遠くて淡白な青空の下、ベージュ色の海辺で青年は海を眺めていた。太陽の光がその海を照らし、波の起伏で
冷たい潮風が青年の黒いセーターを仰ぎ、隙間から忍び込む。それでも遠くを眺めていた。
登山用の黒いリュックが青年の足元にある。細かい砂浜のせいか、リュックのお尻が砂に埋もれている。その隣にある青年の黒いスニーカーも深い足跡となっていた。紺色のジーンズの裾に砂粒が付いていた。
「……はぁ」
青年はその場で体操座りになった。
「どうかしましたか?」
青年以外に誰もいないはずだが、声がした。落ち着いた口調で、妙齢の女の声だ。
「……別に」
青年は深く
「寂しいのですか?」
「……静かにしてよ」
そのまま目を
海辺に波が
「まるで落ち込んだ少年のような行動がよく見られるようになりましたが、一体どうしたのですか?」
「……別に」
「ホームシックですか?」
「……」
青年は
「……行くか」
「ダメ男、質問に答えてください」
“ダメ男”と呼ばれた青年はぐっと膝を押して立ち上がった。お尻についた砂や泥を払い落とし、手も軽く
「寂しいのですか?」
「大丈夫だよ、フー。そんな心配しなくても」
「ダメ男のそんな表情は初めて見ます」
“フー”と呼ばれた声。口調が強張っている。
「大丈夫だって。そんなことよりさ」
「何です?」
「海っていいもんだよな」
再び遠くを眺めた。
「……」
ダメ男は荷物を持って出発した。
海に沿って、あてなく歩いていく。打ち寄せる波を踏んで、スニーカーに海水が浸る。その足跡は海へ帰る波が
「こんな所では何も起こりそうにありませんね」
「それが一番いいよ」
「そうですね。でも、ダメ男が望まなくてもハプニングはやってきます」
「そうだな」
ざしゅ、と最後の一歩を踏みしめる。
ダメ男の前方には巨大な塊がいくつも打ち上げられていた。大木や白色の袋、缶、ボトルなどの物が網で絡められている。
ダメ男はとりあえず近づいてみた。
「これは……?」
「海岸に打ち上げられたゴミです」
「ごみ……」
「人が海に投げ捨てたゴミが長い年月をかけて、こうして打ち上げられるのです」
「海を汚してるってわけか」
「はい」
「……」
ダメ男はごみの塊たちの一つに触れてみた。透明な箱やビンが網でぎゅうぎゅうに詰められている。
「……」
「ダメ男?」
しばらく触った後に、その手を鼻の方にもっていく。
「……潮の匂い……」
「天日干しで海水が蒸発したので、」
「しないっ!」
叫んだ。
「……」
打ち寄せる音が二人を包みこんでいく。何も言うことができなかった。
ダメ男はそこでまた尻をついて座り込んだ。
沈黙を守ったまま、遂に空に赤みが増してきた。太陽を中心に橙色に染み渡っていく。青かった海も赤を受け入れていた。しかし、
「おーい」
ダメ男の背後から聞こえる声、それが破ってしまった。
振り返ることなく、膝を深く抱えて俯く。そこへ声の持ち主が肩を
「お前さん、どうしたんだ?」
おじいさんだった。身なりはけっして高貴ではなく、へたったズボンに薄汚れたセーターを着ている。ニット帽を被って、白い無精ひげを蓄えて、
「元気ないぞ」
豪快に笑い出した。しかし、ダメ男の顔から曇りが取れることはなかった。
「たそがれてんのか?」
「……」
「……ふう」
ダメ男の前に回り込み、
「顔、死んでるぞ」
また笑いかけた。
「……」
「ご老人、申し訳ありません」
「!」
いきなりの声に、おじいさんは尻もちをついてしまった。
「ふ、腹話術か?」
「違います」
「……ぷ」
ダメ男は、
「ダメ男?」
「あはははは……!」
どっとと笑い出した。
「そのツッコミは初めてだなぁ……」
「この頭のイカれた男がダメ男です。ダメ男が首から下げている物体が、」
ダメ男は驚いているおじいさんに四角い物体を見せた。夕日で水色のボディに橙色が上塗りされる。
「“フー”」
「どうもこんにちは」
「は、はぁ……」
初めて見るようで、物珍しそうに見続ける。
「ごめん、じいさん」
「いっいや、いいよ」
おじいさんはお尻についた砂を軽く払い落し、ダメ男の隣に座った。
「どうしたんだ? 暗い顔して……」
「……分からない。でも、ここにいるとすごく……気持ちが沈むんだ……」
「そうか……。もしかして、過去を振り返ってるのか?」
「え?」
おじいさんは海を眺めた。
「海は眺めていると、すごく落ち着いてくる。でも逆に余計なことまで思い出してしまう。まるで、沈殿した汚れが再び浮いてくるように……」
「そうなのですか、ダメ男?」
「……」
無言で頷いた。
「オレは自分が生き延びるために、たくさん人を殺してきた……」
「!」
「人を殺したくない、そう思うんだけど……どうしても、他人の命を奪わざるをえない時がある……。間違ってるんかな? どうにかして命を奪わないでいたいなんて……」
「若いのに、相当苦しんでるようだね」
「……一つだけ、未だに悔やみきれないことがあって……」
ダメ男の膝を抱える指先が白くなるほど握り締める。
「年寄りの俺からすれば、綺麗事すぎて
「そう、に決まってるか……」
「でも、羨ましい」
「羨ましい?」
「ダメ男君はとてもキレイすぎる。純粋無垢。そうであるがゆえに、
「その通りです」
「でもね、曇った眼じゃ、見えるものも見えなくなるもんだ。そう考えると、君は……よく見えてるよ。この海の景色もね」
「……じいさん、眼が……?」
ふふ、と静かに笑う。
夕焼けだった空と海に黒みが差してきた。海の彼方に太陽がゆっくりゆっくり沈んでいく。
潮風が耳で唸り、身体中を
「……」
「そろそろ俺は行くよ。ダメ男君とフーちゃんはどうする? うちに泊まるか?」
「……」
「いえ、今日は野宿するそうです」
「そうか。いらぬ世話だったな」
「お気遣い、ありがとうです。おじい様、気をつけてお帰りください」
「じゃあな二人とも」
夕方から夜に移り、辺りはすっかり暗くなった。月明かりもない暗闇。その中に一粒の明かりがあった。焚き火だ。ぼうっ、と温かみのある橙色の明かりは周囲のテントやリュックサック、そしてダメ男を映し出す。
その明りを受けて、海も揺らめくのを明かす。
「気持ちいいなぁ」
「とても落ち着きますね」
波打つ音。一定のリズムで心地よく耳に入る。まるで身体を海に浮かべているような、そんな心地がした。
「あのご老人、眼は見えていますよ」
「? どうして?」
「そうでなければ、先にダメ男に声をかけません」
「あ、そっか」
「まったく、あなたという人は
「……そういうわけじゃないんだけどな……」
「もう少し自分の身を案じたらどうですか?」
「早速説教モードですか……。フーももう少しカルシウム摂ったらどうだ?」
「カルシウムを摂取してイライラを抑える、というのは間違った見識です。正しく、」
「あぁぁぁ! せっかくの雰囲気なんだから静かにしよ、なっ?」
「そういうダメ男こそカルシウムをぶつぶつぶつぶつ……」
珍しく怒られたフーはいじけた。
ダメ男は手元に毛布を持ってきて、焚き火の前でうずくまる。時折パチクリ瞬きして、焚き火をじっと見つめる。何か、思いに
「ダメ男、何を見ているのですか?」
「……」
「ダメ男?」
「……」
「だーめーお?」
「……」
フーの呼びかけに答えない。
「あ」
フーは気づいた。
「目を開けたまま死んでいますね」
「勝手に殺すなっ! やっと眠れそうだったのにっ」
「あれで眠ろうとしていたのですかっ。むしろこちらがびっくりですよっ」
「人の寝方を笑うな」
「それはそれは失礼しました。ふふふ」
「言ったそばから今笑っただろ」
「それではお休みなさい、ダメ男。……ふふ」
「……お休み」
複雑な顔で再び眠りに入る。
「一体、そんな仕組みなのでしょうかね」
かなり気になるフーであった。