フーと散歩   作:水霧

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第八話:じゅんすいなとこ

 あるところに、広くて栄えていて、自然との調和も取れた完璧に近い都市がありました。至るところに大きなお屋敷や豪華な住宅が建ち並んでいます。そこの住人はお金も物も何一つ不自由することなく、でも贅沢(ぜいたく)はなるべくしませんでした。なぜなら、今の暮らしができるのは過去のたゆまぬ努力と尊い犠牲、そして世界を織り成す大自然の恵みを受け取っているからだと誰しもが思っているからです。

 その都市から少し離れた一軒家、ちょうどお屋敷の背中と“都市の外”を隔てる石垣とが作る一本の隙間に、張り付くようにありました。周りにある豪華絢爛(ごうかけんらん)な建物と表現するには(いささ)かぼろく、良く言えばアンティークな二階建ての木造住宅です。夏は涼しそうで冬は寒そうな仲間はずれの家。もちろん住人はいます。

 タイミングよく、そのうちの一人が向こうからとことこと帰ってきました。少し様子を見てみましょう。

 空色のランドセルを背負って来ているのは幼い女の子でした。首根っこまで伸びた黒髪、前髪は眉毛までなだらかにセットされています。子供にしては全体的に(りん)としていて、きりりとした目つきをしていますが、

「あ……、お母さん、ただいまぁ!」

 二階で洗濯物を干しているお母さんを見つけると、爛漫(らんまん)な笑顔を見せるのでした。

「お帰りなさい、×××」

「へへっ」

 先ほどの冷めた表情が嘘のようです。

 彼女は走り出しました。ランドセルをゆさゆさと揺れ、中をがたがたと掻き混ぜます。途中で転びそうになりますが、一旦踏みとどまって、また駆け出します。

 彼女のお母さんはそれを微笑ましく見ていました。お母さんがそんな気分に浸っていると、

「シー様!」

 後ろからメイド服を着た女がやって来ました。呆れつつも怒り気味です。

「それは私めが致します! こちらの面子というのも少々ご考慮ください!」

「そんなに怒らなくてもいいじゃない……」

「いえっ。今日はお体が優れないと伺ったので、心配なのですっ。しかも×××様のお帰りの際に合わせて、」

「もうわかったわ。でも、これが日課なの。続く限りこなしていきたいのよ……」

 彼女のお母さんであるシーは彼女の来た道を愛おしむように眺めました。バルコニーの柵に肘をつき、頬杖を作ります。

「……さぁ、中へ戻りましょう? 今日は暖かいですが、それでもお体に障ります……」

 メイドさんと一緒に戻りました。

 家の中は設備の整った山小屋のようでした。外見とは裏腹に天井が高く、骨組みが丸見えです。しかしそこは二階で、くるくると扇風機のようなものが張り付いています。一階はというと居間に、ドアが東西と北にあります。南はすぐ玄関です。北はキッチンなどの調理場、東は寝室、西は浴室へ繋がる廊下があります。その廊下にトイレと二階へ上がるための階段があります。居間には大きいテーブルが占めていました。

 少女がランドセルをそこに無造作に置きます。と、同時に、

「こらっ。荷物は自分の部屋に片付けるっ」

 シーとメイドさんが二階から降りてきました。

「もう、レイさんと同じように言うね、お母さん」

「あら、そうね。怒り癖が移ったかしら……?」

「そ、そんな……」

 二人は笑い合いました。

「ところで、お父さんはいつ帰ってくるの?」

「今日には帰るって手紙で来たわ。長旅だから多少のズレはあると思うけど……」

「いいよ! “ぼく”はお父さんの“息子”だから我慢できるよ!」

 少女改め、“少年”はニィっと笑って、ランドセルを担いで二階へ走っていきました。どたどたとうるさいので、途中で怒られました。

「旦那様のことを本当に尊敬してらっしゃるみたいですね」

「そうねぇ……。この街の英雄だか有名人だか言われてるけど、私にしたら迷惑なのよねぇ」

「それは、どうして……?」

「ただ一人の夫だもの。死んじゃやだわ」

「……私も旦那様に尊敬の念を抱いていますが、……それは複雑ですね……」

「ここの風習だもの。仕方ない仕方ないっ」

 シーは陰りのある笑顔を振るいました。

 今のうちに説明しますと、この街は“外”に出て旅をすることが尊敬や賞賛に値するとしています。それは資格が必要だからです。基本的に学校などの教育機関は設けられていませんので、卒業資格などの制限は存在せず、また受験者の年齢、職業、性別、経歴などの制限は一切設けていません。つまり、老若男女、医者でも政治家でも一般人でも極悪犯罪者でも誰でも受けられます。しかし、試験は合格率が一パーセントを切るくらいの超難関だと言われています。なので、合格すること自体が大変名誉なことなのです。そして合格するために、塾や予備校などの個人施設には通い詰めする受験者で溢れかえっています。ちなみにカンニングした受験者は言語道断で死刑、資格なしに旅を試みようとした者は家族もろとも即死刑です。そんな愚かなことをした人は今日までいませんが。

 少年のお父さんはその試験に一発合格し、さらには歴代一位の成績を取りました。しかもその活躍はそれに留まらず、この街の発展、周辺の国や街への支援にも尽力し、数々の功績をあげているとのことです。そのせいで家を空けることがしょっちゅうで、むしろ家にいる時間の方が少ないのです。それでも誰ひとりとして彼を侮蔑したり嫉妬したりしません。特にこの家庭は決してしませんでした。

 おっと、どうやらヒーローの登場です。

「ただいまぁっ!」

 ドアを蹴破るくらいの勢いで開けました。

「お帰りなさい。それと、もう少し優しくね」

「お帰りなさいませ、ヒル様」

「がはははっ! そんなみみっちいこと言うなよ、シー!」

 一家の大黒柱であり、英雄と称えられるヒルは口を大きく開け、豪快に笑いました。フレームのない眼鏡に無精ヒゲ、肉付きのいい体で黒いタンクトップにポケットの多い半ズボンの服装です。そのおかげか、日焼けで黒光りしています。

 ヒルはどさりと馬鹿でかいスーツケースをテーブルに載せました。テーブルの太い足が懸命に支えます。

「おーい! ×××! おみやげあるから下りて来いよぉ!」

 低くて渋い声で少年を呼びました。少年は落ちるように階段を下りて、ヒルに抱きつきました。

「お父さん! 久しぶり! ……汗くさ!」

「おうおうおう! それが男の勲章ってもんだ! がははは!」

 シーは今すぐ風呂に入るように促しました。というより脅しました。少年から見えないお尻のあたりに包丁が突きつけられています。

「さすがは我が妻。そろそろ夕飯だろ? オレは食材じゃないぞっ、ハート」

「ヒル様、気持ち悪いです」

「気持ち悪いってなんだよ! 一家の大黒柱に向かってなんてことを!」

「お父さん、話が進まないからさ。……おみやげ……だよね……?」

「ナイスだ、×××」

 女二人は舌打ちをして、キッチンのある北の部屋に戻っていきました。ちなみに、北の部屋のドアはなぜか鉄格子でできています。

 残った男二人はテーブルに座って、スーツケースの中を見ていくことにしました。

「今回の一番でかいエモノは、これだ!」

 そう言って出したのは、何やら怪しげな“もの”でした。黄緑とも水色とも言いがたい中間の色で、かなり大きめの蝶番でした。さまざまなデザインが施されています。でもそれにしても、少し脆そうです。

「……何それ?」

「ふふん、いいか? こいつはな……、」

 鼻で笑いながら、少年に渡しました。

「オレにもわからん」

 少年は本気でそれを固い床に叩きつけました。

「馬鹿ものぉぉぉ! 何しとんじゃぁぁぁ!」

「どうしてこんなにいじりがいがあるんだろう……?」

 幸いにも、それは壊れませんでした。それどころか傷一つついていません。

「すごいがんじょうだね」

「次の旅でそいつの正体を暴くんだから、乱暴にするんじゃない、いいな?」

 おちゃらけていた顔がその時だけ真面目になっていました。少年はドキッとして、丁重に返しました。

 本人曰く、この謎の物体は支援してくれたお礼にと、工業分野で発展した国からタダで貰い受けたものらしいのです。しかも最高機密の物だと、うたっているとのことです。

 少年は悪ふざけを心から反省しました。下手をすれば、怒られるだけではすまない事態なのだと悟りました。

「あ、そうだった。こんなんはどうでもいいんだ」

 ヒルはその一品をスーツケースの中に放り投げました。少年は複雑そうな顔つきでヒルを見つめます。

「お前にプレゼントするのは、……えっと、どこだっけ……」

 中身をテーブルにかき出していきます。変な置物やエグイほどに鋭いナイフ、それに組み立て式の大きい“筒”が出されていきます。気になった少年は聞いてみると、最初に“ば”がつくものだと答えました。“ば”のつくものが思いつかず、話はそこで流れていきました。

 そして、

「あったあった。じゃじゃ~ん!」

 効果音と共に出したのは、メタリックな黒い箱でした。両手の掌よりも大きいハードケースで、持ってみても、そんなに重量を感じません。

 ヒルに、開けてみろよ、と促され、少年はおそるおそる開けてみました。

 中には三本の筒が緑のマットにしっかり埋め込まれていました。ちょっと振っても落ちません。その筒はやはり黒く、竹のような形で、一本毎に細い鎖でぐるぐる巻きにされています。

「……何これ?」

 少年は当然、聞きました。

「考えたりいろいろしたりしてみろよ。“洞察力”ってやつだ」

 早速、弄ってみることにしました。

「どうさつりょく?」

「つまり、見る力であり、それが何なのか、何をするためなのかを判断する力だ。そして対象が生き物だったら相手が何をしようとしてるのか、どんな気持ちなのか、とかを読み取る力だ。生きていく上では重要だな。そんでもって、」

「あ、下に何かある」

 ヒルはちょっと泣きそうになりました。それを横目に、少年が筒の埋まっている“台”をうまく引っこ抜くと、ケースの最下層に何本かの刃を見つけました。両刃のものや、片刃でその根元に凹みがあるもの、太く短いもの、ぎざぎざがついているものなどがありました。それら全部は細い竹のような金属棒がくっついています。

「……剣?」

「正確には組み立て式のナイフだな」

 ヒルはマットに埋まっていた“筒”と両刃の刀身をテーブルに置きます。まず鎖を解いていき、“筒”の根元を引き抜きます。ここの部分だけキャップのような覆いになっていて、それに二本の鎖が繋がっていました。

 すると、“筒”が竹を割ったように中をさらけ出しました。節の部分にはゴム板がわずかな隙間を空けて張り付いています。そこにちょうどはめ込むように、刀身を置きました。刀身についている竹のような金属棒が見事にフィットしました。

 後は逆の工程でしっかりと“筒”を締め上げ、固定しました。“筒”はナイフの柄となりました。

 少年は一切しゃべらずに、それをずっと見ていました。見逃すまいと瞬きをせずに、食い入るように見ていました。

「これはとある町工場で作ってもらってな。いい素材でできてる。刃こぼれもしにくいし軽くて丈夫だ。ただし、手を守るガードがついてない。(つば)迫り合いなんかしたら、相手の刃がずるっと下に滑って指を切り落とされるからな。そこは用心しとけよ」

「……」

 できあがった一本とハードケースを少年に渡しました。

 ちょうどよく夕食ができたようです。シーとレイが二人のいるテーブルに食器を運び出しています。

「あなた、まだこの子には早すぎるわ」

「んぁ? そろそろ夏だろ? 旅人試験がやるじゃないか」

「まだ十三よ? まだ塾でも基礎中の基礎しかやってないし……」

「確かに、いくらヒル様のご子息でも無理があると……」

「オレなんか十五で取ったぜ? 年齢なんか関係ねえよ」

「それはあなたが異常なのよ」

「合格者の平均年齢は二十代後半だと聞きました。さすがはヒル様ですね」

「そ、そうなの……。すご……」

「カンニングでしょ? どうせ」

「ガチで挑んだわ! 国長に呼ばれて表彰されたし、最年少記録だし!」

「それなら、×××! あなたが破るのよ!」

「無理だって、そりゃ。よっぽどの天才じゃないとな」

「“天災”ですか?」

「レイ、お前……災害の方で言ったろ?」

「あながち間違っていないわよ」

「そうだね。嵐のように帰ってきて、去っていくからね」

 

 

 夜。雲一つない夜空で、丸みを失った月が浮かんでいます。太陽と同じように地上を見せてくれています。少年たちの住む街は城壁として石垣が固められており、そのせいで多少は陰っていますが、きちんと照らしてくれています。

 毛布が少し必要なくらいに空気は冷めていました。しかも物音も一切しないので、どことなく張り詰めています。

 その時間帯は皆が眠りについている時でした。でも、少年は起きていました。寂しいからでなく、久々に父親と話ができて興奮したからでもありません。天窓から月が漏れているからでもありませんでした。ただ、眠れなかったのです。毛布に包まっても、目を瞑っても、考えていることが頭から離れなかったのです。

 少年は震えていました。時に涙を見せていました。毛布で目を擦り、出ては擦りを繰り返して、

目が真っ赤になっています。

「……どうしたんだ? ×××?」

 下からヒルがやって来ました。我が子の異変に既に気づいていた様子です。

「お父さん……」

 心配して駆け寄ってきたヒルに抱き付きました。着ている服をぐしゃぐしゃにして、涙でまた汚しました。

「オレのことが心配なのか?」

 強く頭を横に振りました。あはは……、と苦笑いを零します。

「お父さんは強いから……心配ないでしょ?」

「まあな。……じゃあ、何が怖いんだ?」

 少年は(おもむろ)に枕元から、ナイフの入ったハードケースを持ってきました。ヒルは意外そうな面持ちで少年を見つめています。

「……もしかして、別なのがよかったか?」

 ぶんぶんと何回も横に振りました。

「うれしいよ、すっごく……でも……」

「でも?」

 言葉に誘われて鸚鵡返しをしてしまいました。

「……これをくれたってことは、人を殺すことができるってことだよね……?」

「……!」

 黒塗りのハードケースを再び枕元に戻しました。そして少年がヒルを見ると、

「お、お父さん……?」

 顔には冷たさも温かさもありません。大雑把だけど豪快で温厚な父親が見せる別の顔。全くの無表情で見下ろしていました。少年の全身を(すく)ませるほどの威圧感は殺気に満ちているとしか言いようがありません。それを少年は瞬時に感じ取りました。

 ちょっぴり肌寒いのに吹き出る汗。気化熱でさらに体温を奪います。その汗自体も冷たく、止まることはありません。それが首筋から緑のパジャマの中に伝い、一部を湿らせた時、少年の体はぴくりと反応しました。ベッドに乗り上げる“男”、手足をゆっくり使って後ずさる少年。まるで捕食者と被食者のようです。

 そして、後がなくなりました。異変を起こしているのは明らかに……、と言いたげに少年は見ました。

 その瞬間、

「×××」

 肩を掴まれました。大の大人に力で勝てるはずがありません。少年は目を瞑って堪えると、急に温かくなりました。

「……え……?」

 ぎゅうっと抱きしめられていました。

「……」

 何が何だか理解できずにいると、耳元で、

「いいんだ」

 囁きました。

 そして離れて、あの豪快な笑い声と笑顔を小さく見せてくれました。

「いいか? お前の言ったことはすごく大切なことだ」

「……」

 少年はあまりの怖さに自分が何を言ったのかもど忘れしていました。それを悟ったヒルは頭を撫でてくれました。

「“これをくれたってことは、人を殺すことができる”……そうだ。こんなものを使わなくとも殺すことはできる。だが、大切なことは、自分が相手を手にかけた時、生き物を殺したんだと実感することだ」

「……それって……怖いよ……」

「そうだ。どうしようもない時は相手を殺さないと、こちらが殺される。しょうがないんだ。生きている者を突き刺し、(えぐ)り出し、切り刻む。そして殺す。……考えただけでも怖いだろう? それは自分が人間である印だ」

「……うん」

「そして、殺したやつらのことを絶対に忘れない。……たとえ自分を憎んでいるやつでもな……。×××、お前は命の尊さについては十分理解してるようだな。それだけは何があっても忘れちゃダメだぞ」

「うん……! 絶対に忘れない!」

「おう。殺すことの恐ろしさ、おぞましさ、命の尊さを忘れ、逆に快感として見出す連中にはなっちゃいけない……! 絶対に……!」

 小さい声で、でも喉が潰れるくらいに強く言いました。目にうっすらと涙を溜めているのが、夜の暗い中でもわかりました。

「旅人の先輩として、いいことを教えてやろう」

「な、なに……?」

「旅人試験にはペーパーテストもあるが、その中に必ず作文問題があってな……。タイトルは決まって“命の尊さ”なんだ。この配点は百点満点中八十点で、残りは一問一点の正誤問題なんだよ。合格点は九十点以上なんだ」

「お父さんは歴代一位なんでしょ? 何点だったの?」

「……その様子だと、シーがちくったんだな? 恥ずかしい話だけどな……」

「うんうん!」

「九十九だよ」

「すごい! ……それで、何を間違えたの?」

「……“牛乳は消費期限が一ヶ月過ぎても問題ない”……」

「………」

「オレは大丈夫だと思ったんだがなぁ」

「さすがは野生児だね……」

 

 

 朝、ようやく日が昇る頃に一階から物音がしました。眠りの浅かった少年は寝ぼけてバルコニーに行くと、誰かが走って出ていきました。他の誰も起きていないので、念のため鍵を全てチェックしましたが、特に問題ありませんでした。お父さんの早朝のマラソンだろう……、と眠い目を擦りながら、再びベッドで眠りました。

 それから数時間して、お日様が弱々しく出てきました。さらに鶏が鳴いて一日の始まりを告げるのでした。少年家では全員起きました。

 肌寒かった気温もちょっとずつ上がり、ぽかぽかの陽気になるみたいです。風も少なく、まさしく春の天気と表現するのがいいのですが、今は夏に近いのでした。

 汗だくのヒルはシャワーを浴び、他の三人が朝食の仕度をしています。

「ヒル様の体は逞しいですね」

「あら、惚れちゃった?」

「い、い、いえ! そんなことっは、」

「無理ないわ。私だって帰ってくるたびに惚れ直しちゃうんですもの」

「そ、それよりも、シー様、ななにをしているのですか! ごゆっくり腰をお掛けください! ほら、×××様もです! 私の仕事ですからっ」

「×××はともかく、私は邪魔だって言いたいの?」

「お母さん、ヒドイよ……」

「あ、そんな顔しないで、×××~! 胸がキュンキュンするじゃない……!」

「シー様、親バカ全開です。しかもキャラが変わっています……。とにかくお二人ともヒル様と家族三人でごゆっくりしてくださいませ……」

「何言ってるの? あなたもとっくに私たちの家族よ?」

「そうだよ、レイさん。ぼくが小さい時から世話してくれたのは知ってるんだよ?」

「ですが、私は、」

「今さら境界線引いたってムダだよ。もう家族の一員っていう意識が染み付いてるもん!」

「×、×××様…………私、」

「超うれぴいいぃぃ! ってか!」

「…………」

「…………」

「…………」

「……何? この空気……。オレがスベった感じに、ってなんでガスコンロがこっち向いてんの? なんでやかんの口がこっち向いてんの? なんでフォークを指の間に挟んでんの? しかも殺気立ってるし、ってまさか、やめ、危ない、あちって熱いから、オレは朝飯のおかずじゃないし、フォーク突き刺すなよ、痛いから、いたあちゃああぁぁぁ!」

 朝から騒々しかったのでした。

 三人と一つ(?)は朝だというのに家族団欒で会話が弾んでいました。

 それからしばらくして、少年は塾へ、シーとレイは家事全般をいつものようにこなしていきます。そして、ここのヒーロー、ヒルはというと、

「なんか暇だなぁ……。でも、たまには羽を伸ばすのもいいな」

 ぐうたらと寝っ転がっていました。あまりにも暇なので、居間に向かい、テーブルでうな垂れます。それを見かねたレイはマグカップを差し出しました。

「旦那様、ここへ帰ってきてはのんびりとしてらっしゃいますね」

 子ども扱いをするような笑みでした。ヒルは短く礼を言って、啜りました。中はコーヒーです。

「そういうこと言わないでくれよ。ここでしか休まらねえんだ……」

「サラリーマンの言い訳みたいですね。確かにそうですが」

「あと二日くらいは休みたいね。最近は不況だから有給じゃなくてもいいぜ」

 あはは……、と苦笑いでリアクションをとるしかありませんでした。

 レイが家事に戻ると、今度はシーが二階から降りてきました。相手を小恥ずかしくさせるような澄んだ笑顔でやってきます。ヒルは思わず照れてしまいました。

「どうしたの? 風邪?」

「ん……いや……、なんでもないっす」

 直後、それが怪訝な顔に変わりました。

 彼女はヒルの隣に座りました。

「……ところで、×××はどうよ? 虐められたりしてねえか?」

 きまりが悪そうに話題を振ります。

「そうね……。ちょっとあるかもしれない。表情、暗い時が多いから……」

「男のくせに女顔で、なよなよしてて、泣き虫だからなぁ……。お前さんの美顔とそっくりだよ」

「私のせいなの?」

「むしろオレのせいさ。本当に悪いな。シーには苦労かけっぱなしで……。ヒーローだのなんだの言われてるが、親としては最低だよ。家族をほったらかして行くなんて、」

「もういいよ。誰もあなたを責めないし恨まない。逆にあなたは皆に求められる存在じゃない。それは私たちも含めてね。×××はあなたの言いつけをしっかり守ってるわ。最低な親の言いつけを誰が守るっていうの? 少なくとも私たち、特に×××はあなたを尊敬してるわ……」

「…………」

 二人とも話さなくなった時、レイがもう一つのマグカップを持ってきました。ありがと、と短く告げて、啜りました。同じタイミングでヒルも自分のを口に含みました。中はどちらもコーヒーです。レイはくすりと漏らし笑いをしてしまいました。

 そのまま今度は洗濯物を干しに行きます。ピンクの洗濯カゴを両手に持って西の廊下から二階に向かいます。階段は曲がりくねっていて、ちょうど居間の真上に着きます。

 少年の部屋の南側に取り付けられた広いバルコニーに物干し竿が横に二つあります。そこにハンガーやらなんやらがかけられています。レイは丁寧に干していきました。

「……?」

 視界の片隅にふと何かが映りました。そちらを見ると、

「……これって……」

 黒い箱がありました。バルコニーの角にぴったりと置いてありました。レイはこれが何であるかを知っていました。

「……ヒル様からのプレゼント……」

 中を調べると、組み立て式のナイフの柄が二本ありました。しかし、一本分の隙間がありました。

「ない? ……あっ」

 昨日のことを思い出しました。ヒルはお手本として先に組み立てていたのです。思っていたことが妄想となって、ほっと胸を撫で下ろしました。そして本業に戻りました。

 洗濯物を干し終わり、今度は掃除です。洗濯カゴを浴室に戻し、代わりに掃除機とはたきを持ってきました。レイはマスクを着けて、はたきをします。綺麗好きらしく、かなり細かくやりました。しかし、それが逆に不安にさせていました。

「……」

 どこにもその一振りが見当たりません。ベッドの下にも、机の裏、中にも、タンスの中にもありません。脇から嫌な汗が(にじ)み、手が湿りだしました。

「……」

 急いで掃除を済ませ、一階に駆け下りました。用具はほったらかしです。

「ヒル様! シー様!」

 雑談していた二人は、笑っている途中でした。

「なに?」

 と、間の抜けた返事をしたのはヒルでした。

「×××様のナイフがバルコニーに置かれていまして、中を見たら……、」

「見たら?」

 シーが言いました。

「……一本、ありませんでした」

「そりゃ、どっかに置いてあんでしょ」

「掃除のついでに隅々まで探したのですが、見つけられませんでした……!」

「つまり、それを学校に持ってったってのか?」

 ヒルが先に言いました。こくりとレイは頷きます。

「まさか、あの子……仕返しするつもりじゃあ……」

 レイとシーは顔が真っ青でした。一方のヒルは片目を瞑って唸っています。

「わーった。オレが学校へ見に行ってやるよ。お嬢様二人はのんびり紅茶でも飲んでてくれや」

 

 

 少年の塾は一般的な学校と言っても過言でないほどに、広くて設備が充実していました。塀で囲まれていて、校門、校舎、体育館という順でちょうど一列に並んでいます。校舎の校門側には校庭が、体育館側にはそこへ行く渡り廊下しかありません。他の空いたスペースには木が生えていたり、何もなかったりします。体育館と塀の間、いわゆる“体育館裏”は人気(ひとけ)が全くありません。なので、よくイジメの現場になりがちなのでした。そこには、

「ぐっ……」

 少年がいました。体育館にもたれるように座っていました。彼だけでなく、

「おいオカマ! もうへばったのかよ!」

「今回はもった方じゃね?」

「泣いてないっしょ。でもそれでも英雄“ヒル”の息子かぁっ?」

 “いじめっ子”が三人いました。彼らは少年より明らかに年輩で体が大きく、強そうでした。そのうちのリーダー格の男が少年の胸倉を掴み上げます。少年の首に掛けてある二つの黒い輪っかが大きく揺れました。

「ちったぁ根性見せろよ!」

 そしてお腹に膝蹴りを何回もくらわせました。その間、他の二人はゲラゲラと(みにく)く笑っています。少年は何とか耐えようと歯を食いしばっています。歯軋りが聞こえてきそうなくらい、力を込めています。

 それを見てイラついたのか、

「こいつがホントにオカマか調べてやろうぜ」

 汚くにやつきました。

「裸にひん剥いて、写真撮って、女子に売ろうぜ」

「変態かよ、お前……」

「マジキモイ……。でも、金儲けにはのった!」

「誰が買うんだよ、そんなの……」

 一人は気乗りしないみたいで、見学に回りました。それでも少年は敵いません。

「いや、やめてよ……やだ、やだあぁぁ!」

「なんかお前、女っぽ……」

「誰か助けてえぇぇ! やだああぁ!」

「な、なぁ、さすがに止めないか? これはマジでヤバイって」

「腰抜けだなぁ。どうせバレないって。ほら、あと少しだぜ」

「肌白っ! っていうかホントに女だったらシャレにならん」

「やめてぇ……、ごめんなさい……ごめんなさい……」

「あとシャツとパンツだけだ。なんかぞくぞくしね?」

「た、確かに。俺ら生粋か?」

「俺は知らねえぞ」

「なに、脅しの写真何枚か撮れれば大丈夫だよ」

「うわ、パンツ脱がしやがった……。こう言っちゃなんだが、本当に男なのが残念だ……」

「言えてる。俺ら、犯罪者になっちまったよ」

「俺もかよ」

「当然。俺らは運命共同体さ。あとは上も……」

「うわぁ……白いな、って……」

「なんだこりゃ?」

「ネックレス……じゃねえな……? 物騒すぎるだろ……」

 少年はネックレスを後ろに隠しました。それは昨日のプレゼントをネックレスにしたものでした。柄と刃それぞれに分けています。

「昨日はそんなのなかったよな? もしかして、誰かから貰ったんか?」

「そういや、うちの親父が、英雄が帰ってきてるとか言ってたぜ」

「つーことは、土産の可能性が高いな」

 次々と的中し、ネックレスを握り締める手が強くなりました。

 リーダー格の男がまたにやつきました。でも、額から汗をかいています。

「お前、まさか」

「貰っちまおうぜ」

「さすがにそりゃまずすぎるって。あの英雄のだぜ? 何かあったら……」

「それじゃあ、合法的に取引すっか」

 その男は少年の服を見せ付けました。

「服を返してほしかったら、そいつをよこしな」

「強奪じゃねえか」

「立派な取引さ」

 少年はついに、泣き出しました。

「泣いたって誰も来ねえよ。どうする? 裸のまま家に帰るか、そいつを渡すか、二つに一つだ」

「うぅ……っ……そんなの、えらべないよ……」

「俺は別に帰ってもいいんだぜ? そいつをくれりゃあ話は終わるのになぁ……」

 リーダー格の男は蔑んだ目で見下ろしています。

「そうじゃないとすると、お前は露出狂かあ? オカマでそれは勘弁してほしいぜ」

「お前、鬼畜だな」

「ちげーよ。もしかしたら英雄ももともとはオカマで露出狂なのかもな」

「……!」

 ぽろぽろと落としていた涙が、さらに激しくなりました。そして、ネックレスを差し出し、

「観念したか、」

 ませんでした。

「!」

 男の掌に深く埋まっていきました。

「ぎゃあぁぁぁぁぁっぁ!」

 汚い声で叫びました。少年は勢いよく引き抜きました。赤い液体が少年の体に数滴飛び散り、刃とそこを汚します。一方の“穴”からは液体が溢れ出て、止まることを知りません。ついに腕や衣服をも汚しました。

「て、てめえ! よくも、」

 刺しやがったな! それは虚空に消えました。代わりに似たような叫び声が出てきます。“穴”は首の根元にできて、その返り血で白い体を染め上げてくれました。赤い下敷きを通して見るように、目の前の景色も赤くなっていました。それがおかしいのか、少年は笑っています。でも同時に涙を流していました。

「……お父さんを侮辱するのは……許さない!」

 少年は容赦しませんでした。刃を使わない代わりに、生まれたての姿で、

「ぐほっ」

 殴り、

「ぅげっ!」

 蹴り、

「うぇぉ!」

 踏んづけ、枝の折れるような鈍い音がしても、一方的な暴力を緩めることはありません。そしてその中の一人が、ついに痙攣してしまいました。侮辱した男です。

「も、もう止めてくれ! 俺らが悪かった! 死んじまうよ!」

「頼む! もうお前に手出ししない! 本気で悪かった! 許してくれっ!」

 リーダー格の男と見学に徹していた男が土下座して、徹底的に謝ります。少年に衣服を返します。でも、

「ぼくのことはいいんだ……。我慢できるから……。でも、お父さんを馬鹿にしたのだけは絶対に許さない! どんなに謝ったって許すもんか! お前なんか……お前なんか……」

「う、うわぁぁぁぁぁ!」

「殺してやるっ!」

 そこへ、

「遅かったか!」

 ヒルが駆けつけてきました。数人の先生と二人の医者が同行しています。

「! お父さん……」

 少年が止まった隙に、いじめっ子二人は少年を取り押さえました。そして首飾りを引きちぎり、手の届かないところに投げました。

 医者はすぐに被害者の容体を診ます。

「い、いかん……! 肋骨が肺に突き刺さっているかもしれん! 今すぐ病院へっ!」

 やがて、パトカーや救急車が到着しました。いじめっ子三人は病院へ運ばれていきました。少年は校門でしゃがみ込んでいました。毛布に包まれ、手錠をはめられています。

「お父さん? 見て見て、いじめっ子をやっつけたんだよ?」

 血まみれた刃を掌いっぱいに見せました。ヒルは気取られないように慎重にそれを取り上げます。そして刃と同じように血まみれた少年を抱き寄せました。

「こんの、バカたれが……!」

「なんで……? あいつらはぼく以外にもいっぱい虐めてた。しかもお父さんを馬鹿にしたんだ! だから成敗してやったんだよ? どこが悪いの? 動物だって平気で殺してたし、いろんな人を傷つけてきた。動物だって生きてるんだよ? ぼくたち人間と同じように生きてるんだよ? そんな連中は殺しを楽しんでるとしかいいようがないよ。そいつらをどうかしてると思わない? お父さんだって、そんなヤツにはなるな、って言ってたでしょ? だから連中が殺してきた動物たちのようにしてあげただけ。でもお父さんもぼくも悪くないよ。悪いのは虐めてた連中さ。ぼくはお父さんの言ってた通り、自分を守ったんだ」

 少年は白黒の車に乗りました。ヒルも同乗することになりました。

 

 

 取り調べ室。狭くて怖くて、あらゆる圧力がかかる場所。記録を残すためのデスクと、圧力をかけるために相席させるデスクしかありません。あと、少年の背後に鏡もありました。

 その中に少年と大人二人がいました。一人は記録係として、もう一人は少年から聞き出す係として。しかし聞き出し役は困っていました。

「……それで?」

「ぼく……ずっと虐められてた。ノート捨てられたり教科書破られたり、さっきは服を取り上げられて……ひどい事されそうになった……」

「うんうん」

 少年が素直に供述すればするほど、純粋な悪でないと思い知らされたためです。客観的立場にいなければならない聞き出し役でさえ、揺らいでしまうほどでした。

 困ることはそれだけではありません。鏡の奥の存在が気になって仕方がないのです。気になるというよりも、畏怖(いふ)畏敬(いけい)、矛盾する念があるのです。もちろん、鏡の奥には……。

「つくづくだな……オレは……」

 ヒルの姿がありました。

「本来は絶対禁止なのですが、あなたほどの人物では断ることができませんからね」

「感謝してるよ。実情を知るためには、無理を通すしかなかった。あいつは弱音を吐くフリをして本当に苦しいことを胸にしまうからな。立派な擬態だ」

「今回の事件……このままだと懲役は避けられません。下手をすると極刑にも……」

「被害者はどうなんだ?」

「もちろんただでは済みませんね。それでもせいぜい執行猶予でしょうか」

「……」

 ヒルはいつになく重い表情でした。少年が吐き出す苦痛を聞くたびに顔が(ゆが)みます。一緒に苦痛を味わっているようでした。

「一、二週間……落ち着かせてくれ」

「あなたをですか?」

「いや、あいつをだ」

「! そ、それは、」

「刑に服してやってくれ」

「し、しかし……」

「いいんだ。それも経験だ」

「……」

 気が狂ってる……、そう思わずにはいられませんでした。

 供述が終わると、少年はそのままどこかに連れて行かれました。しかし、不思議と足取りは軽く見えました。顔つきも(けん)が取れたようでした。

「……さて、少し忙しくなるな」

 

 

 少年は牢屋で死を待っていました。己がした過ちと罪悪感を鎖のように縛り付け、重すぎる(かせ)として身に(まと)いながら。最愛の家族の思い出も消え失せようという頃、ちょうど二週間経った頃です。

 一切の光も入らない牢屋に、一筋の(まぶ)しさが差し込みます。少年は目が(くら)みました。目が慣れるのに時間を要しましたが、人影が遮っているのはすぐに分かりました。

「……大丈夫か?」

「……」

 少年の身体は鶏ガラのように()せ細っていました。(かたわ)らに食事がそのまま残されています。

「出ろ。もうここにいなくていいんだ」

「……え?」

 どきりと胸が打ちました。久しぶりに心臓が動いた感じです。まるで長年放置された錆び付いた機械を動かすようです。

 人影は少年を抱え上げました。恐ろしいほどに軽い、病気かと思ってしまうほどです。

 少年は誰かとも分からない胸の中で温かさを感じていました。あまりに心地よくて、

「でも、だれ……う、ん……」

 眠ってしまいました。

「……」

 人影はそのまま医務室へ運びました。

 

 

 少年が意識を取り戻したのは、それから五時間後でした。白い部屋、温かい空気、ふかふかのベッドに毛布、極限状態の少年にとって極楽の世界でした。むしろこのまま逝ってしまいそうな、

「おい、生きとるか?」

 それを現世に引っ張り出したのは、白衣を着た老人でした。

「あ、え……うんと……」

「ふむ。ちょっと大人しくしとれな」

 医師です。老医師は少年の眼球を見たり身体を動かさせたり、少し会話させたりしました。

「異常なし。よかったよかった」

 嬉々として、何かの用紙に書き込んでいきます。

「あ、あの……ぼくは……」

「あぁ、自分の置かれとる状況が分からんのじゃな?」

「は、い」

 久しぶりに口も動かしたので、しどろもどろです。

「お前さんは釈放じゃよ」

「しゃ、くほっう……?」

「ここから出て普通の生活に戻れるんじゃよ。じゃが、体調が良くない。正式な釈放は一日二日休んでからじゃな」

「ま、まって。なんで……? だってぼくは……」

「そんなのボケ老人には知らんことじゃ。治療して釈放しろということしか聞いとらんからな」

「……」

「詳しい話は身内に聞くことじゃな」

「うん……」

 

 

 さらに二日間、少年は休養しました。体調は完全ではありませんが、だいぶ元気になりました。これにて釈放です。

 釈放は呆気ないものでした。老医師が施設の入口まで連れて行いき、

「これで普通の生活に戻れるぞ。達者でな小僧」

 その一言で終わりました。

 一分くらいぼーっとします。しかし少年の頭の中はまだ混乱していました。

 そんな錯綜(さくそう)した思考の中で、唯一導き出したことがあります。

「……家に帰ろう」

 少年は歩き出しました。

 二週間くらいの期間で帰り道の心配をしましたが、杞憂(きゆう)に過ぎないようです。何千回と歩いてきた帰路を身体が覚えていました。

「……あ、こっちじゃない、あれ、こっちだっけ? うーんと……」

 覚えていたのです。

 何とかして家に帰ることができました。相も変わらず少しボロい家、しかし少年の生きてきた証です。

 中に入ると、何かが違うことに気づきました。

「……レイ、さん……?」

 この家のメイド、レイがテーブルに伏していました。

「レイさん、どうしたのっ? れい、」

 パチン、と高い音がしました。

「っ!」

「のこのこ帰ってきたのですね」

 右頬、じーんとした鈍い痛み。

 レイは涙ぐんでいました。

「……お、とうさんは……? お母さんは?」

「帰ってきませんよ」

「え?」

 とりあえず、少年はテーブルに着きました。

 レイは険しい面持ちで、

「聞こえませんでしたか? ヒル様もシー様も二度と帰ってこないんですよ!」

 言いました。溜め込んでいた涙が一気に吹き出てきました。レイはゆっくりと目を閉じました。やがて、何かを決心するかのように目を開けます。

「れ、レイさん……」

 キッチンへ向かい、コップを持ってきました。水滴が酷く付いたままで、水道水でした。

「ヒル様は×××様の愚行を許すように警察に訴えました。もちろんそんなことは許されません。ただし、ヒル様は自ら交換条件を突きつけました」

「な……なに……?」

「自分の旅人資格を剥奪し、永久追放を受けることです」

「え……!」

「もともとここは普通の旅人が入ることのできない国なのです。その区別をするためには旅人資格を使って照合するのです。つまり、旅人資格はここの住民であることも示しています」

「そ、それじゃあ、お父さんは、」

「そうです。自分の存在と引き換えに×××様の免罪をするように警察に差し迫ったのです。それだけではありません。その事件すらなかったことにするように関係者全員に訴えました。これに警察と関係者全員はこれを受諾しました。ヒル様でなければ不可能だった行動です」

 少年はほろほろと涙を落としました。

「……ぼくのせいで……お父さんは……」

「それだけではありません。シー様は数々の罵詈雑言、誹謗中傷、非難を浴びせられ、持病が悪化して……逝去(せいきょ)されました」

「せ、いきょ……?」

「シー様は死んだのです。あれだけのことを耐え抜き、気丈を振舞う姿が……もう……うぅ……」

「そ……そんな……」

 レイは既に大粒の涙を(こぼ)していました。留めていたものが、タガが外れたように、そして止められませんでした。

「×××様のせいで、全てが無に帰しました。過去の栄光も、賞賛も、自分の存在も、何より家族も失いました……。×××様のせいでっ!」

 少年は泣き崩れました。テーブルにいっぱい涙を落として、水溜りを作りました。それでも泣き続けました。一方のレイは既に平静を取り戻しています。むしろそれは冷め切っていました。

「もうヒル様もいない、シー様もいない。残っているのはあなただけ。こんな状況にしたあなただけっ! めちゃくちゃにしたあなただけなのっ!」

 レイは寝室に向かい、大きい旅行鞄を持ってきました。

「ど、どこに行くの……?」

「あなたに教える義務はない」

「そっそんな……。レイさんまでいなくなったら、ぼくは、」

「そんなの知らない。私の大好きな家族を潰したあなたなんか……」

 いつも優しかったレイ。少年には、あのいじめっ子と見る目が同じような気がしました。少年をまるでゴミのように蔑んでいる目です。その怖さは体で知っています。無意識に体が震え出しました。そして、椅子から転げ落ち、

「あ……あぁ……うぅえぇ……」

 失禁してしまいました。

「情けない。そんなのだから虐められるんだよ……。じゃあね」

 レイは興味なさげに家から出て行きました。あまりに一瞬で少年は身体が(こお)ったままです。

「……」

 少年の瞳はどんどんと暗く沈み、虚ろになっていきました。表情もなくなりました。そして少年は決意しました。

 家中を歩き回ります。キッチン、お風呂、トイレ、寝室、居間、今までの浅い思い出を思い浮かべながら。それを十分に味わってから、二階へと向かいました。階段を上る音は無に等しいくらいに小さく、廊下を渡る音はもはやありませんでした。

 二階は少年の部屋のみです。そこに入って、勉強机の椅子に座りました。暑いとも寒いとも何も感じません。ただ、少年がそこにあるだけでした。そしてバルコニーに出ます。目の前に並ぶ物干し竿を通り抜けて、下を見ると、なかなかの高さがありました。前方にあるお屋敷は全てお尻を向けているように建ち並んでいます。それからもあの目が向けられているようでした。

 もう何も考えませんでした。決意を無駄にしないこと以外は。バルコニーを見回すと、片隅にありました。吸い込まれるかのように近づき、へたり込み、開けます。綺麗な黒色の金属が何本かありました。そのうちの一本を思い切り掴みます。掴んだ右手から血が滴り落ちます。つぅっと血の流れを何本か作りました。そして床に小さな水溜りを、湖を、そして、海を作り出そうとしました。ひとまず手を開いてみると、掌の真ん中に横一線に浅い赤ラインが、そこからたらたらと垂れてきています。特に痛がる様子もなく、ぎゅっと握り締めました。流れはさらに激しくなり、床をさらに汚していきます。

 ここで、少年はにこやかに微笑みました。そして握った手を開き、反対の手に金属を持ち替えます。その手も金属から垂れる血で汚れます。今度は空を眺めます。しかし何も映りませんでした。目を閉じて深呼吸をしていたからです。

 そのまま金属を血だらけの手首に持っていき……、

「……ありがとう……」

 力を込めました。

 

 

「……それで?」

「少年は自殺しました。そのことが知られたのは少年が亡くなってから六日後のことです。でもその表情は満足に満ちていたとのことです。めでたしめでたし、です」

「全然めでたくないし、バッドエンドじゃないか。誰の物語だよ、それ?」

「誰でしょうね」

「質問で返すな。もしやお前、それをオレの過去に設定しようとか(たくら)んでるんじゃないだろうな?」

「少年は亡くなりましたから無理ですよ」

「実は少年は一命を取り留めました、とかどんでん返しされかねないからな、念のために聞いたんだよ」

「そうでしたか。では、そんなリクエストがあるなら、そういうことにしますか?」

「好きにしろ。オレには関係ない」

「確かにそうですね。それでも、あなたの過去など、興味を持つ人などいないと思いますが」

「うわ、出たよ……。いい加減、毒舌は止めろよな。意外に傷つくんだ」

「人は傷つけられて成長します」

「傷つけた張本人がエラソーに言うなっ。……そういえば、気になることが一つある」

「何です?」

「その×××の話だけど、その名前の由来は何だ?」

「どうしてです?」

「……いや、オレの好きな曲と同じだからさ。まさかとは思ったんだ」

「由来ですか? これは作り話ですよ? 真剣にならないでくださいよ」

「それにしてもリアリティあるじゃん」

「……そうですね。空を眺めて思いついた、とでもしましょうか。目の前は海ですけどね」

「なんだそれ」

「でも、嫌なあだ名をつけられていたのです。一文字抜かすと悪口になりますからね」

「それでもイイじゃん……。ところで、×××の父親とメイドは生きてるのか?」

「そんなに気になるなら、探してみますか?」

 

 

 


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