ゴーストワールド   作:まや子

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13. ヴァカンス

 グレイ家のサマーハウスの庭は美しい。手入れの行き届いた緑の芝の中に木々が背を競いあい、熱帯草花が咲き乱れている。遠くに刷毛で描いたような巻雲が見える以外、空は真っ青に晴れ渡っている。少し歩いて坂道を下ったところに水にぬれてきらきら光る砂浜があるのが見える。その夢みたいな世界にテラスが張り出されていて、わたしたちはそこで優雅で気だるい午後を過ごしていた。

 わたしたち――そう、わたしは一人ではなかった。一緒にいるのは父や母ではない。兄弟でもないし、通いで来てくれているメイドのカーン夫人ですらなかった。

「酒持ってくるね」

 わたしは紅茶に口をつけて、手元の本をぱらりとめくった。そのわたしにすごくガンを飛ばしてくる小男。

「お前――」

 ことさらゆっくりともう一口。それからようやく顔を上げて首をかしげた。

「あら、わたしに言ってたの。そうとは思わなかった。自分がこれからすることをわざわざ報告してるんだと思ってたわ。コミュニケーションって難しいわね」

 潮風で軽く乱された髪を手ぐしで梳いて耳にかける。

「真昼間からお酒ってどうなの? まあそれはいいとしても、お酒って一口に言ってもいろいろあるけど、何が飲みたいの? ビール? ワイン? シャンパン? それとも何かの蒸留酒? 何でもいいの? ひょっとして紅茶が好きじゃないからお酒って言ったの? ダージーリングが気に入らないのならほかの銘柄もあるわよ? そうじゃなくてほんとうにお酒が飲みたいの? あなたお酒好き? ならなぜ持って来なかったの? ちょっと気がつけばわかるでしょ、10歳の子どもしかいない家にお酒なんか置いてないって」

 小男はわたしを殺したそうに睨んだ。

 

 この態度の言い訳をさせてもらえば、この日わたしはあまり機嫌が良くなかった。――ヴァカンスに来ていることをすっかり忘れて、夢のなかでヨークシンの家に帰っていた。だから目覚めは最高だった。目を覚ましたとき、わたしは耳がどうかしたのかと思った。街の一切の物音が途絶えてしまっていた。マンションの側を通る清掃車の機械音も聞こえなかったし、空気をつんざくサイレンの音も聞こえなかった。

 わたしは毎朝、7区のマンションの一室で、都市が動き出す音とともに、セットしてあるアラームで目を覚ますのが常だった。

 今朝はなにかと勝手が違っていた。カーテンの隙間からは柔らかな黄色い光が漏れていた。がらんとした虚ろな空間を半ば恐れ、半ば楽しみながら、わたしはじっと横たわっていた。

 再びまぶたを閉じたけれど、今度はあれこれ浮かんで眠りには戻れず、結局ベッドから起き上がって窓のカーテンを開けた。

「そっか。ヨークシンじゃなかったっけ」

 わたしはいつも首にかけている懐中時計を開いた。すでにお昼時。こんなに遅くまで眠ったのはいつぶりだろうと思った。

 部屋付属のバスルームで顔を洗って、クローゼットにかかっている服の中から水彩画風に花が描かれたブルーのワンピースを選んだ。

 最近では、骨を折られて、その回復のために“絶”を心がけていなければならなかった。骨はかなりくっついてきていて、紫や緑のあざは薄くなっていた。10日も必要に迫られてやっているとなんだかんだで上達して、体調がとてもよかった。

 軽い足取りで階段を下りて居間へ向かうとそこにはカーン夫人がいて、目をしばたたかせながら、おはようございますと挨拶してくれた。

「おはよう。寝不足?」

「ええ、少し」

 彼女は肩をすくめて、わたしに背もたれに絹のショールがかかっている安楽椅子をすすめた。

「お花、すごく素敵だった」

「お気に召されましたか? わたしの庭で育てたんですよ」

「毎朝あの香りのなかで目覚めたいくらいよ」

 この邸宅にも寝室はいくつかある。なかでもわたしが使っている、薄いグリーンの壁に白い繊細なレースとリネンで飾られた部屋は可憐そのもの。緑の葉に囲まれた白い花の中で寝起きする気分だった。行き届いた掃除や、産地直送レタスみたいにパリッとしたシーツや、部屋の雰囲気を壊さないように飾られたブルーとホワイトの生花は疑いなく彼女の手柄だ。

「何かお召し上がりになりますか?」

 キッチンへ入っていったカーン夫人が、こげ茶色の目を優しく細めながら尋ねた。いたれりつくせりだ。思いついたのはコーヒーを飲むことだった。悪くない。いい朝にはやっぱりコーヒーが不可欠だ。とはいっても女児がブラックコーヒーをうまそうに飲むのも変なので、

「カフェオレをちょうだい」

 こういう選択になる。

 そうやって熱いカフェオレボウルを両手にもち、人生の幸せというべきものに感じ入っているときに、わが家の固定電話が鳴ったのだ。

 

 わたしはうちのテラスで思い思いにくつろいでいる面々をじろじろ見遣った。そして強く確信した――今朝の電話、あれはやっぱり不幸の電話だったなと。

 そもそも殴って骨を折った相手に快い対応を期待するのが間違いというものだろう。世の中をなめきっているとしか思えない。でも強気を貫けないのが、悲しいかな、わたしなのだ。

 テーブルの上のポットを取って椅子を降り、床に座り込んでチェスに興じているフェイタンの空いたカップに紅茶を注いだ。そのわたしの首を今にも落としそうなフェイタンとわたしを、向かいからあきれたように見る巨大な図体のフランクリン。彼の体重にどの椅子が耐えきれるかなど試したくないので床に座ってもらっているのだけれど、ちょっと悪い気がして、彼のカップにも紅茶を注ぎたすサービスをした。その横でクロロは本を読みながらデッキチェアに身をもたせかけ、こんなのは日常茶飯事とでも言いたげな主人顔をしていた。少し離れたところではパクノダがテラスの手すりに寄り掛かって、こちらのちょっとした諍いをまるで無視して双眼鏡で海のほうを眺めていた。

(自分ちでくつろぎなさいよ)

 フェイタンにはああ言ったけれど、この家にお酒がないわけがなかった。だってこのサマーハウスはわたし一人のサマーハウスではなくて、グレイ家の所有財産なのだから。当然父も来るし、親戚や友人が招待されることもある。ご近所さんを呼んでパーティーをすることだってある。ただ動くのが面倒だったし、わたしは彼のメイドではないし、招待していないのだからホステスでもないというわけで、ちょっとした嫌がらせをしただけだったのだ。

 わたしがこうした態度をとっても許されているのはエミール会までは殺すつもりがないからだろうし、たぶんこれくらいの距離感で正しいからだ。怯えすぎたり卑屈すぎたりする人間を彼らは好まないだろう。それに、人質をとって立てこもった誘拐犯には人質が物ではなく人格を持った人間だということを忘れさせないようにすべしと言うではないか。保身を考えれば彼らに従順すぎるのはよくない。

 

「あ、こけた」

 落ち着き払ったパクノダの声に、海のほうを見た。港内に何十艘と言うヨットが優雅にマストを伸ばし、三角帆に風をはらませている。どうやらそのうちの一つを見ていたらしいけれど、ここから肉眼では何が何だかよくわからなかった。でもパクノダが誰のことを言っているのかはわかった。

「……大丈夫なの?」

「さあ。でも操縦の仕方は調べたからわかってるって言ってたわよ」

「はあ?」

(それってわかってるって言えるの?)

 急に不安になったけれど、今さらもう遅いので努めて気にしないことにした。

 海風がパクノダの砂色の髪をふわりと持ち上げた。

「あなたの家、クルーザーも持ってるなんてね」

「あのヨットはクルーザーじゃないわ。ディンギーよ。シーホッパー、あーいや、オーシャンホッパーだったかしら」

「何が違うの?」

「クルーザーはもっと大きいわ」

 実際のところ、知るわけないでしょ、というのが正直な答えだった。

 ヨットは父の趣味だった。オーシャンホッパー以外にもいくつかヨットを持っていて、名門ヨットクラブの会員証も持っている。お金持ちの趣味だと思うけれど、それが父の趣味だということなら、わたしの中ではスノビッシュな趣味ということになる。

 オーシャンホッパーは一人乗りのヨットで、父に言わせればスポーツというよりは水遊び用らしかった。シャルナークが乗れるというから貸したのだ。それが、調べたから乗れる? 自信過剰ではないだろうか、とは思うけれど、わたしにはほかにとくに感想もない。どうせ港内の海難事故程度ではシャルナークは死なないのだし、父は腹を立てるだろうけれどわたしにはヨットだってどうでもいいのだから。

 

 わたしはもう一度、テラスのようすを眺めた。信じられないようなことが最近は次から次へと起きていた。実のところこんなふうにシャルナーク以外の幻影旅団のメンバーと会わせてもらえるとは思っていなかった。パクノダについてはそこから除外するけれど。

 人生が変わりはじめているような気がして嬉しかった。

 

 そんな浮かれた気分をぶち壊しにするようなこともあった。

 その日の夜、父からひさしぶりに電話があった。

「どうかしたの?」

「何もなければ娘に電話もかけてはいけないのか? お前はどうしているだろうと思ったんだよ、クローディア。ヴァカンスは楽しんでいるか?」

 嘘くさい明るい声だった。

「ええ。ここを使わせてくれてありがとう」

「構わないさ。それより大丈夫か? 何か不自由はないか?」

「何もないわ。順調よ」

「私が頼んだことは?」

「ええ、探ってるわ。そちらも今のところ順調よ」

「どう思う?」

「ずいぶん羽振りがいいみたい。それに興味深い交際関係もあるようよ。毎晩出かけていることだしね。どこへ行ってるやら……。でも決定的な証拠に欠けるから、あぶり出しでもしてみるわ」

「そうか……」

 わたしはとにかく早く電話を切りたかった。

「私がいなくて寂しかったりはしないか?」

「やだわ、そんなのいつものことじゃない」

 大丈夫、ということを強調したくて、あまり考えないで前向きな言葉をひねり出していたら、ついそんな言葉がぽろっと口を衝いて出た。

 気づまりな沈黙だった。フォローの言葉なんて何も思い浮かばなかった。

 しばらくして父が言った。

「……私を責めているのか、クローディア?」

「そんなつもりじゃなかったの。でも、だって、ほんとのことでしょ?」

 少し声が震えてしまって、気づかれなかったことを祈りながら、何度かこっそり深呼吸をした。

「……お前のママは、ナタリーはどうしている?」

「変わりないわ」

「変わりないか」

「何も」

「じゃあお前はそこでひとりなんだな? ヴァカンスをナタリーと一緒にはすごさないんだな? どうして?」

(馬鹿なこと言わないで)

 わたしは苛立った。

「お母様が部屋から出てこないからよ。引きずって連れてくればよかったの? それにひとりじゃないわ。友だちができたの」

 あれを友だちと呼びたくはないけれど背に腹は代えられない。

 父はわたしの苛立ちをほとんど無視して、というよりむしろ勇気づけられたように急きこんで言った。

「あの家を出たくはないか?」

 わたしはその言葉にぎょっとして、思わず息を呑んだ。

「5番街の4ブロック北にペントハウスを買ったんだ。週末にでも泊まりに来ないか? その晩は芝居を見に行くのはどうだ? それともオペラのほうが好きか? はねたらリゾットでも食べに行こう。いいレストランがあるんだ。ここでの暮らしが気に入ったならそのまま住めばいい。お前のためのベッドルームもとってある。内装はお前の好きなようにしてもいい、クローディア、お前は私に似て趣味がいいからな」

 全身が震えるのをこらえられなかった。

「クラリッサは? クラリッサはわたしがいるの好きじゃないわ」

「彼女は一緒には住んでいない。もしお前がそれを気にしているのならな。それに私はお前とクラリッサに仲良くしてほしいと思っているんだ。もちろんイーニアスとジェイミーともな」

「そうできるとは思えないわ」

「やってみなければわからないだろう。環境が変われば感じ方も変わるさ」

「……お母様はどうなるの?」

 父の声が忍耐を失った。

「お前が私のことを良く思っていないことはわかっている。お前から見れば私がナタリーを捨てたように見えるんだろう。だがな、クローディア、物事には必ず違う面があるんだ。ナタリーは私のことでお前にうらみつらみをこぼしているかもしれないが――私はそうじゃない。クローディア、もうこの話はやめよう」

 深いため息。

「そのうち会って話そう。いいね?」

「……いいわ」

 こうして心温まる親子の会話は終わった。

 電話を切るなり、わたしはソファに倒れこんだ。クッションをつかんで力任せにあたりに叩きつけ、それから顔を押し付けた。じっとして、うんざりするやりとりが頭から出て行ってくれるのを待った。家族のことは全部ヨークシンに置いて来たと思っていたのに。ああいったことはすべて煩わしかった。冒険フィクション漫画の世界に生まれたと思っていたら家庭メロドラマに役を割り振られたみたいな感じだった。

(もうわたしに構わないでよ。要らないのよ、こんなの)

 

 そんなわたしの鬱屈とは関係なく、その日以来、クロロたちはわたしの生活にずかずかと入りこんできてそのまま居座ってしまった。わたしたちは一日を一緒に過ごすようになった。彼らがわたしの家に泊まったこともあれば、わたしが彼らの家に泊まったこともあった。

 幻影旅団の滞在場所は、海岸通りに面した夏だけの小さな借家だった。借家独特の雰囲気がなんとなく寂しくて落ち着かないけれど、それがまた仮の住まいの気ままさを増長させた。

 彼らは意外にも優しかった。グレイ家の溺れてしまいそうになるくらい大きな時代物のベッドとは全然違う、スプリングがギコギコ軋む簡易ベッドにわたしがおっかなびっくり横たわるのを、パクノダはおかしそうに眺めた。目が覚めて、台所でめいめいがコーヒーをつくって飲み、朝食にはテーブルの上の大きい缶から好きなだけビスケットを出して食べるという彼らのルールを知らないわたしに、シャルナークがからかいながらも教えてくれた。

 それから、海水浴。といっても、わたしやクロロは海辺に出たところで泳ぐわけでなし、砂のうえに寝そべって本を読んでいるだけ。パクノダはわたしたちをあきれたように見て、もっとよく日光に当たって本の虫を追っ払いなさいよ、と言う。シャルナークは一人で沖に出ていて、ここにいる間にオーシャンホッパーをマスターするつもりでいる。フェイタンやフランクリンは砂浜でうつらうつらしたり、それに飽きたら沖の島まで泳いで往復して無意味に疲れたりしていた。

 お昼になると家に戻ってシャワーを浴びて、器用なシャルナークかクロロが台所に立つ。だいたいいつも山のようなパスタとサラダ。お昼ご飯を食べたあとは、うっすらと汗をかいて目が覚める長い午睡。フェイタンとフランクリンが楽しそうに殴り合っているのがふわふわする意識の端っこでわかるときがある。構わず目を閉じると、図太いね、と誰かの失礼な言葉が聞こえてくる。

 夕食にはみんなそろってどこかへ出かける。たいていはなぜかうちのサマーハウスへ。カーン夫人の少し手が込んでいておいしい料理を食べたあとは、ゆらりゆらり海岸通りを散歩する。このときはみんな他愛のない会話に興じる。夕食のときに父が大切にしていたお酒をわたしがどんどん出すものだから、みんなほのかに酔っていて機嫌がいい。シャルナークが落ちている貝殻や生き物を拾ってはそれについて近くにいる犠牲者にぺらぺらと説明する。犠牲者たるわたしはポケットを貝殻でいっぱいにして話のほとんどを聞き流しながら、ラヴェンダー色に輝く空の色を楽しむ。少し先ではほかのみんなが足を止めて、シャルナークが貝を拾うたびにちょっとずつ遅れたわたしたちを待っている。

 

 悪くない生活だった。正直に言えば、わたしはそんな暮らしを気に入っていた。彼らがどういうつもりなのかはわからなかったけれど、彼らの側にいるのは快かった。肋骨を折られた恨みも忘れそうだった。距離感を狂わされて、パクノダに触れられることを許しそうな自分が怖くもあった。一方で、こんな生活が長くは続かないことはわかっていた。これはヴァカンスであって日常生活ではないのだから。

 海に行ったら、しばらくは家のことも忘れられるだろうと思っていた。波の音に揺られてゆっくり休めば、明るい気持ちを取り戻せるだろうと期待していた。でもこんなのは望んでいなかった。利用し尽くすつもりだったのに、その相手に、少しでも好意なんてものを持ちたくなんかなかった。


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