真・恋姫†無双 飛信譚   作:しるうぃっしゅ

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洛陽の章
第1話:李信


 

 

 

 

 

 シンシンと雪が降っている。

 時は紀元前二百二十年の冬。咸陽と言われる都市の一画に小さな屋敷。そこは咸陽に住む者ならば小さな子供であってもその主人は誰であるか知っているほどに有名な屋敷であった。

 

 主の名は李信。

 咸陽のみならず中華に帝政を敷いているこの国の大将軍の一人。

 その地位に反比例して、屋敷と同様に質素な生活をしている珍しい男として咸陽では好意的に知られている。

 

 その屋敷の一室に二人の男性の姿を見つけることが出来た。

 一人は布団をかぶって横になっている壮年の男だ。歳は外見だけでは判断し難い。白髪がところどころに混じった短いざんばらの黒髪。精悍な顔立ちで顔のいたるところに大小の古傷が見受けられ、彼の戦歴を雄弁に語っていたが、どこか身体を悪くしているのか若干表情が青白く見える。五十近くに見えるが、まだ三十程度にも見える不思議な容姿であった。

 

 もう一人は、布団の傍らで正座している男。

 その男性は布団に横になっている男とは正反対とも言えた。肩まで伸びた黒髪は、そこらの女性よりも美しく滑らか。まるで黒曜石を思わせるほどに照り輝き、顔立ちもまた男にしておくには惜しいほどに整っている。細い眉が、八の字に顰めているのは今の状況に苛立っているのは容易く読み取ることができた。膝の上に置かれた両の拳が皮膚に食い込むほどに強く握り締められ、キッときつく横一文字に唇もまた結ばれている。

 

 吐き出す息も白く、肌を刺すような冷たさにぶるりっと身体を震わせる。

 

 

「……身体の調子はどうだ、信?」

 

 

 外見からは全く想像できない男らしい声色で布団で横たわっている男―――李信に語りかけた。

 シンっと静まり返る室内の空気。静謐さを感じさせるそれを破ってしまったことに不安を覚えつつ、李信の返答を待つ。

 一分が経ち、二分が経ち、三分が経ち、李信が寝ているのではないかと考えるようになった頃、瞑っていた瞼がピクリっと微かに動く。やがてゆっくりと瞼が開き、李信の瞳が自分を心配そうに見下ろしている男の瞳と交錯する。

 

「……お久し、ぶりです、陛下」 

 

 様々な感情が入り混じった、だが嬉しさを隠し切れない李信の呟きに、陛下と呼ばれた男はぴくりっと眉を動かせる。

 

「宮中ならともかく、今ここには俺とお前しかいないんだ。何時もどおりにしろ」

「それは、命令ですかな?」

「……命令では、ない。俺の願いだ」

 

 どこか不満そうにそう語る男に、李信は仕方ないと言わんばかりに苦笑。

 

 

「……ああ、わかった。すまんな……からかっただけだ、政」

 

 

 そして李信は謝罪とともに、傍らにいる男の名前を口に出した。   

 その言葉に厳しい表情をしていた男性―――嬴政(えいせい)はようやく僅かにその表情を緩める。

 

 

 かつて中国には秦と呼ばれる大国があった。

 紀元前七百七十八年という気が遠くなるほどの古より存在する国。

 周とよばれた王朝の時代、そこからさらに春秋戦国時代を経て、中華を統一した最初の超大国家。

 それを為したのが、誰もが一度は耳にしたことがあるのではないか―――それが秦の王である嬴政(えいせい)と呼ばれる人物だ。

 

 数百年にも渡って戦乱の絶えなかった中華を統一するという覇業を成し遂げた彼は、三皇五帝を超えた存在として始皇帝と名乗ることとなった。どのような王も君主も超えた、唯一無二の存在と名乗ることに誰もが異論を挟む者はいなかったという。

 

 そんな彼には数多くの優秀な部下がいた。

 中華を統一するという大偉業を成し遂げたのだから、それは当然というべきだろう。

 文官武官、ともに歴史にも名を残す英雄英傑達。

 その中でも最も有名な者達をあげるとすれば、秦の中華六将を挙げるものが殆どではないだろうか。

 

 始皇帝を支える武の極限。

 戦国七雄とも謳われた、秦を除く斉楚燕韓魏趙を始皇帝の号令の下滅ぼした六人の大将軍。

 

 千里先を読むと言われた王翦。

 その息子であり、中華最強の槍使いと褒め称えられた王賁。

 

 中華最高の将軍と称された蒙武。

 その息子であり、癖の強い六将の仲を取り持ったとされる蒙恬。

 

 智に優れ、武に優れた秦軍最良の武将―――羌瘣(きょうかい)

  

 

 そして―――。

 

 武神とまで謳われた趙の龐煖(ほうけん)を打ち破った秦軍最強の戦神。

 その名を李信。

 

 

 彼ら彼女らを、人は最高の賛辞と怨嗟を込めて中華六将と呼ぶ。

 

 

 そんな六将の中でも李信と呼ばれた男は、どの書物にも特別であったと書き記されている。

 

 曰く、始皇帝に誰よりも信頼された男。

 

 始皇帝が皇帝どころか、傀儡の王として過ごしていた少年の頃より付き従っていた数少ない武官。

 各国の怨念を、怨嗟を一身に受ける始皇帝の眼前で、全てを切り払い防ぎきった最強の矛にして、無敵の盾。

 矛盾という言葉を成立させてしまった文字通り最強の人を超えた人。

 

 始皇帝の李信への信頼は、それこそ周囲の人間に不安を覚えさせるほどであったという。

 妻や妾はおろか、その子供達さえも二の次であり、(まつりごと)において私を挟まない始皇帝の唯一の欠点をあげるとすればそれであったともいえた。 

 

 また、始皇帝からの一方的な信頼ではない。

 李信としても、公の場では臣下としての礼は崩さないが、二人っきり―――もしくは極親しいものだけの場においては友として始皇帝に接する。周囲の者達からしてみれば正気の沙汰ではないが、李信にはそれが許されているのだ。   

 

 二人の信頼は尋常ではなく、この咸陽に李信の屋敷があることもまたその証明の一つとも言える。

 李信とその妻である羌瘣を除き、中華六将の誰もが与えられた領地にいるというのに、彼だけは皇帝の御膝元である咸陽に在中することを許される。

 

 まだ少年だったころからの友人である二人の友情は、決して切れることなく今このときまで続いていた。

 

   

「……最近は、かなり調子がいいぜ」

「そうか。それは……良かった」

 

 

 調子が良い、と語る李信に政は静かに頷いた。

 だが、それが自分に気を使った嘘であることは承知している。

 中華一の名医に診てもらっているが、もはや李信はいつ逝ってもおかしくはないほどに身体が病魔に蝕まれているのだ。いくつもの死病を体内に抱えており、普通ならばとっくの昔に命を落としている。医者でさえも匙をなげるほどの病状でありながら生き長らえているのはひとえに意志の力。生きたい、と願った李信の精神力のみで余命を伸ばし続けている。詳しい病状をを本人に話してはいないが、きっと気づいているだろう。気づいていながら、身体の痛みを一度として口に出さない。李信らしいといえば李信らしいのだが、今はそれが少しだけ口惜しい。

 

「……徐福から連絡があった。蓬莱山への手がかりを見つけた、とな。もう少し経てば長生不老の霊薬が手に入る。そうすればお前の身体も良くなる」

「……まさか、お前が……方士なんて、妖しい奴らの手を借りる、なんてな」

「何を言う。あの武神を屠ったお前は、俺からして見ればそう変わらん」

「……かかかか。違いない」

 

 政の発言に、李信は力無く笑う。

 言われて見れば確かにそうだろう。何せ李信の歩いてきた道は生半可なものではない。

 勝ち戦、負け戦問わず、常に戦場の最前線で矛を振るい、戦い続けてきた。しかも、武神と名乗った龐煖をも打ち破った彼は、もはや人と言う枠組みに当てはめていいのかどうかも不明である。

 

 

「……それにしても、良くここまで、辿り着けたもんだ」

「ああ、そうだな。だが、中華を統一したが安定したとは言えん。お前にもこれからまだまだ働いてもらうぞ?」

 

 確かに政は始皇帝と名乗り、秦は全ての国を呑み込んだ。 

 だが、彼の目指す理想はまだ成し遂げられていない。長い戦乱によって、民は傷つき疲弊している。

 まだ道半ば―――それが彼の本心であった。  

  

「……病人に、無茶を言う。だが、そう言ってくれたのは、お前だけだ」

「―――そうか」

 

 

 李信の台詞に政は言葉少なく頷く。

 病から床に臥せっている李信は、多くの者に見舞われた。

 多くの者に恨まれ憎まれていると同時に、大将軍として前線で戦い続けた彼はそれ以上に尊敬され、慕われている。それこそ、この小さな屋敷を見舞う者は毎日後を絶たない。

 そんな者たちは、李信を気遣ってか、こう言うのだ。

 

 ―――後は自分たちに任せて欲しい。

 ―――今まで戦い続けてきたのだから、ゆっくりと過ごせばいい。

 

 誰もが李信のことを想ってそれを口に出す。

 それこそ、まだまだ働かせるなどということを言うのは始皇帝たる政くらいだろう。

 

 だが、李信にとって政の言葉こそ何よりも嬉しい。

 彼は、李信という男は骨の髄まで戦人である。

 年端もいかない子供の頃より剣の修練を友と行い、縁あって政と出会い戦乱に身を投じた。

 そこからは怒涛の人生。戦場に身を置き続け、下僕の身から遂には中華六将とまで呼ばれる地位にまで上り詰めた。

 戦を愛し、戦に魅入られ―――それでも、政の唯一の支柱として戦い続けたからこそこのまま病床にて死ぬのだけは耐えられない。

 政の剣であり、盾である自分がいる意味は、価値は戦場にこそあるのだから。

 

 

「……任せろ。必ず、必ず俺は……この病を克服して、みせる」

「お前は何時も、どんな状況においても俺の期待に応えてくれた。だからこそ、今度も応えて見せてくれ」

「―――ああ」

 

 こくりと力強く首を縦に振る李信。

 ギラギラ輝かせるその瞳の強さに、政は一瞬とはいえ見惚れた。

 獣のように獰猛で、だがどこか暖かな光を宿した漆黒の瞳。 

 それがとてつもなく愛おしく、美しい。

 

 今思い返せば、普通ではない出会いだった。

 一国の若王と下僕の少年。

 本来ならば一生縁の無い、決して交わらぬ道を行くもの同士。

 それがどんな奇縁か、出会い友となり、始皇帝と名乗る自分が唯一気を許せる相手―――それが李信。

 各国を滅ぼした己へ向けられる憎悪、怨念、怨嗟は尋常ではない。常人ならば一日もこの罪科に耐え切れず気が狂うであろう。

 それに耐え、こうしてここにいることが出来るのは間違いなく李信のおかげである。

 彼がいなければ、とっくの昔に自分は正気を保つことができなかっただろう。いや、そもそも、王弟の反乱の時に全ては終わっていた筈だ。

 

 今自分がここにいるのは、全てが李信のおかげというつもりはない。

 政のために、多くの人間が命を賭けた。彼の道を照らすために必死に宮中、戦場問わず戦ってくれたのだ。

 それは認めねばなるまい。だが、それでも政にとってもっとも大切なのは、重要なのは―――友である李信であった。

 

「……なんだ、じっと見て」

 

 叫びだしたいほどの激痛に苛まされているだろうに、それを微塵も見せない李信に政は首を横に振った。

 

「なんでもない。強いて言うならば、相変わらず変な顔だと思っただけだ」

「……くそっ。誰もが、お前みたいな美形じゃ、ないんだよ」

 

 ふっと鼻で笑った政に、李信が口を尖らせて抗議する。

 ここで弁解しておくが、決して李信は不細工というわけではない。

 男臭い容貌というのは否定できないが、それでも宮中でもそれなりに人気を博すほどのものである。

 

「ああ。まぁ、見ていて飽きないからな、お前は。それは羨ましい」

「……上から、目線な奴だ」

「始皇帝と名乗っているんだ、当然だろう? それに―――お前の顔は嫌いじゃない」

 

 優しげな眼差しで政は、李信をじっと見つめ。

 

 

「―――俺が女だったら、お前に惚れていたよ」

「……気持ち、悪い奴だ」

 

 政の言葉に、李信は苦笑で返す。

 そして天井を向くように体勢を変えると、瞼を閉じる。

 

「……わりぃな。少し、疲れた」

「いや。こちらこそ長居しすぎた。今はしっかりと養生しておけ」

「ああ。また、暇な時間を見つけて、来てくれ」

 

 仮にも政は皇帝なのだ。

 暇な時間などあるわけがない。

 

「……近いうちに必ず来よう」

 

 それは口約束ではない。

 如何なる手段、方法を使ってでも政は見舞いに来るだろう。

 それを本来なら李信とて止めるべきなのだろうが、政がくることを嬉しく思っているのも事実。それ故に政が見舞いに来ることを止める言葉は口に出さなかった。

  

 政は寝入った李信を起こさないように静かに部屋からでると、屋敷の者達に見送られ外に出る。

 門の傍には豪勢な馬車が止まっており、政よりも幾分か年上の初老に差しかかる年齢の老人が礼をして出迎えていた。

 

 

「李斯か。徐福から連絡は?」

「……ありません。恐らくは、彼の者は逃亡したのではないか、と」

「そうか」

 

 政の短い答えを疑問に思った李斯は、下げていた頭をあげて表情を窺うように盗み見る。

 そして、それを後悔した。

 

 思わず悲鳴をあげそうになるのを必死に堪え、再び頭をさげる。

 ガチガチと歯が音を立て、身体の芯からくる震えを止められない。

 全身を襲う怖気が、心の臓を握りつぶさんと言わんばかりの圧迫感で押さえつけてくる。

 かつての主であった呂不韋も並々ならぬ傑物であったと思うが、始皇帝はそれの比ではない。人外の化け物の如き恐ろしさ、果てしない重圧が立っているだけの政から迸っていた。

 

 陸に打ち上げられた魚のように呼吸が出来ない。

 圧倒的。絶対的。まさしく、三皇五帝を超えた始皇帝の名に負けない化け物が徐福という愚物に憎悪を向けていた。

 

「中華全土から徐福の親類縁者を探し出せ」

「は、はい」

「少しでも奴と関わりを持った者も例外ではない。隣に住んでいた者。商売に関わった者。そういった者も連れて来い」

「あ、あの……そ、それは……如何、するおつもりで?」

「極刑だ。例外なく、斬刑に処する」

「―――御、意」 

 

 李斯は、つまりながらもそう答えた。

 今の政には反論は許さない凄みが合った。いや、仮にここで反論をしていれば、政の燃え上がるような憎悪は自分にも向くかもしれない。

 元々が徐福への蓬莱山を探すと言う世迷言への援助は、全てが李信の病をなんとか完治させようという藁にも縋る想いの為に許可したのだ。

 それを裏切られたとなれば、今の始皇帝の様子も頷ける。

 馬車に乗り、去っていった始皇帝を見送りながら、李斯は数分の間恐怖で頭を上げることが出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから二ヵ月後。

 李信は遂に再び戦場に立つことなく病のままその一生を終えた。

 

 それを知った始皇帝の嘆きようは、見ている者が涙するほどであったとも言われている。

 歴史家は語る。

 もし。もしも李信が生きていれば、秦はもっと長い期間中華を統治することができたのではないか、と。

 

 

 

 そして、李信が逝って間もなく、始皇帝もまた病気によって命を落とした。

 それが皮肉にも新たな戦国の世の到来を告げる鐘の音となる。

 

 

 

 

 

 巡る。巡る。時代は巡る。

 

 

 

 

 戦乱は英雄を生む。

 漢の高祖、劉邦。西楚の覇王、項羽。

 争い、戦い、そして新たな王朝―――漢の成立。

 

 

 

 

 

 廻る。廻る。世界は廻る。

 

 

 

 

 漢の腐敗。

 前漢の滅亡。

 英雄、光武帝による後漢の再興。

 

 

 

 

 

 そして―――さらに時は流れ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 漢の首都洛陽。

 その隅にある、巨大な屋敷。そこのとある部屋に、二人の男女がいた。

 女性は寝台に横になりながら、産まれて間もない赤ん坊を胸に抱いている男性を優しげに見つめている。 

 二人は夫婦であり、結婚してから恵まれていなかった子宝をようやく授かったところであった。

 

 

「ああ、うん。可愛いなぁ、赤ん坊っていうのは」

「ふふっ」

 

 頬を緩ませて赤ん坊を優しく抱いている夫に、思わず微笑が漏れる。

 そんな妻の姿にも気づかず、男は自分の子供に夢中であった。

 

「……そういえば、あなた。その子の名前は決まったのですか?」

 

 赤ん坊に集中していた夫に、女性は思い出したように問い掛けた。

 その質問に、男性は顔を妻へと向け、こくりっと小さく頷く。

 

「悩んだけどね、流石に決まったよ」

「あら。どんな名前に?」

 

 初めての子供と言うことで、夫が名前を考えるのに悩んでいたことは知っている。

 先日まで決まっていなったはずだが、優柔不断な彼が決めたことに若干驚いた。 

 

 

「うん。我ながらいい名前だと思うけどね。この子の名前は―――」

 

 

 すっと息を深く吸い、男はゆっくりと確かな口調で―――。

 

 

 

 

「―――信。この子の名前は李信」

「李信、ですか。良き名かと思います」

 

 

 夫婦は、胸に抱いている赤ん坊―――李信の顔を覗き込むようにして微笑んで。

 

 

「強く優しく生きてくださいね、信」

 

 

 

 

 それに答えるように、李信はおぎゃぁっと小さく泣き声をあげた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  


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