どうしようもない僕がブリュンヒルデに恋をした 作:のーぷらん
誰かを待つ。
久しぶりすぎて忘れていた。幼稚園や小学校のときはわずかにいた友達と学校に行くまでの待ち合わせをしたり約束した時間がきたら電話の前に待機したり。ああいうときはそわそわしていたものだ。楽しみで浮き立つ時間。何かが始まる前。これからへの期待と希望。
だけど、待つときは、絶対に相手が来ると知っていたんだ。
「千冬ちゃんから連絡は?」
「……まだ、です」
「……待つ時間を長く感じるのは仕方がないことよ?」
「……もう1週間ですよ?」
蓮さんが紅茶を飲むがてら目をそらしたのを僕は見逃さなかった。会うたびに聞かれているがだんだんフォローする言葉もおざなりになっている気がする。
「千冬ちゃんなら、2、3日で連絡すると思ったんだけどねぇ……まぁそれだけ真剣に考えてるってことか」
何だか食堂よりもおしゃれな感じだから、たまには。
自分へのご褒美よね。
そう言って蓮さんはあのお別れ会以降来てくれるようになった。お昼は忙しいからお客さんの少ない夕方である。僕もあれ以降お客さんの反応が見たくなった。いきなり一杯の人前というのは厳しいからまず閑散とするこの時間帯からカウンターに出るようにしたけれど。というわけで、必然的に蓮さんと話すのが習慣化していた。
そこで驚いたのが、僕が千冬のことを好きだと知っていたことだった。「英くん、千冬ちゃんのこと好きでしょ?」と言われた日にはあやうくカップを割りそうになったものだ。
女の勘らしい。
やっぱり女って怖いよね。
そこから何故か出会いの話やデートの話までも言わされた。たまに拳を口に当てて顔を赤くしているのは何故だろうか。胡乱な顔をすると「っ…楽しい話だなー、と」だって。あれ、絶対馬鹿にしてると思うんだ。自分がうまく千冬をエスコート出来ただなんてさらさら思っていないけどあんなに爆笑しなくてもいいじゃないか。
ただ、怒ることはあっても、千冬の連絡を待つ間、話が出来る人がいて良かったと心底思う。
(一人だと耐えられなかった……)
1週間。
あのときのことを思い出す機会なんて山ほどあった。カップの淵からこぼれそうな程の水にちょっとした衝撃を加えるだけで漏れてしまうのと同じように、ちょっとしたことで僕はあの自分を恨んだり嫌悪したりした。例えば食べ物を食べて唇にものが触れるとき。母さんや父さん、蓮さんと話して口の動きが目に入ったとき。ひどいときは風や調理している際出るコンロの熱を感じるときにだって、記憶の窓はたやすく開いて強制的に僕はその光景を見続けさせられる羽目になった。
だからこそ蓮さんには感謝しているんだ。
「……千冬、さんは、僕のこと好きじゃ、ないと思うので」
「そんなことないと思うけど……」
気休めでも、僕のしたことを知らなくても、そうやって励ましてくれる相手は必要だから。僕に何て言葉をかけるべきか戸惑っている蓮さんに「そろそろ、店に戻らないと、ですよね?」と笑う。頷いて鞄を持ち、蓮さんが扉に向かっているときだった。
「おじゃまします」
一度聞いたことがある声。
それと続けて
「こんにちは」「コンニチハ」
知らない声が二つ。
「いらっしゃいませ」
反射的に挨拶する僕と、
「あら、真耶ちゃんじゃない。そちらのお二人は?」
「仕事の同僚なんです。榊原菜月さんとエドワース・フランシィさんです」
どちらがどちらかなんて、さすがの僕でも分かった。榊原さんというのが生真面目そうな女性の方で、エドワースさんというのが金髪の外国人女性というのは当たり前だろう。それよりも仕事の同僚、という方が腑に落ちなかった。真耶さんはもしかすると思ったより年をとっているのかもしれない。……女って分からないな。
「マヤがここの料理が美味しいって言っていたのでご一緒させていただきました」
「五反田蓮です。五反田食堂のウェイトレスなの。こっちにも良ければ来て?安くするわ」
「わあ、ありがとうございます!ぜひ行かせていただきます」
置物のごとくカウンターの隅で固まる僕を気にせず、店先で話し始めた女性陣。
エドワースさんはカナダ出身の数学担当教員。盆栽が趣味の日本文化大好きっ子。日本人の彼氏が欲しいそう。
榊原さんはお酒が好きで部活棟の管理を任されている教員。男運がなく、本人曰く「ダメンズウォーカーなんですよ」。
僕にそんな知識がつくまで彼女らはお互いを紹介しあっていた。よくもまぁ、次から次へと話すことが出てくるものだ。この集団が動いたのは、蓮さんが「店に帰らなきゃ」と気づいたのがきっかけだった。
(蓮さん、もうちょっとここにいてください……!)
僕の渾身の頼みのおかげか、「すみません、引き止めてしまって」「ううん、楽しかったもの」などのキャッチボールは多少続いたがそれも虚しく、赤毛の看板娘はこちらを見て意地悪そうな笑みを浮かべながら扉から出た。
(うわ、こっちきた)
「……メニューを、どうぞ」
「ありがとうございます」
一般的に料理屋の人はフレンドリーで世間話する人とかコミュニケーション好きな人が多いんだけど、そんなステレオタイプに全く当てはまらない僕はさっと三人にメニューを出した。話題なんか思い浮かばない。キッチンに引っ込みたい。
「じゃあ、ケーキセットを3つ。私はショートケーキとカフェラテでお願いします」
「胡麻のタルト、熱い抹茶」
「はちみつとレモンのタルトと紅茶のホットで」
「かしこまりました。少々おまちください」
頭の中に注文を叩き入れながらキッチンに引っ込む。繰り返して言ったら同時に口から覚えたことが出ていきそうだし、第一詰まらずに言えるとは思えない。
心に従うのならばここで一息ついて削られた精神力を回復させたいところだが、お客さんを待たせるのは間違っている。おやつの時間にはちょっと遅いし、早めに出さないと夕食が美味しく食べられなくなるだろう。
ケーキにシュガーを振ってソースを辺りに散りばめる。お湯を沸かしたりフローサーでミルクを泡立てたりする。やることは多いが小さいキッチンは僕の庭のようなものだ。そこそこ早く準備できたんじゃないだろうか。
「ご注文のセットでございます」
キッチンから出ると三組の目が一身に注がれた。そして空気が華やぐ。
「おいしそう!」
手放しで褒めてくれるところを見ると照れもするが……何で女性は食べ物の写真を撮りたがるのか。写真やら食べる前のテンションの上がり具合にハードルを上げられている気分になるんだよ。お前たち綺麗に写ってくれよ、と願いを込めてケーキたちを眺めていると気づいた。フォークやらスプーン出すの忘れてる。
はっとして顔を上げると、満足そうに自分の撮影した写真を確認し終えた真耶さんと目が合った。
「これ、先生に送っていいですか?」
「え……」
堂々と座り込むケーキ。なかなか良く撮れている。いや、そうじゃないだろ。
質問から逃避しようとする脳を鼓舞して頭を回転させる。
真耶さんが『先生』と呼ぶ人物。僕に言っても通じる共通の知人。
千冬のことだとすぐに分かったが、千冬に真耶さんが写真を送る。多分普通はどこで撮ったんだとか誰が作ったんだとか聞くんじゃないだろうか。そんなときに僕の名前が飛び出す。どすんと散らばるキスの記憶。連絡を取っていない、不相応なことをした相手が彼女の脳裏に過る――。
「その……やめてください……」
千冬はもう僕のことを忘れてどうでもいいかもしれない。そんなこと考えないかもしれない。
それでも、そんな可能性があることに耐えられない。嫌な思いしたり気に病んだりしてほしくないんだ。
「そう、ですか」
失礼のないように口調を和らげたつもりではあったが、これ以上フォローもできずに黙り込む僕らに他の二人が目を向ける。
「ねぇ、何の」と口を挟もうとしたエドワースさんにかぶせるようにして真耶さんが「そういえば、菜月さんの話の続き!」と言わなければ、二人になじられていたかもしれない。これ幸いとスプーン、フォーク、ミルクやシュガーを棚に探しに行く。話の続きならば出る幕はない。
磨き上げられた銀のスプーンが鋭く、そもそも出る気もないだろうと責めるが、無視してカトラリーバスケットの中に入れる。あ、おしぼりも忘れた、とバスケットに入れ込んだときだった。
「デートはさっき言ったように良かったし楽しかったの。帰りも送ってもらって」
「ジェントルマンね」
「でも急にキスしてこようとしたの!」
「えぇ?!大丈夫だったんですか?」
聞く気はなかったし話に加わる気はなかった。けど、彼女たちの声は通っていて簡単に耳に滑り込む。
「未遂よ。だけど家にまで上がってこようとして……はぁ」
「ナツキが好きになる相手は毎回気に食わない…納得いかない……うまく言えないけれどそういう相手ばかりよね。その度痛い目見て運命の相手じゃなかったって一人で自棄酒」
「厳しいこと言わないでよ…本当にびっくりしたのよ?」
「あ、あの!結局その男の人とはどうしたんですか?」
気づいたときには会話に参戦していたのだ。だって、無意識だったんだから、仕方がない。言った瞬間合計六の目がこっちにきて早速後悔したけれど、仕方がない。
「もう会わないわ。だって、会って間もなく、よ?怖かったもの」
だって、あまりによく似ている状況だったから、仕方がない。
「その、キスしようとしたのは、あなたが魅力的だったから…かも…」
この人に言ってどうなるものでもないが、それでも言い訳せずにはいられなかった。
榊原さんはきょとんとしたが、すぐ笑った。
「ありがとう。口がうまいのね?…その手にあるフォークやおしぼりもらえる?」
「あ、すみません…どうぞ」
(ああ、もう会う気はないんだな)
女の子だったのにいきなり女性らしく会話をそらす姿に、がっかりする。
その後夕飯とお酒まで飲んだ三人(約一名夕飯よりも多いお酒を豪快に飲んだ人もいたが)は帰っていったが、僕は眠れなかった。
千冬に謝りたい。これまでにない申し訳なさが溢れていた。
ごろごろごろごろごめんごめんごろごろ。
布団の中で何度目か分からない寝返りの最中目を開くとカーテンがほの白く光っていて、明け方まで起きていたのかと驚く。
早く寝なければ昼から店を開けるといえど体力がもたない。
そう思いながら通信機の画面に触れて時間を確認しようとした。すると、軽い電子音と共にメッセージがくる。こんな時間の見知らぬアドレスからのメールなんて、広告だろうと思い、けだるい体で枕に肘をつきながら開く。
『遅くなってすまない。料理のことで相談したいから空いているときに通信を頼む。
番号:××-×××× 織斑千冬』
最後の文字まで目がいく前にがばっと起き上がる。布団が舞い、カーテンを開けると埃がひらひらと光っていた。そのまま番号を打って通信を申請する。数秒間機械は考えながら電波を届け始めた。
すぐつながり薄暗い部屋に美しいかんばせが浮かぶ。「あ」と目と口を開けた顔だ。かわいい。
「千冬!」
僕は名前を叫んだ。
「どうしたんだ?」
僕は固まった。
(……どうしよう)
完全に何も決めずに連絡をしたものの、言うことをまとめないで通信するって馬鹿じゃないだろうか。というか、千冬からの連絡が嬉しすぎて頭で考える時間も惜しかったんだ…と予測する、多分。でもするべきなことは何で連絡したのか用件を言うべきで、その前に挨拶?
思考が止まっていた分、今となって怒涛の勢いで考えるべき項目が出てきた。再度思考を放棄したい。
「そんな大きい声を出して……連絡が遅くなって、怒っているのか?」
黙っている僕に恐る恐るといった体で千冬が言う。
「え?!」
それこそ驚きだった。怒りなんてどこを探したって存在しない。だが、どこか確信めいた千冬の様子に夕方の榊原さんが言ったことが思い出される。
『怖かったもの』
慌てて興奮で大きくなってしまった声量を落とす。
「……いや、全然。あの、連絡してくれてものすごく嬉しかった」
ああ、何てどうしようもない!
声量を落とすと、恐ろしく声に色がなくなった。何で本心からの言葉なのにそうは思えないのだろう!
僕の意思を汲み取ってくれることが多い千冬でも気づくことはないようで、「本当にすまない……」と謝らせてしまった。涙腺が緩む。泣くべきなのは千冬なのに情けなかった。
「ごめんなさい……」
口をついて出るのはそんな言葉ばかりだった。謝ることは口一つじゃきっと足りない。
じゃあ、一体何を?
怒っていると勘違いさせてしまったこと。
キスしようとしたこと。
怖がらせてしまったこと。
「連絡しづらかったのは、わかるんだ……いつまでも待つつもりで、むしろ、連絡されただけで嬉しくて、でも、僕がキス、しようとしたのは」
――じゃあ、これは?
「千冬のことが、好きだからです」
それが唯一言えることだった。好きになったことは謝れない。謝る要素がないんだ。
身勝手でごめんね……。それ以外だったらいくらでも責められるから。
「謝るな。私は全然嫌ではなかった……」
予想外の言葉に思わず口を止めた。言葉の意味を考えなくちゃ、と思うのだけれど、千冬の文をリピートするだけで思考回路は空回りをし続けている。千冬は追い詰められているように見えた。
「私は英のことが好きだから。自分でも確信は持てないが、好きだしそばにいてほしい。こんなわがままな私で良ければ、一緒に付き合ってくれ」
ああ、あれは重大な選択を迫られた時の間だったのだな、と思う。信じられない。信じられない事態だ。ひどく先ほどのためらいと静寂が気になるが、僕は『本当にそうなんですか?』と聞く勇気がなかった。
恋が叶った。
本当に?義理じゃなく?その『好き』は優しさとか友愛じゃないの?
でも、たとえ数分後にふられたっていいと思った。
「ありがと…これから、よろしくお願いします…」
今は絶対に千冬は僕の恋人だから。
余計な考えがぽろぽろと涙になって落ちていく。素直に喜ぶために僕は結構泣いた。
千冬は「これじゃふられたみたいだな」とからかいながら僕のことを見守っていた。
そして相変わらずのすれ違い勘違い。
『カップル』という称号は手に入れました。