まだ日が昇っていない時だった。そろそろ夜空に青みが出始め、星たちが影に潜もうとしている。
寒い。白い息が出るほどに冷え込んでおり、厳冬のような雰囲気が出ていた。
辺りは草原。背丈の低い草がびっしりと生え渡っている。この寒さからなのか水滴を含み、踏むとわしゃわしゃと若々しい音がする。
そこに一人の旅人がいた。全身黒という怪しい男で、上はセーター、下はジーンズを履いている。登山用の太ったリュックを上下に揺らし、腰には左右それぞれにポーチを携える。リュックには黒い棒のようなものが横から突き刺さっていた。
セーターにはもこもこフードが付いている。男が歩く度にゆさゆさと揺れる。さらにセーターの袖は掌の半分を覆い、裾はジーンズのポケットを隠してしまうほど長い。それには内ポケットが右についており、中には仕込み式のナイフを忍ばせていた。
セーターの中は黒いシャツを着込み、そして首飾りとして水色の四角い物体をぶら下げていた。
「寒いですね」
不意に女の“声”がした。妙齢の女で、冷静で淡白な口調だ。
「曇ってる時より晴れてる時の方が寒いっていうもんな」
何事もないかのように受け答えする旅人。
「……一昨日のおっさんは半時ほどで着くって言ってたのに……」
「気付いてみれば約二日も経過しましたね」
「……のどかわいた……」
履きならしたスニーカーでずりずりとすり足になる。
「歩き詰めですからね。あと二日でしょうかね」
「怖いこと言うなよ……」
「下手をすると、街自体が存在しないということも、」
「幽霊屋敷的な……?」
「違いますっ。あの旅人が嘘をついているということですっ」
「あぁ、そういうことね」
“声”は大息を吐く。
「無尽蔵のお人好しはどこから湧いてくるのでしょうかね」
「無償の愛だよ」
「無性にムカつきます」
「無情だなぁ」
「む、む、む、ありません」
「何の言葉遊び……わっ」
突然、明るくなった。日の出だ。
「おぉ……」
「ダメ男と話しながら一日を迎えるとは、世も末です」
“ダメ男”と呼ばれた旅人は、
「ここに置いてずっと同じ風景を見させるぞ」
「世も末です。自ら一人旅を望み、寂しい思いをしたがる男がいるとは、異常性癖です」
「どぎつい反論なんですけど」
思わず慌てた。
緑の地平線から真っ赤な太陽が登ってくる。夜空に赤いコントラストを加え、虹のように彩っていく。時が経つほど赤が薄まり、橙色、黄色、白へと変色していくのだろう。それに
ダメ男はその変化を堪能しようと思ったが、それよりも足を動かすことを優先した。それが功を奏したのか、
「みえちぃた」
「カミカミです」
「うっさい」
街が見えてきた。
洋風な石造りの家がいくつかと風車、同様の大きな建物がいくつかしかない。それ以外は広大なスペースを農地にしていた。一応道というものもあるが、特に舗装することなく、草原がそのまま続いているような形だ。
他にも公園のような遊具が密集した空間や池があったり、屋台のような店が密集した場所があったりと、街として機能はしているようだ。
ダメ男はうんうんと頷く。
「ここに一週間泊まる」
「バカなことを言ってないで入りますよ」
「フーは厳しいなぁ」
女の“声”は“フー”というらしい。
街に入る。特に何も起こらない。かと思ったら、
「あれ、旅人さん?」
男の子が訪ねてきた。男の子は青い制服を着ていた。
「おはよう。街に入ってもいいかな?」
「いいよ。その前に入国記録に書いてね」
「? 入“国”? ってことは入国審査があるのか?」
「もちろん。ほらあっち見て」
示したのは木で作られた看板だった。そこに台と用紙と筆記用具が置かれている。
「ぼくが荷物とか調べるよ。いい?」
「あ、あぁ……」
戸惑ってしまう。
ダメ男が記入している間に、手馴れた手付きでダメ男の荷物を調べ上げていく。盗まれる心配をしていたが、
「あぁ大丈夫。ぼく盗んだりしないから」
それを見越して、調べながら言い切った。
複雑な気持ちで入国審査を終えた。
「こんな朝早くからやってるんだ」
「だってぼくが審査官だもん」
「……え?」
「えっと、ここは名物って立派な物はないけど、ゆっくり休んでってね」
「あ、ありがとう……」
ようやく入国した。と言っても城下町のように城壁があるわけでもないし、関所があるわけでもない。ただ男の子に声をかけられ、用紙に記入しただけ。その間に荷物は調べられたものの。
釈然としないダメ男は、
「これも国なのですよ、ダメ男」
フーに諭された。
朝を迎えたために、住人は活動を始めていた。洗濯物を干したり畑仕事に出かけたり、放牧されている家畜の世話をしたり。これ自体に違和感はない。むしろのほほんとしていて和やかだ。
しかしダメ男の戸惑いは続いてしまう。
「……どうなってんのここ」
「どうもこうもこのザマよ」
「汚い言葉は使わないの」
「すみません。流行っているものですから」
「なんだそれ。とにかく、なんで子供ばっかなんだよ」
そう、住人は全員子供だった。一番年上で十代後半、一番下で一桁か。老若男女で言えば“若男女”しかいなかった。
「おはよう旅人さん」
女の子が話しかけてきた。まだ十代にもなっていないであろう体格だ。
「おっおはよう」
「よかったらうちでたべていかない? せっかくだしね」
「え、えぇぇ……うんと……」
いろいろな理由で困るダメ男。その理由は明らかである。
「それともやなの……?」
うるうると泣き出しそう。
「あぁいやとんでもありますん! いただきますっ」
「じゃあうちはいってっ」
強引にとある家に引き込まれた。
「これはダメ男の異常性癖が、」
「あらぬ誤解を生むからやめれ」
「普通に見たら誘拐犯ですからね」
「ほんとどうなってんだよ……」
そして強引に席に座らされると、とたとたとどこかへ行ってしまった。
「……どうやら一般家庭ではないようですね」
二人分の広さのテーブルが三つほどあり、まるで食堂のようだった。入口左手の壁にポスターやらメニューやらが隙間なく貼られている。反対側には先ほどのテーブルが整列されている。一番奥にドア一つと水飲み場が設置してあった。
ダメ男は一番手前のテーブルに座っている。
「店か」
「店ですね」
女の子はキッチンへ向かったのだ。
「みず……」
リュックを足元に置くと、ふらふらと吸い込まれるように水飲み場へ。
「ダメ男、まるでゾンビです」
「うおおおおっ。みずうめぇっみずうめっ」
近くにコップがあるというのに、蛇口からダイレクトに飲んでいた。
「?」
ごっくん、と大きく喉を鳴らす。
「どうしたのです?」
「……」
満足気なはずが、
「なんか……へん」
正気を取り戻したダメ男はそそくさと席に戻った。
「それは変な人が飲めば変になりますよ」
「殴るぞ」
それから少し待つと、奥のドアから女の子がやって来た。可愛らしいエプロン姿でトレーを健気に運んでくれた。
「おまたせしました。カレーです」
「へぇ。君が作ったの?」
「もっちろん。てんちょーですからっ」
「……あのさ、聞いていい?」
「そのまえに、たべないとさめちゃうよ?」
「あ、あぁ。そうだな」
朝食を食べ始めた。
「この国はみんな子供なのか?」
「ちがうよ。ちょうろーはちっちゃくないよ」
「長老? その人ってどこにいる?」
「いちばんおくー」
「なるほど」
「どうでした?」
朝が過ぎ、これから正午へと向かう時間帯。ダメ男はしばらく散策していた。
「まぁ年齢相応の美味しさかな」
「美味しくなかったですか」
「うーん……正直言えば……」
「少女の頑張りを汚しましたね、低俗人間」
「いや、もっと作れば美味しくなるから」
「ちなみにカレーは好きですか?」
「好きだね」
「なるほど」
「?」
散策していても、見かけるのはやはり子供ばかり。おじさんやおばさんといったお年を召した方は一人も見かけない。そんな子供たちは自分たちの仕事をしっかりこなしていた。中には友達と遊んでいる子もいたが、近くにはもう少し年をとった女の子たちが談笑していた。それでも“姉”と呼んでもおかしくない見かけだ。
「実は実年齢は大人なのかもしれませんね。いわゆる“美魔女”という方々です」
「明らかに子供だろうが。魔女どころか怪物だよっ」
散策を終える。審査官の少年が言っていたように、観光と呼べるものは見当たらなかった。
「むしろこの光景が観光かもな」
「誘拐しちゃダメですよ」
「誘拐したがってるような言い方やめれっ!」
ということで、まだ昼頃にもなっていないが、早めに宿を取ることにした。
大きな石造りの建物に入ると、
「いらっしゃいませー」
女の子が三人ほど整列していた。三人とも綺麗な着物を来て、ダメ男を迎えていた。
「……なにここ?」
小さな国(?)なのに、まるで一流ホテルのような内装だった。暖色系の優しい灯りに赤い絨毯、広々としたフロント。なぜ着物なのかはツッコまないとして、豪華なのに落ち着きのある雰囲気だった。
「ダメ男、やはりあなたは、」
「違うからっ! だってここ宿でしょっ? ねぇそうだよねっ?」
女の子たちに問いかける。
「もちろんです。けっしてあやしいみせじゃないです」
「そうだよー! “まっさーじ”とかあるけどさー」
「初っ端から怪しさ全開なんですけど」
「ダメ男、しばらく話しかけないでください。犯罪者」
「だから違うってっ!」
ひとまず受付に行き、部屋を取った。
「これが部屋のかぎです。まっすぐいくとありますです」
男の子が手渡ししてくれた。
ダメ男は逃げるように部屋に駆け込んだのだった。
入って通路を進むと、六畳ほどの部屋が広がる。暖色系のカーペットに少し固めのベッド、簡素なテーブルと椅子と、フロアと比べると部屋はそこまで豪華ではない。しかし、
「あー落ち着く……」
ダメ男は脱力しきっていた。
荷物をベッドに放り込み、床に大の字になっていた。
「いろんな意味でこの国危ないぞ……」
「変態、異常性癖、犯罪者、下劣人間、キモイ」
「ほんとに違うって……」
ぐっと起き上がった。
「明日には出発するよ。心配するなって」
「もし三日間滞在すると言っていたら、完全に見限っていました」
「でもびっくりすぎるだろ。なんで大人がいないんだよ」
「どうせ大人は無能だとか何とか言って、追放したとかそういう理由でしょうね。あるいは見た目は子供、ずの、」
「いきなりネタばらしにかかるなっ。楽しみが減るだろっ!」
「ネタが分かったところで出発しましょうよ。ダメ男が犯罪に走りそうで怖いです」
「どんだけ心配してんだよっ」
このままではとんでもないことになる、と心配したダメ男は早めに昼食を取り、長老のところへ向かった。ちなみに昼食は宿の食事だったが、やはり美味しくなかったという。
外に出て“奥の方”へと向かう。
「……多分ここだよな?」
「間違いありません」
この国の中では普通の家だった。しかし二人には判別できた。
「看板に“ちょうろうのいえ”と書かれていますから」
「オレには読めないが、子供らしい字だなぁ……」
ノックをして、確認する。
「誰?」
子供の声ではない。男の低い声がした。ここで二人は安堵のため息をつく。
「旅の者なんだが、長老にお会いしたい」
「いいよ。入ってくれ」
中から出てきたのは、
「こんにちは旅人さん」
ガタイのいい男だった。
「ささ、中へ」
胸を撫で下ろすダメ男とフー。
中はオシャレだった。宿の部屋の広さと変わらずも、木目調の床にインテリアに家具に、とてもリラックスできる雰囲気だ。奥は書斎スペースなのか、多くの書物や机、観葉植物なんてものもある。キッチンは入ってすぐ右手にあった。いわゆる“LDK”だ。
真ん中にある洋風なテーブルに着くと、紅茶を入れてくれた。
ダメ男は首飾りをテーブルに置いた。水色の物体が繋がれている。
「早速聞きたいことがあるんだ」
「分かってるよ。俺の歳だろう?」
「え? ……まぁそれもそうだな」
若干はぐらかされたような気もした。
「俺は四五歳だ」
「四十五? 四十五で長老?」
「そうだな。ここは比較的若いもんな。驚いて当然だ」
「絶対的に年齢が低いですよ」
「……? 今の声は……?」
「あ、そうだった」
ダメ男は水色の物体を見せ、“フー”だと紹介した。
「初めまして、フーと申します」
それから“フー”の声がした。よろしく、と挨拶を交わす。
「んで、どうして大人がいないんだ?」
「……逆に聞こう。“大人”とはなんだ?」
「え? ……聞かれると答えづらいなぁ」
うーん、と
「ではこちらがお答えします。大人とは十分に成長した人のことです」
「では“十分”とはどのくらいだ?」
「それは国によって違います。二十歳や十八歳と国々の法律によって定められています」
「ということは、結局は誰も正確には分からないということだ。法律でしか決められないのだからな」
「そうですね」
長老は立ち上がり、一冊のファイルを差し出す。
「これは?」
「この国の年齢推移表だよ」
ささっとページを開いて、あるところを見せてくれた。
「こっちが二百年前の寿命、そしてこっちが二十年前。明らかに違うでしょ?」
「二百年前は八十歳代なのに、こちらは二十歳代ですか。恐ろしいですね」
折れ線グラフになっているが、右肩下がりになっていた。
「方向転換したんだ」
「方向転換?」
「今までは長寿が素晴らしいものとされた。それは当然だ。歳を重ねるのは知恵を重ねること。長生きしている人は素晴らしい知恵の持ち主である、と見なされていたんだ」
「一理ありますね」
全面的には支持しない。
「しかし、それよりも
「? なに?」
「ダメ男、分かりませんか? 社会保障費ですよ」
「その通りだフーちゃん」
むむむ、と少しだけ不機嫌になるダメ男。しかしダメ男にとって、別のことが起きそうになって、それどころではない。
「んぅ……」
「長寿になるほどお金がかかる。例えば昔、“年金”という決まりがあったんだが、長寿が多いとそれだけお金を支払う対象者も増え、お金が
「つまり、人口は増えていないのに、相対的に高齢者が増加したということですね?」
「そう。このままでは国が滅んでしまう。他の国に借金をするようになったら終わりだ。そこで先人の賢者たちは抜本改革をした。まずは安楽死制度の導入。辛い人生を送っている人に向けて、という主張だったが、実際は寝たきり高齢者のためだった。これによって医療費と社会保障費は大幅に削減された。次に尊厳死と自己決定権の強化。これも安楽死に絡んでだが、外部の人間より自分の意志を優先させるのが狙いだ」
「相当厳しい決断だったでしょうね。それは自分の両親を殺すことに同義ですからね」
「それは……まぁ。で、これによって八十歳以上の高齢者が激減した。しかし問題はこれからだった」
「なんです?」
「世代のバランスというやつだね。六十歳代と七十歳代がすごく多かったんだ。現役は二十歳代から五十歳代後半までとされていた。しかしそれよりも明らかに多かった。それに社会保障費を多くせびろうとする世代でね。安楽死を導入してから減っていたお金が逆に増えていった」
「それは厄介ですね」
「うん。それに彼らの中に重要なポストが多くてね。切ろうとすれば寄ってたかって集中攻撃してくる。だから賢者たちは逆を突いた」
「逆とはどういうことですか?」
「思いっきり
「え? それはお金が掛かりますよね?」
「一時的にね。ところが面白いことにどんどん減っていった。びっくりするぐらいにね」
「どういうことですかね。ねぇダメ男、どうしてなのでしょうね?」
「……すぅ……すぅ……」
ダメ男はすっかり眠っていた。
「こ、この男は、まったく、すみません。後でしっかりお仕置きしますので、どうかお許しを」
「いいよ。彼には難しい話だったみたいだ」
長老はダメ男の紅茶に蓋をしてくれた。
「減った理由は……食事だよ」
「?」
「贅沢させたのは食事だったんだ。脂肪や塩分、タンパク質を思いっきり摂取させた。それはそれはとびっきりの料理だったよ。一皿で家が買えるほどの食材も使ったよ。結果、病気になって呆気なく亡くなった」
「身体に悪い物が美味しいというわけですね」
「そうだね。これによって六十歳代から上は大幅激減。で、それがいつの間にか寿命まで落ちてしまったというわけだ。この国の歴史では“幸福改革”と呼ばれている」
「はぁ、なるほど。二百年をかけた壮大な計画だったのですね」
フーは感慨深そうだ。
「ところが今度は別の事態が起こってしまった。……なんだと思う?」
「何でしょうかね。うーんとえっと、あ、子供が多くなったのですねっ」
「さすがだね」
「あ、いえいえそんなそんな」
長老に褒められ、しどろもどろになるフー。
「寿命が異常に縮んだことで、子供を産むペースが三倍以上も早まってしまった。結果、子供だらけの国になってしまったんだ。それで仕方なく国を縮小し、今に至るということだ」
「何だかすごいことになってしまいましたね」
「まさか、賢者たちもこんなことになろうとは夢にも思わなかったろう。俺もだよ」
「長老様でさえ四十五歳。この国からすればご高齢の領域ですね」
「次の長老は三十歳代だよ。このままだと“多子低齢化”になってしまう。しかし周りは子供だらけ、いや“大人だらけ”なんだ。制度の制定もままならないんだ」
「最初に言っていた“大人”とはそういうことだったのですね。寿命が八十歳とし二十歳で大人とすれば、この国では単純計算して五歳で大人ですか。まさに“大人だらけ”ですね」
「うむ」
「勉学よりも生活に忙しくなって教育もままならない、かと言って他の国に教授してもらったら、それこそ襲われるでしょうし」
「そこで今、旅人歓迎制度というのを制定したんだ。了解を得て住人になってもらおうという決まりだ」
「ナイスアイディア、とは言い難いですね」
「苦肉の策だよ」
長老の家を後にしたダメ男は、
「ガミガミうるさいなぁ……」
こっぴどく怒られていた。
「本当にもう、せっかく貴重な時間をいただいて面会したのに、話の途中で眠ってしまうとは、なんたる無礼! 本当に恥ずかしかったですよ!」
「だって話が難しくて分からんかったもん」
「頭も子供ですねっ! ほんっとうにもう!」
ダメ男は出る前に謝罪はしているものの、フーからの厳重注意が途切れることはなかった。
宿に戻る前に買い物を済ませる。店員はやはり子供。それでも健気に頑張っているのを見て、多少のミスは大目に見ることにした。
そして夜。宿から夕食をいただいたが、やはり美味しくないらしい。それでも大目に見る。ダメ男は意地でも大目に見る。
「ご、ごめんなさい……お口にあわないですたか?」
部屋で夕食をいただいているダメ男。それを心配そうに女の子が見つめていた。赤い制服を着ている。
「いんや。もっと頑張ればもっと美味しくなるよ」
「……えへへ」
食器を片付けてもらい、従業員は去っていった。
「ダメ男、話を聞いていますか?」
「もう説教はやめてくれよ……」
「いいえ。止めません」
「……」
憂鬱気味に、ダメ男はベッドに寝転がった。荷物はベッドの脇に置かれている。
「……」
じっとして何もしないダメ男。フーに背を向けて、ただ横になっていた。ちなみにフーはテーブルに置かれている。
「……」
「ダメ男、ちゃんと聞いてください」
「…………」
「ダメ男……分かりました。仕方ないですね。今日はこのくらいにしておきましょう。でも、次に何か失礼なことをしたら、本気で怒りますからねっ」
「これで本気じゃないのかよ……」
「三割くらいですね」
翌朝。
「……んぅ」
相変わらず床で眠るダメ男。ぱちっ、
「……あ」
と目が覚めた。
起きてすぐに顔を洗った。
「おはようございますダメ男」
「あぁ」
「今日は遅めですね。もう八時過ぎですよ」
「寝坊した……」
「相当疲れていたのですね」
「誰かさんのせいでな」
「自業自得です。と言うより、それを言う立場にないことをお忘れなく」
「……はいはい」
「“はい”は一回です」
「はーい」
荷物を整理していると、従業員がやって来た。
「しつれします。ごはんれす……」
とても眠そうだ。制服も少し乱れていた。
「あぁ、そこに置いといて」
「あっ……」
「ん?」
ダメ男と目が合った瞬間、顔を赤くし、
「ごめんなさーいっ!」
どたどたと走り去っていった。
「……なんだ一体……」
「ダメ男、服装です」
「……あぁ」
ただいまのダメ男の服装は黒のタンクトップにパンツ一枚だった。
「まぁ、食事を届けてもらうことが少ないですからね。これは仕方ありません」
「……フーの基準、なんかおかしいよな?」
「そうでしょうか?」
「いや、オレもよくわかんないけどさ……」
ちなみにいただいた食事だが、今回は美味しかったという。
いつものように練習をしてシャワーを浴びた後、改めて荷物の確認をした。忘れ物や足りない物を細かく調べる。
「……うし、大丈夫かな」
「ダメ男の頭は大丈夫ではありませんが」
「なんだ? じゃあ今日も一泊してくか?」
「やめてください。社会的に抹殺されます」
「なら問題ない、そうだよな?」
「はい」
「よし……ははっ」
おかしな恐喝にダメ男は笑ってしまう。
ポーチを付けてリュックを背負い、部屋を後にした。
「あ、あの……」
先ほどの従業員だ。
「今日はどうでした?」
「あぁ、なんか美味しくなってたよ。なにかあったのか?」
「……がんばってれんしゅうしました」
「もしかして徹夜?」
「……」
ゆっくり小さく縦に振る。恥ずかしそうに顔を俯かせている。
「美味しかったけど……あんまり無理はするなよ。まだ子供なんだからな」
くしくし、と優しく撫でてあげた。
「……えへへ」
とても嬉しそうだった。
「それじゃ、行くか」
「はい」
「え? もう行っちゃうの?」
「そう言わないでくれよ。そういうのが一番応えるんだから……」
「……」
しゅん、としょぼくれてしまった。
ダメ男はフーを取り出し、操作し始める。そして、
「はいここ見てて、はいチーズ」
「え、え?」
機械音とともに閃光が走った。従業員はびくっと驚く。害がないことを伝え、フーを見せた。そこにはダメ男とおろおろしている女の子の姿が写っている。
「写真というやつでね。景色を残すことができるんだ」
「……すごい……」
初めて見るようだ。触ってみるが、ツルツルとした感触しかしない。
「これで忘れないってわけだ」
「……うん!」
元気いっぱいに笑ってくれた。
ダメ男は従業員とお別れし、宿を出る。そしてそのまま街を、
「待ってくれ」
出る前に呼び止められた。振り返ると、若い長老と子供が三人いた。
「旅人さん、行っちゃうの?」
一人は審査官の男の子だった。
「あぁ。出国にも手続きがいるのか?」
「ううん。いらないよ」
「そうか……」
「ダメ男くん、フーちゃん、この国の制度を知ってるよね? どうだろう、この国の住人にならないか?」
「長老様、申し訳ありません。根無し草なもので、他の国にも行かなければなりません」
「どうして?」
女の子が尋ねる。その子は食堂の女の子だった。
「……オレは世界中を旅したいんだ。まだ全然旅しきれてない」
「そんなに大切なの?」
別の女の子が
うーん、とダメ男は言葉に迷った。
「大切っていうか……うーん、なんて言うんだろうな。習慣というか何というか。そこに留まれない
「……そうか。ダメ男くんは子供たちに好かれているし、フーちゃんはとても聡明だし、国の長としては見捨てがたい。せめてもう一日くらい泊まって考え直してみないか?」
「こ、子供をダシに使うのはずるいよ、長老……」
「だからこそ早くここを出立するのです、長老。どうかご理解ください」
「……」
深呼吸するように大きく息を吐いた。
「分かった。……呼び止めて悪かった」
「オレもごめん。お詫びに助言……というか忠告しておくよ」
「?」
「この国の食事を見直した方がいい。徹底的にね」
「……“助言”ありがとう」
「いえいえ。では、行きましょうか」
「あぁ」
ダメ男は国を後にした。
澄み渡る晴天と、ギラギラと照りつく太陽。その日光が背丈の低い草原を満遍なく温めていた。
ダメ男はくしゃくしゃと渡り歩いている。
「ダメ男、本気で留まろうと思いましたね?」
「そんなことないよ。むしろ逆、あまり長居はしたくなかったんだ」
「どうしてです?」
「歴史の話を聞いてた限り、もう三十年もかからないと思った」
「! 聞いていたのですか? ということは寝たふりをしたのですか?」
「起きてたらあれこれ言いたくなっちゃうから。そしたらますます出国しづらくなるでしょ?」
「それは助言者として
「うん。そうなったら長居することになるし……」
「どうしてそこまで拒絶するのです?」
ぴたりと足を止めた。
「ご飯が美味しくない国は滅ぶのが早い」
「ダメ男の好みの問題ですかっ」
「重要だろっ。だってまずいご飯を食べ続けるんだぞっ? 身体ぶっ壊れちゃうじゃん!」
「そんなに美味しくなかったのですか?」
「うん」
力強く頷いた。
そしてまた歩き出した。
「オレが思うに、相当塩とか砂糖とか入れてるよ。それに何だかえげつない味というか、自然な味じゃないし。変な味だった……うぅ……」
「先日話していた“幸福改革”の名残でしょうかね?」
「味覚オンチまで受け継がれてきたのかもなぁ。若いうちからあんなの食べてたら、そりゃ寿命も縮んじゃうよ」
「だからあのような助言をしたのですね?」
「うん」
「さて、あの国はこれからどうなるのでしょうかね」
「……うん……」
ダメ男は唐突に立ち止まる。リュックを下ろしてから、セーターを脱ぎ始めた。下は半袖の黒いシャツを着ている。
「どうしたのです?」
「……なんか暑い……」
「歩いていて発熱したのではないですか?」
「うん……」
しかしシャツがぐっしょりと濡れていた。
「これはい、三十度っ? 国を出る前は二十度もいっていなかったのに、これは一体何なのでしょう?」
「……答えはこの先にありそうだ。……行くぞ」
「はい」
ダメ男たちは気張って歩き出した。
「ちょうろうさま、こんにちはー。きょうはどうしたの?」
「ちょっと食べたいなってね」
「じゃあすぺしゃるカレーもってくるっ」
「うん。……実に惜しい旅人だったなあ……」
「はいどぞっ」
「いつも早いね。どれ…………んぅ、うまい」
「ありがとっ」
「しかし気にかかる」
「? まずかった?」
「いや、ダメ男くんが食事を見直せ、と言っていたことだよ」
「どういうことなのー?」
「さぁ。こんなに美味しいところのどこを直せというのだろうか……」