恐怖の幽霊屋敷の一件の後、急に入ったバルセロナでの仕事を終えると、私はまたしても時計塔を訪れていた。
決して無駄話をしに来たわけではなく、ロード・エルメロイ二世に報告があったからだ。
しかし、報告を終えると結果として無駄話に興じていた。
ロードの執務室を出ると、ちょうど放課後の時間帯だった。
廊下を歩いていたところでエルメロイ教室お馴染みの面々とすれ違い、挨拶の後ちょっとした雑談になった。
ちょっとした雑談はそのまま本格的な雑談になっていた。
そして、話の流れで私が彼らと同じ学生だった頃の話をすることになった。
「僕は大した存在じゃない。凡庸な話になるがそれでもいいか?」
それでも彼らは聞きたがった。
私は記憶を掘り起こし、最初に思いついた1994年ごろの一幕を話すことにした。
〇
「ホイル君」
怒りを含んだ口調で目が覚めた。
「アラン・アンソニー・ホイル君」
寝ぼけ眼で私は状況を確認した。
そうだ。ここは降霊のクラスだ、
私は時計塔在学中、サブとして降霊のクラスに席を置いていた。
今は降霊のクラスでケイネス・エルメロイ・アーチボルトの講義を受けているところだった。
アーチボルト先生は九代続いた由緒正しい魔術師の家系・アーチボルト家の正式後継者、若いながら一級講師の地位についていた。
「ホイル君。君は何をしているのかね」
名前を呼ばれた男はアラン・ホイル。
時計塔時代のクラスメートだ。
魔術と科学を融合させた特異な魔術をアトラス院さえ凌駕するレベルで身に着けた天才で、封印指定を受けた今は隠匿生活を送っている。
ホイルは紛れもない天才だったが、致命的な欠点があった。
「隣の女子学生の横乳を見ながらマスかいてるところです。俺にはお構いなく」
品性が欠片ほどもないことだ。
教室中の全員が汚物を見る目と等しい目でホイルを見ている。
ホイルは机の下でもぞもぞと手を動かすと「うっ!」と呻いて果てた。
「ここは学びの場の筈なのだが。その下品極まりない行為は自宅でしてくれないかね?」
ホイルはティッシュで股間を拭いながら答えた。
「安心してくだせえ、アーチボルト先生。俺は天才なので。先生の牛のクソみてえにつまらねえ講義ならばマスカキしながらでも理解できます」
この男の破天荒さは皆が知っていた。
この男の天才ぶりも皆が知っていたが、誰も彼のことを尊敬しなかった。
品性が欠片ほどもないからだ。
「君の発言が大言壮語ではないことはわかっている。君が先日提出した論文だが、必死で粗探しをしたにも関わらず、一切粗が見当たらなかった。実に腹立たしいことだ」
「褒めても何も出ねえですよ。アーチボルト先生」
何かが破裂したような音がホイルからした。
「おっと、すまねえ。何も出ねえつもりでしたが、屁が出ました」
ホイルの屁は音だけでなく臭いも凄まじかった。
三日間放置した生ごみとホームレスが一か月寝泊まりした電話ボックスの匂いが混ざったような凄まじい悪臭が一帯に広がっていた。
教室中のあちこちからせき込む音が聞こえた。
アーチボルト先生に限らず、時計塔の講師たちはホイルの破天荒さに頭を悩ませていた。
それでも封印指定されるまで放逐されなかったのは偏にホイルが天才だったからだ。
「ところで、アンドリュー・ウォレス・マクナイト君」
思いがけないことに天下の一級講師は私に矛先を向けてきた。
「君が教室で惰眠を貪っていた件について一応、申し開きを聞いてあげよう」
惰眠を貪っていたとは心外だ。
私にも言い分がある。
「幼い弟妹を養うために夜な夜なファッジを売り歩いていて睡眠不足なもので。どうかご容赦を」
「おかしいな。この前はケニアの恵まれない子供たちのためにショートブレッドを売り歩いていると言っていなかったか?」
「それは並行世界の僕でしょう。無意識のうちに並行世界を行き来するとはさすがはアーチボルト先生です」
アーチボルト先生は何か言おうとした。
おそらく「出ていけ」と言おうとしたのだろう。
だが、私は口の回る男だ。
「安心してください。僕は睡眠学習の達人です。先生の話は聞き洩らしていないと自負しています」
「ほう。では私が何の話をしていたか言ってみろ」
「オアシスとブラー、どちらの方がブリットポップの担い手として相応しいか、という話でしたか?」
「違う」
「では、ドクター・ストレンジと先生が戦ったらどちらが勝つかという話でしたが?」
「違う」
「ポール・ガスコインがイングランド代表で結果を残せていない件についてですか?」
アーチボルト先生は今度こそ「出ていけ」と言うつもりだったのだろう。
しかし、邪魔が入った。
「おい、アンディ!」
ホイルが立ち上がって叫んだ。
「この女の乳首、黒すぎねえか?」
ホイルが持っていたのはアメリカ製のポルノ雑誌だった。
アーチボルト先生は当然「何を読んでいるのか?」と怒り心頭だったが、ホイルは「エレナ・ブラヴァツキー著の『女体の神智学』です」と答えた。
「見せてみろ」
私はホイルの元に歩み寄り、雑誌のヌード写真を見た。
「そこのおかっぱ頭の童貞っぽい君」
私は近くにいた男子学生に声をかけた。
「この女性、乳首が黒すぎると思わないか?」
言い訳するが、当時のウェイバー・ベルベットは歴史の浅い魔術家系出身でさしたる功績もなく目立たない存在だった。
サボリ魔でクラスメート全員の名前を憶えていなかった私は彼に「おかっぱ頭の童貞っぽい少年」と勝手に綽名をつけていた。
「……どどどどうしてボクが、……どどど童貞だと思ったんだ!」
完全に当たりの反応だ。
意地の悪い私は面白がってしまい、彼の傷口を広げた。
今は悪かったと思っている。懺悔する。
「メルヴィン、彼は童貞じゃないのか?」
メルヴィン・ウェインズは当時から目立っていた。
私が名前を憶えていた数少ないクラスメートだ。
彼は吐血しながら答えた。
「ううん。ウェイバーはバリバリに童貞だよ?」
教室に吹き出し笑いのさざ波がたった。
「ホイル、彼は童貞じゃないのか?」
「ウェイバーちゃんはバリバリに童貞だ。おまけにチン毛も生えそろってねえ」
「アーチボルト先生。先生は童貞ですか?」
「出ていけ」
「否定はしない?」
「出ていけ」
「しかし、アーチボルト先生。僕は先生の声を聞きながら睡眠したいのですが」
「出ていけ」
私は観念して教室を出ていくことにした。
「アーチボルト先生。質問良いですかい?」
私の去り際、ホイルが珍しく質問のために挙手した。
「根源の渦にチンポ突っ込んだら気持ちいいでしょうか?」
「出ていけ」
〇
「まあ、以上のように僕の学生時代など凡庸なものだったよ。つまらない話ですまないね」
エルメロイ教室の学生たちは何も言わなかった。
何も言わず、全員が一様に呆れた様で私を見ていた。
何故だ。
お目汚しすいません。