「……うっぷ」
水を飲み過ぎた。
それはもうタクシーを降りてから一口も水分をとってない身だ。
軽い挨拶を済ませ、水をやっと飲める機会を得た俺は、世紀末のモヒカンばりに「ヒャッハー!!水だあ!?」と水を浴びる程飲んだ訳だ。
……そのせいでお腹がタプタプして、今、もの凄い気持ち悪い。
このままでは人間ポンプになりかねないと思った俺は、今いる客間の片隅に座って壁にもたれ掛かる。
そうやって気持ちの悪さをやり過ごしていると、気持ちの悪さが消えていく代わりに眠気がどんどん強くなる。
……今日は寝てないし、流石にくたびれた。
この際、少しくらい寝てしまっても問題ないか。
そう思い、目を瞑るとギシギシと床が軋む音が近付いて、目の前で気配が止まった。
「お疲れみたいねぇ」
話掛けられたようなので目を開ける。
すると前には龍田がしゃがみこんで、俺の顔を覗いていた。
「あなたはコーラ、飲まないの?」
そう言って差し出された龍田の手には、黒い液体が並々と注がれたコップがあった。
どうやら龍田は俺に飲み物を持ってきてくれたらしい。……でもなぁ、と俺はそれを見て苦笑いを返す。
「気持ちは嬉しいんですけど、水を飲み過ぎたんで水分はしばらく要らないです」
「どうせならコーラを飲めばよかったんじゃない?」
「コーラを五杯六杯飲んだら、皆の飲む分が無くなっちゃいますから」
「ふーん、それじゃあこれは私が貰ってもいいの?」
「俺のお下がりで良ければどうぞ」
俺がそう言うと、龍田は持っていたコーラをこれ見よがしに飲みはじめる。時折チラリと俺の様子を伺う目線付きでだ。
これはあれか。
目の前で美味しそうに飲めば、俺が物を欲しがると思ってたりするのか?
……だとしたら、それはアマいぜ龍田ちゃん。
俺は他人の行動、言動で、自分の考えを改める程精神は軟弱じゃないんだぜ?
むしろ龍田が俺の前でコーラを美味しそうに飲み続けるのなら、俺はそれを何時までも微笑ましく見守ってやろう。
それから俺は、目の前でコクコクとコーラを飲む龍田をニッコリと眺めた。時折、龍田と目が合い、龍田の動きが止まったが、その度に俺は「どうぞ?」と頷いて、龍田に飲むのを進めた。
そんなやり取りが何回かあってから、龍田がコップから口を離す。
「……ねえ天龍ちゃん、飲みかけで良かったらコーラ……飲む?」
……勝った。
何故か俺はそう思った。
龍田のコップの中身を見れば、コーラは半分も減っていなかった。道理で飲むのに時間が掛かる訳だ。あの動きはパフォーマンスだったと。
俺がウンウン納得していると、こちらを向いた天龍が龍田と話をしはじめる。
「……なぁ龍田。お前さっき水飲んでなかったか?」
「……飲んでたけど」
「コーラの残りも少ないから、自分はコーラじゃなくていいって言ってなかったか?」
「……言ったけど」
「じゃあなんで龍田は水飲んで、更にコーラを飲もうと思ったんだ……」
「それは、この子の前でコーラを飲んだら、この子もやっぱりコーラが欲しいって言うかなって……」
天龍と龍田が、俺を見る。
「ふっ」
俺は二人に笑い返し、さあて、今度こそ寝るかな?と目を瞑る。
「……ねえ天龍ちゃん」
「なんだよ」
「この子、可愛くない。スッゴいムカつく」
「わかる。駆逐艦が軽重洋艦にする態度じゃないよな」
「……私ね?天龍ちゃんが最初、他の鎮守府の子を教育するって言い出した時は、他の鎮守府の子なんてどうだっていいと思ってたんだけど……今なら天龍ちゃんが言ってた意味がなんとなくわかる気がする」
「だろ?いくら他の鎮守府の事とはいえ、こんな奴が海軍に居たら、組織全体が腐るって龍田も思うよな?」
「ええ。だからこそ教育が必要なのね……」
「ああ。容赦の無い徹底的な教育がコイツには必要なんだ……」
「やめてっ!?」
あまりの言われように、俺は思わず寄り掛かっていた壁から跳ね起きた。
そして天龍と龍田を見れば、そこには覚悟しろとばかりに敵意の混じった視線を贈る二人の姿があるではないか。
…………なんでだ。俺はちょっと笑っただけなのに、なにが……どうしてこうなった。
「……もうオワタ」
肩をガックリと落とす。
そして俺は、理不尽な現実から目を背ける為に、「今日のこのため息は何回目かなー」と、一日を振り替えっていると、ドタドタと足音が響いて俺のいる部屋の扉の前で足音が止まった。
そして一呼吸置いてからバカンと、壊れそうな勢いで扉が開く。
「てんりゅーてんりゅー!!台所にクッキーがあったよぉ!!」
「すっごいいっぱい入ってるぴょん!!」
部屋の誰もが見つめる先には、頭にクッキーの缶を乗っけた文月と嬉しそうに回る卯月がいた。
「二人とも、廊下を走ったら天龍が怒るよ……?」
そして、そんな二人の後ろからひょっこりと時雨も顔を出す。
そんな三人を見た天龍は、片手で目を押さえると「もう見つけたのか……」と呆れるように言った。
「天龍ちゃん、あのお菓子はどうしたの?」
「あれはホラ、そこの馬鹿が持ってきたんだ」
「へー、意外ね」
「別に大方、長門あたりに持たされたんだろ」
残念、外れ。それは私のポケットマネーさんからだ。
そんな事を思っていると、文月と卯月が上目遣いでゆっくりと天龍にすり寄った。
「ねーえ、てんりゅー?これ食べてもいいー?」
「後でな」
「でも天龍ちゃん、クッキー美味しそうぴょん」
「我慢しろ」
「でもでもぉ、クッキーいっぱいあるし、ちょっと食べても平気だよぉ?」
「言うこと聞かないと、お前らにはクッキーやらないぞ」
「「……ぶぅ」」
天龍の頑な態度に、二人は不満そうに頬を膨らませて抗議した。
そんな二人に天龍は、「ハァ」とため息を吐くと、
「あのなぁ、俺だって食べるなって言ってる訳じゃないんだ。ただな?食べるにしても皆揃ってから。……分かったな?」
「「…………」」
天龍の言葉を、二人は不満そうに黙って聞いた。
そして俺は、天龍の言葉を聞いて思い出す。
そう言えば、この鎮守府にいる艦娘は全員で六人だったな、と。
確か、残る一人は駆逐艦だったはずだ。名前はまだ出てきていないので、誰だかは予想が付かないが、
「まぁいいや」
俺は天龍達が俺から意識を外したのを確認して、誰に言うでもなく小さくそう呟く。
そして今度こそ寝るぞと、もう一度壁に寄り掛かる。
別に俺は、最後の一人に興味が無い訳じゃない。
……が、残る一人は誰なのかを聞いても聞かなくても数日もいれば嫌でも誰か分かる事だ。
それならば、もう寝ようぜ!と俺は決意して目を瞑った。
「ーーなんだよ、その納得行かないって顔は。何か言いたいことがあるなら言ってみろ」
俺が目を瞑った後、天龍が言った。
おそらく、不満そうにしている二人に対しての言葉だ。
つまり、俺は関係無い。
そう高を括って、眠る為に意識をひとつおとす。
「……じゃあ言うけどぉ……私達は駄目なのに天龍はいいの?」
天龍の言葉に返したのは文月だった。
話の流れから察するに、文月が言いたい事と言うのは「私達は先にお菓子を食べるのは駄目なのに天龍は先に食べてもいいの?」と言うことだろう。
そして文月がそう言う事を言うって事は、天龍は一人だけでお菓子を食べた事があるって事だよな?
……うん。それは駄目だろ天龍。言葉に重みが無い。
先にお菓子を食べてしまった事のある人が「先にお菓子を食べては駄目」と言ったところで、いったい誰がそんな言葉を聞くというんだ。
「はぁ?何の事だよ。意味がぜんっぜん分からねえ」
だというのに天龍はそれがわからないと、文月に対してはぐらかした返事をした。
「天龍ちゃん、とぼけても無駄だぴょん!!」
そんな天龍に、今度は卯月が待ったをかける。
俺は当然そうなるだろうと思った。
何故なら文月が天龍に……目上の艦娘を前にして言い切るのは、それなりの証拠が無いと出来ないと思えるから。
逆に言えば、証拠があれば言えるのだ。
……そう、おそらく文月達は、天龍が一人でお菓子を食べた証拠を掴んだからこそ此処まで強気に出れたのだ。
そんな最中、天龍が知らないと白を切ろうとすれば、次に文月達が取る行動はひとつしかない。
「ーー竜田ちゃん、これを見てほしいぴょん!!」
俺の予想とほぼ同じように、卯月は喋る。
これは間違いなく、天龍が一人でお菓子を食べた証拠を龍田に見せたのだろう。
「これは……?」
おそらく龍田は証拠を見て困惑している。
それに対し卯月は、凛とした発言で次に、
「クッキーの缶だぴょん!!」
…………ん?
…………話の流れが、おかしくなってきた気がした。
「クッキーの缶がどうしたの?」
「どうしたの、じゃないよぅ!龍田ぁ、よく見てっ!」
「このクッキーの缶、蓋がもう開いてるぴょん!」
「あっ、本当……」
「それでね?この蓋を開けるとぉ」
「ここっ!!ここのクッキーが他のクッキーより少ないぴょん!!きっと天龍ちゃんが摘まみ食いしたんだぴょん!!」
「……天龍ちゃん?」
「ばっ、俺じゃねえよ!!」
……よし。
疑われている天龍をよそに、俺は気配を消す。
クッキーの缶の件は、天龍のせいじゃなくぶっちゃけ俺のせいだった。
まぁ、だからといって俺はその事を言うつもりは全然無いのだけど。言ったら面倒な事になるし。
そんな訳で、俺はこの言い争いに乗じて逃れる為に、この場から離れようと、音を立てずに静かに立ち上がる。
サラダバー。キミ達はそこで何時までも醜い争いを続けていたまへ。
そう思って、この場から去ろうとした時だった。
「ーー天龍ちゃん、じゃあ何で封が開いてるの?」
「絶対に天龍が食べたんだよぉ!」
「うーちゃん達も食べたいぴょん!」
「俺はそんな事しねえ!!」
白熱する言い争い。
その端で俺以外にひとり、言い争いに参加していない者と不意に目があった。
「…………」
無言で俺を見る者、それは時雨だった。
そういえば居たな、と思い出した。全然喋らないから忘れかけてたよ。
それにしても……正直、俺は気配を消す事に自信があった。
何せ、普段から脱け出したりしてるからね。
そんな俺のスニーキングレベルは、並みではないと自負している。それを裏付けるように、言い争いをしている四人は未だに俺が立った事に気付いていない様子。
なのに時雨は、騒がしい雰囲気に流される事無く俺に目線を向けるとは……やるじゃない。……と感心しつつも、本当に俺を見ているのだろうか?と、疑いの気持ちも若干。
……ぼーっとしているだけの可能性もあったりするよね?
割増し本気で気配を消しているだけに、俺は本当に時雨は俺を見ているのか気になって、時雨に小さく手を振ってみた。
すると時雨は戸惑った後に、照れながら俺に手を振り返した。
うん。バレてるバレてる。
……でも、まぁいいか。
問題はお菓子の事で言い争いをしている四人にバレる事だけ。
なので俺は人差し指を立てて口元に持っていき、時雨に静かにしててね。とジェスチャーする。
それに対し時雨は、よくわからないと言いたげながらも素直にウンと頷いてくれた。
時雨は良い子だった。お礼にそのクッキー、後で食って良いぞ。
そうして俺は、四人にバレる前にこの部屋から立ち去ろうと一歩静かに踏み出しーー、
『……ギィ』
「俺じゃなくて……っ!?」「ふぇ?」「ぴょん?」「あら」
「…………、」
ボロ鎮守府の床がきしんで、俺は全員の視線を浴びる事となった。
不意に訪れた奇妙な静寂の中、俺は振りかかる理不尽に文句を言いたいのを必死にこらえていると、俺を見ていた天龍の腕が少しずつ上がり、ついに俺を指差すと、
「コイツだぁー!!」
天龍の叫びで、ボロ鎮守府がちょっと揺れた。
「天龍ちゃん?」
「聞け龍田!!そのクッキーの缶はなあ!?俺が受け取った時には既に開いてて中身が少し減ってたんだ!!」
「……ふーん?で、天龍ちゃんはどうしてそれを知ってるの?」
「うぐぅ……!?それは…………ああ、もうそうだよ!?俺だってクッキーが気になって缶の蓋を開けたよ!!でも食べたのは俺じゃなくてそこにいるチビなんだ!!」
「そうなの?」
龍田が俺の方を向いて聞いた。
天龍は、『嘘をついたらぶっ殺す』と言うような目付きで俺を睨んでいた。
だから俺は正直に、クッキーについて答える事にした。
「俺はクッキーを食べてません」
「このヤロウ!?」
俺が言うと同時に、天龍が俺の胸ぐらを掴む。
「じゃあよ?なんで俺が見たときにはクッキーの缶は既に開いてたんだ……?」
そして俺と天龍のおでこが、ぶつかってくっついた。
天龍のこめかみは、怒りでピクピクしていた。
俺はそんな天龍に冷静になるように、諭すような口調でさらに答える。
「それは俺が開けたからですね」
「やっぱりオメエじゃねえか……!?」
「でも俺はクッキーを食べてないですよ」
「でもお前、さっき『このクッキーは美味しい』って言ってたよなぁ?なんでお前は食べてもいないクッキーの味がわかるんだ……?」
「それは俺がクッキーを口の中に入れてですね?」
「食ってるじゃねえか!!?」
「食べてないですよ?」
「でもオメエはクッキーを口の中に入れたんだろ……?」
「入れましたね」
俺がそう言った瞬間だった。
天龍が急に掴んでいた胸ぐらを離したものだから、俺はバランスを崩してしりもちをついた。
天龍は、そんな俺を気にも止めずに再び俺に指差して言った。
「それを『食べた』って言うんだよっ!!」
「……じゃあ、食べました」
「テメエこのヤロウッ!!」
「天龍ちゃん!?落ちついてっ!!」
俺に殴り掛かる天龍を、龍田が羽交い締めにして止める。
「止めるな龍田ァッ!!コイツはしばき倒さないと気が済まねェッ!!」
「気持ちは凄くわかるけどっ!?でも一回、冷静になって天龍ちゃん!!」
「ウガアアアァァッ!!」
龍田が怒り狂った天龍を取り押さえている状況では、俺も寝たり、部屋から出ていったりする……というのは抵抗があって立ち尽くすしかない中。
蚊帳の外にいた三人の駆逐艦は、この騒動を見てヒソヒソと喋りだす。
「天龍ちゃん、激おこだぴょん……」
「でもさぁ、あの子……響っていってたけど、天龍があんなに怒ってるのに全然平気って顔してるよぉ」
「……多分だけど、響はル級に勝てるくらいだから、天龍が怒っても怖くないんだよ……」
「なるほどぉ」「なるほどぴょん」
……いや、怖いよ?
だって天龍は、人を食い殺す猛獣のような表情で俺に襲いかかろうとしてるんだもの。
……そんな事から少し時間が経って、天龍がようやく落ち着いた頃。
先程まで暴れていた天龍と、それを押さえていた龍田が、疲れきって椅子に座って荒い息をしていると、天龍が唐突に呟いた。
「ゼエ……ゼエ……わかった。……龍田が言ったように……コイツをしばき倒すのは一旦やめる……」
天龍の言葉に、龍田は「ハァハァ」と息をするだけで何も言わなかった。だが天竜はそれを気にした様子もなく、温くなった飲み掛けのコーラを一気に飲むと、勢いよく立ち上がった。
「ふぅ……よし。チビども、今すぐ外に出ろ。特訓するぞ」
「えー!?今からぁ?」
「うーちゃんもうクタクタぁ……」
「……ねえ天龍。本当に特訓するの?」
「する」
断言した天龍に、先程の疲れた様子は見当たらない。
これはあれか……コーラ効果か。
炭酸の抜けたコーラはエネルギー効率が極めて高いらしく、レース直前に愛飲するマラソンランナーもいるくらいです。のアレ。
おそらく、さっき天龍が飲んだ飲み掛けのコーラは、時間が経って炭酸の抜けたコーラだった。そして、そのコーラを飲む事で、天龍の疲れた身体にエネルギーが補給されて疲労が回復したということか。
ここは俺も、「ほう、炭酸抜きコーラですか。たいしたものですね」の一言くらい言うべきなのか?
なんて思っていると、三人の駆逐艦が渋々外に向かった後、天龍が俺の腕を思い切り掴んだ。
「お前も行くんだよ」
地獄にですか?
腕を掴んだ天龍には、そう聞き返したくなる雰囲気があった。
そして、俺は察した。
天龍は未だに怒っていて、俺をしばくのを全く諦めていない事。
これは特訓と称した、俺をしばき上げる為の祭りだという事。
「嫌だぁー!!行きたくないぃ!!」
天龍が無情に俺を引きずる中、龍田は関係無いとばかりに「天龍ちゃん、私は疲れたから休むわねぇ」と言った。
終わらない。俺の最悪な一日は、まだまだ終わらない。