「響ちゃん!もう一回!」
煤やら海水で汚れた格好になった吹雪が、息を切らせながらもまた立ち上がる。
結局、吹雪との鬼ごっこは一回では終わらず、その後もう一回、もう一回となし崩しに鬼ごっこをやる事になった。
おかげさまで空の彼方は、端が白くなりかけている。
俺はそんな空を見て、もう特訓を終えてもいいだろうと思った。
「ブッキー、もう止めようぜ……。俺はもう疲れたよ」
「えーっ!?お願い響ちゃん!!後一回!!一回でいいからっ!!」
吹雪は俺の意見を聞かず、食い下がった。
お前はあれか?俺から一人の時間や睡眠を奪うだけでなく、その上朝食や風呂で汗を流す時間すらも取ろうというのか。
俺はハァとため息を吐いて、遠くの空を指さした。
吹雪は俺が指した方を見ると、「あっ」と声を漏らす。
どうやら吹雪も、夜が明ける事にやっと気が付いたらしい。……なんて俺が思っていると、吹雪は焦ったように俺の方へと向き直り、
「響ちゃん!あと、後一回なら大丈夫だよっ!!」
「もう今日は止めるんだよォッ!!」
とんちんかんな事を言う吹雪の頭を、俺は思わずぶっ叩く。
すると海水で濡れた吹雪の頭がベチャリと嫌な音を出して、俺の手を濡らしてみせた。
海水でベタつく俺の手……。
俺は、叩かなきゃよかった……と後悔した。
「もうやだ……汗で体がベタベタするし、潮風で髪がギシギシするし、吹雪叩いたら手が濡れたし」
「私も叩かれるのは嫌だよう……」
「それは吹雪が悪い」
俺は若干呆れながらも「ほら、行くぞ」と、吹雪の袖を掴んで入渠ドックに向かおうとした。
俺は汗臭いのが嫌だった。
いや……、実際の所は俺は汗臭くはなかった!!
フローラルっ!!
そうっ!!俺の臭いというよりは香りは、ハッキリ言って全然臭くは無いッ!!
なんて言ったって俺は響ちゃんだからっ!!
臭いなんてアリエナイ!!俺は終始良い香りなんだっ!!
……ただひとつ残念な事に、汗を大量に掻いた事による体臭へのイメージは、それが超絶美少女響ちゃんでもどうしても拭えないのだ。
それに、汗でベタつく美少女とか嫌だ。
やっぱり女の子は常に清潔でいるべきだと俺は思っている。
その辺、吹雪はどう思っているのだろう。
ふと気になって、吹雪を見てみる。
……吹雪はまぁ、汚かった。
全身海水まみれで、煤まみれ。
汗の臭いはそんなにしなかったが、硝煙と磯の臭いが入り交じって、はっきり言ってとてもクサイ!
その上、そんな格好でまだ特訓をしたいと言うから驚きだ。
もう……、何て言うか尊敬する。
流石主人公というか、努力が好きなのか、それとも身だしなみにそこまで気を使っていないのか。……まぁ、どちらにせよ並大抵の人には出来ないことだろうとは思う。
「どうかしたの響ちゃん」
そんな風に感心していると、吹雪は俺が見てくるのが気になったのか、不思議そうに聞いてきた。
「……いや、吹雪は凄いなと思ってな」
「へ?」
「だってなぁ?びちょ濡れ煤まみれの格好で、徹夜で特訓するんだもの」
「徹夜は響ちゃんも一緒――」
「その上、自分が汚いと気づいてないのが凄い!結構臭うのに!」
「きっ汚なくないよっ!」
「ふーん」
反論してくる吹雪に、俺は疑惑の眼差しを向ける。
と此処で自分の臭いが気になったのか、吹雪は着ている服の胸元を軽く引っ張って自分の臭いを嗅いだ。
この時、吹雪が顔をしかめると同時に「ヴッ」と声を漏らしたのを俺は聞き逃さなかった。
「あはははっ!!ヴッてっ!?それは卑怯だよブッキー!?」
「そんなに笑わなくてもいいのにっ!……あぁ、お風呂入りたい」
コロコロと表情を変える吹雪を見ているのはやっぱり面白かった。
なんて言えば良いのだろう?
嘘を……つかないんだろうな。きっと。
何事にも真っ直ぐでいるから、見ているこっちも気分が良いんだろうな。
それに比べて、俺はどうだろう……なんて思うときがある。
それこそ掠れた思いでの中にいる昔の俺は、吹雪みたいに不器用で真っ直ぐで何事にも頑張って取り組んでいたと思う。
ああ、そうだ。
いつしか大人になっていく過程で、我慢を覚えて、嘘を張り付けて、下げたくない頭を下げて、相手のご機嫌をとるためにヘラヘラしてきた。
そんな過ごしたく無い毎日を送る内に、俺は自分が生きているのかどうか分からなくなってきて――だからというか、此処に来た時は嬉しかったなぁ。
これなら物語の様な波乱万丈の生活を送れる!なんて。
まぁ、そのせいで周りが見えなくなって、いろんな艦娘に迷惑かけたけど。
俺は振り替えって、もう一度空を見た。
もうすぐ日の出の様だ。
海と空の境界線がキラキラと輝いて、寝ていない俺の目には光は沁みて眩しかった。
前の生活では、日の出なんて見る機会はなかったが、これからは日の出だけでなく、いろんな……自分の知らない物も見れるのかもしれないと思うと自然と笑みが漏れた。
「響ちゃーん!!早くお風呂行こーっ!!」
気づけば先に行っていた吹雪が、遠くで俺を呼んでいる。
「ああ!!今行く!!」
俺は呼び掛けに答えるとゆっくりと前に歩きだした。
不思議と、遠くで俺を待っている吹雪の姿は朝日のせいか輝いて見えた。
「……あれ?」
ここで俺は、ある違和感におそわれる。
何て言うか……、まだ日が出てないよなー、と。
思わず、もう一度振り返る。
日は……まだ出てないよな、うん。
そしてもう一度、吹雪の方を見る。
「……あっれー?」
思わず目を擦る。
……どうやら寝てないせいか、俺の目はお疲れのご様子だった。まさか吹雪が更に輝いて見えるなんて。
「ひっ響ちゃん!?なんかっ!?なんか変だよぉ!?体が!?体がっ」
更には遠くで、吹雪が何やら騒ぎ出した。
勘弁してほしかった。
俺は自覚ができない程疲れているというのに!!
きっとゲームなら、今の俺のアイコンの横には、赤いムンクの叫びの様な顔が憑いていることだろう。
ああ、なんて可哀想な俺。
このままでは身が持たないのは必須だった。
だからこそ、俺は寝るべきだった。
幸い、俺はそんなに汗をかいていない。それでも体はベタつくが、我慢できない程でもないしな。
よし、決めた!
「ブッキー!!風呂は一人で行ってくれっ!!俺はもう駄目だ!!戻って少し寝る事にする!!」
俺は遠くにいる吹雪に、風呂には行かない事を伝えた。
すると吹雪は何かに焦った様に、慌てて走ってこちらに戻って来た。
「響ちゃん!ちゃんと話を聞いてよう!私のっ……、私の体が光ってるの!!」
吹雪は自己主張が激しい様だった。
まさか俺に構ってもらう為に、自分の体を光らせるなんて。
よくもまぁそこまでするもんだと感心しながらも、よく見れば吹雪もまだ子供。
寂しい、なんて思いがあるのかもなと、俺は吹雪の頭に手を置いた。
するとベチョと音がなって俺の手がまた濡れたが、俺は苦笑いしながらも吹雪の頭をワシャワシャと撫でた。
「ふふっ……吹雪、今日も一緒に出撃するんだから……な?また後でな?……ふふふ」
「――違うよ!?私が一人になるのが寂しいみたいになってるけど……いや、一人は寂しいけどそうじゃないんだよ!!困ってるのっ!!見てよっ!!私の体が光ってるの!!どうしようか困ってるの!!ていうか響ちゃん、分かってて違う事言うのやめようよ!!笑ってるの隠せてないよ!!」
「……あっはっはっ」
「笑ってごまかすのも禁止っ!!」
光りながら怒るという、なんとも器用な事をする吹雪を前に、俺は艦これのアニメの事を思い出していた。
といっても元々覚えている事がざっくりで、カレー大会以降の話の展開は正直、こんな事があったなぁくらいにしか覚えていないのだが。
……なんというか、体が光るのって改二の改造条件を満たさないといけないんじゃなかったっけ?
もっと言うと、吹雪が改二になる前に夕立が改二になった様な記憶が……。
「……響ちゃん、何か言ってよう」
「んー」
今後の展開って、なんか……あったっけなぁ……。
覚えてる事といえば、加賀さんが大破するのと、どっかの島に行って大和とあって、水着を着て海で遊ぶのと(クソ重要案件)、鎮守府爆撃と、最後に全員でラスボスフルボッコにするくらいか……。
「――ああ」
ここで俺はひとつ、ある事を思い出した。
「そういえばブッキーはシンガーソングライターになるよ」
「……」
「たしか、貝の歌を歌うよ。ミリオン目指して」
「ひびきちゃん」
「ん?――――っ!?」
頑張ってね、そう続けようとしたところで途中で話を切られ、どうしたのかと吹雪の顔を見てみれば、さっきまで元気だった吹雪は今にも泣きだしそうだった。
俺は物凄い焦った。
自分が思っていない所で、何かしでかしてしまったのかと、先程までの会話を思い出した。
だけど思い出す限りでは泣く様な事はしてないはず……、って事は体調が悪いのか……?
「どうした吹雪?お腹冷やしたか?」
「……ひびきちゃん、私、病気かなぁ……?」
「やっぱ、どっか悪いのか?」
「……だって、体が光ってるんだよ!?こんな事初めてで……、どうしたらいいか分かんなくってっ……、響ちゃんもさっきから目を合わせてくれなくって……、わたし……しんじゃうのかなぁ……」
「――あああっ!?違うよっ!?そんな事ないって!?アレだよ!艦娘なら誰でも可能性のある事だからっ!?」
この時、俺は吹雪の気持ちを何となく理解した。
不安だったんだろう。
初めて自分の身に起こる、決定的な異常。
知識の無い状態では、それが良い物か悪い物か解らずに、どうして良いかも分からずに強がってごまかして、――挙句の果てには、俺はそれが大丈夫な物だと知っていたので、曖昧な返事を返していた事が結果的に吹雪の不安をあおる事に繋がったのだ。
見れば吹雪の目には涙が溜まっていて、決壊寸前だった。
ヤバイ。そう思った俺は、とっさに吹雪を抱きしめた。
「ひびき……ちゃん……?」
「大丈夫、大丈夫だから」
抱きしめると、吹雪が小さく震えているのが分かった。
俺はそんな吹雪の背中に手をまわし、子供をあやす様に背中をとんとんと叩いた。
どこかで聞いた事があったのだ。人のぬくもりは落ち着かせる効果があると。
それからしばらく、俺は吹雪をあやし続けた。
なんていうか……、止め時を見失ったのだ。
もういいだろう、なんて思っていても実際はどうか分からないし、ああでも吹雪はもう震えていないし……ああもう、じれったいなあ!?
「ブッキー落ち着いた?」
結論は、聞いた方が早いだった。
俺は抱きしめていた手を緩め、吹雪に笑いながら問いかける。
吹雪はそんな問いに、縮こまり顔を赤くして、「……うん」と小さく返事を返してくれた。
「はははっ、なら良かった。あそこで泣かれたら俺が泣かせたみたいになるからな?」
「……響ちゃんのバカ」
「あのなブッキー……?俺は馬鹿ではないと何度言ったら……っていうのは後にして、その輝きの件は……あれだ、俺が言っても信憑性がないから適任者に任せるとして、吹雪は一回風呂入って来い」
「えっと、響ちゃんは?」
「俺はその適任者を連れて来るよ。なんて言うか、俺達だけでだんまりっていうのも不味いと思うからな。とりあえず風呂入ったら工房に行ってくれ、俺も向かうから」
その後に俺は、「まぁ、吹雪が風呂入ってる間に先に俺が着いてるかもな?」と笑って付け足した。
吹雪はというと、そんな俺の話に付いて行けずに言われるがままに話を聞いているという風だった。だからというか吹雪の反応はいまひとつで―――、
「――吹雪、今日はきっと……忘れられない良い一日になる。だから……早く行ってこい!!」
なんて言ったって今日は、今まで頑張ってきた吹雪の努力が形になる日。
俺は吹雪を入渠ドックの方へと向けて、背中をパシッと叩いた。
吹雪は最初、二~三歩前に進むとよく分からなそうに俺の方に振り返ったが、俺は吹雪に笑いながら早よ行けとジェスチャーすると「うん!」と元気いっぱいに入渠ドックに向かって行った。
――――、
「……ハァ、ずぶ濡れブッキーぎゅってしたらめっちゃ服濡れた……」
そして吹雪が見えなくなってから、俺はガックリと肩を落として盛大に溜息を吐いた。
もう……、なんていうかあれは俺のキャラじゃない。
あれは格好いい男に許された特権であり、普段から俺はカッコ良いから使っても問題ないにしても、流石にちょっとカッコよすぎたかなーなんて思わない事も無い。
「あーあ、ここ数年分のイケメンパゥワーを使ってしまったって感じ」
普段の俺のイケメンパワーを90オーバーだとすると(上限値が100)、さっきの俺は測定不能だろうな、なんて思いながら俺は歩き出した。
まずは濡れた服を着替えて、それから―――、
「ながもん、起きてるかなぁ……」
まぁ、起きてなかったらおはようテロで起こせばいいかな。