「聞いてくれよ」
開口一番に俺がそう言うと、秋葉はニヤニヤと口を緩ませた。
「どうした。遂に……」
俺は秋葉の口を手で塞いだ。
ここは俺に言わせてくれ。
「そうなんだ。実は……鈴羽と婚約したんだ」
俺の言葉を聞くと秋葉は指をパチンと鳴らして、やったなと俺の肩を叩く。
「いやー遂にか。俺が会ってから十年。えーと、その前から一緒にいたと考えると随分長かったな」
秋葉は余程嬉しかったらしく、秘書さんを呼んでビールを二缶持って来させていた。
「いや、ありがとね」
秋葉がそう言って片手を上げると秘書さんはやれやれと言った様子でため息をついた。
「いくら嬉しいことがあっても昼からアルコールはどうかと思いますよ」
自分で言ってもしょうがないと分かっているのだろう。
秋葉にそれだけ言うと一礼してすぐに部屋から出ていった。
「彼女も飲めば良いのにな」
そんな秘書の様子ももう慣れているのか秋葉の方も意に介さず缶ビールのブルトップに指をかけた。
「ほら、飲め。祝杯だ」
秋葉は俺の分のブルトップも空けて俺に渡してくる。
キーンと冷えた缶が手の感覚を鈍らせる。
秋葉は乾杯をするかのように缶を机から少し高い所に掲げる。
そこで秋葉の動きが止まる。
何事かと思ったが目を見ると、お前が音頭を取れと合図をしていた。
「え、えーと。俺婚約おめでとう」
乾杯。
そう言うと俺達二人は軽く缶を当てた。
コップと違いアルミ缶特有の鈍い音が鳴る。
俺はビールに口をつける。
冷えているせいもあってか喉を抜ける炭酸が気持ちよい。
昼に飲んでいるというある種の背徳感がビールのうまみを加算しているようにも感じた。
俺はあの公園で鈴羽に告白したあと、二人して家に帰った。
告白までして了解を得たのだから……と秋葉辺りなら邪推しそうなのだが、残念ながら何もしていない。
鈴羽が家に入る前に言ったのだ。
「岡部さん……今日はこの幸せを噛みしめたいのですぐに寝てもいいですか?」
と。
そう言われてしまっては俺もあぁと頷くしかなく、数秒お互いの唇を密着させただけで昨日の夜は終わった。
「しかし、昼に飲む酒は旨いな。癖になりそうだ」
秋葉は、口に付いた泡を拭う。
「さて、次は俺の番か」
缶ビールを持ちながら視線は遠くを見ていた。
「お前は最近順調とか言ってたが結婚する予定はあるのか?」
俺は缶ビールを半分ほど飲むと机に置いて一息吐く。
秋葉は俺の質問に微妙な顔をしながら、さぁと答えた。
いつもの秋葉らしからぬ返答だった。
普段ならきっぱり答えるのだが、どうにも歯切れが悪い。
「まさか、まだ言ってもいないのか?」
「あぁ」
今度はやけに即答だった。
質問した俺の方がそうかと黙ってしまった。
なるほど。
秋葉はプライドが高いというか少し恥ずかしがり屋な所もあるから自分の気持ちを伝えるのが気恥ずかしいのだろう。
「まぁ、俺は俺で気楽にやるさ」
秋葉は自分でそう締めくくると残っていたビールを一気に飲んで缶を勢いよく机に叩きつける。
「ぷはぁ。よし、仕事でもするか」
パシッっと自分の顔を叩いて気合を入れると缶をゴミ箱に捨てた。
「岡部もやることないなら手伝ってくれ」
秋葉はそう言うと俺の返答も聞かずに書類の束を渡した。
渡されたは良いがなにをしていいか皆目見当がつかない。
一応その書類に目を通してみたが俺に関係あることではなく内容もさっぱりだった。
「で、俺になんでこれを渡したんだ?」
俺がそう聞くと何かが飛んできた。
俺は反射的にその何かを手に取る。
印鑑だった。
ちゃんと『秋葉』と書かれた印鑑だ。
「判子押すだけだ」
うちの会社は稟議だからさ。と目を書類から離さず秋葉は言った。
俺は言われた通りに取締役の欄に秋葉の判子をポンポンと押していく。
しかし……
俺は判子を押しながら自分の横に積まれた書類の山を見る。
紙一枚の厚みはほぼないはずなのだが、それでもそれなりの高さがあった。
「いつもこんなことをやっているのか」
俺の問いかけにあぁと気のない返事が返ってくる。
集中しているのか書類を見ては何かを書きこみまた次の書類へ目を移すという作業を繰り返していた。
俺はその様子を見ながら普段と違う秋葉を感じた。
俺も少しくらいは手伝おうと判子を正確に押していく。
「ふぅ」
秋葉がようやく書類から目を離し天井を仰いだ。
どうやら一段落ついたらしい。
俺の方もあらかた終わっていた。こっちを仕事と呼んでいいのか疑問ではあるが。
そろそろ右腕がピリピリと痺れていた。
「悪かったな仕事を手伝わせちまって」
秋葉はようやく俺を見た。
「別にどうってことはない」
むしろ少しでも手伝えたのなら嬉しい限りだ。
未来を話すってだけで給金が貰えるのは少し心苦しいものがあったからな。
「まぁ、これで岡部が出来ることは大体終わった」
帰るなら帰ってもいいぞ。
秋葉は自分で淹れたコーヒーを飲みながら答えた。
流石に俺も自分の分からない分野まで口を挟むということはしたくないので俺は素直に秋葉の部屋を後にした。
「あ、お疲れ様です」
俺は部屋を出た時にビールを持ってきた秘書さんと目が合う。
「缶ビールありがとうございました」
俺がそう言うと、秘書さんはいえいえとかぶりを振る。
「秋葉の指示ですからね。昼間から酒を飲むってのは初めて見ましたが、大抵のことは慣れました」
そう言って秘書さんは自分の髪をじれったそうに掻きあげた。
この秘書さんはずっと秋葉の秘書をやっている気がする。
思えば俺がこの会社に出入りし始めた時からこの人だけ変わってない気がする。
「あなたもよくここで働いてますね。えーと岡部さん?」
流石に十年もここに通っていると名前を覚えるのだろうか。
秘書さんは俺の顔を見てそう言った。
「えーとそうですね。そういうえーと……」
俺が秘書さんの名札を見ようとすると秘書さんはクスリと笑った。
「生憎私は今日は名札を壊してしまってないんですよ」
まぁ、私の名前なんて気にしなくていいんです。
さよなら岡部さん。橋田さんによろしくと言ってどこかに行ってしまった。
「なんで鈴羽の名前知ってるんだろう?」
さっきの俺と秋葉の会話でも聞いていたのだろうか。
まぁいいか。
気にしてもしょうがない。
俺は壁にかかっている時計に目をやる。
午後三時。
まだ家に帰るのにも早い時間だ。
かと言って特にどこか行きたい場所があるわけでもない。
「どうしようか……」
俺はとりあえず会社の外で出ることにした。
時間も時間ということもあってか、スーツを着た会社員は忙しそうだ。
あと二時間で終礼だというのを感じてか、最後のラストスパートをかけている。
……そういえばここの辺りは歩いたことが無かったな。
そう思うと駅とは反対の方向に歩きだした。
そこでふと鞄が震えているのに気づいた。
勿論鞄にバイブ機能が付いているわけではない。
俺はまだポケットに入れるには少し大きい携帯を取り出して通話ボタンを押す。
『あ、岡部さんですか?』
どうやら鈴からの電話だった。
『実は今日研究室で会議が長引きそうなんで外食してきます。岡部さんも一人で食べて下さい』
それじゃあ岡部さん。と鈴羽は言って電話を切った。
今日は一人か……
なら別に早く帰る必要もないか。
俺はまた歩き始める。
歩いたことがないと言ってもここは元々ビル街なので特に見るものもない。
ただ、整然と並んだビルを見るのは爽快だった。
時間にして一時間ぐらいだろうか。
そろそろ歩くことにも飽きてきたので近場にあった本屋にでも入る。
ちなみに俺は本を読むのは実はあまり得意ではない。
小説などはオチを読む前に飽きてしまうほどだ。
比べて鈴羽は大学時代に意外と本を沢山読んでいた。
なんでも自分の知らない世界を知ることができるのが素晴らしいらしい。
とりあえず俺は旅行関連の雑誌を手に取る。
ハワイやらグアムなどの定番な海外旅行のハンドブックや東北や沖縄など国内旅行などの本もそれなりにあった。
俺は一冊の旅行雑誌を手に取る。
そういえば、結婚したら新婚旅行とか行くのか……
俺自体飛行機なんて乗ったことないから海外に行くのは想像出来ないな。
沖縄なんて高校の修学旅行で行った以来一度も行ってないな。など意外にただ雑誌を見ているだけでも楽しめた。
ふと顔を上げて時計を確認するとそろそろ帰るのにはいい時間になってきたので俺は本屋を後にする。
「さてと、どこに行こうか……」
悩んでみても今日は秋葉もいないので居酒屋に入るという気分でもなかった。
となるとあそこしかないのか……。
最近外食と言ったらあそこにしか行っていない気がする。
俺は気づくとあの屋台の前にいた。
今日は時間が早いからかもしれないが相変わらず繁盛していなさそうだ。
暖簾の奥からはオヤジの陽気な鼻歌が聞こえる。
俺が暖簾をくぐろうとした時トントンと後ろから肩を叩かれた。
「はい?」
俺が振り向くとそこには秘書さんがいた。
「こんばんは岡部さん」
こんな所で会うとはまったく思ってなかったので俺は思わずはぁと答える。
「えーとどちら様?」
秘書さんの後ろにもう一人いたらしくその人物がひょこっと顔を出した。
「あ」
俺はその顔に見覚えがあった。
写真でしか見たことがなかったが、会えばすぐ分かった。
血というものを感じられずにはいられない。
「初めまして、あなたは、秋葉と付き合っている人ですか?」
俺がそう聞くと、彼女はコクリと頷いた。