俺は鈴羽に呼び出された。
いきなり電話があったから、もしやSERN絡みの話かと体に緊張が走ったが、どうやら夕飯のお誘いだったようだ。
鈴羽の方から何か食べたいなんて言いだすのは珍しい。
俺は財布の中を確認して顔をしかめる。
足りないことはないが念のため……
俺は少し寄り道をして金を下ろすことにした。
「あ」
しまった銀行はもう閉まっている。
コンビニにATMは……ないだろうな。
流石にこの時代にATMがあるわけがない。
仕方がないので俺は道を戻った。
俺は道中することがないので考え事をしていた。
確か2010年の鈴羽は1990年代に記憶を取り戻し錯乱状態で最後は…自殺したはずだ。
しかし、今の鈴羽は記憶を少しづつ取り戻しているに違いない。
俺はあの晩を思い出す。
――岡部倫太郎?
フルネームで呼ぶのは鈴羽の癖だった。
この分だと鈴羽は記憶をとり戻しても平気な気がする。
その為に俺が来たのだからな。
俺は電車に乗って待ち合わせ場所に向かう。
待ち合わせ場所は俺達の住居の最寄り駅だった。
電車の車窓から流れる景色を漫然と見ていた。
流れる景色は不可逆だ。
何かを忘れていてももうその地点に戻ることは出来ない。
それこそ俺達のようにタイムマシンでも使わない限り。
そこでふと俺は思い至る。
鈴羽の記憶喪失はある種確定事項だ。
しかし……
「俺自身が記憶を失っているとしたら……?」
いくら俺の体にリーディングシュタイナーが宿っていたとしても35年も時間を逆行すればなにかしら不具合を生じるかもしれない。
世界線が変わったという感覚は確かにあったのだが。
もし俺が記憶を失っていたとしてもその事象を確認する術はどこにもない。
「否定も肯定も出来ない…か」
別に悲観的になることもないが、言いようのない影に足を掴まれた気がする。
何か大事なことをしていないのではないかと。
まぁ良いだろう。
「全ては運命石の扉の選択か……」
もうこの言葉を使ってどの位経つのだろうか。
いつも大した意味は無いと言ってるが、あれは嘘だ。
この言葉を使うおかげで俺はいつも自分を奮い起すことが出来る。
そういえば、steinsはドイツ語のジョッキという意味だったな。
誰かからそんな言葉を聞いた気がした。
そろそろ変えてみてもいいかもしれないな。
そんなことを漫然と考えているうちに俺の最寄り駅に着いた。
「あ、岡部さん」
お仕事お疲れさまです。と鈴羽は一瞬こちらを見ただけで視線を戻すとそう言った。
鈴羽は何かを見ているようだった。
「なにを見ているんだ?」
「これです」
はい。と手渡されたのは十円玉だった。
「ここに描かれている建物の名前知ってますか?」
平等院鳳凰堂って言うんですよ。と鈴羽は言った。
「なんだか、響きが鳳凰院凶真と似てますよね」
そう言ってクスリと笑った。
平等院鳳凰堂と、鳳凰院凶真……似ているというか、半分くらい文字が被っている。
昔もそう言われていた気がする。
誰に言われたか分からないが。
「さて、行きましょうか」
鈴羽は、そう言うと手を差し出した。
俺はその手を握る。
鈴羽はどこか目的地があるらしく、俺を引っ張るその腕には迷いがなかった。
「さて、着きました。岡部さん」
そう言って鈴羽はようやくこちらを振り向いた。
屋台だった。
それも赤提灯を掲げて『おでん』と書いてあった。
季節外れというわけでもないが、流石に少し早い気もする。
「いやですね。私、屋台のおでんって食べたことないんですよ」
だから。と言って鈴羽は暖簾をくぐった。
いらっしゃい。と屋台の親父がぶっきらぼうに言った。
「こんばんはー。繁盛してます?」
鈴羽がそう聞くと、親父はこの状況で繁盛してるってことはねぇだろ嬢ちゃんと苦笑した。
「お、彼氏さんかい」
そっちは繁盛してるかい?と親父は俺に聞いてきた。
「まぁ、ぼちぼちですよ」
会社勤めしてるのにぼちぼちとは時化た兄ちゃんだなぁ。と親父は言った。
「まぁ、こうして来ているんですからそれなりですよ」
俺がそう言うと、親父は違ぇねえと笑った。
空きっ歯が笑った時に見えて愛矯があった。
「今日は、サービスだ。一本80円に統一してやるよ」
俺にはそれが良いのか悪いのか分からないがとりあえず礼を言う。
「それでこいつもサービスだ」
そう言うと、親父はコップに並々と透明な液体を注いだ。
「俺の生まれの特産品の日本酒だ」
旨いぞ。そう言うと、親父も自分で注いで一杯飲んだ。
「あ、そろそろ頼んでいいですか?」
鈴羽が申し訳なさそうに手をあげる。
「おお、済まねぇ嬢ちゃん」
そう言うと親父は鈴羽の方を向き何がいいかと尋ねた。
「そうですね……大根と、牛すじを下さい」
あいよ。という声と共に親父がおでんを掬って皿に入れた。
鈴羽はいただきますと一礼をするとおでんを口に運んだ。
「お、美味しいでふね」
こんなに美味しいおでんは初めてです。と鈴羽は褒めちぎった。
俺も自分のおでんを口に運ぶ。
大根に味が程良く染み込んでいてなんとも言えない旨さがあった。
「確かにこれは旨いな」
俺もそう言うと、お前ら口が上手ぇな。と言って満更でもないという表情だった。
それから俺達三人は下らない話をして夜は更けていった。
「あ、岡部さん。そろそろ帰らなきゃ」
鈴羽は時計を見て俺にそう言った。
「そうか……もう、そんな時間か」
俺は親父に金を払うとその場所を後にした。
「良い場所でしたね。岡部さん」
鈴羽の言葉に俺はそうだな。と頷いた。
確かに良い場所だった。
親父も人の良さそうな人で実に気が和んだ。
俺達は家に帰ると鈴羽は風呂にを沸かし始めた。
その間に俺は居間に腰を下ろした。
少し飲みすぎたのか……
親父の人柄に押されていつもより早いペースで飲んでしまった。
「岡部さん大丈夫ですか?」
そう言うと鈴羽はコップに汲んだ水を俺に渡してくる。
俺は礼を言って水を飲み干す。
水を飲んで落ち着いたのか、俺はふぅという溜息を吐いた。
「あ、岡部さん。私先に入っちゃいますね」
鈴羽は梁に背を預けている俺に、風呂に入る準備をしながらそう言う。
俺がおぉ。とうなずくと俺は畳に寝転んだ。
「ふ--ッ」
屋台には背もたれがなく、背筋を伸ばしたままだったため、今になってその疲れが背骨に来て、ミシッと音を立てる。
そんな時だった。
鈴羽が風呂に入っている間にふと小さくはない携帯電話がやかましく鳴り響いた。
「はい。岡部」
「あぁ、岡部か。指輪の件についてなんだが」
案の定秋葉からだった。
考えてみると大学の同期に限らず俺の携帯に電話をかけてくるのは秋葉と鈴羽位である。
まぁ、だからどうというわけでもないのだが。
「予算内のものを数点用意したから今から見に来るか?」
「悪いな。今日はもう動けそうにない」
流石にこれから立ち上がってどこかに行くという気力はなかった。
「まぁ。明日にでも見せて貰いたい」
そうかそれは残念だな。
秋葉は特に気にかける風でもなく素っ気なく言った。
じゃあな。と俺は電話を切ると、ちょうど風呂上がりの鈴羽の目が合う。
「「……」」
鈴羽の顔は風呂上がり特有の赤みがかった顔をしていた。
それがまた随分と、服装と相まっていて、大人の女性の魅力があった。
そう。艶やかである。
というか、風呂上がりにTシャツって中々扇情的だ。
「なんですか岡部さん」
「そっちこそ。何かあるのか鈴?」
クスッ、ぷ……
お互いの目を見て俺たちを訳もなく笑いあった。
九月二十日の出来事である。