どうしようもない僕がブリュンヒルデに恋をした 作:のーぷらん
アクリルトンネルの中身が発光する。真っ暗な中、色とりどりの熱帯魚がその尾を揺らめかせる。
真っ暗で危ないため、この水族館では一緒に来館した者は伸びているロープあるいは手すりを持つように入り口で言われている。とはいえど、ぼんやりとした青い光の中彼女の顔はくっきり見えている。
「きれいだ…」
「そうだな…美しい…」
千冬を見ながら僕は思う。ここに来て良かった。
意を決して来た自分セレクトの水族館に大満足する。たとえ見るものが違っても同じ感性を抱けるのは素敵なことだし、何より彼女のことを直接見られるなんて何ヶ月ぶりのことやら。
さっきまで駅を駆け回ったり車を懸命に誘導したりで顔をしっかり見る機会がなかった。どうやら駅で千冬はストーカーに行き会ったらしい。駅にいるときマスクをしていたのはこういったストーカーを撒く変装のためだろう。僕にいたっては人と同じ空気を吸うのが無理だったってだけなんだけど。お揃いだったからよし。
車中で聞く限り、自分を追う奴がいた、だからバタバタしていたそうだ。不思議の国のアリスから現実世界に沸いて出たウサギ女の姿が脳裏によぎる。アンタ、デートのお邪魔ムシなんだってさ。と、心の中でほくそ笑んだ。
独占欲丸出しである。
その対象の千冬の瞳は暗い中碧眼になり、魚がその小さな中に泳いでいる。
(この姿を収めたい)
ここは写真撮影禁止だけど、外なら出来る。ただ、明るい日の下で、他人の顔を大量にくっきり見えるような外で、彼女の写真を撮る僕って――
『はい、笑って笑って!はい、次はこっちに視線を』
機敏な動きで上に下にアップに引きにあらゆる角度で欲望のままシャッターを切りまくる僕。光るフラッシュ。連写。くるりと身を翻す千冬。その姿は水面を自在に泳ぐ熱帯魚よりも輝いている。跳ね飛ぶ無数の魚。舞い踊る飛沫。軽やかに笑う彼女を見て僕は良い仕事している人の顔だが、一方その姿は完全にグラビア写真家……うん、そうじゃないよね、不審者だよね。
「英、手を出せ」
「は、はい!」
ぼうっとしていた僕は慌てて駅みたいに両手を差し出す。
いつの間にか出口に近づいていたらしく薄明るくなっていた。
人が少ないためか、要らないと思ったのか、彼女はマスクをはずしていた。表情がはっきり見える。僕もつられてマスクをはずした。彼女と同じが良い。
千冬は光を背負って笑っていた。そして、俺に向かって手を差し出し、
「落とすなよ?」
「は、はい!……え?」
次に触れたのは冷たく肌に吸い付くような―― 星型の、生き物。
「…ッ!…ッ!」
声にならない叫びを上げながら、息だけひゅっと吸い込んだ。ごつごつした突起があってふにゃふにゃでも硬くもない微妙な感触の、そう、例えるならば濡れて使い古した革のようなこの水族館の人気者。
「ヒトデに触れるらしいな。珍しい水族館だ」
千冬はにっこり笑顔である。
僕も顔の筋肉がつりそうなほど引きつらせながら何とか笑顔を作る。
「英?久々に恋人と会ったのに、ぼんやりしていただろう?」
首を傾けて目を細めながらひょいとヒトデをつかむ。そのままヒトデは僕の顔前で何度か行き来する。僕は作り笑顔のまま微動だにしない。というか、できない。
「罰だ」
再度手に星が帰ってくる。
「そこの水槽に返しといてくれ。それが終わったら」
彼女は出口に向かっていくと風がカーディガンと髪の毛をこちらに流した。
「あっちの方で写真とろう?」
千冬の方に僕の心も魂も何もかも向かっている、と感じた。何はともあれ彼女のことを言葉で言い表すことは、僕にはできない。やはり僕の恋人は、最愛で、美しいとだけ、思った。
「あの…英…?」
「は、はい!」
一瞬理性が飛んでいたようです。いつの間にか僕はカメラ片手に千冬の前にいた。
「あ、ごめん」
「1つ聞いておくが、そのカメラ何が映っている?」
デジカメの撮影画面をのぞく。天使の輪が輝く黒髪。綺麗な顔に今は苦笑いを乗せている彼女が見える。
「え?千冬」
「他には?」
他?彼女の後ろのわずかな空間に見えるものといったら、
「空」
「……英」
顔に苦笑いではない笑みがのぞいた。ぼんやりとした幽霊みたいなもので、よく見ようと目をこらしたら消えしまっていた。今は代わりに唇を引き締めている彼女が見える。惜しいシャッターチャンスを逃したが、まだ頬に朱色が灯っている姿も欲しい。僕はもう一回シャッターボタンを押した。
「英!」
「は、はい!」
彼女が腕に勢い良く飛びついた。驚きで離したデジカメがふわっと宙に浮き、僕は口を開けてカメラが落ちる軌跡を見つめる。カメラがもう1度光を放った。
「手を出せ」
「?」
千冬は呆然としている僕にカメラを手渡した。画面にはばっちりレンズを見上げて笑う千冬と――目を見開いて手を伸ばしている間抜けな僕。ツーショット。僕はそっとカメラを握り締める。
「千冬」
「何だ?」
「現像してドイツに送るよ」
「…その写真だけでいいからな」
他の写真は要らない、と言いながら彼女は横からカメラを覗き込み、「変な顔。次は私の彼氏としてキメ顔で頼むぞ」と笑った。
僕も笑うと薄暗い館内の中で夕方まで過ごし、そこから近くの灯台に行った。
夕日が沈みかけていて、海がオレンジ色に煌いている。
船が数台港に向かっていくのが見えた。
「もうちょっと暗かったら夜空が綺麗に見えるらしいんだけど」
「すまんな。飛行機の時間があるから……」
「残念」
悲しげに言う彼女の瞳も橙色に照らされている。そんなこと分かっていた。フライトの時間を聞いたときから星空は見ることが出来ないだなんて。確かに残念だけど僕はそれでいい。次に会う理由が出来るから。
「また、来ない?今度は、…星が、うじゃうじゃしているところ、見ようよ」
千冬は僕の誘い文句に堪え切れないとばかりに「ぷっ…!」と噴出した。失礼な反応だ。
「うじゃうじゃ……ロマンチックな誘い文句だな。ははっ」
「あんまり笑うんだったら、弁当渡さないよ?」
「それは困る。…っふふ」
彼女なら分かっていたと思うのだが、僕は今回も弁当を作っていた。海で使ったバスケットをふらんと目の前で揺らした。ヒトデのお返しのつもりだったが、彼女は困ったとは言いながらあまり困っていないふうである。
「せっかく水族館にちなんで海鮮弁当作ったのに」
「ん?」
「今日見たタコとかイカとか魚を使ってるのに……」
情けなかろうが、意趣返しをしてやろうと泣き真似をすると「そこは、実際の魚介類じゃなくてタコさんウィンナーにするとか、イカさんウィンナーにするとかあるだろうに」と彼女は微妙な顔をした。さらに恨みがましい目で見ると若干棒読みで「あー、ぜひ食べたいなー。英、許してくれないかー」と言った。
「仕方がない。空港に着いたら渡すね」
「?今渡さないのか?」
「荷物は僕が持つって」
千冬に重い物とか持たせたくないのは男としての矜持だ。どこかしらまた照れたように黙り込む彼女を見て、手が出そうになるのを抑えるためにも、バスケットで手をふさぐ必要がある。
……僕だって、こんなムード満点なところでわざわざ色気無い表現を使ったり弁当の話なんてしない。わざわざ人のいる水族館を選んだのだって、千冬と一緒にいたら歯止めが効かない僕に対する抑止効果を期待してのことだ。
「そろそろ空港に行こう」
だから、そんな名残惜しげな顔をしないでよ、千冬。
バスケットの持ち手がきしむ。
■
僕たちはまた車に乗り込み、空港まで行った。
彼女はマスクをつけている。あのウサギを警戒してだろうか。忌々しい。
「千冬、もし変な奴が出ても守るから」
「あ、ああ」
何だか千冬がひどく驚いているが、構わない。僕は確かに頼りがいがないし、どうしようもない男だけど好きな人を守る気概くらいあるのにね。……どうせなら千冬から『守って』とか聞きたいけど。
「英?あの、どうしたんだ?」
あまりにじっと見ていたせいか、千冬が戸惑いながら聞いてくる。
「千冬は、何か困ったことない?」
「え……」
「困ったことあったら、言って。解決、までは出来ないかもしれないけど、頑張るから」
彼女は口をつぐんだ。強くて凛としているように見える彼女だから、あまり人に頼った経験がない可能性がある。けれど、僕はそんな彼女に頼られる特別な存在になりたい。それは好きっていう感情の次に溢れてきた。僕は名前のとおり、花弁を支えるがくのように人を支えられる人間になりたい。出来れば支える人間は彼女が良い。
「教え子に」
悩んだように彼女は口を開いた。僕は首を傾げる。『教え子』?
「あまり食事を摂らない娘がいるんだ。もう話したことはあるな。良ければ――料理を教えるときに同席させてもいいか。それで、一緒に料理させてほしい。私がいたら食べるんだ、あの、子は。自分で食事を作るようになれば、その、ちゃんとご飯を食べるようになるかもしれないし、娘の名前を言うことが出来ないのだが」
「お、教える」
ためらいがちに言う必要はない。彼女からの頼みに僕が応じないわけがないのだから。とはいえ、ストーカー話じゃなくて驚きのあまり反応は鈍かった僕に、彼女はうつむく。
「こんなお願いをして悪い」
「いや、そんな!むしろ頼ってくれて嬉しい」
空港のターミナルに行き交う人々が振り向かないか心配だ。だって、彼女はこんなに綺麗に笑っている。マスクなんかで隠しようがないくらい。彼女は首筋に手を当てながらぼそっと
「一夏のときみたいにはならないんだな」
とつぶやいた。どういう意味か分からないから、「え?織斑くん?」と聞くと、先ほどよりもためらいがちに口を開いた。
「あの、私と二人で話す時間は減るわけだから、教え子に嫉妬したり、…嫌がったりするかと…思って……」
言った先からうつむく。教え子さんが女の子だからか感じなかったけれど、そう言えば前は織斑くんに毎日連絡するって聞いただけで嫉妬したよ。嫉妬するの、迷惑じゃないのかと思ってた。でも僕の願望かもしれないけれどうつむく前に垣間見た彼女の表情は残念そうに見えたような――
「して欲しかったの?」
気がつくと僕はそう聞いていた。いっそ無神経なまでにストレートに聞いていた。
これ以上彼女は下を向きようがないくらい顔を伏せる。長い髪がさらりと滑り落ちて、真っ赤な耳が現れる。
「な…?!え、あ、その」
ダメだ。
そう考えた。喧騒の音も千冬の声も途切れる。理性が引きちぎれる、ぱたんという音が聞こえた。ん?これはバスケットが落ちた音か。
「英、弁当が……」
手を伸ばした彼女の手をすくい取る。
今はそんな物どうでもいいんだよ。だからこっちを見て?
力を入れて引っ張った訳じゃないが、彼女はこちらに向かってよろめいた。彼女は僕の胸に手を付き、さらに勢いを殺しきれずに体も僕に預ける。かがんでいたせいでバランスが取れなかっただとか、そう考えることはなかった。彼女が自分から飛び込んできたように感じた。都合の良い妄想だ。頬に当たる髪の毛がくすぐったい。
「はは……」
我ながら渇いた笑いだ。僕がやろうとすることは間違っている。今日一日避けようとしてきて努力してきたことなのに、最後の別れのときで、僕を止めるものは何もなかった。既に彼女との距離はなかった。間違えたことをしているのに、心の底から喜んでいる僕は、おかしいよね。
「いいにおい」
腰に腕を回してさらに強く引き寄せた。びくりとはねた彼女が愛おしくて、つむじにまず唇を落とす。そのまま彼女の腕をつかんでいた手を離して落ちている髪の毛をかきあげる。
「ぁ……」
意志の強さを表すような眉にキスをして、その下の固く閉じられたまぶたにもキスをする。
僕は目を閉じて、彼女の顔を上に向ける。一番したいところにキスをしやすくするために。そして唇を目当てのところに押し当ててその姿勢で――
「「………………」」
固まった。
温かい。柔らかい。息苦しい。何だか甘い気がする。
けど、けど。
「ご、ごめん…ちふゆ…!」
「は、はなぶさ!おまえ……!!」
千冬、マスクしたままだったよね。
空港にドイツ行きの飛行機のアナウンスが響き渡る中、僕たちは抱き合った姿勢でカチンコチンに固まった。僕は千冬にされたこと、千冬は僕にされたことについて、頭の中でリフレインしながら、ああ、もう飛行機が出ると考える。
「千冬」
僕は断腸の思いで彼女に回していた腕を離し、からからの喉でその名を呼ぶ。
「か、帰る」
「い、いってらっしゃい」
「あ、ああ」
千冬はだっと走り出す。もう時間がない。だが、何を思ったか、帰ってきた。
素早く僕の肩に手を置き、少し背をそらして一瞬マスクを取る。
頬に暖かな感触と小さな皮膚を吸う音が聞こえた。
「い、いってくる!」
彼女は落ちていたバスケットを拾うときびすを返した。
後には頬を押さえて呆然とする僕を残して、彼女はこうして日本を去ったのだった。
マスク< キスなどさせぬ!
ウサギ< 謂われないそしりを受けている気がする!
あ、未来編はとりあえず下げて、全部本編を終えてから再投稿することにしました。