます。
一応、主人公とゲーデは互いの味方に内緒で協力関係を結びました。
自分でも、ちょっとゲーデの態度丸過ぎない? と思いますが、グラニデの経験と普通の人間の体になったことの変化ということで受け入れてください。
それと、この2人が闇の書の中身のヤバさが理解出来たのは、本編で言ったように、ろくでもない過去の経験から来る勘です。
第3者……特に管理局の技術屋などからしたら“ふざけんな”の一言ですねww
次回は多分、ゲーデ……というか、八神ファミリーの話になるかと思います。
では、また次回。