エミール会の日から2日後の昼、めったに鳴らされることがないドアノッカーが鳴って、カーン夫人が応対してくれるのを待っていたけれど、そういえば今日はお休みの日だったなと思いだして、小走りに玄関へ走っていって自分で開けた。
「よう、ひさしぶりだな、クローディア」
「ベアクロー!」
最近過ごした日々があんまり気だるくてのんびりしたものだったから、その顔を見るまでベアクローのことはすっかり忘れていた。
ベアクローは変わりなかった。ジャケットに頑丈そうなブーツ、トレードマークのベレー帽のいつもの格好。高い鼻、白い頬、とがった顎、太くて八の字の眉毛、食えない笑み。
わたしは馬鹿みたいに開けていた口を閉じて、笑顔を取り繕った。
「何よ、連絡くらいしてくれたらよかったのに。そうしたら駅でも空港でも迎えに行けたのに。元気? あんまり日に焼けてないのね、寒いところにいたの?」
「まあね」
ベアクローはわたしの髪をかき混ぜるようにして撫でた。
「立派なお屋敷じゃないの」
「パパが聞いたら喜ぶわ。毎年の税務監査を乗り切って維持してるかいがあるって」
わたしは焦っていた。ここ2、3日ほどクロロたちはここに勝手にくつろぎに来ていた。もしこんなところで幻影旅団とベアクローが鉢合わせなんかしちゃったら、その立派なお屋敷が殺人現場になってしまう。
(あ、でも大丈夫か)
ベアクローは2000年まで元気に現役生活を続けていたし、クロロともセメタリービルのシーンが初対面だった。ということはなんとかなるのだろう。
そう思うそばからポケットに入れていたパールホワイトの携帯電話が鳴った。
「あ、クローディア? オレ、シャルナークだけどさ」
「うん?」
「今日ちょっとオレたち用があってクローディアとは遊べないから」
「うん」
「だからカーンさんにも夕ごはんはいらないって伝えといてくれる?」
「わかった」
(ほら、なんとかなった)
「主よ、みわざに心より感謝いたします」
電話を切って、わたしは呟いた。もちろん冨樫神に。ベアクローは突然敬虔な言葉を口にしたわたしを面食らったように見た。
「あなたに会えてうれしいってことよ。ついでに、邪魔な知り合いに用事ができて来られなくなって嬉しいってこと」
わたしは微笑んでベアクローを家に招き入れた。
居間の初期ヴィクトリア朝のソファに座ってコーヒーを飲んだベアクローは、ここに泊まらない?というわたしの誘いに首を振った。
「こんなところじゃ気が休まらないもん」
「そういうのかっこいいわね。プロって感じ」
「茶化してるの?」
「まさか!」
わたしはシャルナークではない。そういう意地悪さとは縁がないのがわたしなのだ。
ベアクローはソファの背もたれに片肘ついてわたしのほうに体を向けた。
「で、どう? ちょっとは念うまくなった?」
「え?」
「練習してたんだろ?」
月に1、2度、ベアクローに会ったときに練習成果を見てもらうことがわたしの習いになっていた。ベアクローが念を教えてくれるわけじゃない。彼は忙しい人だし、念を教えるなんて何かの片手間にできるようなことじゃないことくらいわたしにもわかっていた。だから彼はただ評価して方向性を示してくれるだけ。それでも彼の言葉はベテランらしく的確で、勉強になることも多かった。
しかし実際のところ、最近は練習なんて全然してなかった。遊び呆けていた。でも念は修行に普通ものすごく時間と労力を傾けて、それでやっとものになるかならないかというくらいに厳しい道だし、真剣にやっている人でも停滞するのは当たり前だから、やってなくたってばれやしない。だからといって練習したと言うのはわたしの良心にもとった。
「うん……“絶”の練習をね……」
嘘つき、という良心の声が聞こえるような気がした。嘘じゃないわ、とわたしは反論した。肋骨を折られたせいで“絶”をしていたのはほんとうなのだから。
「見せてみな」
わたしはうなずいて目をつむり、体をリラックスさせた。“点”で体の隅々にオーラが行き渡っていることを、オーラの流れを知覚する。吸って、吐いて、吸って、吐いて、呼吸は一定に。水道の蛇口を閉めて水を止めるみたいなイメージで、ゆっくり精孔から漏れ出るオーラを絞って止める。もうオーラはあふれない。わたしの内側の、オーラがたまったつめたい湖が、鏡みたいに静かに輝いた。
わたしはベアクローの反応をうかがった。
ベアクローはさっと手を振った。
「ぜーんぜんダメ」
「え、嘘。これかなり上手になってるんだけど」
「時間がかかりすぎだし、しゃべるたびにちょっとオーラ漏れてるし、ああほら」
自分の体を見下ろすと、精孔からオーラが見え隠れしていた。むっと眉が寄った。
「まあ、上出来だよ。前から無意識でちょっと使えてたとはいえ、4カ月でここまでできるようになったんだからさ」
慰めの言葉にもちっとも気は晴れなかった。晴れるわけがなかった。ベアクローにはそんなふうに説明したけれど、実際にわたしが精孔を開いたのは5歳のとき。“点”をはじめて2年目のころ。それから今まで6年間、ほとんど成長がなかったわけなのだから。精孔が開いたときにはもっとトントン拍子に事は運ぶのだと思っていた。
ベアクローは外を指した。
「ついでに護身術やっとく?」
庭に出たわたしたちは向かい合って立った。わたしは長い髪を邪魔にならないようにみつあみにしたけれど、なんだか赤毛のアンっぽくなったからほどいてポニーテールに直した。
「念は好きに使っていいよ。武器なし、急所攻撃あり」
「うん」
「はじめ」
その瞬間わたしは足にオーラを集めて急接近し、右手をベアクローの顔に突き出すと同時にオーラをまとったままの右足で蹴りを放った。ベアクローは軽々蹴りを受けとめると、左手でわたしのおとりの右手のひじを巻き込み動きを止めさせ、そのすきに右手は手刀になってわたしののどに当てられていた。この間1秒足らず。
「え、終わり?」
ベアクローがびっくりしたみたいに言った。
わたしはカチンときた。けれどどうしようもなかった。負けは明らかだった。
「……そうみたいね」
ベアクローの下がり眉がもっと下がった。寸止めしていた右手を下ろし、左手をわたしの体からはずした。
「………………」
「………………」
「……あのさ、どこが悪かったかわかる?」
わたしはベアクローを困惑させるほど弱かった理由をベアクローに述べなければいけないらしい。
「……体がすごく鈍ってた。それからオーラ移動が下手で何をしようとしているのかベアクローに丸わかりだった。それくらいだったら均等にオーラを振り分けとくべきだった。突き出した右手はオーラ不足で、受けとめられていたら粉々になるところだった。弱いんだから足を削ろうなんて考えずに急所を攻撃するべきだった。そもそも最初から何の見通しも持ってなかった。場当たり的だった」
言葉にすればするほど自分が間抜けに思えた。恥ずかしくて顔を上げられなかった。何を浮かれてたんだろうと思った。盗賊団と一緒になって遊び呆けて、休みボケしていたとしか思えない。急に夢から覚めていく心地だった。
「おおかたその認識でいいけど……どうしちゃったの?」
「………………」
わたしは何も言えなかった。
(死にたい。恥ずかしい。何やってたんだろ)
「遊びすぎちゃった?」
「うん……」
緊張感が完全に欠落していた。
「まあ、お嬢様なんだから強くなくたって全然いいけどさ」
「ごめんなさい。わざわざ相手してくれてるのに……」
歯を食いしばって嗚咽をこらえていないと泣き出してしまいそうなくらい我が身が情けなかった。
ベアクローはため息をついた。それから、今からは講義の時間ね、と言った。
わたしは鼻をすすって顔を上げた。
「いいか? オレはあんたの右手を受けとめなかったけど、それは親切心からだけじゃない。こういうふうに――」
ベアクローはまた左腕をわたしの右腕に巻き付けた。
「絡め取ったら、オレはこのまま腕を上に跳ねあげる。するとあんたの右肘の靭帯が断裂する。パーンとね」
わたしは急いで右腕を抜き取った。
ベアクローは苦笑して自身の左腕を前に出し、右手の指で指し示しながら説明した。
「人間の肘から手首までの間には骨が2本ある――尺骨と橈骨だ。この骨は肘で何本もの靭帯によって固定されている。肘関節は蝶番関節とも言われていて一方向にしか曲げ伸ばしができない。で、そのいっぱいある靭帯のひとつ、関節が横方向に曲がらないように関節の外側と内側にあって、横方向のブレを制限している靭帯が側副靭帯だ。狙うのはこいつ。ストレスをかけて勢いよく肘を外側に曲げてやると、肘内側の尺側側副靭帯がはじけ飛んで、その腕をいかれさせることができる――質問は?」
わたしは顔を青くさせながらおそるおそる尋ねた。
「治るの?」
「治る……うーん、治療はできる。でも靭帯ってのは一度断裂しちゃったら二度と元には戻らない。ほかには?」
首を横に振ると、ベアクローはうなずいて右手を手刀の形にした。
「じゃあ次。クローディア、左手はぶらさげとくもんじゃない。オレの右手があんたののどを狙ってたのわかったろ?」
わたしは正直に言った。
「……のどに当てられてはじめて気がついた」
「……攻撃に使わないときは、腕は頭やのど、腹のあたりをちゃんとガードしようぜ」
「……はい」
ベアクローは咳払いをした。
「のどには輪状軟骨っていう部位がある。息を吸い込むときの陰圧によって気管が閉塞してしまうことがないようにこいつが広げていてくれるわけだ。オレが狙ったのはそこだ」
ここ、とわたしののどを触って示した。
「軟骨っていうくらいだから骨よりは硬くない。輪状軟骨は人体の軟骨のなかでも弱いほうで、あんたでも親指で強く押せばへこむし、オーラをまとった手刀ならもっと簡単だ。こいつをなかにへこませて気道をふさげば、まあ5、6分で蘇生の見込みはなくなり、15分くらいで完全にそいつを殺せる」
わたしはごくりとつばを飲み込んだ。
ベアクローの講義は効率のよい人体破壊のための講義だった。もし子ども権利センターがこのことを知ったら道徳を損なう恐れがあるとしてわたしを保護しに飛んでくるだろう内容。
「なんでベアクローはそんなこと知ってるの?」
「知ってたらどこを攻撃すればいいか、どこを防御すればいいかわかるだろ。あんただって相手の狙いや人体の仕組みがわかれば初撃をかわせるかもしれないし、ひょっとしたら反撃できるだろう」
まったく、この人がクロロには傷一つつけることもできずに敗北するというのだから、クロロ=ルシルフルのでたらめさもわかろうというものだ。
「もっとよく考えな。そんで動きを思い出せば、もうちょっとましに戦えるさ。もう一回やるか?」
「はい」
再びわたしたちは向かい合った。
わたしが汗みずくになってはあはあしながらベアクローにあしらわれていると、門から隣のイーランがひょっこり顔をのぞかせた。彼はベルベットみたいなきれいな芝生のじゅうたんを横切って近寄り、わたしたちを見て訝しそうにした。
「なんか庭からクローディアの声がしたから心配して来てみたら……何してるんだ?」
わたしは答えに窮した。でも頭も鈍っているとはいえ、ここでベアクローと目配せを交わすほど馬鹿じゃなかった。息を整えるふりをして時間を稼ぎつつ何と答えようか考える。ごまかさなくてはいけないことにすっかり慣れてしまっていたから、言い訳はじきに苦労もなく出てきた。
「えーと、わからない? エクササイズのレッスンよ。彼はコーチでベアクローっていうの」
わたしは以前肌の色についてイーランが言っていたことを思い出してつけ加えた。
「ヨークシンから呼んだばかりなの」
「その格好で?」
わたしは自分がワンピースを着ていたことをようやく思い出した。
「まあ、うん。最初は導入部分だけのつもりだったんだけど」
「コーチ?」
わたしはベアクローを見上げた。
「……コーチのベアクローだ」
「お隣のイーラン=フェンリです」
イーランは軽く会釈をし、手を差し出してベアクローと握手を交わした。
(自信ありげに! もっと設定に乗って!)
心のなかで叱咤したのは、観察力の鋭いイーランに嘘を見抜かれるんじゃないかと怯えたからだ。ベアクローは強くて飄々としているタイプだけれど、そういう態度はイーランのようなタイプの人の前では弱い。どんなふうに振舞ったって、ちょっとしたヒントからその人の性格や感情を見通されてしまう。ただのぼんぼんのイケメンに見えて、イーランは聡明で人の心の動きを読むことに対してはたぐいまれな才能を持っているのだ。でもベアクローはそのことを知らない。
わたしははらはらしながら見守った。
イーランはにっこり笑った。
「どちらの軍隊にいらっしゃったんですか?」
ベアクローの表情はちょっと強張った。
質問を遮ろうかと一瞬思ったけれど、イーランはごまかされてくれるような相手じゃない。ここでかばえば設定を怪しまれかねない。わたしはあえてかぶせて尋ねた。
「あら、それ、わたしも知りたいわ。ほかの生徒さん方も知りたいと思ってるんじゃないかしら。軍隊式のエクササイズだっていうところをもっと押すべきだと思うわ」
言った後で不安が胸をよぎった。
(イーランは確信ありげだったけど……ベアクローってほんとに軍人だったの? わたし、追いこんでないわよね?)
心配は無用だった。ベアクローは幾分鼻白んで答えた。
「『揺るぎなき忠誠』」
それから舌打ち。
「なんで本物の軍人だったとわかった?」
イーランは、たいしたことじゃないんです、と肩をすくめた。
「その立派な体格と筋肉。それにあなたは姿勢がよすぎる。加えて挨拶のときにもその帽子を取らなかった。軍隊ならそれでいいんです。でも一般的な常識じゃない。あなたに一般常識がないようには見えない。ということは、あなたはたぶん除隊した軍人だ」
ほんとう、イーランには驚かされる。彼を見ていると自分がシャーロック=ホームズを見るワトソンであるかのような気分にさせられる。頭の足りない人間みたいな。
(それにしても、ふーん、ベアクローが海兵隊員だったとはね)
イーランはわたしのほうを向いた。からかうような笑みを浮かべている。
「どこをシェイプアップする必要があるんだ、クローディア?」
わたしはぴょんぴょん飛び跳ね、鳥みたいに腕をぱたぱたさせて、はにかんで答えた。
「ただの運動不足解消のためよ。最近食っちゃ寝生活だったから、太ってきたのは確かだけど」
「運動は悪いことじゃないけど、暑いんだから無理はするなよ」
と言って、イーランはわたしのこめかみのおくれ毛をそっと耳にかけてくれた。
それから、そういえばさ、と首をかしげた。
「このごろよく一緒にいるやつらは?」
「ああ、何か今日用事があるんですって」
「ふーん……オレ、朝、カフェの帰りに見かけたけど」
引っかかりを感じているような表情。
「用事ねえ」
わたしの胸は猛烈に騒いだ。
「……見かけたって?」
「海岸通りで。変な5人組だからな、見間違えはないよ。どこかのカフェで朝食でもとってたのかねえ?」
わたしは震えが抑えられなかった。
(カフェで朝食?)
「――そんなはずない!」
イーランとベアクローのふたりは顔を見合わせた。
頭が真っ白になった。
「ちょ、クローディア? どうした?」
「落ち着けよ」
「そんなはずないのよ、そんなはず……!」
頭の中をモーナンカスでの今までの記憶が駆け巡った。彼らは朝起きて、どうするんだった? 覚えている。シャルナークに教えてもらったのだ。彼らはめいめいコーヒーを作って飲み、ビスケットを缶から出して食べるのだ。例外もあった。パクノダは近くのカフェまでモーニングセットを食べに行くことがあったし、クロロがミルクプリンをつついているところを見たこともあった。けれど、起きる時間もばらばらな彼らが朝に連れだって出かけているところは、一度だって見たことがなかった。
「クローディア!」
肩に強く手がかかった。
わたしはその手を払って逆につかんだ。
「イーラン! ちょっと来て!」
そのまま引っぱって門のところに連れて行った。そうとう力が強かったと思うけれど、イーランは文句も言わなかった。
門柱の陰まで来て、わたしは声を押し殺して叫んだ。
「幻影旅団! あいつらが動き出したのよ!」
それしか考えられなかった。エミール会が終わり、動くとしたらそろそろだろうと思っていた。思っていたはずだった。
めまいがした。
「なにをぼやぼやしてたんだろ! わたし、ほんとにどうかしてたのね!」
「大丈夫か?」
塀に頭をぶつけ始めかねないわたしにまごついたようすで、イーランはわたしの頬を指の背で撫でた。
わたし自身びっくりするくらい急に明晰に働きだした頭は、いくつかの予想とそれに基づく決定をはじき出した。それを咀嚼しながら、わたしはイーランに向かってうなずいた。
「ええ。あなたは家のなかにいて、じっとしててね。明日の朝まで動いちゃだめよ」
行って、とイーランを押したけれど、イーランは動かなかった。
「君はどうするんだ?」
「わかるでしょ。それにベアクローも一緒にいるわ」
わたしたちはしばらく見つめあった。
「だめだ。危ないだろう」
イーランの繊細な少年の面影が残った顔を見ていると、どうしようもなく切なくなる。でも、もうここでお別れだ。
「大丈夫よ。ね、お願い……」
「でも――」
「わたし、自分のすることがもうわかってるの。説得なんて無駄よ。あなたは家にいて」
今度こそイーランを家に帰すと、走って玄関に飛び込んだ。ベアクローもいる。そうだ、彼を呼び寄せたのはこのためなのだった。
「ベアクロー、あなた、どうやってこの家まで来た? 車はもってる?」
ベアクローは手のひらのなかの鍵を見せた。
「垣根の陰に隠してる」
わたしはうなずいて、髪のゴムを取った。
「荷物はまとめてあるの。すぐにこの家を出るわ」