真・恋姫†無双 飛信譚   作:しるうぃっしゅ

8 / 36
第8話:水鏡の決心

 

 

 

 

 

 十常侍筆頭としての地位に相応しい広大な敷地面積を擁する張譲邸。

 屋敷だけでも目を疑うような巨大さではあるが、その建物に応じ庭の広さも寥郭たるものがあった。その屋敷の中庭に面した一室の前の廊下に腰を下ろしながら李信永政は、庭園に誂えてある池に映った丸い月影をじっと見つめている。夜風が吹くたびに、ゆらゆらと球体状の影が揺れ、歪な形を作り出す。

  

 既に夜分遅く、使用人の殆どは眠りに落ち、警備に当たっている幾人かの者が起きているくらいだろうか。夜の空から煌々とした満月の光が降り注ぎ、夜の暗闇と合わさって哀愁を感じさせる。

 

 ぼーと庭園を眺めていた李信だったが、右手が傍らに置いてあった装飾も何もない無骨な一本の剣の柄を軽く握り締め、ゆらりっとその場から立ち上がるとそこからは無駄な動作一つなく、廊下から一歩離れ、姿勢を低く刃を頭上に掲げた。

 

 それと時を同じくして真上に掲げた剣から伝わってくる重い衝撃。

 李信の予想よりも、本当に僅かに早く叩き込まれた硬質な一撃に、臆することなく気合一閃。

 剣はおろか、身体ごと圧し潰そうとしてくる何者かの襲撃に、衝撃を受け止めたまま音もなくその原因となる人物を両断すべく空に向かって剣を滑らせた。

 

 だが、その刃が断ち切ったのは何もない空気だけ。

 いや、僅かに遅れてトンっと刃の腹に感じる違和感。

 真上を見上げた李信の視界の端に映るのは張譲の屋敷の建物と、李信の剣を身体を捻って避けるのと同時にその樋の部分を蹴り上げて空中から離脱した何者かの姿。

 逃がすものかと放った追撃の一手が襲撃者を切り裂くよりも一瞬早く、その影は李信の間合いから逃げ出すことに成功していた。

 

 ざぁっと地面を擦りながら降り立った人影―――婁子伯はハラリっと一房切られた己の髪が風に運ばれていく様を見送りながら、背筋を這った快感染みた寒気に身体を震わせる。

 闇に紛れての自分の奇襲があっさりと防がれたことへの驚きは勿論あったが、これくらいならば対処してみせると言う予感がしていたのも事実。紛れもない好敵手たる存在に、自然と火照っていく肉体と、早く暴れさせろという身体中からの歓喜の信号が発せられる。

 

 対して李信は冷徹冷静。

 剣を襲撃してきた相手に向けて、油断なく見据えている。 

 だが襲撃者の想像を超えた実力に、李信も僅かな驚きを胸に抱く。昼間に感じた良く分からない気配の持ち主のようだが、自分の直感が間違っていなかったことに確信。己の初撃を避け、二太刀目も届かなかった相手は如何ほど振りか。少なくとも、そこらの一兵卒どころか、かなりの実力者であることは明々白々。一挙手一投足見逃さぬように、指先一つの動きさえも把握し間合いを計る二人。

 

「ああ、いいですねぇ。その年齢でこのわっちの奇襲を防ぎ、なおかつ反撃を加える。実に素晴らしきかな」

 

 満面の笑顔で、されど油断することなく婁子伯は、一旦構えを解くと優雅に一礼する。

 

「わっちの名は婁子伯。しがない暗殺者として活動しております。以後お見知りおきを」

「知っているとは思うが名乗っておく。姓は李。名は信。字は永政。念のために聞いておくが、屋敷を間違えたってことではないんだな?」

「ええ。狙いは、この屋敷に匿われている司馬徽の命。もっともわっちにとってはそれはついでですけどね」

 

 ついで、という言葉にぴくりっと眉を動かす李信。

 暗殺者としてそれ以上に優先すべきことなどあるのだろうか、と懐疑の念を抱く。

 

「張譲か俺の暗殺でも依頼されたか」

 

 李信の台詞にキョトンっとした顔を見せる婁子伯だったが、時を置かずして不気味に口元を歪める。

 

「いえいえ、それは依頼には含まれておりませんが。見つかってしまったからには司馬徽を仕留める前に貴方をどうにかしなければなりませんねぇ」

「……なるほど。そういうことか、戦闘狂」

 

 あまりにも不自然すぎる婁子伯の言葉に、李信は舌打ちを一度。 

 この手の類の人間とは何度か戦った経験がある。強き者と戦うことを何よりも欲する戦いの求道者。己が認めた相手と戦い、勝利した瞬間に得られる快感を目的に血で血を洗う修羅道を行く者。

 本来であれば、司馬徽を殺すという目的を第一に優先すべきことだ。その前に現れた李信は二の次でなければならない。しかし、婁子伯は李信そのものが目的となっており、司馬徽こそが言葉通りのついででしかない。

 

  

 そんな緊迫した空気が充満する中、パシャンっと激しい音を立てて屋敷の扉が左右に開かれる。

 部屋の中から大股に姿を現したのは、十常侍が筆頭の張譲その人であった。その姿に婁子伯は訝しげに眼を細める。勿論、ここは彼女の屋敷なのだから居るのは当たり前と言えば当たり前なのだが、それならば何故婁子伯は驚きを僅かにとはいえ表情に見せたのか。

 李信が待ち構えていたということは、朱凶―――この場合は婁子伯になってしまったが、彼女の襲撃を予想していたということだ。ならば、何故張譲が避難せずに屋敷に留まっていたのだろうか。暗殺の対象には入っていないとはいえ、そのことを張譲は知らないはずである。命の危険があるにも関わらず、敢えてこの屋敷に残留する理由が分からない。

 

「ふん。貴様が婁子伯、か。名前は嫌と言うほどに聞いているぞ。かの朱凶でも最悪の使い手だとな」

「……おい、邪魔だからさっさと部屋に戻ってろ」

 

 廊下まで歩み出てきた張譲が、婁子伯を見下しながら言い放つ。隠れていろと口を酸っぱく言ったはずなのに出てきてしまった張譲の行為に、李信は頭痛を隠せずに呆れ果てる。

 部屋の中では、暗殺者の前に姿を現すという張譲の愚挙に、顔を引き攣らせた司馬徽と鳳統の姿があった。同じく愕然としていた孟陀だったが、自分の役目を思い出して慌てて張譲を守るべく身体を盾にするように前に乗り出す。

 

「張、張譲様、御下がりを。相手は、あの婁子伯でありますぞっ!!」

「中華にその名を轟かせる朱凶において並ぶ者なしの狂人、婁子伯か。随分と大物を送り込んできたものだ」

 

 盾となった孟陀の身体を片手で退けると、張譲は相も変わらず尊大な態度で廊下に仁王立つ。

 司馬徽が狙われているとはいえ、それが張譲を狙うための陽動とは限らない。故に、同じ部屋に居たほうが李信にとっても守りやすいため一緒の部屋に居たのだが、まさか司馬徽を受け入れた当日の夜に襲撃をかけられるとはこの場にいる者達のだれもが予想もしていなかった。ただ一人、李信だけは何かを感じ取っていたのか護衛についていたのだが、それが結果として吉とでることになったのだ。

   

「悪名とはいえ中華にその名を轟かせる婁子伯よ。李信と一合とはいえ渡り合う剛の者よ。その腕、実に見事だ。この洛陽広しといえど、それほどの力量を持つ者は見つからぬだろう。お前さえ良ければ我が幕下に加わらぬか?」

 

 己の命を狙っているかもしれない暗殺者に向けてのまさかの勧誘に、李信を除いて誰もが目を剥いた。

 

「―――と、言いたかったが、止めておこう。確かに貴様の実力は我が陣営に欲しいのは事実だ。だがな、目を見て理解した。貴様は誰かの下で大人しくするような人間ではない。いや、果たして人と言っていいものか。貴様は飢えた獣そのものだ。餌を与えようが決して懐くことはなく、隙あらば主の喉笛さえも噛み切ることを狙っている狂犬に過ぎん」

 

 だが、即座に彼女は自身の誘いを否定する。

 淡々と、まるで熱量を感じない張譲の言葉は、まるで書かれた数字をただ読んでいるだけのような、違和感。異質感。

 つまらない、結局のところそれに全てが収束されていた。

 

「何よりも、貴様はそそられん。李信に比べて微塵も心が揺さぶられんぞ。お前はただの外道だ。人を人とも思わぬ悪鬼羅刹よ。貴様はここで朽ち果てよ。それが貴様にとっての幸福となるはずだ」

 

 夜風以外に吹き荒ぶのは、王者の風だ。

 張譲の力ある言霊に、飄々としていた婁子伯の視線に冷たいものが混じる。

 

「李信」

「……ん?」

「お前の友である張譲の願いだ。疾く―――終わらせよ」

 

 

 全幅の信頼を寄せた宣誓が終わった瞬間、李信の剣が張譲の眼前にて弧月を描いた。

 耳を劈く金属音が高鳴り、弾ける火花。黒色の短剣が、張譲の前の地面に突き刺さる。夜の闇に紛れての投擲を、李信はあっさりと見抜き弾き落とした。

 

 張譲を守ることを優先とした結果、作り出された一瞬の隙。

 李信の全身を痛いほどに叩きつけてくる殺意という名の暴風に、咄嗟の判断で身をそらす。

 一秒を分割した瞬間の時に、耳に聞こえる風きり音。

 

 身を逸らす前に顔があった空間を、物騒な轟音をたてて鈍色の手甲が通過していった。

 ばさりっと婁子伯の長い髪が翻り、一歩後退した李信が体勢を整えるよりも一手早く、彼女の肉体が懐深く踏み入ってくる。相当に重いはずの手甲に動きが阻害されること無く、婁子伯の速度は人の域を容易く超えていた。

 

 先程空を切った左拳の勢いを殺すことなく、流れるような動作で右の拳が、ひたりっと静かに李信の腹部へ添えられる。

 次いで聞こえるのは、鼓膜を揺さぶる爆撃音。婁子伯の両足が地を踏み締め、一切無駄なく肉体全てを稼動させた。

 地を震わせる踏み込みと同時に放たれた右の拳が、何の容赦も無く李信の腹を食い破るべく放たれるものの、それが貫いたのはただの残像。轟、とあまりにも物騒な音をあげた右拳から逃れた李信が、たたらを踏むように背後へと後退。

 

 だが、婁子伯の動きは止まらない。

 更なる追撃に、体勢の整わない己へと襲撃する暗殺者に、舌打ちの一つでもしたくなるが、そんな暇もあるわけがなく咄嗟の判断で剣を頭上へと振り上げた。

 打ち下ろされた拳と振り上げられた剣が激しく音を立てて交差する。

 激突する拳と剣が、互いの腕に衝撃を伝えてきた。一瞬とはいえ自由を奪うほどのそれに、驚愕したのは奇しくも両者同様であり、立ち直るのもまた同時。

 

 いや、ほんの僅かに体勢を持ち直したのは李信のほうであり、瞬時に突き出された切っ先が婁子伯の喉下に迫るが、その一撃を許すものかと真下から跳ね上がった爪先が剣をさらなる上方へと受け流す。その蹴り足の力を利用し、後方へと一回転。間合いを離脱した婁子伯が、李信の行動を見逃さぬように双眸を冷たく細く歪める。  

 瞬きの一つもなく、指先の動きはおろか、骨格の稼動さえ見逃さぬように観察していた。

 

 なるほど、とてつもなく強い。

 ヒュっと短い呼気を漏らした李信は素直に相手の力量を認めた。

 少なくとも、この時代に生まれ育ってから戦ってきた相手は、言っては悪いが相手にもならなかったの一言だ。

 何故か実力的に女性の方が強い傾向があることに一時は驚かされたが、幸か不幸か女性でありながら化け物級の妻を知っていた為にすぐに時代に適応できた。が、それでもかつての生と死が隣り合っていたあの時代に比べれば、生温さを感じていたのもまた事実。

 だが、この婁子伯という名の女の実力は本物だ。李信の圧力に負けず、懐に踏み入ってくるその姿は感嘆の声さえ漏れでそうなほどだ。張譲が、自分で否定はしていたが陣営に引き入れようとしたくなった気持ちも分からないでもない。従者であり護衛でもある孟陀でさえも恐らくは数合と持たずに屠られるであろうその力量。

 つまりは、漸く出会えたというわけだ。李信が本気を出して戦える戦闘者に。

 

「楽しい。本当に楽しいですよ!! どれくらいぶりでしょうか!! このわっちと互角に渡り合える化け物はっ!!」

「たいしたものだと思うぜ、婁子伯。強いぞ、お前は。その研鑽、経験―――曲がっていながらもとんでもないな」

「んふふっ!! その言葉そっくりそのままお返ししましょう!! その年齢で、まだ少年としか表現出来ない年月で!! よくぞそこまで!!」

「まぁ、俺にも色々あるもんだ。ただ一つだけ言っておいてやる。後ろで見てる奴が怖い顔してるんでな。悪いがそう時間はかけられん」

「つれない事を言わないでくださいよ!! まだこれからが本番でしょうに!!」

 

 李信の言葉を遮り、爛々と瞳を嬉々として輝かせ、婁子伯が間合いを詰めてきた。疾風と化した女性の肉体が弾丸となって一直線に駆け行きて、踏み足の接地が地響きをたて、それと連動して放たれる掌打。

 まともに受ければ、馬車に引かれた人間のように弾かれる程の重みが込められているのは一目瞭然。その打突に剣をあわせ、切り払うようにして半ば強引に捌いた。

 避けようと思えば容易く避けれるのだが、後ろには何と言っても守るべき者達がいる。

 

「てか、とっととさがれよ、張譲」

「何を言う。戦っているお前の雄姿。それを眺めることが出来るここが特等席だ。何があっても、誰であっても譲れんぞ」

「面倒臭いな、全く。まぁ、別に構わんが」

 

 一手でも間違えれば命を落とす死線の上にて、そんな戯言を交し合う二人に、他の者達は半ば呆れ、そして―――婁子伯の気配が急激に高まっていく。

 互角に見えるこの戦い。だが、果たして真実はどうなのか。戦いを思い返せば李信は、張譲達を背に庇うようにしてその場から僅かにしか動いていない。しかも左右には一歩も移動せずに前後のみの運動で、襲撃を全て捌いている。そんなことがありえるのか、と婁子伯は驚愕を表情に浮かべて頬を引き攣らせた。

  

 臆するな、と弱気になった己を叱咤する。  

 戦闘という行為において、ここまで迷いが生じたのは何時以来だろうか。

 初めて人を殺した時ぶりではないかと薄笑いを浮かべて最凶の暗殺者は地を駆けた。

 

 今の李信にとって回避行動が取ることが出来るのは前後のみ。

 行動範囲が限定されている彼の動きは、故に読みやすい。それを作戦に組み入れれば、李信を封殺することさえも可能。

 

 されど、そんな彼女の思考を覆す剣閃が一筋。

 反射的に喉から飛び出そうになった悲鳴を噛み殺し、婁子伯は必死に身体を捻って唐竹に振り下ろされた一撃を回避する。

 柄越しに伝わってきた感覚は、標的の長い髪の一部を断ち切っただけ。その身に傷を負わすことは出来なかったものの、婁子伯の背筋を死の予感が撫で上げるに十分に足るものであった。

 彼女が一陣の風となったそれよりも速く、神速の挙動で一歩を踏み出した李信に、薄ら寒さを感じながら再度その身を半ば無理やりに稼動させる。

 間をおかず、地面を斬りつけた刃が跳ね上がり、逆袈裟の軌道で牙を剥く。避けるのは無理だと踏んだ婁子伯は、その刃を手甲で受け止め流す。ギャリンっと生理的に受け付けない金属音を高鳴らし、流された剣は空を断つ。

 

 その場には、剣を振り切り体勢が整っていない李信。

 絶好の機会。これを逃せば、もう二度と勝利への道筋が見えなくなる。

 刹那に感じ取った直感。ここがこの戦いの分水嶺。勝敗を分ける最後の山場。

 

 それでも、婁子伯は踏み込めなかった。

 李信が放つ尋常ならざる冷たい気配に当てられて、僅かに迷ったのは十数分の一秒という一瞬。

 だが、そこは踏み込むべきだった。絶対に退かないという決死の覚悟さえ持っていれば、或いはこの戦いにおいて李信を凌駕することが出来たかもしれなかった。どれだけ言葉を取り繕うとも、踏み込めなかったという現実と、取り返しのつかない一瞬となったという事実だけが残された。 

 

 本能が、婁子伯の身体を強引に後退させる。

 その姿を見送りながら、李信は剣の柄の握りを何度か確かめる仕草を見せ、そして決定的な台詞を口に出す。

 

 

「感謝する、婁子伯。お前のおかげで一つはっきりとすることができた」

「……」

 

 李信の礼に、言葉を返す余裕などあるわけもなく、必至になってどうすれば現状を打破できるのか思考する。

 だが、その行為は無駄に終わる。李信の姿は戦闘の開始からまるで変わっていない。されど決定的に違っていることが一つだけ。両者が隠していた実力差に違いがありすぎた。いや、それは正確ではないだろう。李信の力が際限なく上昇していっている、というのが実際だ。まるでそれは、噛みあっていなかった何かが漸く合致していっているような感覚というのが正しいか。

 

 

「俺がどれだけ弱くなって(・・・・・)―――どれだけ強くなったか(・・・・・・)

「……なん、ですか。貴方は、何を言っている……!?」

 

 

 ある意味支離滅裂な李信の台詞に、婁子伯はたまらず叫び声をあげた。

 殺しあっている相手の非難の訴えに、だが李信は特に気にすることもない。

 婁子伯の耳元で聞こえる荒い息遣い。地震のように聞こえる激しい鼓動。それが何かと思えば、彼女自身が己を驚かせる音を放つ発生源であった。今にもこの場に崩れ落ちたくなる自分を叱咤しながら、銀色の手甲を嵌めた拳を更に強く握り締める。その感触だけが、彼女を支える唯一無二の支柱となっていた。

 相対する李信は、そんな婁子伯を前にしながら緊張感も何もなく軽く剣を振った後、緩やかな一歩を踏み出してくる。

 

「重ねて言うが、礼を言うぜ。俺は―――あの頃(・・・)よりも強くなれる確信を持った」

 

 李信の感謝の念が空気に溶けた、刹那。

 閃光が迸る。夜の闇を切り裂く、白銀の煌き。

 それは言葉にすれば何と言うことも無い。ただ、婁子伯に向けて踏み込み剣を袈裟懸けに振るっただけ。

 特殊な動きも技も何も無い。平々凡々な、一太刀だ。

 

 だがそれは、李信永政という唯一無二の戦狂いの怪物が放った、神速となりし凡庸な一撃。

 

 故に―――婁子伯如きが、回避できようはずがない。

 

 己へと迫ってくる銀閃に、呆然と愕然と、魅入られる。

 あまりにも美しすぎるそれは、人を殺すということだけに特化した殺戮の一手。

 生涯を研鑽と殺人に費やしてきた自分でさえも到底及ばず。いや、違う。立っている土俵からして違っていた。単純な話、戦っていたと思っていたのは自分だけだったのかもしれない。彼方と此方にはそこまでの差があった。

 

 

「―――ああ。なんて、素晴らしい」

 

 

 陶然と呟き全てが緩慢に見える視界の中、反応することすら許さない李信の刃が、婁子伯の左肩から右脇腹までをなんの躊躇いも無く一刀の下に切り捨てた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦国七雄を滅ぼした中華六将。

 戦狂いの悪鬼、李信。秦国最強の戦神とも謳われたその名に―――偽りは無し。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 張譲宅襲撃事件より数日が経ったある昼下がり。

 首都洛陽の名に相応しく、この街に訪れる人間は数多い。それと同時にここから旅立つ人間も数え切れないほど存在する。

 街全体を囲むように聳え立つ城壁。そして内と外を分け隔てる城門は、多くの人間でごった返していた。

 

 そんな人波のなか、李信と司馬徽、鳳統はいた。

 普段通りの服装で手ぶらな李信とは異なり、二人は旅装束めいた服装と多くの手荷物を持っている。

 

 

「本当に世話になったのぅ。まさかこうして鳳統のみならずワシまでも命を拾えるとは思っておらなんだよ」

「あ、有難うございます」

 

 ほっほっほ、と口元に笑みを浮かべながら礼を述べる司馬徽と、頭を深々と下げる鳳統。

 対照的な二人の姿を気に留めることも無く李信は肩をすくめた。

 

「いや。お蔭で、張譲の奴も嬉々としていたし。かなり趙忠の勢力を削れるみたいだしなぁ」

「それは良かった。これで何の有益も無い情報であったならば、ワシとしても申し訳が立たぬところであったよ」

 

 白扇を右手に優雅に微笑む司馬徽は、張譲の姿を思い浮かべて、その笑みを苦笑へと変化させた。

 ここ数日で、李信と多少は距離を縮めることが出来たのか言葉遣いもまた張譲達へと接するように雑なものへとなっている。それが不快だと思わないし、逆に李信が敬語で話しているのを聞くほうが何故か背中が痒くなってしまう違和感に襲われてしまう。

 

「あのお方も随分と変わった御仁よ。暗殺者の前に堂々と姿を現し、そして一歩も退かぬとは」

「変わった人間だというのには賛成しなければならないな」

 

 李信と婁子伯の死闘を平然と間近で見物していた張譲の肝の太さは実際大したものだ。

 もしも、あそこにいたのが他の十常侍であったならば腰を抜かして必至に逃げ出していただろう。もっとも、それよりも以前の話で姿を現さなかっただろうが、むしろ李信としては隠れていてくれたほうが随分と助かったというのが本音ではある。

 しかし、あれ以降溜まっていた鬱憤が晴れたのか、楽しそうに職務に向き合っている姿を見受けられた。

 

「しかし、申し訳ないのぅ。お主に受けた恩を返す前に、この街を離れなくてはならぬとは困ったものじゃ」

「それは仕方ないさ。趙忠派の奴らに目をつけられては生活も難しいだろうしな」

 

 確かに暗殺者を撃退したとはいえ、趙忠派と敵対したまま洛陽で生活するのは少々厳しい。

 如何に張譲の保護下にあるとはいえ、それに変わりは無い。李信とて、四六時中彼女達の警備に当たれるわけでもないのだ。

 それ故に、司馬徽と鳳統はほとぼりが冷めるまで洛陽から遠く離れた田舎で暮らすことになった。

 

「だが、それではやはりワシの気が済まぬ。故に、これを持って返礼としたい」

 

 拱手とともに、頭を垂れた司馬徽が深く息を吸う。

 

「我が姓は司馬。名は徽。字は徳操。そして真名は―――」

 

 己の魂の名を口に出そうとした瞬間、パシンと額を叩かれ言葉を止められる。

 何事か、と思って見れば叩いた張本人である李信が首を横に振っていた。

 

「悪い。それは受け取れない」

「―――何故、じゃ」

 

 真名を預ける。

 同性同士ならば、仲の良い友人同士でも珍しいことでもない。主従関係ならば尚更だ。

 けれども、異性となればその関係は極端に減少する。友人同士はおろか、主従関係であってさえも、真名で呼び合うことは殆ど無いに等しい。そこまで重要視されている真名を異性である李信に預けようとした司馬徽の行動は、生涯であるかないかの大決心であった。

 考えられているよりも相当に重い覚悟を止められた司馬徽が、愕然とするのも当然であったろう。

 

「お前の覚悟は受け取った、だがな、俺は真名は呼ばん。その者の根本を指し示す魂の名。それは、俺には重過ぎる」

 

 どこか疲れた表情で、李信は語る。

 

「これはただの意地だ。だがな、譲れない意地でもある。俺が魂を委ねるに値した相手は後にも先にもあいつだけだ」

「……張譲、殿かのぅ?」

 

 司馬徽の言葉の中に少しだけ険が混じってしまったのは致し方ないことだ。

 李信がこのような表情を浮かべさせる相手とは一体どんな人物なのか、心が揺さぶられる。

 

「ん? いや、アイツじゃないな。まぁ、秘密だ」

 

 カカカカっと先程まで浮かべていた哀愁を消し去った李信は高らかに笑う。

 彼の態度に、追求したくなる気持ちを必至に堪える。李信の様子から恐らくは、例え聞いたとしても答えては貰えないことは想像に容易かったからだ。

 

「礼は次会う時までに考えてくれていればいいぞ」

「……ふむぅ。仕方ないのじゃ」

 

 司馬徽は現状で己から贈れるものはないと判断し、不承不承小さく頷く。

 そんな二人の会話を中断させるように、城門の方角から声がかかった。商人達で結成された大規模な隊商の出発が間近に迫っており、集合するように呼びかけているようだ。この御時勢、流石に小さな鳳統と二人旅というのは危険ということもあり、隊商と一緒に出発できるように張譲が手配してくれたのだ。

 

「気をつけて。また会えるといいな」

「お主には本当に世話になった。この恩は生涯忘れぬよ」 

「有難うございました、李信さん。御恩は一生忘れましぇん!!」

 

 最後まで噛み噛みだった鳳統に笑みを送りながら、李信は背を向けて歩き去っていった。

 その姿を見送りながら、司馬徽は傍らにいる鳳統の手を握り締める。

 

「鳳統……荊州はいいところじゃ。きっとお主も気に入るだろうて」

「はい、司馬徽さん」

「ん……実はのぅ、鳳統。ワシは前々からやりたいことがあったのじゃ」

「はい? どんなことでしょうか?」

 

 鳳統が上目遣いで手を握っている司馬徽を見上げる。

 小柄な彼女の姿とあいまって、非常に可愛らしい。

 

「前々から教師、というものに憧れておってのぅ。田舎では私塾を開こうかと思っておる」

「塾、ですか?」

「うむ、そうじゃ。我が手で世に埋もれている才ある者を育てたい、という欲求がワシにはある。それも全てはお主と出会ってはっきりとした」

 

 司馬徽の台詞にキョトンっとした鳳統に笑いかけ。

 

「お主の才は別格よ。並ぶ者無しと表現したとしても過分ではあるまい。そういった宝石の原石を磨き上げてみたいのじゃ」

「わ、私なんかそんなことないでしゅ」

 

 司馬徽の褒め言葉に顔を真っ赤にして否定する鳳統だったが、それを愛おしそうに見ながら司馬徽は続けた。

 

「それに、もう一つワシには目標が出来た」

「もう一つ、でしゅか?」

「うむ。恐らくは、これより戦乱の時代が到来するじゃろう。そんな中、間違いなく李信殿は頭角を現す人物だと確信しておる」

「……」

 

 司馬徽の李信への評価に、鳳統は一も二も無く頷いた。

 短い付き合いだが、彼が大人しくしている姿の方が思いつかない。

 

「見たところ、李信殿には信頼できる配下と言うものがまだおらぬようじゃ。これから先どうなるかわからぬがな」

 

 それも頷ける。

 あの強さ。あの風格。放って置いても、彼の下に有能な人材は集まってくる筈だ。

 

「出来ればワシもその一員となりたいと願っておる。しかし、悲しいかなワシは一流にはなれても超一流にはなれぬ。ありとあらゆる面において、ワシよりも優秀な人物はいるじゃろうて」

 

 そんなことはない―――そう叫びたかった鳳統の頭を撫でた司馬徽は、自虐的な発言とは裏腹に輝きに満ちていた。

 

「それ故に、ワシは育てよう。戦略軍略戦術用兵、計略謀略策略姦計謀計。ありとあらゆる面に置いて追随を許さぬ智の怪物を。武の化身である李信殿と並び立てる叡智の化身を」

 

 

 司馬徽の手を握っていた鳳統は、何時の間にか嫌な汗をかいていた事に気がつかなかった。

 どこか禍々しさを感じさせる司馬徽の笑顔に、鳳統は幼いながらも恐怖を感じた。だが、その手を振り払おうとは思わない。何故ならば、鳳統もまた司馬徽の考えを完全には否定出来なかったからだ。

 命の恩人である李信の役に立ちたいという気持ちが、恐怖を塗りつぶしていく。その姿に満足気に頷いた司馬徽は、どこまでも続く蒼天を見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――四海において勝るもの無し。最高の軍師を育て上げ、それを以て李信殿への返礼とする」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。