他の構想もあったんですが、奇特な読者の方から「鮮花を出してほしい」という要望があり、思い付いたので書きました。
再び東京へ。空の教会の面々が出てきます。
後編は再び冬木に向かいます。
境界
降り立つと、外は雪だった。
この極東の島国の玄関口、成田国際空港を立ち陸路で二時間。
世界最大のメガシティにして極東最大の都市、東京に私は降り立っていた。
日本列島の太平洋沿岸は冬場でもそれほど気温は下がらず、乾燥した日々が続く。
日本人の祖父を持つ私にとってこの国は馴染みのある存在だが、雪の東京は初めてだった。
かなり早めの便に乗ったが雪に慣れない東京の交通機関は激しく乱れており、予想からたっぷり二時間遅れで私は観布子市の最寄り駅に降り立っていた。
久しぶりの東京だ。
観光とついででロンドンで縁の出来た日本人の年の離れた友人たちに土産でもと思ったがその余裕は無くなっていた。
小さく息をつく。
私が吐いた息は白く濁って夕刻の空に漂った。
目的の人物は駅まで迎えを寄こすと言ってくれたが、予想時間から大幅に遅れたため予定を仕切り直し、駅に到着次第連絡をすることにしていた。
私はモバイルフォンを操作し、連絡を入れた。
その家の執事――あるいは執事的な存在の人物――は人を二、三人切った後のようなドスの利いた声で久方ぶりの再会の挨拶をすると
今から車を出すとの事務的返事をした。
一週間ほど前だ。
西日本のある地方都市在住の知己の人物から助力を請われた。
彼女は魔術世界の関係者であり、私以外にも魔術関係者の近親者がいる。
私に依頼を寄こしたのは意外だったが、「その近親者に心配をかけたくない」との彼女の心遣いに納得し私は彼女の要請を受けることにした。
依頼主の近親者は私の親しい友人であり、一年ほどに過ぎない知己を得てからの期間の間に多くの恩を作ってしまった。
報酬の額は期待できないが受けないわけにはいかない。
私にも恩義の感情や義侠心はある。
要請を受けてからすぐに私は出立の支度をした。
が、関西国際空港行きの手ごろな便が直近になかった。
そのため、関東圏に向かいそこから陸路で移動する手段を選択した。
この国は首都東京に何もかもが一極集中している。
どこかに移動するには東京を経由しないと移動が難しい。
私はもののついでで東京の友人(認めたくないが彼女にも恩義がある)に日本行きの連絡をすると「ウチに寄っていけ」という思わぬ提案をされた。
少し考えたが彼女の誘いを受けることにした。
「アンドリュー?」
誰かに名を呼ばれ、振り返った。
私の名を呼んだのは黒髪のロングヘアーで青味がかった瞳の若い女性だった。
私が彼女の顔を見ると、微かに笑みを見せ、彼女は再び私の名を呼んだ。
「やっぱりアンドリューだ」
久方ぶりの再会だったため、その人物の面差しは私の知るものと幾らか変わっていた。
つくづく思うが、女性の容貌は劇的に変化する。
しかし、その物腰、かつての面影を残した風貌はすぐに私の知る人物と結びついた、
「アザカ」
名を呼ばれ、彼女は「久しぶりだね」とお決まりの再会の挨拶をした。
続けて「ポカンとしてるから忘れられたのかと思った」とこぼした。
「以前よりも容貌に磨きがかかったな。僕の知人にこれほどの美貌の持ち主が思い当たらなかった。反応が遅れてすまない」
私が答えると彼女は「はいはい」とつぶやいて苦笑した。
アザカ――黒桐鮮花はこれから訪問する人物の義妹にあたる人物だ。
彼女の実兄は私も良く知る人物であり、彼はアザカの義姉の夫にあたる。
そして実に面倒なことに――本人は口に出して認めてはいないが――鮮花は実兄に強い思慕の情を抱いている。
「アンドリュー。あの女と兄さんを別れさせるの、手を貸しなさい」
彼女の魔術の師である蒼崎橙子を介して鮮花とは何度か行動を共にしたことがある。
いつだったか、藪から棒に鮮花に言われた。
何度か行動を共にした結果、私は彼女の人となりについて二つの重要な問題を認識するに至った。
第一に、彼女は強い。
俗に言う「女性は強い」などという慣用表現の一種ではなく、字義どおりに物理的な意味で黒桐鮮花は強い。
魔術回路を持たないにも関わらず発火の魔術を使い、格闘技まで習得している。
私が最も殴り合いの喧嘩をしたくない人物は一に両儀式、二に風宮和人だが
彼女は確実にその次には入る。そして、一位と二位を別格として三位の位置は複数の人物が私の中で僅差で争っている。
最近だが、遠坂凛も三番目を争う人物に入った。彼女の事をからかうのは命がけだ。
第二に前述のとおり彼女は実の兄の事を異性として意識している。
これも前述のとおり彼女がはっきりそう認めたことはないが、まともな感性の持ち主ならばそのうち否応なく気づく。
そのぐらいはっきりとした好意を兄の黒桐幹也――婿養子に入ったので現在は両儀幹也に向けている。
この第二の考慮点は第一の考慮点と密接につながっている。
彼女は橙子を魔術の師として仰いだが、その理由は式に対抗する術を身につけるためだ。
そう、「あの女」とは私がこの世で最も殴り合いの喧嘩をしたくない人物の事を指している。
鮮花は幾つか最もらしい理由――「あんな凶暴な女」という点は痛いほど激しく同意だ(凶暴さについては君もいい勝負だという言葉は飲み込んだが)――を挙げたが、上述の事実から彼女が式と幹也を別れさせたがっている真の理由は火を見るより明らかだった。
「そうか。では、シキと事を起こすことになったら教えてくれ」
彼女は私の発言に対して期待の視線を向けた。
私ははっきりと告げた。
「最低でも一マイルは離れたところにいると約束しよう。君と彼女の喧嘩はもはや喧嘩ではない。控えめに表現して殺し合い、正当に評価して小規模な戦争だ」
結局だが、今のところ両者の間に戦争は起きていない。
鮮花は一方的に彼女をライバル視し、恋敵と見做しているが結果的にライバル視せざるを得ないだけで、式自体には好感を抱いており、式も鮮花を気にいっているからだ。
彼女たちは実に不思議な生き物だ。
「それにだ」
きっぱり拒絶の言葉を口にした後、私は続けた。
「シキは確かに粗暴で凶悪だが、少なくとも悪党ではない。ミキヤの事は間違いなく大事に思っている。
それは君もよくわかっているだろう?」
彼女は以後、私に同じ要請をすることはなかった。
久方ぶりの再会を果たした私と鮮花はお決まりのパターンとして互いの近況を話しあった。
私は十年前から変わらないヤクザな生活ぶりを話し、彼女は概ね平和な日常を話した。
時折、魔術絡みのいかがわしい仕事をするが、平時は派遣社員として働き、派遣された先では将来有望な年下社員から交際を申し込まれる日々を送っているそうだ。
彼らの未来が暗いのは想像に難くない。
程なくして私が呼んだ迎えが来た。
我々は明らかにその筋のものである黒塗りの車に乗り込み、駅を後にした。
車窓の外には舞い散る雪と肩をすくめて行き交う人々の姿があった。
××××××××××××
「アンドリュー。ついでだ。駄賃ぐらいは寄こすから野暮用を頼まれてくれ」
目的の威厳漂う日本家屋に辿り着くと、鮮花はさっさと宛がわれた部屋に引っ込んだ。
この家の主にして私を招いた張本人、両儀式はいつものように気だるげに私に要請をした。
彼女の野暮用は瓶倉光溜のところに娘の迎えに行って欲しいというものだった。
瓶倉光溜は彼女の抱える私的な調査員だ。
私は以前、彼を助手として調査の仕事を請け負ったことがある。
式の一人娘、両儀未那は光溜の書いた絵本のファンで借金に追われていた光溜は未那に命を救われている。
それをきっかけに光溜は調査員として雇われるようになった。
「ウチの関係者が行くとビビッて出てこないことがあるんだ。お前、アイツとは割と上手くやってただろ?」
はっきりした理由は知らないが光溜は式のことを恐れている。
式が怖いのは私も同じだ。よって彼にはシンパシーを感じていた。
私はそのささやかな要請を受けることした。
そして例によって、私の口からは言わなくてもいい余計な一言が飛び出していた。
「そうか。では、その前に一緒に警察署に行かないか?そろそろ君の積年の悪行が裁かれる時期だと思うのだが」
式は私に対して「……へぇ?」と呟いて眉を吊り上げた。
「ここに来る途中に警察署を見かけた。お使いのついでに出頭する気はないか?君が自首したら僕もお使いを済ませよう。安心してくれ。裁判になったら君の事は良きように証言しよう。情状証人としてね」
私のユーモアに対して彼女は懐から短刀を覗かせた。
「ありがたい申し出だけど、生憎オレには今、警察のご厄介になる理由がないんだ。
折角だから理由を作ってやるよ……お前をバラしてな」
私は恐怖に全身を硬直させた。
「……警察に用があるのは僕の方だった。いつも持ち歩いているパディントベアのぬいぐるみを無くしてしまってね。
あれが無いと夜も眠れないんだ。……ついでで君のお使いも済ませてこよう」
××××××××××××
「アンディさん!」
私は式が用意したブルーの日産GT-Rを駆り、かつて伽藍の堂と呼ばれていた建物に赴いた。
現在ここは瓶倉光溜の住処兼仕事場になっている。
おざなりなノックをすると、扉があき、勢いよく目的の少女が飛び出してきた。
「やあ、マナ。また会えてうれしいよ」
「私もです!色々ありがとうございました!」
漆黒のワンピースを纏った小さな体躯を折り曲げ、両儀未那は礼の言葉を述べた。
あとは彼女を連れ帰れば任務完了だが暇は告げねばならないし、現在のここの住人も私の知る人物だ。
私は未那に促されて、傷だらけの扉を開け、奥に進んだ。
奥で二十代半ばほどの青年が佇んでいた。
「アンタか」
彼は――瓶倉光溜は乱雑な再会の挨拶をした。
「その通り。僕だよ」
私も乱雑な挨拶を返した。
これで事は済んだ。
私は本来の目的に戻ることにした。
「さあ、お姫様。残念ながらガラスの靴を脱ぐ時間だ。お母さまが呼んでいるよ」
未那は「はい」と返答すると「では、また来ますね。光溜さん」と暇の挨拶をした。
彼は「ああ」とつぶやいて苦笑した。
その姿は私に、歳の離れた兄妹のようなものではなく、何か別の関係性を連想させた。
「待ってくれ」
未那を伴い、その場を後にしようとする私の背に光溜が声をかけた。
振り向いた私に彼は一冊の書籍――絵本を差し出した。
表紙には『吸血鬼の涙』とタイトルが記されていた。
「噂の君のデビュー作か。僕が拝読してもいいのか?」
「手土産代わりだ。ほかにやれるものが無い。要らないなら捨ててくれ」
彼のなりの気遣いらしい。
私はありがたく受け取ることにした。
私はささやかなギフトの礼を述べると、余計な一言を耳元で囁いた。
「君は……年下が好きなのか?」
彼は私の言葉が仄めかすものを理解したようだった。
「やめろ」
短く答えた。
未那はそのやりとりを小首を傾げて聞いていた。
××××××××××××
その晩、私は嫌な予感がするほどもてなされた。
そもそも呼ばれた理由は以前に未那から受けた相談だった。
「お母さまのお誕生に何を贈ったらいいと思いますか?」
数少ない式の古い友人である私に持ち掛けられた相談に私は真摯に答えた。
結果、祖父の古い友人である鍛冶職人を紹介し、特注の業物ナイフが式に贈答された。
私も相当額のカンパをしている。
彼女はそれがいたく気に入ったらしく、今回はその気の利いたギフトへの返礼だった。
その晩の食卓には色鮮やかな懐石料理と日本酒があがっていた。
式のような凶暴な人物が腕を揮ったとは思えないような繊細な味だった。
子供の頃日本の祖父に連れて行かれた料亭とどちらが上かというほどの代物だった。
私が素直に感想を述べると式は頬を赤らめながら「良いから黙って食え」と返答を寄こした。
頬を赤らめる彼女の姿から私が赤銅色の鬼を連想したのは言うまでもないだろう。
食卓に並んだ顔を検めてみる。
幹也、鮮花、未那……彼らは式の親族であり、幼い未那を除けば古くから式の事を知る面々だ。
誠に遺憾ながら私もその「古くから式の事を知る面々」に含まれている。
幹也は「全員が揃うなんて珍しい。アンドリューがきっかけを作ってくれたおかげだ」といつもの人畜無害な笑顔を浮かべていた。
「古くから式の事を知る面々」の中で蒼崎橙子は目下行方不明だが、きっと彼女のことだ。
どこかでこっそり見ているのだろう。
ここではないどこかから誰かが見ているような、そんな感覚を食卓で始終感じていた。
「式、すごく楽しそうだ。来てくれてありがとう、アンドリュー」
仏頂面で箸を動かす式の目を盗みながら幹也が私に囁いた。
彼女の仏頂面からそのような感情を読み取ることはできなかったが、幹也が言うのであればきっとそうなのだろう。
「お役にたてて嬉しいよ。ミキヤ」
そう、私は答えた。
××××××××××××
眠りが浅かったらしく、目が覚めてしまった。
客間の時計は午前五時過ぎを指している。
きっとしこたまアルコールを摂取してから床に就いたのが良くなかったのだろう。
「酒を飲んで寝るのはやめよう」と今まで一体何度思ったかわからないが、私が過去の経験から学んでいないことだけは確かだった。
再度眠りにつこうと思ったが、時差ボケのせいで体内時計が狂いきっている。
何度か再度の就寝を試みたが、最終的にそれを諦め――何を考えたのか私は邸宅の外に歩みを進めていた。
雪が降っていた。
門を出るとひらひらとした白い結晶が舞い落ち、私の肩や頭上で溶けて消えた。
昨晩見た天気予報によると、東京では数年に一度レベルの大雪らしい。
「これは今日の予定も狂いそうだな」と頭の片隅を懸念がよぎった。
どこの国にも言えることだが高級住宅街は静かな場所にある。
両儀邸の周囲も世界最大のメガシティとは思えない閑静な一画だった。
雪の中、チラチラと光る街灯を頼りにそぞろ歩きをする。
世界中を旅した私にとって雪はありふれた存在だ。
雪のストックホルムも雪のコペンハーゲンも雪のサンクトペテルブルグも何度も見たが、雪の東京は新鮮だった。
そういう珍しいもの見たさがこの極寒の外界に私を押し出したのかもしれない。
寒さに震えながら歩みを進めていると、街灯の下に人影のようなものが見えた。
その人影のようなものに近づくと、人影のようなものは血と肉を持つ人の体であることがわかった。
和服に身を包んだ若い女性だった。
彼女は上着も羽織らず、笠も差さず立っていた。
その人物は良く知った顔――私を招いた主、両儀式だった。
この悪天候の中夜更けに外出するなど異常と言う他ない。
現に外出している私も人の事は言えないが、妥当な判断としてまずは彼女に言葉をかけようと思った。
私が近づくと、彼女は私に視線を向けた。
私は彼女の方に歩みを進め
「狂暴の権化とは言え、旦那と娘のいる一応は人間だろう。ミキヤとマナが見たら卒倒するぞ」
と言いかけたところでその言葉を吞み込み、別の言葉を吐き出した。
「……
彼女は紛れもなく両儀式だったが……両儀式ではなかった。
私は私自身の直感が辿り着いた結論を信じられなかった。
宙にはひらひらと雪が舞っている。
「……本当に勘のいい人なのね、あなた」
式は――私の知る式でないその式はふわりと答えた。
まるで舞い散る雪のように不確かな響きが彼女の声からはした。
「『私』はあなたの事を知っているけど、
古い友人同士の会話として異常な内容だったが、私は彼女の言うことを自然に受け入れていた。
「そうだな。君のことは知っているが
彼女はクスリと微笑した。
その微笑は遥か彼方までを見通すような神秘を感じさせた。
そのまま、街灯の光の下でどれほどか佇んでいた。
私は何も言葉が思いつかず、また彼女も何も言葉を発さなかった。
「アンドリュー。式の大事なお友達。あの子のこと、たまには気にかけてあげてね」
長い沈黙ののち、彼女が短い言葉を告げた。
いつしか東の空が白み始めていた。
「夜が明けるわ……別れの時ね」
私が瞬きすると、彼女の姿は白昼夢のように消え去っていた。
残されたのは、街灯の光とそれに照らされる舞い散る雪だけだった。
後編は全く別の話に。
桜が出てきます。