なだらかな稜線から濃い緑が敷かれていた。杉が
高低差の激しい山岳地帯だ。
普通の道とは違うしっかりした道があった。等間隔に敷き詰めた鉄組に、包むような鉄線、それを結ぶ鉄柱が立てられている。その道は山を貫通し、トンネルを形成している。中は日が当たらず真っ暗だ。
その中から徐々に鈍い音が響いてくる。動物の唸り声とは違い、無機質な轟音だった。
出てきたのは黒い蛇。それも今までに見たことのない蛇だった。何百倍も大きいサイズに頭から煙を上げ、空気を響かせる。ただし、こちらに襲ってくることはない。蛇は先程のしっかりした道を、まるで定められたように走り去っていったのだった。
驚くことに、蛇の体内には人が飲み込まれていた。それなのに彼らはそんな緊張感もなく、外を眺めていたりうたた寝をしていたり。よく見てみると、向かい合わせの座席まで設けられていた。
彼らの中に、蛇の体色と同じ服を着た男がいた。まさに外を眺めていた人物だ。厚手のもこもこしたセーターに黒いパンツを履き、薄汚れた黒いスニーカーを履いていた。向かいにはぶっくりと太ったリュックが相席していた。
窓縁に肘をついて、景色を眺めている。
「……」
感傷に浸っているようだった。
「……」
ふと、肘元の方に視線を落とす。そこには一枚の小さな紙、掌よりも小さい紙があった。細かい文字でつらつらと何かが記されている。
「ダメ男?」
“声”。冷淡で凛とした口調の“声”がした。どこからともなく。
「なんだよ」
“ダメ男”と呼ばれた男は平然と返事をする。
「どうしたのですか? また気持ち悪いことを考えていたのですか? それとも自分の醜い顔を見て、気持ち悪くなりましたか?」
「ふふ……どっちでもないな」
少しだけ笑って吹く。
「そうですか。しかし、こんな
「そうだな。オレも初めて乗ったのが、こんなところだなんてな」
「噛んでいます」
「うっさい」
ダメ男は首元に手を掛け、何かを取り出した。水色とエメラルドグリーンを混ぜた色の四角い物体。それに黒い紐を通し、首飾りにしていたようだ。
きゅっと手にすると、窓縁にある小さい紙の隣に置いた。
「乗員さんの話では“機関車”と呼ばれているみたいですね。機関車とは駆動用の原動機を搭載し、軌道上で客車・貨車を
「あぁ。要するに船みたいなもんだろ?」
「全然違います。船と機関車の違いは、」
「あーいいよもー。頭痛くなるから」
「そうですか」
“声”は四角い物体から聞こえている。その主はそれのようである。
「一般男子はそういうのに憧れているものとされているみたいです」
「オレは特に無いけど……“フー”はどうなの?」
“フー”と呼ばれた“声”は、
「とても興味があります」
ハキハキと答えた。
「初めて見るものだしな」
「この乗り物はどういう仕組でどのようなエネルギーで原理で動いているのかとても興味深いです。さらに線路脇にある謎の鉄柱や鉄線がどういう効力があるのか、そして、」
「もうお前直接聞いてこいよ……」
「あなたが動かないから謎が深まるばかりなのです。役立たず」
「いつか係員さん来るだろうから、それまでお楽しみにとっとけ」
「自分が動きたくないだけでしょう? 出不精ゴミクズ」
「じゃあ行くか?」
「いいです」
即答だった。
「肝心なこと棚に上げながら役立たずとかゴミクズとか……最低だな」
「最々低のカス人間に言われたくないです。今でも忘れませんよ? あの夜、私に襲いかかりあんなことやこんなことを、」
「でっち上げるなよっ。……あ、ちょっとトイレ」
ダメ男がフーを手に取って立ち上がると、
「動かすなと言っているでしょう!」
フーが強く言い放った。あまりの大きさにビリビリと痺れてしまいそうだった。
他の人たちに頭を下げて、ダメ男は席に着いた。
「うう……」
「自分が乗り物酔いしやすいって完全に忘れてたもんなぁ……」
「気持ち悪い……ダメ男の顔でさらに気持ち悪い……」
「お前、そういうこと言ってるとこうだぞ?」
今度はぶんぶん振り回した。
「やあああぁめええぇぇてぇええぇぇぇ!」
にやにやしている。
「お、面白い……」
ダメ男の目がキラキラしていた。
「それがいじめっ子の心理なのでしょうね……うっうぅ……」
その後もダメ男は事あるごとにフーを
「くぅっ……やっと悪夢から解放されましたか……うぷっうぅ……」
フーにとって、とても平穏な時だった。景色を眺め続けて数十分後、黒い制服を着た乗員さんが通りかかったので、フーは呼び止めた。あれこれそれと身元を説明し、お話を伺っていった。
「元々、ここは機関車じゃなくて電車が通っていてね」
「電車というのは電気を動力とする機関車でしょうか?」
「まあそんな感じだね。でも昔、ちょっとした紛争が起こっちゃって、電気が軒並み使えなくなってしまったんだ。そこで、この蒸気機関車が再採用したってわけさ」
「かつて引退した英雄がカムバックを果たしたようですね」
「まさにそうだね。……今は紛争は収まって、本当なら電車は使えるんだ。でも、昔からこの蒸気機関車を愛したお客さんが多くてね。その名残で電線や電柱がそのままなんだよ。よく見ると
どこにあるのか分からない“眼”で、フーは外の景色に目を凝らす。なるほど、とフーは納得していた。ここからでは黒いとしか判別できないのだが……。
「ファンというわけですね。正直、発展しているとは言いがたいこの地域で、機関車という名物があっていいですよね」
「……」
乗員さんはふっと瞳を伏せた。
「……実は……今日で最後なんだ」
「え?」
「厳密には昨日で終わりだったんだ。動力部の重要な部位に故障が見つかってね……。でも、お客さんからの要望が熱くてね。無理を言って走らせたんだ……。で、旅人さんはこの帰りに、たまたまこの機関車に乗ったんだよ」
「そうだったのですか。一戦に戻った英雄も遂に完全に引退するということですか。引退式はあるのでしょうか?」
「もちろん! 終点で開催するから……もし良かったら見ていくかい?」
「はい。ぜひ!」
ありがとう、と一言残し、乗員さんは立ち去った。
そこから半時後、
「ン……んぅ……」
起床した。と同時に荷物をまとめ出した。
「何をしているのですか?」
「何をって……降りる準備だよ」
「何を寝言を言っているのですかっ?」
「何を言ってんだよフー? もうそろそろ降りる頃だろ?」
「英雄の引退式を見ないのですか?」
「え、英雄? 誰のこと?」
ダメ男は不意に周囲を見渡してみるが、該当しそうな人物はいなかった。
「かつて過酷な戦場を生き抜き、母国に多大な戦果を上げ、国民から英雄と褒め称えられた男を……見捨てて行くというのですかっ? もう年寄りだからって
「な、なになに……? どっか故障でもしたんか……?」
「あなたがここに乗ったからには、その英雄の最後を見届ける義務があるのですっ! その義務を放棄することはあなたの中にある信念を捨てることと同義! いつからそんな軟弱なことを
「お、オレ……特別変なこと言ってないよね……? ただ降りるって言ってるだけのはず……」
「まだ理解できないのですか、この分からず屋!」
「とっとにかく何があったのか話してみ? 落ち着いてさ……」
ダメ男は勘違いしていた。
終点。森の中にひっそりと
機関車は行き止まりにぎりぎり停車する。圧力が抜けるような音とともにドアが開き、中の人たちを左側へ降ろしていく。ぞろぞろと人並みに溢れていき、あっという間にごった返してしまった。それもそのはず、乗客の何割かはその場に留まっていたからだった。しかも元々終点で待っていた人たちも合わせれば、かなりの人数となっている。
若男女問わず、彼らの視線は機関車に集中している。
「……」
その人混みの中に、複雑な表情のダメ男がいた。
「……」
十分に奥に行ってから、
「うぅぅぅう……」
ぼろぼろと泣き崩れた。
「な、なんてこった……」
言葉が漏れている。
「自分の親友を助けるために……母親を殺したなんて……ううっ……なんちゅうひげきや……」
「予想通りですが、そんなこと話していませんからね」
「ちょっとした冗談だろ」
ピタッと泣き止む。
「それこそお前、何が英雄だよ。全然話が見えなかったわっ。分かりづらい表現すんなってのっ」
「いえ、ダメ男はああいうのが好きかなと思いましてね」
「話が長いせいで、結局ここまで来ちゃったしっ。ほんの二、三行で言えることを、よくあそこまで話を膨らませたな」
「それが狙いでした。でも、ちょっと気になったでしょう?」
「……まぁ……」
“かわいい人……”、どこからかそう聞こえた。
引退式とやらが始まった。まずは開催の言葉、そして国歌斉唱と、どこかの卒業式かのような始まりだった。来賓挨拶では、一国の王が何十人と来席し、涙を堪えることができていなかった。
「わしは……小さい頃からこの機関車を乗りに、父にせがんだものよ……。ゆったりとしたリズムと心地良い振動、硬すぎず柔らかすぎない座席……全て身体に染み付いとるんだよ……。そしてそこから眺める絶景の自然……。まさに鬼に金棒、ご飯にふりかけ並みの一体感じゃった……」
来賓挨拶をしていた国王は、ふるふると顔が震えている。当時を思い出し、感極まったようだった。
「……どっ、どうしてもダメなのか? もうこの機関車には乗れぬのかっ……? わしの全財産を融資しても……!」
乗員さんに問いかける。が、ゆっくり横に振られた。
「残念ながら……」
「くっ……うぅ……うううぅぅっ……!」
「どんだけ大好きなんだよ。機関車とふりかけ……」
ダメ男の冷めたツッコミも熱すぎる雰囲気に溶け込まれていく。
そんな感じに進行していき、最後の時を迎えた。
「これより、お別れの発進をしたいと思います」
「そんなぁっ」
「頼む! 行かないでくれ!」
「たか号! いかんといてくれえっ!」
遂に客からも涙が溢れ、まるで最愛の人を見送るように、言葉を投げかける。
「お願いですっ! 行かせないでくださいっ! たか号っ」
「お前も何ノセられてんのっ!」
乗員さんが客たちに一礼し、機関車に乗り込む。
「ああぁぁぁっ」
「うわあぁぁっ」
言葉だったものが、号泣へと変わり、悲痛な叫びへと繋がっていく。
それに応えるように汽笛が鳴る。とても力強くも、どことなく虚しい無機質音は、
「たかごおおおっ!」
「たかああっ! たかあああああああっ!」
「俺たちは待ってるからなああああっ!」
「お前が帰ってくるのをっ」
線路に沿って、走り去っていくのだった。その後姿を、客たちは見失ってもずっと見送るのだった。
「……」
冷めていたダメ男の表情も少し緩み、ぴくぴくと瞼が動く。
「……行くか」
「はい」
ぎゅっと瞼を閉じ、深くため息をつく。
荷物をまとめ、ダメ男は改札へ向かった。
「別れというのは寂しいですね。こういう湿っぽいのを何度も経験しているというのに、全然慣れません」
「慣れてもそういうもんだよ」
改札の乗員さんに挨拶を交わし、
「切符ある?」
「あ、えっと……これ?」
「…………えっと……降りられないね。お金が全然足りてないよ」
「……え? えっと、おいくらほどに?」
「うーん……十倍ほどかかるかな」
「……もう機関車は行っちゃったか……」
「あのその……ダメ男、ごめんなさい」
どっさりと金目の物を渡してから、
「まぁ別れってこんなもんだよね」
駅を後にした。