フーと散歩   作:水霧

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第四話:まとわりつくとこ

 夜。深い深い闇の中の出来事。

「た、たすけてくれ! たのむ!」

 雨。激しく降る雨粒が、目の前の男を打ち付ける。びちびち、と水飛沫と衝突音が跳ね返るほど。

 周囲はまるで見えない。しかしどこかで一条の光が差し込んでいた。そこに照らされるは男。その男は雨具を着けておらず、地味な柄の服がずぶ濡れだった。それ以前に、男は縄でぐるぐる巻きにされ、背後の枯れ木に縛り上げられている。

 男は必死でその光に対して、命乞いをしていた。

「俺はただ雇われただけなんだよ……」

「……誰にですか?」

 その光からは女の“声”がした。恐ろしく冷めており、機械的な喋りだ。

「そいつが分からないんだよ! 見ず知らずの男だった! それしか分からねえ! 突然、声をかけられて、頼まれてくれって!」

「その頼まれ事が、暗殺ですか」

 さらにトーンが下がる。自分の定めを予感付けさせる、嫌な雰囲気。

 男は肚の底から話していることは明確だった。なぜなら、

「暗殺じゃなくて捕獲だ!」

「どちらにしても、こちらからすれば同じことです。さて、正直に話さなければ、そのまま死ぬことになってしまいますよ」

 男の左手首から、どくどくと流血しているからだった。その傷はかなり深く、しかもこの雨で血が固まってくれないために、留まることを知らない。そんな事態なのに、恐怖感と焦燥感からか痛みも忘れている。心なしか、顔付きも()けてきており、唇から青くなってきている。

「た、たすけてくれ……! たのむ、たのむ!」

「どうしましょうかね。これでは平行線です。あなたが正直になっ、」

 どす、と枯れ木に小さいナイフが突き刺さる。その軌道には、

「ぎゃあああああああいあああああああっ!」

 男の耳があった。

「な、なんてことをするのですかっ! まだ話が、」

「もういいよ。いたぶってれば、勝手に話しだすでしょ」

 別の男の声。焦れったいのを我慢していたようだ。

「ば、馬鹿なことは、」

「ぎゃっ! ああっ! うぶ! いっだ、やべ、やぼっおおおおおお………………」

 止めに喉仏。激痛からか出血多量による衰弱か、それ以降話すことはなかった。

「……」

 フッ、と光が消えた。暗闇の中でキン、とピンが抜けたような音がする。数秒後、男がいたであろう場所から、轟音が響き渡る。

 

 

 雑木の枯林がある道を境に分かれていた。左手は上り坂、右手が下り坂だった。その木々の周辺には枯れた落ち葉がぎっしり。所々にくすんだ緑の雑草が生えている。ここは山の中だった。

 つい先日まで雨が降っていたのだろう。水溜まりはなかったが、乾いている部分はほとんどない。そこら辺も含め、道もしっとりと濡れていた。

 四人ほど並べる幅の道路だ。転落防止、あるいは滑落防止のためなのか、細い丸太で組んだガードレールが道の両脇に沿っている。

 空を仰げば、いまいちすっきりしない天気。重たそうな雲が空一面を埋め尽くしている。肌を突くような微風がその雲の行方を示していた。

 そんな山道を一人の旅人が歩いている。ふんわりしたフードの付いた黒いセーターに黒いカーゴパンツ、泥のついた黒いスニーカーという服装だ。荷物は登山用の黒いリュックと両腰にあるウェストポーチ二つ。とても旅をしているとは言えない軽装備だ。

「空気、冷たいね」

 誰かに話しかけるように、ぼそり。

「そうですね」

 女の“声”。旅人の首飾りとして、四角く水色の物体が揺れている。ちょうどそこら辺から“声”が出ていた。

「標高はそこまで高くないかな?」

「そうですね」

「今にも霧が出てきそうだ」

「そうですね」

「……」

 あまりに素っ気ない反応。旅人は、

「まだかな」

 あまり気にしないように努めつつ、進んでいく。時折、周りを窺うような素振りを見せていた。

 もくもくと歩き続けていると、先方に兵装の男二人がいた。もれなくいかつい顔をしており、左の男は顔面に斜めの傷が入っている。

 男二人は旅人の前に立ち塞がった。

「こんにちは」

「よう。入国かい?」

「うん」

 傷の男の背後に机があり、そこに流れるように荷物を置く。飾り気のないくせに、ここで入念に荷物検査が行われた。リュックの中身も、旅人の衣服を全て剥いでまで調べ上げられた。

「……」

 下着まで脱がされるも、恥ずかしい表情は一切見せない。

「……素晴らしい」

 傷の男が感服した。それは旅人の裸体の傷跡が並外れていたからだ。あらゆる武器や道具で身体を傷つけ、(あぶ)られ、(えぐ)られ、陥没隆起が凄まじい。どことなくあどけなさが残っているのに、その傷は死線を幾度もまたいできている。そんな想像を一瞬で彷彿(ほうふつ)とさせるほどだ。

 男二人は丁重に荷物を全て返した。

「すごく厳重だね」

「けっこう長閑な街並みなんだがな。正直、あまりオススメはしないぜ」

「?」

 残念そうだ。

「評判下げるほどなんだ」

「まあ、いろいろと事情があるんだよ」

「……」

 にこりと笑みを浮かべる。

「なおさら気になる。入国を希望するよ」

「……そうか。入国審査は合格だ。気を付けてな」

「ありがとう」

 

 

 検問から三十分ほど歩くと、ぐねっと曲がった山道から街が見下ろせる。まず一番に目につくのは、まるで絡みつくように走る川だった。石造りの家やコンクリートの家などが多く建てられている中、その隙間を川が流れていた。

 家より少し幅をとって、狭い道があり、人々はそこを通行できるようだ。場所によっては小さな橋がいくつも架けられていたり、船着場に降りるための階段が設けられていたりしている。

「きれいだ。天気がもっと良かったらもっときれいだったのに」

「そうですね」

 長かった山道が急に下がる。急勾配の坂道を、慎重に歩いて下りていく。そしてすぐ街の一番端っこに出られた。家と家との隙間のような道で、そこから家に沿うように、あるいは川に沿うように伸びていく。ここはちょうど、街の西側にあたる。

 直方体の石材を詰めたような道、そして川岸。旅人は景色を舐めるように歩く。昔ながらの石造りと近代的なコンクリートが入り混じった建築物、道が多い。しかし、その端々にちょっとしたお洒落があった。例えば、川に落ちないように鉄柵があるが、そこに色彩豊かな花を活けたり、その花の(つる)を伸ばして緑色にしてみたり、と、芸術性を求める部分がある。そういう意味でも、建築物は一色ではない。複数の家で虹を演出したり、石造りに似せた塗装を施したりしている。

 ほんのりと、楽しそうに見える。

「あの門兵さん、脅かしすぎだな。こんなにいい景観の街のどこが嫌なんだか」

「そうですね」

「……“フー”、いい加減にしてよ。いつまでふてくされてんだ」

 一転して、不機嫌そうに強く言う。女の“声”であり首飾りの“フー”は、

「あなたがあんなことをしたからです」

 強く言い返した。

「不可抗力だろ? オレだってまだ死にたくない」

「あんな拷問まがいなことをして、何が不可抗力ですか。生き残るためには仕方がないことだとは理解できます。しかし、あのような自分の欲求を満たすためだけに拷問をすることは、到底理解できません」

「そういう風に見えたのか?」

「少しだけ垣間見えたように思います」

「……なら、それはフーの思い過ごしだ。あいつは用済みだった。あれ以上の情報は持ってないだろうからな」

「用済みなら殺してしまうのですか?」

「できればそうしたくないさっ。でも、あいつはオレを殺そうとしてただろうが。自分が殺されるのに相手を気遣う奴がどこにいるんだよっ」

「それは“ダメ男”が甘いからではありませんか?」

「……オレが甘いだって?」

 怒気のこもった低い口調。旅人“ダメ男”はぴし、と血管が浮き出そうだった。

「お互い苛立ってるのを知ってて言ってんのか? あんまり過ぎたこと言ってると、本気で川に沈めるぞ、おい」

「どうせできないくせに何を言ってるのだか。ダメ男の詰めの甘さは今に始まったことではないでしょう? 短絡的に処理してしまうから、こうして今も尾けられているのですよ」

「敵を殺すのが甘いって言ってんのかっ?」

 ひゅん、とダメ男の背後から黒い影が飛んだ。その直線上、ちょうど川の向こう側で倒れる音がした。

「てめえは何様のつもりでほざいてんだ? あ?」

 ぼろぼろの衣服の男が倒れていた。右頬から左頬にかけて穴が空いていた。まるで何かが突き抜けていったように。そして、穴から大量に血が溢れ出ていた。

「これでオレはまた甘ちゃんだってかっ? 意味不明なことほざいてんじゃねえぞっ! そこまで文句言うなら、てめぇがやってみろっ!」

 ダメ男の口調が一気に荒れる。

「なぜそこまで荒れるのですかね? 答えは簡単です。単純なあなたのことです。図星だったから、威圧するしか手段がないのですよね」

「っ! お前が発端だろうがよっ!」

 一緒に旅をしているとは思えないほどに劣悪な雰囲気。ただの喧嘩、では済ませないようだった。

「冷静な判断を失っていますね」

「……」

 ぶち、と紐が切れた。いや、切った。

「これ以上は何を言っても無駄ですから。話をおわ、」

 思い切り叩きつけた。石造りの地面に怒りを全て込めるようだった。勢いが良すぎて、十数メートルほどずりずりずりずり、と転がっていく。

「……はぁ……はぁ……」

 ふるふる、と掌が壊れてしまいそうなほど握りしめる。そして、近くの鉄柵を蹴った。痛みはない。鉄柵が足の側面の形に(ひしゃ)げてしまった。

「腹癒せは済みましたか?」

「……」

 力なく、フーを拾いに行く。

「……うん」

 顔も少し疲れていた。

 フーについていた紐を自分の後頭部ら辺で結び直す。

「……」

 フーは一呼吸を置かせてもらう。

「足は痛くないですか?」

 自分の気を鎮めるように、深呼吸を何度か繰り返した。

「……」

 ふぅ、と締めで軽く。

「……大丈夫」

 いつもの軽い口調に、強引に戻した。

 

 

 曇っていて時間の移り変わりが明確ではないが、体感的に正午はとっくに過ぎている。

 ダメ男はもうしばらく街を散策することにした。片手に固形型の携帯食料を持って頬張りながら。

 街の西側から中心へ向かっていると、とても大きな川に出くわした。ここが街の中心で、いくつも伸びていた小さい川がここに合流するようだ。現に、ダメ男も沿うように歩いてきている。よって、この街は東西で区画分けされていると理解できる。

 川の幅は十メートル以上はある。生活用水も流しているようで、緑と灰色を混ぜたようなくすんだ色合いになっている。

 その川に橋が架けてある。数十人が横一列になれるほどの幅で、石材をびっちり使った巨大な石造アーチ橋だった。

「……」

 その圧巻さに、思わずフーも、

「これは見事なものです」

 舌を巻いた。

「これほど単純で奥ゆかしく、計算され尽くした造形美は滅多に出会えません。街の景観を損なうこともなく、でも街を象徴しています。にもかかわらず機能的で頑丈で、」

「フーがこんなにべた褒めするのも滅多にないな」

 先ほどの喧嘩が嘘のようだ。ダメ男が綻んでいる。

 ちらちらと周りを窺う。

「渡ってみましょうか、フーさん」

「はい」

 意気揚々。

 ダメ男はその風景をじっくり眺めながら、橋に足をついた。大きい川を中心に眺めると、まるで島と島が手を繋いで流れているようだ。

「うん」

 普通の道を歩いているような安心感と重量感。ダメ男は少しおかしくて笑う。

「どうしましたか?」

「当たり前なんだけど、ちょっとおかしくて」

「? 相変わらず変な人ですね」

「お前もな」

 方向を変え、川の様子も見てみた。歩いてきた川と同じ色。ゆっくりと流れていく。

「……?」

 ふとして何かが目についた。黄色い何かが浮いたり沈んだりしながら、流されている。

「フー、あれなんだ?」

「靴ですかね。布地にゴムのようなものがありますから」

「人がいるってことだな」

「良かったですね。人っ子一人見当たらないものですから、滅んでいるのかと思いましたよ」

 ダメ男が渡っている橋を含め、歩いてきた西側の区画では人を見かけるどころか、その気配すら全くなかった。

「東側も行ったら上流を辿ってみるか」

「そうですね」

 東側の岸も西側と同じように建物が並んでいるのが見える。小さい川が本流と合流していた。

 特に何事もなく、そちらへ渡り切る。

 奥へ入ると、家が囲うようにして農地が広がっていた。田んぼや畑、ビニールに包まれた家もある。川を利用して、水が通せるように灰色のパイプが繋がっていた。ここは農業区画のようだ。

 ダメ男は土の具合も一応見てみた。

「……人力で作った土だね。季節外れだから作物はないんだろうけど……耕してはあるな」

 しかし、この担当者や張本人は見当たらない。

 東側も西側とさほど変わりはない。違うのは、農地があることと、周りが川で囲まれていることくらいだ。

「面白い国だな。山中なのに川に囲まれてるなんて」

「湖の中に強引に作り上げたような国ですね」

「オレもそう思った」

「気持ち悪いですね。意見が合うなんて」

「ほんとだな」

「うわ、傷つきました。やはりダメ男は最低ゴミクズ野郎ですね」

「自分から地雷を踏みに行くなよっ」

 

 

 辺りは暗くなり始めてきた。ダメ男は街全体をあらかた散策し終えていた。人がいないことで、すんなり見尽くしてしまったようだ。

 地形としてはフーの言う通りで、全体的に川に囲まれているような形をしている。ただし、ダメ男が通った検問のところだけ、地続きだった。つまり、東南北が川、西が山へ続いているということになる。上流は道が続いておらず、川だけが伸びていた。

 時間が時間なので、宿を探すことにする。しかし、

「……」

 見当たらなかった。この国で、商業施設が見当たらない。全部民家だ。それに人がまるでいないので、尋ねることも何もできない。

 ダメ男とフーはようやく、この街の異常を実感したのだった。

「人がいない国ってのは少なくないけど、ここまできれいなままってのはそうそうないな。滅んじゃってるのかな」

「分かりませんね。しかし、誰かがお邪魔していたのは明確です」

 ある民家のドアを弄る。がちゃがちゃがちゃ、と上下左右奥手前動かしても開かない。いくつか試しても同じ結果だ。

「……フー」

「はい、何ですか?」

「ちょっと無茶するよ」

「どうぞ」

 ダメ男はそれからも家を訪ねてはドアをコンコンとノックした。

 見定めたのは三つ目の家だった。ドアは木製で、がっちりと鍵がかけられている。

 ふぅ、と一息つく。

 左足から踏み込み、ぐんと加速して右脚を軸に置いた、

「せいっ!」

 後ろ蹴り。

「見事ですね」

 木製のドアはど真ん中を打ち抜かれ、吹っ飛んだ、

「あ、あれ、ちょっとあれ?」

 はずだった。

 現実としては、その蹴った部分だけが破壊され、すっぽりと脚がはまってしまったのだった。

「フー、ちょっと助けて。抜けないっ」

「あなたは一体何をしているのですか。一人でコントしている場合ではありませんよ」

「いやコントとかじゃなくて、いだだだだ! (また)が! 股裂けるっ!」

「そのまま女性になってしまえばいいです」

 フーの愚痴も相まって、ひいひい呻きながらどうにか引き抜くことができた。想像以上にドアが薄く(もろ)かったようだ。

 結局、空けた穴を少し広げ、手探りで解錠したのだった。

 ダメ男は気を引き締め直して、中に入る。

「暗いね」

 そうこうしている内に日が沈んでいた。街灯もないので、余計に暗い。

 フーを取り出して操作すると、白色の強い光が出た。

「眩しくて気持ち悪いです」

「もう少しガマンしてよ」

「いえ、ダメ男の顔面と頭が眩しくて気持ち悪いです」

「分かってた。そう言うの分かってたよ。でも髪のことは言うな。ホントに冗談抜きで」

「はい、冗談抜きで言っています」

「……」

 ぐすぐす、と嗚咽が聞こえたような気がした。

 中はとても簡単な作りだった。目の前が居間でテーブルや椅子が並んでおり、左手に台所、右手には階段があった。椅子は四つ、二つずつ向かい合うように配置してある。

 すっとテーブルをなぞると、

「人……いたみたいだ」

 特に何も付いてこなかった。

 階段を上がるとすぐ部屋となっている。そこにはベッドが一つだけ。他は何もない。しかし、そのベッドはふかふかしていて気持ちよかった。

 その部屋の右手、つまり南側にある小窓を開けた。もうすっかり日が沈み、暗くなっている。遠くを眺めても、明かりが一つもなかった。光源はフーだけ。

 窓を閉めて一階へ戻り、台所へ向かう。右手側に台所、左手側が収納庫のようだ。物色すると、野菜やら果物やら、食材が入っている。それも、

「……おいし」

 新鮮なようだ。

 ダメ男はリンゴをしゃくしゃくかじりながら、荷物をテーブルに置いて座った。

「まるで盗人ですね。しかし、この状況では仕方がありませんかね」

「うん」

「もしここの家主様が帰ってきたら、弁償しなければいけませんよ」

「うっ……そうだな」

 ドアの方をちらっと見た。見事な穴が空いている。それが不気味に感じたようで、家の中にあったテーブルクロスを何重にも折って、詰め込んだ。

 ダメ男は自分の荷物から携帯電灯を取り出して点けた。部屋全体が白色に照らされる。

 しゃくしゃくと食べ続ける。

「どうなってるんだろうな、この国」

「想像もできませんね」

「周りに人いる?」

「熱探知で探ってみますか?」

「うん」

「熱探知を開始します。ぴーぴぴぴぴ……ぴぴぴぴ……」

 フーから電子音(?)が鳴り響く。

「範囲百メートル以内に、異常な熱反応は見られませんでした。人型生物は見られません」

「……そう」

「!」

 なぜか、震えている。それを見逃さなかった。

「怖いことを思い出しましたか?」

「……ふっぅ」

 ため息も震えている。

「少しね」

 セーターのファスナーをしっかりと上げた。

「大丈夫です。最悪、この国から出てしまえばいいのですよ」

「……なんか反則技みたいな感じはするけどな」

 ふふ、と表情が少し(ほぐ)れる。

 

 

 二日目の夜明け。雲が遠く行ってしまったために、北側に逃げ残っているような空模様だった。その晴れ間から、ちょっとずつ白けていく。

 ダメ男は昨日のこともあって、早めに目が覚めた。眠っていたところは二階の床。ベッドのシーツなどを床に引っ張ってきて、そこで眠ったようだ。

 まだ寝足りない。眉間のあたりを押さえて、項垂れている。

「おはようございます」

「……うん……おはよ……」

 声もか細い。

「あまり寝付けませんでしたか?」

「……」

 うん……、と息をつきながら呟く。

「もう少し時間がありますから、二度寝してはどうですか? ……」

「いや、もう起きるよ。何があるか分からないから……」

「あ、そうですか。……」

 シーツをまとめて綺麗に折り畳んで、ベッドに置いた。

 一階に降りると、タオルを取り出して台所へ向かった。流し台からきちんと水を出せるようだ。

「……ふぅ」

 ばしゃばしゃと顔を(すす)ぎ、こすこすと顔を拭う。それでもいまいち眠気が取れなかった。

「寝てる間に何かあった?」

「いえ、何もありませんでした」

「そっか」

「訓練はどうします?」

「……いいや」

 収納庫から適当にリンゴを取り出し、しゃくしゃくと頬張っていった。

 

 

 日の出。すっかり空は晴れを取り戻し、青々としている。そこから漏れ出すように、辺りは冷気に包まれていた。はぁ、と吐くと白いもやがかかる。

 水濡れタオルで身体を拭い、着替えも済ませた。今日は黒いシャツに黒いジャケットを羽織っている。

「……」

 家を出る前に、前日空けた穴から周囲を確認する。

「やっぱり誰もいない」

 ゆっくりとドアを開いた。

 昨日と同じ、人っ子一人見当たらないし、その気配すら感じない。しかし、

「……」

 ダメ男は敏感に感じ取っていた。

「フー、電池どのくらいある?」

「四十二パーセントです」

「周囲二十メートルだけでいいから、探ってくれる?」

「? 分かりました。……ぴーぴぴぴぴ……ぴぴぴぴ……」

 その間、じろじろと見回すダメ男。何かを探しているようだった。

「昨日と変わりません。異常はありませんでした。人が見当たらないのを除いて、ですが」

「ありがと」

 ダメ男はポーチから、黒い紐のようなものを取り出し、フーに取り付けた。先っぽを左耳にはめ込む。

〈どういうことですか?〉

 そこから、フーの声が出ていた。

「誰かが……見てる」

〈つまり、監視されているということですか?〉

「分からない。でも……確かに感じるんだ」

 ダメ男はひとまず歩き出した。向かう場所は、

〈どこへ行きますか?〉

「……狙われてる気がする」

〈分かりました〉

 以前通ったところ。つまり出国する、と言葉を濁して言う。

 ダメ男は本当に、昨日通った道をそのまま戻っていく。この国に入ってからあの家まで、ほぼ一本道だったので、それほど時間はかからなかったが、

「!」

 その途中、立ち止まった。

〈どうしましたか?〉

 やっぱり、とダメ男は確信した。

「オレら、口論してたからそこまで覚えてなかったけど、オレが殺した男がいない」

〈! そういえばそうですね〉

 ダメ男の対岸に位置する家の陰で死んだ男。その遺体は綺麗さっぱりなくなっていた。まるで元からいなかったかのように。

〈どういうことですかね?〉

「オレも分からない。ただ死体が残ってるかだけは確認したかった。もしなくなってるなら、絶対に誰かが運んだってことだろ? それも一人じゃキツイ。死体は重くなるからな」

〈まさか、幽霊ですか?〉

「……」

 複雑な表情。

「やっぱり、確かめるしかないのかな」

〈誰にですか?〉

「いるだろ? この国で唯一出会った住民が」

〈え? え、誰ですか?〉

「……門番だよ」

〈あ、ああっ!〉

 なるほど! とフーは感嘆の声を上げた。

 早速ダメ男は門兵のいる検問へと向かった。家に挟まれた狭い道を通り、山へと伸びる急な坂道を上る。

 その先に、

「いた」

 二人の男たちが座っていた。男たちはダメ男にすぐに気付いた。

「よお、出国かい?」

「いや、それはまだだ」

 なんだよ、ととても残念そうに零す。

「話を聞きに来た。この国がどういう国なのか、教えてほしい」

「……」

 男は地べたに座るように促した。話が長くなることを示唆している。

 荷物を脇に下ろして、座った。

「実は、俺たちにも分からねえんだ」

「え? だって、あんたたちはこの国の出身じゃないのか?」

「いや、俺らは隣国の者なんだ。二日交代でこの国の門番をしてる」

「西側は?」

「見てきたと思うが、この国は山際のくせに大きい川に囲まれた特殊な地形でな。この国へ来るにはここの道しかないんだ。だから、検問はここ以外に必要がない」

〈なるほど。だから門番様方の反応が街中になかったわけですか〉

 フーの方でも疑問があったようだ。

「じゃあ、どんな経緯でこの国に就くようになったんだ?」

「……実は、この国と戦争をして勝ち取った領土なんだよ」

「そ、そうなのか」

「と言ってもそんな凄惨な内容じゃなかった。むしろ全く逆」

「?」

「一滴の血も流さずに、戦争は終わったんだ」

「どういうこと?」

 傷の男が語り出した。

「……今から三十年ほど前、ここの地帯は戦争が激化していた。やっぱり国が近くにあると、どうしてもそういういざこざは起こる。それがついに頂点まで達して、戦争が始まった」

「まあ、よくある話だわな」

「それでいざ戦争ってなった途端、この国の遣いがやって来たんだ。そこで思わぬことを言われた。……私たちの負けでいいと」

「え……え?」

 度肝を抜かれるダメ男。

「普通、ありえないだろ? だってこっちは何もしてないんだぜ? なのにいきなり戦争放棄するんだもんさ、俺らの方が混乱したよ。結局、願ったり叶ったりってことで、それを受諾して、この国を乗っ取ったわけだ」

 ダメ男は左耳の紐を外し、フーからも抜いた。

「門番様、いくつかよろしいですか?」

「? この声は?」

「あぁ、こいつはな」

 ということで、簡単に自己紹介した。初めて見るようで、かなり興奮していた。記念に一緒に撮影もすることに。ありがとありがと、とダメ男も嬉しそうだ。

「何か、端折られた気分ですね」

「……で、話を戻して、フーちゃんなんだい?」

「遣いを寄越したということは、最低でもこの国を乗っ取った頃くらいまでは国民はいたわけですよね?」

「ああ。間違いない」

「では、こうなったのは何時頃なのですか?」

「えっと……おい、どんくらいだっけか?」

 傷の男がもう片方に問いかけた。

「そうっすねえ……半年くらい前っすよ」

 どうやら、傷の男の部下のようだ。

「その少し前くらいから、何か異変はありませんでしたか? 例えば、失踪事件があっただとか、窃盗強盗事件が多発しただとか、そういう類のことです」

「え? …………いや、何にもなかった……すっよね?」

「そうだな。引き継ぎでも特に聞かなかったし……」

「……今日中に来てもらうってできる?」

「え? 今日は無理だと思うが……」

「もしかすると、何か嫌な気配がするんだよな。あんたらの国がここを管理してるなら、調べた方がいいよ。実際中を見てきてそう思ったんだ」

「……そうかもしれんな」

 傷の男は深く頷いた。

「実は、この国のことは数ヶ月前から議題に上げられていてな。あまりに不気味で奇妙だから、俺ら以外は誰も近づかなかったんだ」

 ふぅ、とダメ男が安堵の表情を見せる。

「まさに“ウザい者が管を巻く”状態ですね」

「? それってどういう、」

「あ、気にしないで。フーの変なクセだから」

「癖とは何ですか、失礼ですね」

 すかさず、ダメ男がフォローを入れた。ちなみに“臭いものに蓋をする”である。

 傷の男は部下に招集するように命令した。はい! と元気良く返事をすると、勢い良く駆け出していった。

 待っているのも時間を持て余してしまうので、傷の男が、

「そう言えば、自己紹介がまだだったな。俺は“ガット”だ。今走っていったのが“アコル”で、俺の後輩にあたる」

「おお、よろしくガット」

 自己紹介がてら、改めて話し始めた。

「おそらく、増援が来るのはどんなに頑張っても明日からだろうから、今日はどこか泊まるといい。どうせ誰もいないだろう?」

「え? ここにいてくれないの?」

「はっはっは」

 傷の男“ガット”は大きく笑った。

「こう見えて、俺にも家族がいるんでな。帰らねば息子が心配してしまう。アコルはどうだろうな。あいつは好奇心旺盛だから、ダメ男に付き添うかもしれん」

「ほんとに頼む。あの街、一人だと死にそうなくらい怖いんだ。誰かに見られてるような気がするし」

「ダメ男、無理を言ってはダメですよ。それぞれ事情が、」

「見られてる? どういうことなんだ?」

 フーの言葉を割り入った。

 ダメ男は今日の出来事を詳細に話す。とても興味深そうに頷いていた。

「……と、こんなところか」

「あと、ダメ男が民家に侵入するためにドアを蹴破ろうとしたのですが、」

「その話はせんでいいっ」

 フーの言葉を遮って塞いだ。それも気になるガットだが、優先すべきことに焦点を合わせる。

「そうか。一日中監視されている感じ、か……。東側は農業区域なんだ。西側、つまりこっち側は居住区域でね。この国は自給自足で成り立ってるんだよ」

「まじか。それすごいな」

「東側の畑は見てきたか?」

 こくりと頷く。

「ここの作物は美味くてな。それが理由で乗っ取ったってのがあるんだ。川の水が旨味を引き出しているとかなんとか」

「へぇ。やっぱ作る上で水ってのは欠かせないものなんかね」

「川と言えば、あの靴は何だったのでしょうかね」

「上流から流れてきたってやつか?」

 ガットが確かめるように言う。

「うん。ちょうどオレらが見た時に流れてきたんだよな。タイミングばっちりでさ」

「ダメ男に見てほしいかのような、偶然にしては上手すぎますよね」

「あ、そうだ。ガット、そのことで頼みがあるんだけど」

「なんだ?」

 ダメ男は折り入って、と頼む。

「もし良かったら明日、上流を一目見たいんだけど、どうすれば行ける? ここからじゃ道がないみたいなんだ」

「あの川は山に挟まれるように流れてるんだよ。この先の道でも柵があったろう? 昔、転落事故が多くて、防止のために設置してあるんだ」

「じゃあ行けないってこと?」

「まあ、強引に山を降りてはいける。そっちには上流があるだけで何にもないんだが……何とか都合つけてみよう。あと、ダメ男の言う見られてるっていうのも、増援部隊と調べてくる」

「ありがと」

 こうして、無人の国の大探索が決まったのだった。

 数時間後、ガットの後輩“アコル”が戻ってきた。話によると、自国の王に直談判したそうで、ガットの予想通り、明日には増援が来るとのことだった。今日はとりあえず門番としての仕事を全うして、明日は二人を組み入れた探索隊を派遣する、という流れだ。議題にあげられていた分、対応が早かった。

 ついでに、ダメ男のことも話すと、ぜひ国王に会ってほしい、と打診された。

「国王直々なんて光栄だよな」

「というより、国王陛下自ら、こちらに足を運んでくださるそうっす」

「ふぇっ? まじでっ」

「うわ、その驚き方気持ち悪いです」

「黙れ。……よっぽどこの国に起きてることが不気味なんだろうな」

「それもそうっすけど、国王は旅人の冒険譚(ぼうけんたん)が大好きなんすよ」

「随分と物好きだな。話が合いそう」

 さて、とガットが立ち上がった。

「話がついたところで、そろそろ番に戻ろう。アコル、お前は終わってからどうする?」

「実は大事な証人ってことで、護衛の任ももらったっす。ガットさんは上がってもらっていいっすよ」

「まじかっ! それはまじで嬉しい!」

 全身から打ち震えるほどに喜ぶダメ男。アコルの両手を握り、ぶんぶん振り回した。

「心細かったぁ~!」

「すみませんね、アコル様。ダメ男は大の怖がりでして、昨晩もびくびくしながら眠っていたのです」

「そういうことを言うなっ」

「いいっすよ。俺も旅人さんの話に興味があるんすよ。もし良かったら旅話してもらっていいっすか?」

「よろこんでっ!」

 

 

 日が沈むまで、ダメ男は二人の脇で時間を潰すことにした。本当に怖がっているようで、フーがちくちくとダメ男を小馬鹿にしては、笑いを誘う。

 夕暮れも過ぎ、夜を迎えそうな頃。ガットはこの国を去っていった。

 ダメ男とアコルは泊まっていた家にお邪魔して、夜を明かすことにした。

「なんなんすか、この穴?」

「……」

 侵入するために空けた穴であるのは聞くまでもないが、その手順は適当に流しておいた。

 家の収納庫から食べ物と調味料と器を頂戴して、

「そのナイフは?」

 切っていく。ダメ男は野菜サラダを作るようだった。そのために使ったナイフは自前。

「借り物でね。オレのじゃないんだ」

 黒い骨組みに透明なシートを貼り合わせており、それがナイフの柄となっている。刃は柄の先端にある突起を押すことによって突出する。いわば、仕込み式のナイフだ。

 素手で盛り付け、調味料を適当にかけていく。柑橘系の匂いがする。

「はいよ」

「有り合わせでも美味しそうっす。さすがっすね」

「適当に盛り合わせただけだよ。でも、野菜が食べられるってだけで気が入るもんだな」

「い、いつもなっなに食ってるんすか?」

「食事時だからあまり話題にしたくないな」

「うへえ……それはきついっすね……」

 突っつくものを忘れ、台所を漁る。使えそうなものはフォークくらいしかなかった。

 ザクッと刺して、しゃくしゃくと口に運んだ。

「ダメ男さん、早速っすけど、面白い話いいっすか?」

「面白くはないだろうけど……でも国王より先に聞いちゃっていいのか?」

「もちろんナイショっすよ。国王様スネちゃうっすから」

「なんか国王っていうより友達みたいだな」

 ご希望通り、ダメ男は今までの経験談をいくつか話していった。本当に興味津々なようで、熱心に聞き入っては気になったところを尋ねている。ダメ男としても、とても話しやすかった。

「やっぱり旅人さんの話は面白いっすね。自分の知らない世界なんて、夢物語みたいっすよ」

「こちらとしても、知らない世界や訪れていない世界はまだまだありますよ」

「オレはお前よりもちょびっと知ってるけどな~」

 ふんふ~ん、と調子が良い。

「二人は最初からじゃないんすか?」

「はい。途中からですね」

「フーさんみたいな面白いものを見つけたら、一緒に行きたくなるっすよ。見るからに意味不明っすからね!」

「素直にお褒めの言葉にしておきますよ。ダメ男がそんなこと言ったら、シメますけどね」

「お~、こわっ」

「……」

「? どうしましたか? 仲間外れで()ねちゃいましたか?」

 ダメ男は難しい面持ちだ。

「もう一回熱探知してくれないか?」

「また視線を感じますか?」

 フーのちょっかいに、全く反応しない。真面目な話だとすぐに察するフー。

「うん。それだけじゃなくて、圧迫感があるよ。言い方が難しいんだけど……」

「俺のことっすか?」

「全然」

 にこりとして、言う。

「ぴーぴぴぴぴ……ぴぴぴぴ……」

「えっと、熱探知ってなんなんすか?」

「あぁ、温度を色分けして見る機能のことだよ。例えば、オレらはだいたい三十六度くらいだから、今の外気温に比べて高いでしょ? それを色で区別するんだよ。そうすると、熱の高い部分があるイコール生体反応がある可能性が高いってなるんだ」

「誰かいれば、その熱探知に反応するってわけっすか」

「そういうこと」

「へえ~、便利っすね~」

「熱探知終了しました。範囲は昨日と同じ二十メートルです。アコル様とダメ男以外に異常な熱反応はありませんでした」

 ありがと、とダメ男はフーをテーブルに置いた。

「オレら以外、二十メートル以内には誰もいないってことだ。でも、何なんだろう、このねっとりとした視線……」

「気のせいじゃないっすか?」

「ダメ男は他の能力は人並み以下なのですが、唯一、この感覚的な部分だけは秀でています。感性、感受性、第六感、危険察知、そういう類のものを頼りに、今まで生き延びてきました。それ“だけ”は馬鹿にできないのです」

 やたらと強調する。

「褒めてんのかけなしてんのかはっきりしてっ」

 ダメ男はちらちらと周りを見た。当然、それらしきものは見当たらない。

「心配ないっすよ。俺がいるっす!」

「頼もしい……」

「ダメ男、情けないですね」

 思わず、本音が漏れてしまった。

 

 

 翌朝。

「おはようございます」

 フーが先に起床(?)した。

 窓から差し込む光が、日の出を教えてくれる。空は雲一つない快晴だ。

 アコルがベッドで眠っており、ダメ男は同じように床で眠っていた。二人とも心地良さそうに寝息を立てている。

 起こさないように、密かに熱探知をした。西の方、つまり増援がやって来ているか確かめたかった。結果、まだその反応は見られない。

 ふとしてダメ男を見る。たらり、と涎を垂らしていた。完全に熟睡して、口が緩んでしまっている。しばらく、フーはその表情をご覧になった。

「あ」

 ごろんと寝返りをうってしまう。

 はぁ……、と小さくため息が聞こえる。

 突如、

「おはよっす」

 アコルの声がした。起床したようだ。

「おはようございます、アコル様」

「ぐっすり眠れたっすか?」

「はい。お陰様で。ですが、もう少しダメ男は寝かせておいてください。怖くて寝不足だったみたいです」

「いいっすよ。俺は身支度済ませたら、増援部隊と現地会議に行かなきゃっす」

「もう時間なのですね? こちらのことはお気にせず、行ってください」

「おうっす」

 そろそろ、とダメ男を起こさないように慎重に一階へ降りる。水の音がしたり金属音がしたり。それが大人しくなった後、ドアが開閉する音が聞こえた。ドタドタと早く重そうな足音から、かなり時間が迫っていたようだ。

 それから約半時後、ダメ男が起床した。

「んぅ……お、おはよ」

「おはようございます。随分とぐっすり眠っていましたね」

「うん……んぅ~!」

 ぐぅっと背伸び。

 すくっと立ち上がると、フーを持って一階へ向かった。洗面ついでに収納庫から食べ物を物色する。

「たおる、忘れた」

 顔がびしょ濡れのまま、リンゴをかじって二階へ戻っていく。

「行儀が悪いですね。ほら、床に水が垂れてしまいます」

「あとで拭くよ」

「そう言ってやった試しがありません」

 リュックからタオルを取り出して顔を拭く。そのまま、

「ん、ん……」

 準備体操を始めた。やっぱり、と愚痴が聞こえるも、ぼうっとしているのか聞こえないふりをしているのか。

「今日“は”訓練するのですね」

「今日“は”いろいろと動きそうだから」

「今日“は”嫌なことがなければいいですね」

「今日“も”な。っていうかこの言い合いなんなのっ? 上手いこと言ってるような気がするだけで滑ってる感はんぱないよっ」

「それはダメ男のせいですね。ツッコミも長くてつまらないですし」

「朝からダメ出しか」

 ダメ男は笑っていた。

 

 

 朝の訓練と朝食を終えて、荷物の準備に取り掛かった。今日もジャケットを羽織っており、そこから小さいナイフを何十本とテーブルに並べる。他に液体の入った謎の容器がいくつか並べられており、一本一本丁寧に浸していく。

「相変わらず地味な作業ですね」

「地味なものほど重要っていうだろ」

「ダメ男は顔から中身、頭までも地味ですからね」

「それどういう意味? けなしてるのか褒めてるのか微妙なんだけど」

「受け取り方によっては変わります。楽観的になった方がいいですよ」

「……たまにはいいこと言うな」

「失礼な男ですね、まったく」

 いつも通り、リラックスしている。

 ダメ男はナイフがしっかり乾いたことを確認し、ジャケットに戻していった。

 しゃくっとかじるついでに、仕込み式ナイフを取り出した。これには別のどろっとした液体を布でささっと塗布していく。包むように伸ばしていった。

 これもきちんと乾いたことを確認する。そして、

「……」

 右腕を露出させた。真剣な眼差しでその右腕を、

「……」

 掠める。つつつつ……と薄皮一枚綺麗に切れていく。

「うん」

 満足気にナイフをしまい、他の容器も片付けた。

「アコルは?」

「増援部隊と合流しに行ったようです。さすがに入国してからはまずいのでしょう」

「なら、オレはここで待ってた方が良さげだね。あちらさんはオレがここにいることを想定してるだろうし」

「そうですね」

 ダメ男は迎えが来るのを待つことにした。

 その間、今度はフーに手を付ける。前日、激しく叩きつけていたのに、ほとんど傷がついていない。かなり気にしていたようで、隅々までチェックしていた。

 よし、と安心すると、また別の容器を取り出して、別の布で塗りつけていく。

「んふ」

 ぬりぬりぬり、と事細かく拭いていった。傷はついていないが、汚れがついていたようだ。布が少し黒ずんでいく。

「あと、電池も取り替えてください。残りが二割を切っています」

「あいよ。じゃあフーも切っといてくれ」

 リュックから四角く薄べったい物体を持ち出す。ぶつ、とフーから鳴ったのを聞いて、フーの背面から抜き出して交換した。

 ぶつ、と再びフーから聞こえる。

「オートリカバリー完了しました。ダメ男死ね」

「今回はえらく直球だな」

「受け流さないでくださいこのド変態バカアホインゲン」

「野菜かよ!」

 

 

 しばらく待ってはいるものの、

「……遅いな」

「はい」

 誰も来ない。しん……、としていた。軍靴の響きやその声、気配など、まるで感じなかった。

 待っている間、荷物の整理だったり修理だったりと、出国の準備を済ませてしまった。

 耳を澄ませると、川のせせらぎが聞こえる。そこまで流れは早くないものの、不自然な角度や幅で歪みが生じ、音をかき立てているのだ。ダメ男はその優しい音に意識を(ゆだ)ねながら、集中していく。

 そんなこんなしている内に、太陽が正中(せいちゅう)を迎えてしまった。

 しかし、ダメ男はえらく落ち着いていた。

「どうしたんだろう」

「作戦会議が長引いているのですかね」

「ただの国の探索なのにか。しかも話になってたくらいだし、対応が早かったしで、そこまできて今さらな気もする」

「確かに。それにアコル様も行ったわけですから、ほぼ決まっていたと見ていいですね。では、何か不測の事態に見舞われたと判断するしかないですね。どうします? 探しに行きますか?」

「いや、その必要はないと思う」

 ぽつりと、呟いた。

 フーは予想もしない一言に、聞き返す。

「なぜですか?」

「……あの見られてる感じが今はしないんだ」

「え?」

「もう、ここに留まってる意味はない。……出国しよう」

「え? え?」

 フーはダメ男が冷静な理由が分からなかった。

 

 

 太陽が正中からかなり沈んでいる。それでも陽気を降り注ぎ、寒いのにぽかぽかと温めてくれた。空も真っ青で、とても清々しい。

 枯れ木が並ぶ山道の中、ダメ男は来た道を戻るように歩いていた。何となく手持ち無沙汰なのか、手摺りを伝っている。

「まだ解明したわけでもないのに出国するというのも、変な気分ですね」

「あんまりないもんね。滅んでたり戦争中だったりで、気に留めない限りは素通りしてたし」

 すりすり、と手摺りを触る。

「思えば、この道自体不自然だったんだよな」

「え?」

「道自体がそこまで古くないんだよ。無人の国に比べれば浅いはず。つまり、ここは後付けされてるってわけだ。ガットも柵は転落防止のために付けたって言ってたしな。少なくとも無人の国ができる以前からは存在しない」

「それは当然ですよ。でなければ、ガット様方もここまで来られませんし」

「フー、それが何を意味してるか分かるか?」

「?」

「この道は戦争が終わってからできたもの。ってことはだ、ガットの国の都合で作られた道ってことになる。単刀直入に言えば、この道はガットたちの国に真っ直ぐ繋がってるはずなんだよ」

「まぁ、そう考えられなくもないですね」

「敵国の大部隊の兵隊が出向くっていう、しかも国王まで来る数少ないチャンスをオレだったらどう活かすだろう。それも三十年という長い長い伏線につぐ伏線でできた、一生に一回もないかもしれないこの機会をどうするだろう……」

「敵国って……まさか……」

「……見えてきた……」

 それはあまりにも悲惨な光景だった。

 ダメ男の言う通り、大人数だったのだろう。見渡す限り、道に沿って真っ赤に染め上げられていた。それだけに及ばず、周辺の木々や柵、道路がめちゃくちゃに破壊され、そこにも飛び散っている。人の形をしていたであろう何かが潰れ、柵にへばり付き、中身と一緒に下へ落ちている。そちらでは川が流れ、今でも真っ赤に筋を伸ばしていく。山の上り側でも、ある一線状を境に、血飛沫や肉片の散らばりが目立っている。そこから上方は枯れ木がばらばらに散らばっていた。

 辺りは酷い血臭と生臭さ。内臓の中身までも飛散し、腐敗臭のようなものも立ち込めている。多くを見てきたダメ男ですら、鼻を覆うほどだった。

 地獄だ……。ダメ男はぽそりと漏らす。

 その地獄の中を仕方なく歩く。生物(なまもの)を踏みつけるぐにょぐにょした感触と枝を踏み折るような感触、ぬちゃぬちゃと引っ付く粘り。なるべく避けて通るが、それも難しいほどに肉片と死体が押し詰められている。

 吐きたくなる衝動と足が止まりそうになる震えを必死に抑えて、歩き続ける。

「!」

 ダメ男はある“顔”を見つけた。原型を留めていないが、特徴的なものがあった。

「……この傷……」

 顔を斜めに走る古傷。疑う余地もない。

「ガット……」

 目元が緩くなりそうになる。ダメ男はそれを堪えて、再び歩み出した。

 距離的には数十メートルほどだろう。だが、そこを歩き切るのに数十分かかった。

 気を抜けば戻しそうになる。

「大丈夫ですか?」

 フーも心配そうに声を掛けた。

「吐いた方が楽になることもありますよ」

「……大丈夫」

 弱々しい呼吸。相当参っている。

 しばらく、赤い足跡を残していくダメ男。ようやく落ち着いたようで、すぐに下を見た。

「……あれは……」

 川岸に人がいる。尋常じゃない人数だ。大会でも催しているかのような大人数。老若男女がざっと数百人は並んでいた。そして、

「ダメ男!」

 フーが声を張り上げた。

「動くな」

 ダメ男の腰に硬いものが当てられる。それが何なのか、見ずとも分かった。

「お前は誰だ?」

 それを聞いたのは、相手の方だった。怪訝そうに、両手を上げるダメ男。別のところから別人がダメ男の荷物を奪い取っていく。ついでに身体検査を念入りにされ、両手を後手で拘束された。

 柵に押し付けられるように座らされた。

「なぜあっちから人が来る?」

 男たちは精鋭部隊、というわけではなかった。シャツにパンツというごく普通の服装に覆面をしているだけ。ただし、エモノはえげつないものばかりだ。ショットガン、マシンガン、中には機関銃を両肩にかけている者もいる。

「……なんのこと?」

「隊長、別の者から情報が」

「なんだ?」

「この男は敵国に味方していた旅人だと」

「……そうか」

 隊長の男が、ダメ男にマシンガンを向けた。

「礼に鉛弾をくれてやる」

「……」

 隊長の指が、マシンガンの引き金を……、

「野菜美味しかった……」

「!」

 躊躇う。唐突に言い放った一言が、ぴくりと止まらせた。

「今の反応でやっと確信したよ」

「なに?」

「あんたたちは、あの無人の国の住民で間違いないな?」

「……」

 隊長たちは何の素振りも見せない。ただ、銃口は常にダメ男の頭に向けている。

「三十年前、いろんな(もつ)れから戦争が始まった。多分それは建前で、本当はみんな侵略したかったんだろうな。で、侵略するにあたって、ここの国は一番重要だったろう」

「……どうしてだ?」

 隊長は手を上げて合図を送る。部下たちに銃を下ろさせた。部下たちは、別の作業をしに、その場を離れていった。

「川だよ。山の中にあるこの国は、他の国と比べて上流に近かった。この地帯の水資源は川が大部分のはずだ。つまり、他の国よりも上流を確保したい理由があったってことだ。……それ以上はオレには分からなかったけど、そこまで当たりをつけた」

「……」

「ところが、土地環境が悪く、この国の出入口は川か険しい山しかない。船を使うって手もあるけど、待ち伏せされるのがオチ。結局、まともに戦えば全滅は避けられない。だから、先手を打った。先にどこか強い国に降伏宣言を出したんだ。そうすれば、その国の庇護(ひご)を受けられるからな。そうやって何とか滅亡までは避けられた」

「……なるほど。しかし、それがこの状況を生んだ理由にはならんぞ?」

「まだ続きがある。あんたたちはもちろん、植民地になんてなりたくなかった。でも歯向かうにしても、この袋小路な環境は変えられない。だから、ある策を実行した」

「策?」

「この袋小路な国を、餌にして誘い出したんだ」

「!」

「まずは侵略させやすいように道を作った。今まですごく従順だったんだろうね。その要求はあっさり受け入れてもらった。国と国を真っ直ぐ繋ぐ道。これは逃げ道を一方通行にするためのものだ。上から攻められたら左右か下に逃げるだろうけど、下には川が流れてるし国に戻るように逃げれば袋小路だ。左右から攻められたら上下に逃げるだろうけど、やっぱり川がある。心理的に上に逃げたくなるだろう。現にそれを狙ったかのように、山の頂上側は血は少なくて、銃撃の痕が凄まじかった。それは転落防止の柵が足止め役となって利いてる。そうやって、あんたたちは標的を虐殺していったんだ」

「……」

 隊長格の男は、覆面を勢い良く取った。中年の男で、どこか一般家庭の夫という感じだ。

「虐殺じゃない。天誅(てんちゅう)だ」

「天誅?」

「奴らは、あの川に毒を仕込むと言ってきやがったのさ」

「……え?」

「確かに下流の人間は全滅するだろうよ。だが奴らの国もその範疇だったんだ」

「それって……自滅じゃん」

「そうだ。あいつらの目的はこの国を乗っ取ることじゃない。俺らを悪役に仕立てて、他の国と同盟を作ることだったんだ。自国民を犠牲にしてもな」

「……」

「なるほど。同盟というのは提案する側が下に見られるものです。ですから悪に立ち向かうリーダー役として先んじれば、足元を見られることなく同盟を作れる、という魂胆ですか」

「その通りだ。俺らはもちろん反対した。人を殺すのも嫌だし、俺らの命でもある水を汚したくない! そうやって、反対して三十年が経った。だが、連中も嫌気がさしてきて、とうとう強行突破することにしやがった。だが今すぐじゃない。ある程度猶予がある。だから、俺らは住民全員が突然消えていなくなるっていう自作自演を編み出した。最初はただどこかにいっただけと思ってたんだろう。だが、それが一ヶ月二ヶ月と過ぎてくると、連中は不気味がって近寄らなくなった。それが毒を仕込む期日を延ばすことにも繋がった」

「それで、兵隊全員を殺したってわけか」

 ダメ男は隊長を睨む。

「そうさ。……旅人にしては頭のキレるやつだ。ほぼ全てを見破るとはな。だが、それをなぜ兵隊たちに教えなかった? 疑わしいとは思っていても、教えればまた別の手段が取れただろうに」

「……」

「結局、あんたも俺らと同じさ。見殺しにしたんだ。避けられたはずのこの状況を」

「……」

 なぜか、にやりとする。

「何がおかしい」

「そう。奇しくも、オレもあんたたちと同じだ」

「?」

「オレが教えなかった理由は実は同じところにあったんだ」

「なに?」

「その前に……拘束を解いてほしい。オレはあんたたちに敵対する意志は全くない」

「! 馬鹿な。そんな要求受け入れられるか」

 隊長はダメ男のおでこに銃口を突きつけた。しかし、

「……くっ……」

 そこまでだった。

「……」

 隊長の瞳を真っ直ぐ見つめるダメ男。その眼は死を覚悟しているとも、哀願しているとも違う。無表情でもなく、喜怒哀楽でもない。しかし、隊長は分かっていた。

「~っ! くそっ」

 苛立ちを隠せないはずなのに銃を退けた。結局、ダメ男の拘束を解除したのだった。

「頭がキレるなんてとんでもなかった。自分を殺す人間を信じきるなんて、お人好し以前にただの大馬鹿野郎だ」

「……無意味な殺しはしないって思ってたから」

「……」

 マシンガンを肩にかけ直した。

「……あんたはオレの命の恩人だからな……」

「は、はあっ?」

 思わず、ダメ男を見てしまった。

「こいつらはオレを狙ってたんだ。この国に来る前から」

「? どういうことだ?」

「少し前から妙にまとわり付かれててね。入国してからもはっきりとは分からなかった。でも、あるものを目にしてからは確信に変わった」

「あるもの?」

「……入国した時に、オレが殺した男の死体だ」

「?」

「多分、刺客だろうとは思うんだけど、疑問に感じてたんだ。どうしてそいつはオレを殺さなかったんだろうって」

「手持ちがなかったんだろ?」

「そう! そこがおかしかったんだ」

「よく意味が分からないんだが……」

 ダメ男は肩を回して、解した。

「もっと前に、オレを付け狙ってたやつに尋問したことがあってね。そいつから、オレを捕獲する依頼があったそうなんだ」

「じゃあ、生け捕りにしたいから銃火器を持ってなかったってことだろ」

「それじゃあ、どうやってオレを生け捕りにするの? 戦いは避けられないのに、武力を持ってないなんて殺されにいくのと同じだ」

「……」

「他にもおかしいことはあった。男の死体は消えてるし、門番がオレが証人だからって付き添ってくれるし、挙句の果てには国の探索まで請け負ってくれた。たかが一旅人の頼みなのに。それも国王自らが直接国にやって来るなんて、異常すぎる。だからこう考えてみた。あの男はオレをここに誘い込むために、尾けてたんじゃないかって」

「! それって……」

「そう、連中はこの国の環境に気付いてたんだよ。奇しくもあんたたちとほとんど変わらない方法だ。標的をこの袋小路に誘い込めば、あとは煮るなり焼くなりだ」

「……」

「ってことは、もうこれは、刺客の依頼者がその国王だって判断するしかない。つまり、オレを殺そうとしてたのは国王だったってわけだ」

「……それはお前の推測でしかないだろう?」

「うん。推測なだけで誤解かもしれないからこそ、オレは怖かった。思い切ったことができないからさ。……そこで、あることを思い出してね」

「なんだ?」

「黄色い靴だよ」

「……!」

 男の表情が変わった。

「まぁ、それ自体は別になんともない。問題はタイミング。その時オレは橋を渡ってる最中だったんだ。無人の国にたまたま旅人が入国してきて、しかも橋を渡ったタイミングで、ちょうどよく靴が流れてきた。偶然って言えばそれまでだけど、もしそうじゃないなら何を意味してるんだろう。……オレはここの住民はいますよっていうメッセージじゃないのかなって思った」

「……」

「そんなこと、オレを常時見張ってないとできない。つまり、オレを監視してたのは国王たちじゃなくて、あんたたちってことだ。いや、もしかすると、どっちもオレを監視してたのかもしれない。そう考えてから、オレがそれらしいタイミングを作ってあげるだけ。門番に国の探索を依頼するなりなんなりして、こっちに来させるようにすれば、絶対に何か起こるだろうって思った」

「! ……俺らを利用したのか!」

「利用っていうより、助けてほしかった。十人くらいだと思ってたけど、見たらその倍以上はいた。放っといてたら絶対に殺されてたよ。結果的に助けてもらえたけど、全部が紙一重だった……」

「……」

「話が長くなったけど、これで理解してもらえたかな? あんたたちを敵対する意志はなくて、むしろ命の恩人だってことが。ここまで綿密な作戦を練ってきたあんたのことだ。きっと分かってくれると願ってる」

「……ふ」

 それを皮切りに、隊長格の男は大笑いした。

「はあ……」

 ダメ男はそれに乗じずに、にこりとしているだけだった。

「一つだけ間違いがある」

「?」

「あの靴は偶然だ。隠れてる時に、間違って落としてしまったんだ」

「そうだったんだ。でもまぁ、今となってはどうでもいいかな」

「……この戦いは関係ない人間を巻き込みたくなかった。でも、関係ない人間がいなかったら成功できなかった。感謝するのは俺らの方だ。お前の機転の良さが、俺らの国を救ってくれたんだ」

 すりすり、と頭をかくダメ男。

「そう言ってくれるとありがたいよ」

 口元がゆるゆるでにやにやしそうだ。

「……ところで、あの死体の山はどうするつもり?」

「ああ、山奥に埋めるよ。既にやつらの墓を作っておいた。誰なのか分からないからまとめて入れるけどな」

「そっか」

 ダメ男は特に気に留めていないようだった。

 それに反応したのは、フーだった。

「旦那様、二つほど尋ねておきたいことがあります」

「ああ……」

「監視していたのはあなたですよね?」

「? なぜだ?」

「先ほど、こちらの“声”を聞いても何の過剰反応も見せませんでした。知っていたからではありませんか?」

「……あまりにも二人が自然だからうっかりしたよ」

 ため息をつきながら、微笑んでいる。

「安心しました。それともう一つ、ここの山は枯れ木が多いようですが、何か原因があるのですか?」

「え? ……比較的雨が多いからかなあ。そこまではちょっと……」

「ということは、地質調査などは行なっていないのですね?」

「ああ」

「分かりました。そこでですね、無理を申しているのは承知の上なのですが」

「……なんだい?」

「ここを早めに立ち去った方がいいかと思います。とても危険です」

「? どうして?」

「それは……」

 

 

「フー、あの話って本当なの?」

「はい。確実ではないのですが、可能性は高いと思います」

「……そうなんだ」

「あの方々はとても優秀ですから、すぐに対策を講じると思いますよ。どこかの誰かさんと違って」

「? なに? またお説教ですか……」

「ロクな目に遭わないのは分かりましたよね? 金輪際、止めるべきです。誰のためにもなりません」

「……もう、ほんとに根に持つなぁ……」

「あなたがきちんと反省して謝罪するまでは延々とグチグチ言い続けます。それが役目だと自負しています」

「お前はお母さんかっ!」

「こんなに手間のかかる子供はいてほしくないものですね」

「……」

「また拗ねましたか。いつまで経ってもあなたは子供ですね」

「いいんだい! オレはどっちだっていいんだい! オレは我が道を行くのさ、まいうぇ~い! へい!」

「キャラと顔面が激しく崩壊していますよ。昔からですが」

「っさいっ!」

「それより早く進んだ方が身のためです。何が起こるか分かりませんから」

「言いたい放題、君砲台」

「あなたは偉大、馬鹿の偉大。いい加減にしなさい、このインゲンモヤシブナシメジ」

「また野菜かよっ! みんな細いし!」

「ほら、あなたのおふざけに付き合ってあげましたから、早く出発してください」

「子供をあやすんじゃないんだからっ! 言われなくてもすす、……!」

「どうしました?」

「……誰か、また……?」

「いえ、それは被害妄想です。早急にお医者様にかかることを推奨します」

「あっさり否定するなっ」

 

 

 山の境目を走る川。豪雨のために増水しており、その勢いは鉄砲水だ。本来の軌道から溢れ、飛び出るように四散していく。

 ある場所で鉄砲水は弾かれていた。弾けながらも、そこを削り取りながら一緒に溶けていく。その後方はさらに濁っていた。

 どこからか轟音が聞こえる。両側の山が崩れ落ち、枯れ木と一緒に流れ落ちてきた。土砂崩れだ。泥をふんだんに含み、弾けていた場所をさらに覆い尽くすように上乗せしていく。大きな水溜まりでもあり、雨飛沫と水飛沫、泥飛沫がごちゃごちゃになって、爆発した。

 まだまだ豪雨は続いていく。山や枯れ木を削り取りながら、川を作り直しながら、色んな物を飲み込みながら。

 まだ泥の薄い層、ちょうど土砂崩れの起こった際から、もぞもぞと何かが動いている。ずぼっ! と空気を含んだ泥の音と一緒に腕が出てきた。必死に足掻いて、どうにか抜け出ることができた。

 隊長だった。全身に泥がまとわり付き、土砂崩れの勢いで衣服がぼろぼろに剥げてしまっている。顔を天に向けて、天然のシャワーを浴びまくった。豪雨のおかげで、さらさらさらと落ちていった。

 周りを見回す男。そこはもう泥の海。かつて存在していたものは自分の足の直下にあることを悟った。

 悲しさのあまり発狂し、頭を抱え、泣き叫んだ。その小さすぎる声は豪雨で掻き消され、気付いた時には既にいなくなっていた。

 

 

 


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