ヒッキーと川なんとかさんのお話。
「おーい、そろそろ起きる時間だぞ」
右の方から聞きなれた声がする。とても安心する声だ。寝起きで身体が重いけど鞭を打って上半身を起こす。時間は7時ちょうど。そろそろ娘を幼稚園に連れていかなければならない。と言うか今から出てももう遅刻は確定なわけでそう考えると自然とゆっくりとしたくなる悪い癖。
「お、やっと起きたか、もう幼稚園には送って行った、俺も会社に行くから、家のこと頼んだぞ」
半開きになっている目を指で撫でる。すると彼がこっちに近づいてベットの脇に座り、顔を近づけてキスをする。数秒、触れるだけのキスをして顔が離れると冷たい空気が唇に当たり少し名残惜しい。
幾度となくしてきたけれど未だに顔を赤くする彼を見ていると私もなんだか気恥ずかしくなってくる。……そろそろ慣れてよ。
「い、今のはおはようと行ってらっしゃいのアレだから、て事で行ってくる」
今までにないシチュエーションだからか、早口で捲し立ててぴゅーっと去っていく。何時もは玄関先でやってるからね。結婚して同棲し始めてからは日課になっているキスも2年間くらいやっているが何度も言うように慣れない。正確には私は大丈夫なのだが彼がダメだけど、毎回顔をほんのり朱く染める彼はすごく可愛くてすごく愛おしい。
「ふぅ、朝ご飯食べて、洗濯物して、掃除して」
柄にもなく彼をべた褒めしていると急に恥ずかしくなりそれを振り払うように今日の日程を決める。家事は基本得意だ。学生の頃から母親たちが仕事に出かけていて、やるのは全部任されたし普通に出来た。大志や京華の世話するのも楽しかったから別に苦はなかったけどやっぱり甘えたかったな。
階段を降りてリビングに行くと、テーブルには朝食が置いてあり、手紙が添えてある。
〈口に合わないかもしれないけどよかったら、毎日美味しい食事をありがとう〉
手紙から目線を外して用意された朝食を見ると白ご飯にお味噌汁に焼魚。シンプルで飾らない食事。なんとも彼らしく少しだけ笑みが溢れてしまう。
「いただきます」
お味噌汁を箸で少し混ぜて茶碗を口につける。少し濃いめの味噌の味がいっぱいに広がってとても美味しい。焼魚も一口サイズに取りお米と一緒に食べる。みるみる内に料理が無くなっていき、食器を洗い場に持っていく。蛇口をひねり水を出すとさっき持ってきたものを石鹸で洗うと横にある食器置き場にそれを置いていく。
あれよこれよとしている内に時刻は昼過ぎ。もうほとんど家事はしてしまったためやる事がない。携帯アプリのツモツモはもう飽きたし、一度勧められたパズドレも私には難しくてすぐに辞めてしまった。
読書でもしようか、そう思って別室にある読書専用部屋に向かう途中に玄関が開く音がした。
「ふぅ、ただいまー」
という声が私の耳に聞こえてくる。パタパタとスリッパを鳴らして玄関に出向くとそこにいたのは彼だった。ネクタイを緩めながら廊下を歩いてくる。
「おー、なんか今日は早く帰れたから」
「そっか、そういえば朝食美味しかったよ、ありがとね」
そう言うと恥ずかしいのか素っ気なく返事をしてリビングにあるソファーに腰掛ける。
「あ"ー……疲れた」
「もう、おじさんみたいだよ?」
思いっきりぐでーっとダラける姿がちょっと可愛く見えてしまう。私もずっと立っているのはどうかと思い隣に座る。しばらくの沈黙、そして肩に手の感触が伝わるとグイッと引き寄せられ彼の肩に頭が乗ってしまった。
「ふぅ、癒しだ……」
「ふふふ、私も癒されてる」
「それにしてもあれだな、こうやってのんびりするのも久しぶりか」
思い返すとそうかもしれない。ここ最近ずっと娘の世話で追われていてろくに休憩していなかった。そう思うと全身の力が抜けて体重を全部彼に任せてしまう。
「たまにはいいな、こういうのも」
「……そうだね」
無理に話す事もなくポツポツと喋る。こういう時間は嫌いじゃない。
「今度おばさんとこにあいつ預けて二人だけで旅行でも行くか、まぁその、たまには…な」
彼にしては珍しい提案してだった。
「うん、行く」
「というか、行くところは決めてあるんだ、だから楽しみにしておいてくれ」
「わかった、ありがと」
「ん」
それからは無言でその場の雰囲気を楽しんだ。目を瞑るとこれまでの事が浮かんでくる、つい昨日の事のような出来事だ。良い事悪い事、全部が私にとっては素敵な思い出。これからもそれを残していきたい。新しい命と一緒に。もうすぐ3ヶ月に入る。男の子か女の子かまだわからないけど、どちらでも良い。無事に生まれてきてくれさえすれば。
「ねぇ、あなた」
「なんだ?」
「愛してるよ」
「俺も愛してるよ」
顔を真っ赤に染めて愛を囁く彼にたっぷりの愛を込めてキスをする。
「……ぷ」
「ふふふ」
ーーあぁ、幸せだ。