真・恋姫†無双 飛信譚   作:しるうぃっしゅ

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第4話:乱世の英傑、覚醒す

 

 宮中は魔窟だ。

 あそこは人ならざるモノが住んでいる。人の姿をしているだけの異類異形。怨霊怪異。魑魅魍魎。

 己の欲を満たすためならば、人を殺すことさえ躊躇い無くやってのける怪物達の住処。

 とくに十常侍と呼ばれる宦官には、逆らってはならない。彼らに反抗するということは、宮中そのものを敵に回すということと同義に等しい。それは幼い頃より誰しもが耳が痛くなるほどに子守唄のように聞かされることである。

 

 だが、宦官が宮中の全てを掌握しているか、と問われれば首を横に振らざるを得ないだろう。

 何故ならば、十常侍の全てが協力関係にあると世間では思われているが、実際はそうではないからだ。特に十常侍の筆頭と言われている張譲と趙忠の二人の関係は最悪と言っても良い。

 以前は張譲が面倒を嫌って表立って対立していなかったが、数年程前から突如としてそれまでとは正反対の対応を取ることとなる。

 隙あらば喉元を掻っ切ろうと虎視眈々と隙を狙うようになった張譲に、流石の趙忠も油断も出来ず、その結果ここ数年は宮中は非常に表面上は穏やかな空気が流れていた。

 もっとも二人は水面下で激しい権力争いに従事していたのだが、それは宮中に勤める者ならば嫌な空気を肌で感じ理解することができたであろう。

 

 

 そんな魔都の中心である洛陽が宮中。

 煌びやかな装飾が為された廊下を、壮年の男性と幼い少女が連れ立って歩いていた。

 朱色の支柱が視界が届く範囲、さらにはそこから先まで延々と等間隔で立ち並び、足が踏む床は染み一つなく白色の輝きを放っている。斜陽を迎えているとはいえ、中華を統べし大国というのは伊達ではない。特に財を尽くして建設されたこの宮殿は、人の想像を絶するほどに豪華絢爛。富に溢れ、この世の光景とは思えない。

 この宮中に初めて足を踏み入れた少女にとって、そんな感想を持つのはある意味当然の結果であった。

 

 

 コツコツと床を歩く音が、少女の耳にやけに響くように聞こえるのは緊張しているためだろうか。

 喉の渇きも尋常ではなく、激しい動悸が前を歩いている父に聞こえるのではないかと勘ぐってしまう。

 

 改めて前を先導する父の背を少女は見た。短く刈り揃えられた黒髪に、高い身長。

 質素だが造りのしっかりした紫紺の衣服に身を包み、目の前の天上の世界にも似た景色も慣れたものなのか、彼の足取りに一切の不安は見受けられなかった。それでも、娘である自分に気を使ってか、歩調はゆっくりとしている。緊張していて今まで気づかなかったが、そのことに心の中で感謝を送り、遅れないように歩くペースを少し速めた。

 

「―――あまり緊張するなよ、華琳」

 

 外見に相応しく、どっしりと重い声で前を行く男性がついてきている娘―――華琳に話しかけた。

 ちらりっと少しだけ顔を後ろに向け娘の様子を窺ったが、彼が考えていたよりも随分と普段通りだったのか、少しだけ笑みを浮かべて歩みを再開させる。

 

「はい。問題ありません」

 

 華琳―――姓は曹。名は操。字は孟徳。そして、真名が華琳。

 彼女は、男性の言葉に力強く頷いた。

 

 この時代、とある事情により真名と呼ばれる特殊なものが存在していた。

 姓はそのまま家名を指す。次に名前が来て、成人した証明として授かる字。最後に真名と呼ばれる名前が来て、個人名となるのだ。

 真名とは、文字通り、真実の名前という意味合いを持つ。この世界に産まれ落ちたその時に、親から感謝と愛情を込めて名づけられ、その人物そのものを指し示す絶対不可侵の名前だ。

 故に、その真名が持つ意味は大きい。命よりも重いものだと考える人も多く、もしも許可無く真名を呼べばその対価として命を要求されることになったとしても情状酌量の余地はない。

 

 そんな意味合いを持つ真名で彼女の名を呼ぶ。

 呼ばれた本人は全く顔色を変えずにいるのにも理由がある。

 

 その性質上、真名を呼び合えるのは極限られた者のみ。

 例えば、親。兄弟。夫婦や近しい親類。親友と互いに認めるもの同士。命を賭して仕える主従などにしか許されない

  

 つまりは、男性は彼女の真名を呼ぶことを許された人物。

 曹嵩巨高―――それが彼の名前であった。

 

 寡黙だが、情に厚く、忠考を重んじるとこの時勢で珍しい人物だと名を馳せている。

 

「なに、心配するな。張譲様は世間で言われているような方ではない。お前自身の目であの方と向き合えばよい」

「―――はい」

 

 

 華琳の緊張を解くように、ゆっくりと穏やかに語りかける。

 短く返答をし、一度だけ大きく深呼吸をすると身体中を支配していた緊張感が、適度に解けていく。

 粘土のようにへばり付いていた重い空気を振り払うように、少しだけ大股になって宮中の廊下を突き進む。

 

 宮中の空気と威容に呑まれていた彼女の姿はもはや無い。

 極上の蜂蜜を思わせる色合いの金色の髪。ツインテールのように左右に分かれたそれがくるりっと巻き髪になっている。曹嵩が着ている服と同色である紫色の可愛らしい服で着飾っていたが、父とは異なり些か此方は高級な布が使われており、装飾にもそれなりの費用がかかっているのは一目瞭然であった。

 薄く細く形作られた眉に、程よい大きさの目。万人を魅了するかのような顔立ちは、可憐でありながらも美しく、端麗かつ秀麗。しかし、そんな容姿よりも彼女の惹き付けられる点を挙げるとすれば、今年で十二を迎えた少女とは思えない強い輝きを感じさせる蒼天の如き瞳。蒼い、青い瞳が見るものの背筋を粟立たせる。年齢と比例した小柄な身体ではあるが、それでも彼女が並々ならぬ傑物であることは少しでも見る目がある者ならば即座に理解できるはずだ。

 

 己の愛娘の雄姿に、より笑みを深くした曹嵩であったが、突如として彼は歩みを止める。それと同時に浮かべていた笑みは瞬時に消え去り、口元を引き締め表情を消し去った。 

 何事か、と華琳もまた父の背中の一歩手前で立ち止まり―――その理由が判明する。

 

 二人の前から数人の人間が此方に向かってくるのが見えたからだ。

 徐々にその者たちの姿が大きくなっていき、曹嵩と華琳の前にくると足を止めた。

 

「おやおや。曹嵩殿ではありませんか」

 

 どろりっと粘着性のある黒い声。

 聞いているだけで苛立ちを煽り、不快で神経を逆撫でするような人の声とは思えない音だった。

 くんっと反射的に鼻を鳴らした華琳が、表情を歪める。何故ならば、彼女の鼻が嗅ぎ取ったのは、思わず逃げ出したくなる程に穢れた臭い。漂う悪臭が、濁流となって幼い華琳の心を激しく打ちつける。

 実際に、華琳達の前に立ちふさがっている者達から悪臭が漂っているわけではない。鋭敏な華琳だからこそ気づいたのだ。今自分達の目の前に居る男達は、人として終わっていると。最悪を通り越した最悪。関わってはならない類の宮中に巣くう魔物。それが彼ら―――即ち(くに)を喰らい、腐らせた宦官達。

 

「これは、蹇碩殿。お久しぶりです」

 

 曹嵩の台詞に、華琳はその名前の人物を記憶の中から検索する。

 良くも悪くも、その名前の人物を思い出すのにかかった時間は一秒も必要としなかった。

 現在この洛陽を掌握している十常侍の一人―――それが蹇碩。趙忠の派閥の一人にして、宦官ながら上軍校尉に任ぜられその筆頭として近衛軍を統括している男だ。

 

「そうですな。随分と顔を合わせていませんでしたな、互いに。曹嵩殿もお忙しいようで……御身体の方は大丈夫ですかな?」

「はい。これまで病一つ患ったことがないのが自慢でして」

「ほっほっほ。それは羨ましいですな。健康の秘訣でもお聞きしたいところですぞ」

「生憎と意識して行っている健康法はありません。強いて言うならば適度な運動かと」

「ほぅほぅ。なるほどなるほど」

 

 ごくりっと華琳は口の中に何時の間にか溜まっていた唾液を嚥下した。

 言葉だけ聞けばただの世間話だが、その裏に乗せられている感情は怖ろしいほどに冷たい。両者ともが、互いをまるで敵を見るかのような目で射抜いている。

 あの穏やかな父が、これほどまでに誰かに敵意を向けていることに驚きを隠せなかった華琳の感情が僅かに揺らぎ―――それを見逃すほど宮中に住まう悪鬼は甘くは無かった。いや、或いは最初から彼女に目をつけていたのかもしれない。 

 曹嵩という百戦錬磨の人間を相手取るよりは、未だ小娘にしか過ぎない華琳の方が組み易しと考えるのが当然だろう。

 

「おや? 曹嵩殿は本日は娘殿と御一緒に?」

 

 人当たりのよい老人。自分の孫娘に話しかけるかのように優しい蹇碩の瞳がぎょろりっと華琳の全身を嘗め回す。

 反射的に立った鳥肌に、寒気。対峙するだけで削られていく精神。心を直接ヤスリで削られているのではないかと思わせる圧力が、音を立てて華琳を飲み込む。

 性根がもはや救い様が無いほどにどす黒く、己以外は人を人とは思わぬ化生の言葉は、それだけで物理的な楔となって幼い少女の肉体を蝕んでいく。

 

「……ええ。張譲殿とお会いする約束がありまして」

「張譲殿と? おお、そうでしたか。あの御方がお会いするとは珍しい。余程貴方の娘殿は優秀だということですな」

 

 恐らくは知っているというのに、態と驚いた振りをする蹇碩の姿が憎らしい。

 曹嵩は舌打ちの一つでもしたくなる己を律しながら、華琳を庇うように横に身体をずらす。

 

「いやはや。羨ましい話ですな。才ある者を集められている張譲殿に眼をかけられるとは。ああ、素晴らしい。しかも、あの曹嵩殿の娘殿とあれば、その将来性は計り知れませんな」

 

 一歩、蹇碩が踏み出した。

 粘つく圧力が、華琳のみならず曹嵩さえも包み込む。

 指向性のある衝撃が音を立てて波打ってくることに、胃の中にあるものが逆流してきそうな感覚さえ受けた。

 それに敗北するように、華琳は顔を床に向ける。それを誰が責めることなどできようか。

 

 これが十常侍。

 宦官の頂点に立ち、洛陽の魑魅魍魎の主達。

 確かに彼らは、産まれながらにしての風格を備える張譲とは異なり、皇帝に取り入って今の立場と権力を手に入れたに過ぎない小物であった。

 

 だが、権力が人を作るのもまた事実。

 今の地位を失いたくない。常にこの光景を見ていたい。更なる富や名声が欲しい。

 そんな欲望を原動力として十常侍は漢という国の高き場所にて在り続けた。

 やがてその欲望はただの小物であった彼らを、狡猾で老獪な人の姿をした化生へと変化させるに至った。

 

 さらに近づいてくる蹇碩の前に立ち塞がろうとした曹嵩に反応して、蹇碩の従者達が動きを見せる。

 中には明確な敵意を視線に乗せてくる者もおり、それがピリピリとした緊張感を生み出す原因となっていた。

 

「愛らしい娘殿ではないか。まるで小動物のように震え―――」

 

 

 華琳の脅える姿に満足感を覚えていたのだろう。

 醜悪に顔を歪めていた蹇碩の足が止まった。足を止めざるを得なかった。

 曹嵩の顔に浮かぶ憤怒によって―――ではなく、その背後。彼に庇われているはずの小娘の表情を見てしまったが為に。

 

 何時の間にか、俯いていた少女は顔を上げていた。

 それだけならまだ良い。だが、彼女は、華琳は笑っていた。獰猛に、この程度なのかと挑発するように。

 

 

「―――下がれ、下郎」

 

 

 静かな、本当に静かに、呟くような声だった。

 未だ官位も持たぬ、ただの小娘にしか過ぎない華琳の小さな一喝に、蹇碩は気圧され歩む足を止められ逆に一歩後退した。

 少女の言葉は、蹇碩の圧力など比べまでも無いほどの領域。彼の圧力が湖に小石を投げ入れ揺れ起こされた波紋とすれば、今現状で華琳が放つのは比較することさえおこがましい巨岩を放り投げて起こされた津波。

 

 

 たかが、小娘。

 

 

 そう高を括っていた蹇碩の想像を遥かに超える敵対者に、久しく感じていなかった焦燥に襲われた。

 まずい、と。このままこの小娘を生かしておけば、近い将来自分達の道を阻む存在になるのは確実。

 全力で排除せねばならない。奇しくも蹇碩のみならず、彼の従者達も同様の想いを抱いた。

 

 今ここで消さねば、自分達が喰われかねない。

 

 脅迫観念染みた苛立ちに、もはやこの場所が宮中の一画であるということさえも忘却しかけたその時―――。

 

 

 

 

「―――曹嵩殿。お迎えにあがりました」

 

 

 蹇碩が感じた苛立ちも焦燥も、華琳の放つ圧力も霧散させる男の声が響き渡った。

 ひぃ、と誰かが小さく言葉にならない悲鳴をあげる。華琳でさえも、信じられないものをみたかのように瞠目した。

 

 彼ら彼女らの視線の先。

 この場の主役をたった一言で掻っ攫い、自分に注目を集めたのは一人の少年。

 華琳よりは三つか四つ程年上。背丈は蹇碩よりは高いが、曹嵩よりは頭半分小さいくらいだろうか。

 口調は丁寧だが、それがどこか造り物めいた印象が受けたのを華琳は勘違いではないと確信した。

 

 皺が目立つ黒い着流し姿の少年。

 豪華絢爛な宮中にいる人間とは思えない。ましてや仮にも十常侍や大尉たる曹嵩の前なのだ。

 こんなぞんざいな服装で、果たしてこの宮中にいていいのだろうか。

 

 だが、そんな疑問など下らない。

 何故ならば、目の前に立つ男の異常性を理解してしまったからだ。

 違う。明らかに違う。雰囲気か。空気が。気配が。圧力が。

 こんな宮中にいて良い類の人種では―――存在ではない。

 もはや体臭になるほどに染み付いてしまっている血臭。百や千どころではない。万や十万でも足りない。こんな時代では決して到達できない前人未踏の世界に軽々と足を踏み入れ、そこに居座っている戦人の香りが迸る。

 蹇碩や華琳を大小の違いはあれど波紋と例えれば、これは台風。全てを薙ぎ倒し吹き飛ばし、人の全てを蹂躙する大災害。対抗する方法も手段も存在しない凶悪なまでの天災だった。

 

 

 華琳が受けた衝撃よりも、他の者達の様子はある意味わかりやすかった。脅え、怯え、蹇碩の従者がパクパクと口を開閉させながら、必死に言葉を紡ごうと試みる。

 そしてそれは、十秒以上も経ってようやく実を結んだ。

 

 

「李、李信―――ど、殿」

 

 

 李信。

 それが少年の名前なのだろう。

 不思議と華琳は、その名がストンっと心の奥に嵌りこむ様な錯覚を感じた。

 そんな少女の心の内のことなど知ったことかと、李信は足音もたてずに蹇碩と曹嵩の間に割って入ると視線だけを一度蹇碩へと向ける。

 

 

「ち、違う。違うんだ、李信殿。私は、私は何もしていない。い、いや……そ、そうだ!! 曹嵩殿を張譲殿のもとへと案内しようとしていたところなのだ!!」

 

 蹇碩は顔を引き攣らせ、必死に弁明するようにそう答えた。

 どの口でほざくか、と思わず口から出そうになった華琳であったが、寸でのところで発言を止める。

 何故ならば、既にこの場は自分のモノではない。李信の登場により、完全に場の支配を奪われた。幾ら言葉を紡ごうとも、それは意味を為すことは無いだろう。

 

  

「そうでしたか。有難うございます。では、後は私が案内いたしますので」

「そ、そうか!! では後はお任せするとしよう」

 

 完全に腰が引けた蹇碩とその従者は、何度も頷くと途中足が震えているのか躓きそうになりながら何とか李信達の前から姿を消していった。そんな彼らを見送った李信は、はぁっと溜息をつく。 

 

「ああ、面倒くせぇ。つーか、あんなあっさりと逃げるなよ」

 

 やけに乱雑になった言葉遣いでブツブツと呟く李信は、右手で頭を何度か掻き毟る。

 

「はははは。それは無理な話かと。李信殿を前にして。平静を保てる文官など私とて知りませぬぞ」

「いやいや。おっさんも十分普通にしてると思うけどな」

 

 苦笑する曹嵩の胸元を軽く拳の裏で小突く李信の態度に、再度驚かされたのは華琳だ。

 厳格で、寡黙な父が楽しげに笑顔を見せてまで話をしている。しかも、こんな親しげな対応を許す相手など、見たことが無い。年の離れた友人―――そんな関係が二人には相応しい。父が家族よりも信頼感を漂わせている李信を見る目に若干の嫉妬が混じるのも仕方の無いことだろう。

 

 

「文官でも化け物染みた奴らを何人か知ってるしな。いやむしろ―――ごまんといたぜ」

 

 

 ―――あの時代には、と。

 

 胸中でそう付け加えた李信の言葉に驚かされたのは、曹嵩と華琳だ。

 曹嵩は、李信の実力を知っている。実際にその目で見たことがあるからだ。

 張譲に紹介されてから二年ほどの付き合いだが、それでも彼の人外の如き能力の一端を窺い知ることが出来ていた。無論、李信のことを知っているのは曹嵩だけではない。先程の蹇碩の態度を見れば推測できるかもしれないが、十常侍の宦官たちも李信の底知れなさを知っている。

 

 十常侍全てが総じて小物だとは言わないが、それでも彼らの中にはそういった者達も数多い。先程の蹇碩が良い例だろう。

 だが、小物だからといって馬鹿にすべきではない。小物は小物なりに、鼻が利く。天変地異を嗅ぎ取る小動物のように、危険な存在と言うものに敏感なのはそれらであると断言しても構わない。

 

 つまりは、自ずと悟ってるわけだ。李信永政とだけは関わってはならない、と。

 

 勿論本来ならば大した地位にいるわけでもない李信を恐れる筈が無い。 

 十常侍でさえも彼と関わりあいになるのを避ける理由は、やはり彼が張譲の寵愛を受けているのが挙げられる。彼女が明言しているわけではないが、見ていれば誰であろうとも確信できるほどに李信を重用しているからだ。それなのに、李信はというと随分と淡白な反応をしているのが、哀愁を誘う。

 

 そしてもう一つの理由。

 それは、十常侍にとって李信が苦手な類の相手だからである。

 宦官として、国の権勢を牛耳ってきた彼らにとって謀略、策謀、姦計はお手の物だ。そういったことを得意とする者ならば十常侍にとっては相手取るには容易い。

 しかし、李信は違う。純粋なまでの暴の化身。ただ、そこに在るだけで人の心までも押し潰すことが可能な暴威。

 謀略を持って、李信を追い落とすことは容易いだろう。しかし、もしも、万が一にでも彼がそれを知って、襲撃してきたらどうか。結果は火を見るよりも明らか。十常侍など塵芥のように蹴散らされてそれで終わりだ。彼に対抗できる手駒など、今のところ彼らには存在すらしていないのだから。

 無論、彼が処罰を受け入れてそのまま宮中を去る可能性のほうが高い。だが、重ねて言うことになるが、万が一李信が反乱を起こした場合を考えればそんな手段を取ることは出来ない。

 

 地位や名誉も大事だが、結局のところ一番大事なのは自分達の命。

 僅かでも命の危険があるならば、その手段をとることなど出来はしないというのが十常侍の判断であった。

 

 

  

「それで、そっちの小さいのが?」

「はい。娘の―――」 

 

 華琳を紹介するべく曹嵩が口を開くものの、そんな彼を遮るように華琳が足を踏み出した。

 一切の気後れも無く李信の眼前に悠然と立つ姿は、父である曹嵩をして驚かされる。確かに優れた才を持つ子だとは考えていたが、随分と自分は娘を過小評価していたようだと認識を改めた。

 全力とは程遠いとはいえ李信を前にして、平常心を保つなど並の者ができようか。友として付き合いのある曹嵩でさえも難しい。少なくとも、彼が知る限りそんな傑物は、張譲しか知らなかった。

  

 

「御紹介に預かりました。お初にお目にかかります。姓を曹。名を操。字を―――孟徳と申します」

 

 睨みつけるように己の名を名乗る華琳に、李信は、ほぅっと思わず呟いていた。

 第六感。本能。勘―――様々な言葉はあれど、李信の直感を僅かに擽る圧力を感じさせる。

 

 面白いなっと口の中で消えていく言葉。

 聞いてはいたが随分と年若い。自分が初めて死線を潜った頃よりも若いか、或いは同じくらいだろうか。武人としても彼女の年齢にしては破格の腕前。かつての若き自分と戦えば負けるつもりはないが、それなりに良い勝負が出来るのではないかと具にもつかないことを考えてしまった。

 研ぎ澄まされた所作。武人としての力量。十常侍の悪意を押し返す心の強さ。肉体と精神の完璧な調和。

 それが、何故かわからないが、物悲しさを感じさせる。いや、本当はその理由はわかっていた。ただ、目を逸らしただだけだ。

 

 ドクンっと李信の心臓が強く胸を叩く。

 

 曹操孟徳と名乗った少女は。目の前にいる者は、人にあって人為らざる者。

 人の上に立つ事が定められた者。即ち、天が王と認めた者に他ならなかった。

 

 

 似ている。少しだけ似ている。

 本当に少しだけ、あいつに似ている。

 

 

「―――ああ、くそっ。未練、だな」

 

 李信の口から漏れ出るのは果てしない寂寥。

 友を残して逝ってしまったという悔恨。友に降りかかる災禍を砕く剣として、防ぐ盾として支えるという誓いを破ってしまった慙愧の念。

 自分が生きてさえいれば、友が狂うのを止めることができた筈だ。中華全ての憎悪と怨嗟を背負って戦い続け、ようやく統一した国を僅かな時で滅亡させることは無かった筈だ。自分達はそんなことの為に戦ってきたわけではない。病の身で逝ってしまった己がきっと全ての諸悪の根源だったのだろう。

 それが、ただただ、悲しい。ただただ、悔しい。ただただ、虚しい。

 

 

 張譲は言った。

 数年前に出会ったとき、自分は生きながらにして死んでいたと。

 

 それは違う。違うのだ。

 それは李信だ。その言葉が真の意味で相応しいのは李信永政という人間だ。

 

 

 

「―――生きることから逃げているのね、貴方」

 

 

 ぽつりっと華琳が呟いた。

 それは小さな声だった。しかし、強烈な言霊となって李信の耳朶を打つ。

 小娘にしか過ぎない華琳に、己の痛い部分を突かれたのだ。何を馬鹿なことを、と激昂するのが普通だろう。

 だが、李信はガシガシと頭を掻きながら小さな王を見つめ返す。

 

「そうだな。ああ、そうだ。自覚していなかったが、どうやらそうだったらしい」

「―――そう。それで貴方はこれからどうするの?」

 

 李信の返答に、華琳はキョトンっと怪訝な顔をして見せた。

 どうやら彼の返答が自分の想像とは随分と異なっていたようで、それに驚きを隠せなかったらしい。痛いところを突かれたことへの意趣返しができた李信は少しだけ満足感を覚え、華琳への返答を口に出す。

 

 

「そうだなぁ……今更。そう良く考えれば今更な話だった」

 

 

 カカカカっと少年らしからぬ笑い声を上げて、李信は空を仰ぐ。

 

 

「色々考えてくれる奴は今はもういないしな。なら決まってる―――俺は前に突き進むだけだ」

 

 ニヤリっとやけに男臭い笑みを口元に浮かべ、李信は両手を広げた。

 全てを掴み取るように、そしてそれを逃さぬように。

 

「また目指してみるかな、大将軍ってやつを」

 

 少年の頃から支え支えられた友はいない。

 愛し愛された妻達はいない。

 戦場を供に駆け抜けた部下達もいない。

 鎬を削りあった戦友もいない。

 命を奪い奪われあった強敵もいない。

 友と妻と部下と戦友と供に創りあげた国もない。

  

 何もかもが無い世界。

 何一つとして眩しいものが無いこの時代。

 

 だがそれでも俺は―――今を生きている。

 

  

「まぁ、あの世に行ったときの土産話くらいにはしてやらねぇとな」

 

 

 その刹那、それは起きた。

 ズズっと音を立てて李信から横溢するのは、言葉では表現できない何かであった。

 百を超える戦場を最前線にて駆け抜け、数多の強敵との戦いを潜り抜け、数十万単位の軍勢を率いて、戦国七雄と呼ばれる国を滅ぼしつくした悪鬼羅刹外道鬼人さえも進むことを躊躇うような修羅道を、友との約束を果たすために何の躊躇いもなく突き進んできた秦の大将軍。中華六将が一人。国家間の戦争が当たり前のように行われていた春秋戦国時代の最強に数えられる武将―――李信の本当の意味での覚醒であった。

 

 これまでの李信など子供同然。

 そこに在るだけで人を圧死させるに足る圧力を放つ文字通りの化け物が、嬉しそうに笑って華琳の眼前にいた。

 

「再認識させてくれた礼だ。俺に出来ることなら一つだけ叶えてやるよ」

 

 曹嵩ですら言葉を失う空間で、李信は腰を落とし華琳と目線の高さを合わせると意外なことにそう提案した。

 こんな圧が溢れる中で、齢十二にしか過ぎない子供になんと無茶なことを、と頬を引き攣らせながら叫ぼうとした曹嵩の予想は一人の英傑によって打ち砕かれる。

 

 

「―――ならば一つだけ」

 

 躊躇うことなく、華琳は李信へとはっきりと言い放った。

 

「私が覇を唱える為に。私が私の道を貫く為に―――」

 

 普段の自分とは思えない。己の感じるがままに、思うが侭に言葉を紡ぐことに驚きながらも止める事はない。

 

「―――私のものになりなさい。名も知らぬ天下無双の大将軍よ!!」

 

 理屈理由などどうでもいい。

 李信を従えるには自分の本気を示さなければならない。道理、道義、道徳、倫理、それら全てを捻じ曲げてでも成し遂げようとする気概。それを押し通すだけの覚悟を突きつける。

 烈火波濤の燃え上がる大瀑布の願いを示した華琳に、李信はカカカカっと本当に楽しそうに笑って、くしゃりっと彼女の髪を撫で上げた。

 

 そして、即座に放たれるデコピンが華琳の額を軽く打ち据えた。

 痛っと呻いた少女を尻目に、李信は背を向け宮中の廊下を歩き去っていく。

 

「十年早いぜ、曹孟徳」

 

 言葉とは裏腹に、彼の背中は期待に満ちている。

 曹操孟徳という未完の大器に、己を従えて見せろと、背中が語っていた。

 ヒラヒラと片手を振って立ち去った李信の背中を見送っていた華琳と曹嵩だったが、沈黙は長くは続かない。

 

 

「―――お父様」

「何だ、華琳」

 

 ぞっとするほどに、妖艶に。だが、童女のように愛らしく。

 曹操孟徳は妖しく笑う。

 

「あの御方の名前は何と仰るのでしょうか?」

「……姓は李。名は信。字は永政。張譲殿の懐刀と噂されている方だ」

「―――そうですか」

 

 

 唇に指を持っていき、カリっと強く噛み締める。

 蒼天の如き蒼い瞳が、李信という名の台風によって荒らされ潤んでいた。

 

 

「お父様。李永政殿は―――竜ですね」

 

 何を言っているんだ、我が娘は。

 まさか口に出すわけにもいかず、曹嵩は眉を顰めるが、肝心の華琳はそれを気にも留めずに李信が去っていった方角をじっと見つめている。

 

 中華に語られる神獣。

 超上の存在を示すその言葉。

 

「我ら人は地を歩むだけの存在。しかし、あの御方は遥かなる蒼天を行く。我ら人がそれを従えられる筈もない」

 

 ガリっと噛み締めていた指に歯が突き刺さり、やがて皮膚を食い破り浅くではあるが血が流れ出る。

 口内を満たす鉄臭い味わいを感じながら、それに気づいていなかった。

 

 

「でも、諦められない。では、どうすればいいのか? 答えは簡単なことです、お父様」

 

 凄絶な笑みを口元に浮かべ、華琳は嗤う。

 片手を真っ直ぐに掲げ、指をピンっと空に向かって指し示す。

 

 

「従えることは出来なくても、並び立つことは出来る。ならば―――」

 

 

 父である曹嵩でさえも肌が粟立ち、戦慄を隠せないほどに冷たく狂おしい想いを吐き出しながら、華琳は神聖な誓いをするように掲げていた手を強く握り締める。

 

 

 

 

「―――私も竜になればいいだけの話です」 

   

  

 

 

 

 乱世の覇王。

 曹操孟徳―――覚醒す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よいしょ。よいしょ」

 

 小柄な赤みがかった長い髪の少女が両手一杯に筵を持って歩いていた。

 それを見かけた中年の女性が、慈しむようにしてその少女に声を掛ける。

 

「あら、玄徳ちゃん。新しい筵できたの?」

「はい!! 今回は自信作なんですよ」

 

 にぱっと天真爛漫な笑顔で答える少女だったが、突如として女性から視線を逸らして明後日の方角を見上げる。

 尋常ならざる少女の様子に、中年の女性は心配そうに声を掛けるが、それに反応することはなかった。

 

 

「―――何だろう。胸がざわざわする。誰かが、呼んでる?」

 

 

 自分の胸に手を置いて、ぎゅっと鷲掴みにする少女は、ハァっと熱いため息をついた。

 

 

「わからない。苦しくて悲しくて―――でも、強い人」

 

 潤んだ瞳で遥かな蒼天を眺め、少女は首を傾げた。

 

 

「―――貴方は、誰?」

 

 

 仁徳の王、劉備玄徳。

 英雄は英雄を知る。

 だが、中華が彼女を知るまでにまだしばしの時を必要とする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 

「それでね。私は思うわけよ、母様」 

「そうね、雪蓮。私もそう思うわ」

 

 

 こんがりと健康的に焼けた肌が特徴的な少女と、その少女をそのまま大人にした雰囲気の女性が向かい合って談笑していた。

 その傍にはさらに小さな幼女が一人。仲むつまじく、暖かな雰囲気が部屋には流れている。

 

 しかし―――。

 

 

「ぅぅ……姉様」

「どうしたの、蓮華―――!?」

 

 ビクンっと少女と幼女が身体を震わせた。

 それに訝しげに眉を顰めた女性だったが、当の本人である二人は、ここではないどこか、遥かなる北方をじっと見つめている。

 一体何事かと気にはなるものの、娘達の普通ではない姿に声を掛けるのも憚れた。

 

 

「姉様……姉様……!!」

「なに、これ。わからない。でも、でもでもでも―――何なの、これは!!」

 

 

 江東の小覇王。

 小覇王の後継。

 

 南海に煌く二つの英雄もまた、乱世の覇王の覚醒に揺さぶられることとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 洛陽が中心の宮中。

 極一部の者しか入れないさらなる深奥。天子がすまうことを許された禁中。

 その禁中の深淵の彼方に、彼女はいた。

 

 無駄に広い室内。

 この世のあらゆる贅を集めて彩られた装飾。

 数人は横になれるベッドの上に片膝を立て、膝を抱きしめるようにして虚ろな瞳の少女が一人。

 入り口の傍らには侍女が二人。だが、その女性達は少女をこの部屋から出さないための見張りとも感じられる程に視線に人間味を帯びていなかった。

 

 

 ベッドの上に座っている少女。

 彼女は、何と表現すればいいのか。人に問えば、誰しもが答えに困るだろう。

 星の瞬くことのない夜天の如き黒髪が、腰元近くまで伸びているそれが、ベッド上に広がっている。

 高貴なる血筋と育ちによって醸し出されている雰囲気は、ある種の威厳を周囲に与えていた。ただベッドに座っているだけだというのに、風格と気品、佇まい、どれをとっても息を呑むほどの格を備えている。無論それだけではなく、少女の格に相応しい、美しい容姿であった。 

 張譲や曹操も十二分な美貌であったと断言できるが、この少女の美しさは少し方向性が違う。

 彼女達の美は、人を惹き付ける。即ち人間味に溢れたものである。

 しかし、この少女の容姿は非人間的なもの。神々しい天上の住人のようと言えば聞こえはいいが、まるで人形のように作り物めいた美しさ。何よりも彼女からは生きていると言う熱を感じない。ただ、生かされている。そんな印象しかうけなかった。

 

 ―――だが、美しい。

 

 生を拒絶しているが故の、妖しい魅力。

 生と死の狭間にたゆたう少女は、空っぽな漆黒の瞳でじっとここではないどこかを見つめている。

 

 

「……虚しい。ああ、空虚だ。全てが夢幻の如く」

 

 何の抑揚もない少女の言葉に、侍女達は反応をしない。

 

「何故、何故()は生きている。私は生きている。生きる意味などもはやありはしないというのに」

 

 聞くだけで身体中の力が抜けていく。

 崩れ落ちそうになる身体を必死に支える侍女のことなど認識せずに、少女は朗々と歌うように続ける。

 

 

「ここにはお前がいない。お前がいないんだ。何故いてくれないんだ。お前さえいれば、お前が支えてくれさえすれば、私は何もいらなかった」

 

 胸に穴が開いたかのような空虚感が、じわじわと侍女達を蝕んでいく。

 

 

「お前が、お前さえいてくれれば―――」

 

 

 己の命も相手の命も価値を見出していない少女は、切なげに虚空を見つめ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――会いたいな、信」

 

 

 

 

 友に語るように。

 恋人に語るように。

 

 少女―――劉弁は、混沌としたどろどろの感情を求めている名前にのせて吐き出した。

 

 

 

 

 

 

 


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