李信と少年が名乗った瞬間、不可思議な圧力が張譲達の勘違いだったと思わせるほど容易く霧散した。
空を覆っていた暗雲もまた、気がつけば彼方へと流れ去っており、見上げれば気持ちいい蒼空が見渡す限りに広がっている。
その青空の下、金縛りから解放された従者である老人は流れる水のように行動を開始した。
僅か一呼吸の間に、腰元の剣の柄を手で掴み、鞘から金属音を鳴らすことなく抜剣する。
抜いた剣を上段で静止させ、痛いほどに柄を両手で握り締め、威嚇するように大きく構える老人の姿は見る者の心胆を寒からしめるほどの圧力を放っていた。後一歩でも李信が此方に踏み込めば、容赦なく一刀両断するという無言の気概がピリピリと空気を伝染していく。
「―――やめろ、孟佗!!」
そんな―――孟佗と呼ばれた従者を止めたのは、他でもない張譲その人であった。
主を守ろうと決死の覚悟を示した彼でさえも、有無を言わさず従ってしまうほどの厳格な少女の一声であったが、しかしながら孟佗は上段に構えた剣を降ろそうとはしなかった。年老いていながらも彼の放つ圧力故に、その背中は大きく見える。
並みの者ならば立ち向かうことを諦めるであろう。腕の立つものであれば勝ち目の薄さを理解して逃げの一手を打つ筈だ。
しかし、孟佗の標的となっている李信は、その射殺さんばかりの視線と圧を気にも留めておらず、受け流している。
その姿や、柳に風。軽々といなす様は、既に消失しているとはいえ、先程までの尋常ならざる気配を感じていなかったとしても只者では無いと判断できるだろう。
ここにいる李信は、少年の姿をしただけの
孟佗がそう判断して主を守る為に剣を握っている行動は普通に考えれば決して間違いではない。
「二度は言わんぞ、孟佗。剣をおさめろ」
だが、不退転の決意を胸に抱いていた孟佗の意思を挫いたのは李信ではなく、主である張譲であった。
冷静沈着で傲岸不遜。魑魅魍魎の溢れる宮中で、未だ歳若いながらも十常侍の筆頭を務めるのは決して地位によるものだけではない。無論、先祖代々受け継いでいるその地位が関係していないとは言えないが、それでも海千山千の怪物達が数多居る宮中で、その名を轟かせているのは彼女の優れた能力も起因している。
生まれながらにしての上に立つ者の圧力。
問答無用で、理不尽なまでに人を屈服させる少女らしからぬ気配を纏う張譲に、漸く孟佗は小刻みに震える手で剣を鞘に納めた。
果たして彼が震える原因は、人とは思えぬ気配を醸し出していた李信へ対する恐れか。それとも王者の風格を漂わせている己の主たる張譲への畏れか。
孟佗は今はまだその答えを導き出すことが出来なかった。
そんな孟佗を尻目に、張譲は一歩一歩足を踏み出していく。
彼女の歩みには従者とは異なり、恐怖も畏怖も何も無い。歓喜で瞳を爛々とぎらつかせ、口角を吊り上げ肉食獣のような笑みを口元に湛えて李信へと近づいて行く。
それを止めようと孟佗は己の主へと手を伸ばそうとして、張譲は視線だけでその動きを止める。行き場をなくした彼は空中で手を止めて、力無くそれを下ろす。
この場にいるのは李信含めて三人の男女。
されど、互いに意識し、認識しあっているのは李信と張譲の二人のみ。ピリピリとした緊張感に溢れた空気がこの場を支配する。
その気になれば、剣を抜いて相手の首を落とすことが可能な一足一刀の間合い。
そこで足を止めた張譲は、普段の冷徹で無感情な瞳ではなく、自分よりも年下で小柄な李信へと熱く燃え滾った真紅に輝く眼差しを向ける。
「李永政、か。良き名だ。会って間もないが、その名は実にお前に相応しいと感じさせる」
「―――十常侍と呼ばれる張譲様にそう言って頂けるのは望外の喜び」
李信の台詞に、ピクリっと孟佗が眉を動かす。
まだ名乗っていないというのに、此方の―――張譲の名前を知っている。
或いは、張譲を亡き者にする為の他の宦官による罠ではないかという疑念が浮かび上がったものの、それは無いと孟佗はそれを振り払った。
目の前の李信を、宮中を支配している十常侍であったとしても従えることが出来るとは全く思えなかったからだ。権力云々の問題ではなく、極端な話、存在としての格が違いすぎている。
「くっくっく。なんだ、私の名前を知っているのか? 自己紹介の手間が省けたな」
「以前ですが一度だけ遠目に拝見したことがありましたので。それに洛陽に住まう者ならば貴女様を知らぬ者はいないのではと存じ上げます」
「―――そうか。そうかそうかそうか。下らん世辞は聞き飽きたと思っていたが、何故かお前の言葉は私の琴線に触れる。久しく感じたことが無かったぞ。これが嬉しいという気持ちか」
李信の聞こえの良い言葉に、珍しく―――本当に珍しく感情を剥き出しにして会話を続ける。
己以外全てが無価値無意味と断じていた張譲の姿に、従者は驚きを通り越してもはや主を止めようとする行動すら思いつかなかった。
「張譲様に申し上げます。此度は何故、このような場所に?」
「―――ああ、それだ」
天上の官位を戴く張譲へと、年齢にそぐわぬ礼を尽くしながら李信は静かに問い掛けた。
そんな彼の言葉を遮るように、張譲は何でもないような装いで言葉を紡ぐ。
「その薄気味悪い言葉遣いは止めろ。何故かわからんが鳥肌が立つ」
眉を顰め類稀な容貌を本当に嫌そうに歪めて、張譲は言葉を続ける。
「わかるんだよ。理解できるんだ。感じるぞ、李永政―――違うだろう? 本当のお前はそんな腑抜けでは無い筈だ。ここには私とお前の二人しかいないのだ。なればこそ、お前の真実を曝け出せ」
自分と李信の二人しかい居ないと断言した張譲に、内心で涙を流す孟陀。
「地位や年齢など気にするな。ここにいるのは、
仮にも漢の頂点にもっとも近き権力者の一人。
十常侍の筆頭ともあろう人物の言葉とは思えない。
「―――私は本当のお前が見たいんだ」
興味と関心を言葉に乗せて、張譲は己の欲望を隠そうともせずに舌を回す。
李信の発言を封殺するように間断なく言葉を繋いでいく彼女に対して、李信は何か考え込むようにして口を閉ざした。
闇色に近く、底知れぬ―――底が無い漆黒の瞳と燃え上がる真紅の瞳が交錯し、両者ともが沈黙を保つこと数十秒。
「……国の頂点に近い奴が、どこぞの馬の骨ともしれないガキにそんな対応をしてるのがばれたら拙いんじゃねぇのか?」
今の今までの礼を尽くした対応とは正反対。
ふぅっと嘆息までして、どこか呆れた雰囲気を身体中から発しながら、肩をすくめる李信。
急激に変化した雑な彼の言葉に、従者である孟陀は目を剥いた。だが、不思議とそれを咎めようという気持ちにはならない。何故ならばその口調、態度の方が余程李信にしっくりとくると思ってしまったからだ。
一方の張譲は、喜色満面。そんな言葉が相応しいほどに喜びがあふれ出し、顔中に広がっていく。
くっくっくっと抑え切れなかったのか、小さく低く笑い声をあげた。
「はははっ!! やはり良いな、お前は!! 例え私の許しがあろうとも、こうまで遠慮がない奴は初めてだ!!」
「……つーか、あんたが罪には問わないって言ったんだろう? まさか今更前言撤回するつもりじゃないだろうな?」
「くっはっはっは!! いや、道理だ。ああ、お前の言うとおりだ。そんなことをするつもりは毛頭ないぞ。いやはや、実に面白い」
放って置けば腹を抱えて笑い転げそうな様子の張譲へ、随分と冷めた視線を向ける李信だったが、その視線に気づきながらも彼女が笑いを抑えるのに暫しの時を必要とした。何がツボに嵌ったのか、それほどまでに張譲は感情を露にしていることに、遂には孟陀は現実逃避までしかける程である。だが、突如として彼女は笑うのを止めると、胸を張り真剣な眼差しで李信を見据えた。
「―――なぁ、永政。李永政よ。お前を知らぬものは、かく語る。宮中には宦官という名の魑魅魍魎が溢れている、とな。成る程、確かに私もそれには同感だった。腹立たしいことだが、保身と私腹を肥し果て無き欲望を胸に抱く点に関して、奴らは人外の名を冠するに相応しいだろう」
だが、と短く呟いて。
「重ねて言うが、それはお前を知らぬ者達の言葉にしか過ぎん。李永政よ、お前こそが真の意味で人を外れた人だ。比較することさえもおこがましい。秤にかけることも無駄と断じてやる。お前と比べれば総じてゴミだ。万象全てが塵芥と明言しよう」
まるで恋する乙女のように瞳を煌かせ、だが乙女というにはあまりにも狂暴で凶悪すぎる光をその瞳に宿し。
「ああ、なんだ。お前の人生、それは一体何なのだ。一体どんな道を歩めばそこまでの極地に達することが出来る? ああ、くそっ……眩しいぞ。暗すぎて、黒すぎて、私でさえもお前の底が覗きこめん」
煮え滾るように熱い空気をハァっと肺から搾り出し、張譲は狂気的でありながらも人を問答無用で惹き付ける危険な笑みを口元に浮かべて言葉を紡ぐ。そして、彼女の勢いそのままに一歩足を踏み出した。
「初めてだ。ああ、初めてだ。こんな気持ちはこれまでの生涯を通して一度としてなかった。そしてこれから先も絶対に無いと断言してやる。今ここが、決断の時。全てを別つ分水嶺というのが痛いほどに理解できる。だから、言おう。李永政―――いや李信!!」
ばさりっと豪勢な衣服をはためかせ、美貌を愉悦と期待の色に染め、傲岸不遜な眼差しで李信の全てを絡み取る。
さらに一歩李信へと近づく張譲。
「人では為し得ぬ道を歩んだ求道者よ。歳若き、稀代の異才よ。お前の抱えているモノが何かはわからん。だが私がそれを、お前の全てを背負ってやる。女も金も友も地位も名誉も―――
ある種の愛の告白にも似た熱烈な張譲の言葉は、止むことなく口から放たれ続ける。
そして遂には此方と彼方の距離は零となった。
「億千万の死と想いを背負う怪物よ。黒い乱世の化身よ。このままお前が、何も為さず朽ち果てるのはこの私が我慢ならん。それはあまりにも惜し過ぎる。ならばこそ、私とともに歩んでいけ。地獄の釜をともに開き、悪鬼羅刹を駆逐して、この国の未来を切り開こうぞ」
張譲の両手が、李信の両肩に置かれ痛いほどに握り締められる。
狂気と凶気が迸り、尋常ならざる鬼子母神にも似た重圧を背に背負い、それらは容赦なく李信へと降りかかった。
二人の瞳が、一体何度目になるかわからないが、再度交差する。
引力を持っているかのように、両者は視線を合わせたまま身動き一つしない。
二人の微動だにしない姿は、どこか荘厳で侵し難い空気に満ち溢れ、この光景を絵画の中へとそのまま落とし込めるのではないかと錯覚さえ覚えさせるほどであった。
互いに息も止めているのか、呼吸の音も聞こえない静寂の世界。
その世界に二人が居座っていたのは一体どれくらいの時間だったのだろうか。
十秒か。三十秒か。或いは数分も経っていたのかもしれない。
その空気を打ち破ったのは他でもない、李信であった。
「―――少し、あいつに似ているな。あんた」
彼の口から漏れ出た呟きは、意外なことに哀愁が混じったものであった。
どこか遣りきれないような悲哀を表情に浮かべる李信はとても少年とは思えない―――己や、或いは孟陀よりも歳を重ね疲れ果てたヒトの姿を張譲は見た。
更に言葉を紡ごうとした彼女の両手が空を切る。
確かに李信の肩を掴んでいた筈の両手がいつのまにか外されており、視界から姿を消していた。
たたらを踏むように前へと足を一歩踏み出して体勢を整えると、張譲は慌てて周囲をぐるりっと見渡す。すると一体全体どうやってかは不明だが、既に目的の少年の姿は李家の屋敷の方へと向かっていた。
その途中、孟陀の隣を素通りする際に、反射的に彼は剣を抜きそうになったが、それでもそれを実行することは無く終わる。主の命を守ったと言えば聞こえはいいが、抜かなかったのではなく、抜けなかった。それが正しい表現であった。
「李信―――!!」
声高らかに、未練を乗せて叫ぶ張譲を振り返ることなく李信は屋敷の中へと消えていく。
その後姿を追いかけようという気持ちは、張譲の心の中に微塵も湧かなかった。例え追ったとしても、今の彼を説得することは不可能だろう。そう彼女は確信していた。
―――今の私ではお前の主には相応しくないということか。
李信の背中が張譲の心の声を何よりも無言でありながら雄弁に認めていた。
それが悔しいとは思わない。事実、それを受け入れてしまっている己がいる。
様々な言葉を並び立てたが、それでは無駄なのだ。無理なのだ。
李信という名の何かを従えるには、言葉だけでは足りない。決定的に不足している。絶対的にその程度で幕下に加えられるはずが無い。
彼を手に入れるには、己のモノにするには、圧倒的な力が必要だ。決して揺るがない強固な意思が必要だ。
如何なる怨嗟も怨念も憎悪も何もかも、全てを背負ってなお歩み続ける不撓不屈の心が重要なのだ。
「―――いいだろう、李信。私の覚悟を見せてやる。お前と供に突き進む価値が私にあると認めさせてやる」
くはっと獰猛な笑みを浮かべて張譲は踵を返した。
主の姿に、凍り付いていた孟陀もまた、ようやく我を取り戻し彼女の背を追って走り出す。
全てに無関心だったが主とは思えない、全身を生きる気力に漲らせている張譲の姿に彼は疑問を覚えた。
あれだけ熱烈に誘った李信に袖にされたというのに、逆にそれをどこかで喜んでいるようにも見えたからだ。
「……なぁ、爺よ」
そんな孟陀の疑問を感じたのか、馬車へと向かいながら語り掛けてきた。
先程までの理解しがたい光景に、喉がひりついているのか碌な返事もできない孟陀を気にせずに張譲は続ける。
「李信が私の誘いを受けなかった理由。それが何か分かるか?」
孟陀は霞がかった意識を必死に働かせながら思考するも、その答えを元々期待していなかったのか、張譲は口を開く。
「足りていない。欠けている。気力が。意気が、意欲が。意思が。精神が。心胆が。心が。魂魄が。何が何でも己を通そうとする自分自身が」
ギシギシっと骨が鳴り響くほどに両の拳を強く握り締める。
「ああ、悔しいことだが認めねばなるまい。私は生きながらにして死んでいた。こんな世界に興味など微塵もなかった。何時死んでもいいとさえ思っていた。それでは、あの人為らざるモノを従える気骨など持てることがあろうか」
ドンっと己の胸を強く叩いて、ギリギリと歯を噛み締めた。
「故に、私は戦おう。己の全盛を賭けて。全力を持って私の為すべきことを為そう。それで死ぬのであれば、所詮私はそこまでだ。李信の主になる価値も資格もありはしない」
淡々と、だが触れれば焼ける甚大な熱量を持って張譲は歩みを止めない。
これまでの主とは雲泥の差。主が口に出したように魑魅魍魎溢れる洛陽の宮中においてさえも、並ぶ者がいないのではないかと思わせるほどの圧力を発している。
「私は生きよう。一切の無駄なく。全力で。全盛で。全開で。全生を持って!!」
足を止め、張譲は後ろを振り返る。
驚く孟陀を視界にも止めず、歯牙にもかけず、もはや見えなくなった李信の姿を脳裏に描き、老若男女を魅了する花も恥らう可憐な笑みを浮かべ。
「喜べ、爺。この張譲―――天命を知ったぞ!!」
この日この時この場所で。
そろそろ恋姫のキャラの登場です。