どうしようもない僕がブリュンヒルデに恋をした 作:のーぷらん
海辺はがらんとしていた。
波が打ち寄せる音までもが静かに聞こえる。定期的に聞こえるザザーッという音がどこか浮き足立っていた私を落ち着かせた。胎児が胎内で聞く血液の音に似ているので、波の音を聞かせると赤子は落ち着くと言うが、それは今の私にも効果があったようだ。少し肌寒いくらいの海風が吹いた。
…ここは違うな。いつも私が置かれる場所とは。
人の声が聞こえない。
私が中心となって行動しなければいけないという責任も義務も、なにもない。
それらが乱雑に積みこまれて換気していない部屋のように息苦しかったのに、海風が私に吹き付けた途端、あっさりと体の中から抜けていく気がした。
清々しい。
時計をのんびり見ると、三時を少しばかり過ぎているが、約束の時間には十分間に合っている時間帯である。
石の階段を降りて砂浜に足をつけようとしたところで、はなぶささんの後ろ姿をすぐに見つけた。…海辺にははなぶささん以外いなかったから、すぐに目についたのだ。決して彼の姿に反射的に目がいった、などでは…
私は少し息をついた。一体何の得があってこんな益のない言い訳をしているのだろう。
ごまかす必要もないのだから、はっきり認めてしまえばいいのだ。私は彼に…好感をもっている。恋や愛の形になるかは予想できないが、こんなに私の心に近づいた異性は彼以外にいなかったことは確かだ。
くすぐったい気持ちになるが、悪くはない。
だが、同時にこれから先のことを思うと不安になる。
彼は友人からでもいいと言ってくれたが、彼がいつまでこの私を好きでいてくれるかなんて、それこそISのハイパーセンサーの処理能力を駆使したとしても分からないからだ。好意を疑いたくはないが、昨日初めて会い、一年離れる女に愛情を続けてもっていられるのか?
なにより。
私自身、本当に彼を愛せるのだろうか?
私は今弱っていて疲れている。だから、優しさや癒しを兼ね備えている彼に気持ちがいってしまうのは、乾ききった砂漠で水を求めるくらい当然のことのように思えた。
(…そういう意味では今回のドイツ行きはベストなのかもしれない。)
日本にいるときの批判や混乱から逃れる。そうすれば、私は回復出来て、彼との今後をしっかり冷静に考えることができるはずだ。彼の気持ちが移ろわないかも…確かめることが出来る。
ひどく自分がずるく冷たい女に思えてきて私は考えるのを止め、彼に声をかけた。
「待たせたか?」
彼はぱっとこちらを見て、そして固まった。
デジャヴだな…初めて私が店を訪ねたときもこんな反応だった。
じっとこちらを見ているだけ。
「「………」」
昨日のパリッとしたコックコートとは違い、普段から着ているようなゆったりとした灰色のカーディガンを着ている彼に見られていると、さっき急に服を買ってきた自分が恥ずかしく思えてくる。
(気合を入れすぎ、か…?)
「はなぶささん?…かなり待たせたのか?」
約束の時間より30分早いので聞く必要もないとは思ったが、とりあえずこれ以上見つめないでいて欲しかった。
はなぶささんははっとしたように「いえ、まったく!!」と返した後で「今日は…その、昨日と、随分感じがちがいますね」と言った。
そ、そんなにコメントしづらいのだろうか。
まだこちらを見ている彼に耐えられなくなった私は「…スーツと私服では雰囲気も違うだろう」と言いながら海風で乱れた髪を直すふりをして目をそらした。
こんなとき、世の女性なら…例えば麻耶なら。「これ、似合いますか?」とあの天真爛漫な笑顔で聞けるだろう。
そんなの、出来る気がしない。
ため息をつきそうな気分だった。こんなことでくよくよして聞きたいことを聞けないだなんて、やはり疲れているのだ。
「よく、似合っています…」
「!」
波の音に消え入ってしまいそうな声にはっと顔を上げた。
聞き間違いかと思えるような小さい声に、彼の顔を見て確認しようと思ったが、彼はすでに海のほうを向いて歩き始めている。
「行きましょう」
海風が吹いて彼の長めの髪を揺らした。
女性にも負けないさらさらの髪が舞い上がる。
その瞬間私は笑いそうになった。風に吹かれて普段隠れている耳先が真っ赤になっているのが見えたからだ。
(服を買っておいて、良かった)
ついさっきまでの後悔をあっさりと忘れて、私ははなぶささんの赤い耳を見ながら朗らかな心地で砂の上を歩いた。
すると、彼は前を向いたまま「お昼、食べられましたか…?」と聞いてきた。
そういえば、服を買ってすぐこちらに来たから食べていなかったな。だが、ご飯を全く食べていないというのも変だろう。
「…忙しくてあまり」と私が言うと、はなぶささんはやっとこちらを見た。大きなバスケットを急に出されて、思わず目を瞬かせる。
「あの、軽食を作って来たので…海、見ながら、食べませんか?」
はにかむ彼に、空腹を急に訴えだす体。
笑いながら私は「ありがたくいただこう」と返した。
数分後、マリンブルーのレジャーシートの上で、男性が作った豪華な『軽食』を目の前に固まる無骨な女の姿があった。というか、私だった。
弁当は冷たくて味気ない気がして元々そんなに好きではないのだが、このお弁当は製作者と同じく温かいような感じがした。
香ばしい匂いのする唐揚げ、しっとりとしたポテトサラダ、鮮やかな赤のパスタ。サンドイッチは中身が全て違っており、手間をかけていることがうかがえる。付け合せのレタスやブロッコリー、トマトでさえも瑞々しく、採りたてのような光を放っている。
湯気を立てるコーヒーとおしぼりを渡されながら、私は感心を通り越して、何故か敗北感のようなものを味わっていた。
「……料理、うまいのだな」
と言うと、軽く首をひねりながら「普段から料理、作ってますから」と事もなさげに返される。
確かにそれはそうだ。
彼は喫茶『はなぶさ』で料理を作っている。
料理人に料理で負けても何も恥じることはないだろう。
…ただ、海に行くというのにレジャーシートや飲み物1つ持ってくることを思いつかなかった私に対して、この至れり尽くせりの気遣い。
『千冬姉はずぼらだなぁ。家事も掃除もしなくていいから、そこ座ってなよ』と言い放ったデリカシー皆無の愚弟を思い出してしまい、心の中でアイアンクローをかましながら「どうぞ、食べてください」という彼の言葉に甘えてサンドイッチに口をつけた。
…おいしい。
厚めのベーコンからじゅわっと油が出るが、即座にそれをレタスの瑞々しさとトマトの酸味があっさりとしたものに変える。さっと体内に入ったそれらに入れ替わり、もう一口と強請るようにじわっと唾液が出る。
私は無言で一気に半分ほど食べて、ようやく我に返った。
普通作ってくれたものに対して感想を言うだろう!
さぞやあきれているに違いないと思って顔を上げると、そこには何よりも愛おしいものを見るようにこちらを見ているはなぶささんの顔があった。
「…!…おいしいな」
ありきたりの言葉だが、心からの賛辞だった。
いかにお腹がすいていたからとは言え、一応私はブリュンヒルデだ。様々な接待をされており、最高級といわれるランチやディナーを振舞われたことも少なくない。その私がそれらと遜色がないと思うくらい、おいしかったのだ。
「あ、ありがとうございます…」
彼の頬や耳がぽおっと赤くなるのを今度は正面から見ながら、あの愛しいというような視線を思い出す…こちらも顔が赤くなっているにちがいない。
そこから私たちは他愛のない話をした。ゆっくり彼の作った『軽食』(これはあくまで謙遜して彼が言ったことで、私にとっては『豪華ランチ』だった)をつまみながらの会話は、ひどく楽しく、それでいて癒されるものであった。
(料理も上手で、家事も出来る…彼は『そこそこ』と言ったが謙遜だろうな。それに一緒にいて楽しくて、顔も良い)
一夏を思い出した。
あいつも似たような特技を持っているがはなぶささん程ではない。それでも、あれだけモテる。うっかり気を抜くと惚れてしまうと周囲の女が言うくらい。
(じゃあ、はなぶささんは、)
一夏が昨日「英さんは女性が苦手だ」と言っていたが、それは過度に女性に好かれすぎたゆえのことではないだろうか。一夏の隣を同級生の女子が取り合う場面を思い出し、思わず一夏をはなぶささんに代えて想像してしまった。今日着ている灰色のカーディガンがか弱い女子の手で引っ張られ、眦を困ったように下げる彼。
急に胃のあたりが苦しくなった。
ゆっくり食べていたのでこんなに突然苦しくなるわけがない。
(ああ、これが、嫉妬か)
何ともなしにその苦しみに嫉妬という名前をつけた私は、そう思った自分に茫然とした。
これまで『嫉妬』なんて感じたことがなかった私が?
想像上の人物に?
ありえない。
元凶の彼が目を細めてコーヒーを飲んでいるのを見ながら私は動揺を押さえられなかった。
「ドイツ……で、何をするんですか…?」
唐突に彼が尋ねてきた。
IS操縦の腕を買われてドイツ特殊部隊の教官になる。
…とはっきり言うことは出来なかった。
日本人IS操縦者がその技術を他国に教えると明言することも体裁が悪いが、何より先ほどの想像でのか弱い女子の腕がちらちらと脳裏を横切っていたから。
「…ああ、教師だな。機械関係、の」
一夏を守るために強くあるのは当然だし、誇らしいことだったが、何故私はそれを示すことを恥じているのだろう。
あえて遠回しにドイツでISの指導をすると言ってしまったことが気まずくなり、私は波打ち際に向かった。
静かに聞こえていたはずの波音が異常に大きく聞こえた。
この海の向こうにドイツがある。
行くと決めたのは自分自身なのに、離れた方がいいと思っていたのに、…その間に彼の心が離れるかもしれない、か弱い手を彼が選んでしまうかもしれないと気付くと、恨めしく思えてならなかった。
(どこまで依存しているのだ…)
自分が思っている以上に私は弱っているらしい。
自嘲していると、はなぶささんが隣まで来て上着を渡してくれた。黒いジャケットは少し大きめで私の身をすっぽりくるむ。少し肌寒く感じていたのでちょうど良い。
どこまでも気が遣えて優しく丁重に扱ってくれる人。
ただ、今はその気遣いや丁寧さが私たちの距離を遠くしているように思えた。
「はなぶさってどう書くんだ」
言った途端、ちょっと後悔をした。
本当は私から距離をもっと詰めようと…『はなぶさ』と呼び捨てにするつもりだったのに…お茶を濁すような言い方をしてしまった。
はなぶさ、は、また不思議そうにしながらも、近くにあった短い木の枝で砂浜に字を書く。
……読めない。
「下手だな…何と書いたんだ?」
「…英語の英だよ」
ぽかんとしてしまった。いつも大人で細やかに気を配る彼が初めて見せた、すねている言葉と顔が嬉しい。声も小さくして、すねている顔もうつむいて見えないようにしているようだが、ブリュンヒルデの観察眼をなめるなよ?
ちょうどよく波が来て字を消したとなれば笑わざるを得なかった。
「『書き直せ』だとさ」
まだ不満の色が残る顔で英がこちらを見上げてきた。いたずら心が湧くな。
「あと、私は『教師』になるが、英の教師じゃない。さっきみたいに敬語は使わなくていいんだぞ?」
英は目を瞠ったが、すぐ顔を赤くした。字が下手なことを指摘されてすねたことを気付かれてばつが悪そうな顔だ。けれども、「じゃあ、ちふゆって書いてみてよ」と敬語抜きで話す彼は前よりずっと自然体に見えた。
英から受け取った木の枝は長い間海中を漂流していたのか、中身がすかすかで書きにくかったが、そこはサイン慣れした私だからな。
さっきまで『英』(本人が言うなら多分そう書いたのだろう…本当に読めなかったが)と書いてあった砂の近くに『千冬』と名前を書く。
そこからしばらく二人で絵を描いた。子どもの頃に戻ったみたいだった。無邪気に素直に心から一つ一つを楽しいと思う。
英から借りたジャケットが地面につかないように注意していると、英がぽつりと「ありがとう」と言った。
…よく分からないんだが。
私のそういう雰囲気を感じ取ったのか、英は言葉を続けた。
「今日だけでも…いちにちだけでも、…色んな顔が見れて、思い出も、出来た。また…1年後でいいから、会って…ください」
「……」
彼は1年後も私に会う気なのか。
彼の心が1年後も同じかどうかなんて、確証はないけど、少なくとも今の彼は1年後も変わらず会いたいと思っているのか。
それまで1年後の心変わりを不安に思っていたが、彼を前にして疑うことなどできなかった。それに。
「一年も待つ必要ないさ。心配をかける愚弟は日本にいるし、…また会いに来る」
そう。ドイツで疲れを取りながら、たまに会いに来ればいい。
私のことを忘れないように。
「それにほら、これだってすぐ返しに来るさ」
私も今日の楽しい思い出を、彼の表情を忘れないように。
夕焼けの中、また小さく「ありがとう」と言う英に笑顔を向けながら私は初めて1年後を前向きに考えることが出来たのだった。
これにてデート編はおしまい!
ただ千冬さんがドイツに行くまでまだ5日あるので、その間のことも書きたいなぁ。緑の回文先生と天災も出していきたいなぁ。