神水戦姫の妖精譚(スフィアドールのバトルログ)   作:きゃら める

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第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第一章 2

 

 

          * 2 *

 

 

 ――こういうときの作法はどこで身につくのだろう。

 そんなことを考えてしまうくらい優雅な動きで、芋の煮っ転がしを口に運ぶ平泉夫人を、彰次(あきつぐ)は少しボォッとしながら見つめていた。

 執務室に運び込まれた食事用の小さめのテーブルを挟んで向かい合い、彰次はちょうど夕食時だったために振る舞われた和食を、できるだけ行儀良く食べる。

 味つけは薄めで、決して好みではない。

 ジャンクフードも好んで食べる彰次にとって物足りなさを感じる味つけで、和食であることもあって夫人が食べるには鮮やかさが足りない気もしたが、小鉢を含めて六種類の料理はどれも美味しく、ヘタな料亭の味よりも上品だった。

 ――アヤノじゃここまでの味は出せないな。

 彰次の自宅で家事全般を担っているアヤノは、フルコントロールシステムであるAHSの実験版で稼働している。AHSには料理の機能はすでに実装済みだが、レシピ通りにしかつくれない。

 主人の好みに合わせたアレンジも機能としては試験していたが、スメルセンサーを搭載したエルフドールで主人が好む味を学習させても、完成する料理の失敗率が飛んでもないことになるので、機能から除外してあった。

 何度も食べることになった味つけに失敗した料理の数々のことは、あまり思い出したくはない。

 ――リーリエにやらせてみたら、マシなものをつくれそうだがな。

 AHSの稼働に関わる情報には、かなりの割合でリーリエの稼働によって得られる人工個性のデータを分析、整理して入れている。

 AHSではいまのところ上手くいかないが、情報の大本であり、脳が仮想なだけでひとつの個性といって差し支えのないリーリエなら、相手の好みに合わせた料理をつくることくらいできそうだ、なんてことを彰次は考えていた。

 そんな半ば現実逃避の考えに没頭しているのは、平泉夫人とふたりで食事をすることになったからではない。

 夫人の後ろに立ち、相変わらずの無表情で、ともすると威圧してきているようにも思える、芳野(よしの)のことが気になっているからだった。

 この美味しい食事は芳野がつくっただろうに、彼女はいつも通りの白いエプロンと地味なワンピースのメイドのような服を着、ほとんど身動きもせずに夫人の後ろに控えている。

 あまり細かいことは気にしない彰次だが、さすがに会話もなく食事を続けていると、気になって仕方がなかった。

 そんな彰次に気づいたのか、口元に笑みを浮かべた夫人が言う。

「芳野のことなら気にしないでちょうだい。人前で食事するのは苦手なのよ。――トラウマの一種ね。植えつけられてからはずいぶん経つのだけれど、そういうものはどうにもならないものだから」

「……そうですか。わかりました」

 箸を止めて言う夫人に、理解の言葉を返す彰次だが、気になるのは止められない。

 彰次の方を見つつも、ひと言も喋らない芳野の視線から逃れたくなってしまう。

 彼女の生まれ育った家があまりよくないところだったという話は、噂程度には聞いたことがあった。直接夫人の口からそのことについて触れる発言を聞いたのは、今回が初めてだったが。

「そんなことよりも、味の方はどうだったかしら?」

 何か含むものを感じるが、それが何だかわからない笑みを浮かべる夫人に問われ、食べ終えて空になってる皿を見る。

「美味しかったです、かなり。家にいるときは試験を兼ねてエルフドールに食事をつくらせていますが、それとは比べものにならないくらいに」

「そう、それはよかった。芳野は完璧主義なところがあるけれど、料理の腕は文句のつけようもないくらいですものね。彼女がいてくれれば、他に料理人を雇うのも莫迦らしくなるくらいよ」

「そうかも知れませんね」

 同意して頷く彰次だったが、そもそも食事時に呼びつけなくてもいいじゃないか、と思っていた。

 休日の今日、彰次が平泉夫人の家に来ているのは、時間指定で呼びつけられたからだった。

 呼びつけた理由自体はわかっているが、時間まで指定されたのは、夫人に別の用事があったわけでもない様子で、よくわからなかった。

「ともあれ、本題に入ろうかしら」

 ナプキンで口元を拭いた夫人が、表情を引き締めて言った。

 芳野が食器を下げ、コーヒーカップだけが乗っているテーブルで彰次は彼女と向かい合う。

 小さくため息を吐いた彰次は、持ってきていた鞄からスレート端末を二枚取り出し、片方を平泉夫人に手渡した。

「はっきり言って、クリーブの反応は芳しくありません」

 スレート端末に表示しているのは、発表前からいままでの、クリーブに関する反応についての報告だった。

 出資者や外部の関係者向けの報告書はすでに速報版として送信済みだったが、夫人から直接会って話を聞きたいと連絡があり、互いに時間の都合が合う休日にこうして屋敷を訪れている。

 発表から二週間が経ち、初期の動向は出揃った感じがあった。

 クリーブへの反応は、芳しいものとは言えなかった。悪いとすら言えるほどに。

 発表会見の時点でそれは予想できていたことだったが、自分なりに力を入れて開発に取り組んでいただけに、彰次にとってはショックのある状況だった。

「あらかじめの予測通り、これまでスフィアを使いたくても使えなかった、非人間型の精密動作ロボットを扱う企業や研究所、大学関係からの問い合わせはちらほらとあります。海外からも多いとは言えませんが問い合わせが寄せられています」

 社外向けの資料とは違い、見せるだけならともかく、社外の人間の元に保存しておくことは認められていない詳細な報告書には、事前に渡したもの以上に厳しい現実が数字として記載されている。

 それを見ても口元に薄い笑みを消すことのない平泉夫人をちらりと見てから、眼鏡型スマートギアの蔓を指で押し上げた彰次は報告を続ける。

「問い合わせや購入希望の連絡の数を見ていただければわかる通り、現状ではサンプル分の生産で充分足りてしまうほどで、本格生産の目処はいまのところ立っていません。正直、出資者の方々に還元できるような成果は、今後しばらく出ないだろうというのが社内での評価です」

 クリーブの開発にかかった費用の大半は、平泉夫人が出していると言っても過言ではない。

 元々HPT社の開発費を使って基礎的なところはできていたと言っても、生産を見据えた本格的な開発にかかった費用は相当の金額となっている。

 出資の際は夫人が持っている会社を通しているが、個人資産と言えるその出資金は、先端業界で活躍する資産家の中でも上位に位置する平泉夫人であっても、屋台骨に歪みが出てもおかしくないほどだったはずだ。

 それに対する還元がゼロであるとはっきり告げてもなお、彼女の笑みが消えることはない。

 それを不審に思いつつも、彰次は夫人に問う。

「やはり発表は半年遅らせた方が良かったのでは? 現状では価格や汎用性というメリットに対して、性能や消費電力というデメリットが大き過ぎます。半年あれば、並ぶことはできなくてもスフィアに対してもう少しマシな競争力をつけられたはずです」

 半年後には実現可能なことで、実現すればまた発表を行うものであるが、最初の発表のインパクトに比べ、改良に関する発表はどうしても反応が薄い。

 最初のインパクトを強くするためには、いま発表するより競争力のついた半年後の方が良かったのではないかと、発表会を行うことが決定した時点から彰次は考えていた。

「半年後では、第六世代のスフィアの普及が始まって、第六世代のパーツも出揃っている頃でしょう。いま以上に話題にならないわ」

「それは……、そうかも知れませんが」

「様々な事柄のバランスを考えたら、いまが最適で、いましかなかったのよ」

 確かにスフィアに対抗する商品であるクリーブは、発表が早ければ早いほど利点があるのも確かだ。

 しかしながら、彰次はクリーブの製品寿命は二年であると考えていた。

 正確には二年後、大きな分岐点を迎える。

 二年後にあるのは、第七世代のスフィアの発表。

 第六世代も正式に発表されていない段階で気が早いとも言えるが、二年後にはクリーブはスフィアによって駆逐されてしまう。

 クリーブの最大とも言えるメリットは、組み込む機械に制限がないこと。

 人型か、動物型に制限されているスフィアと違い、車両や航空機の姿勢制御、生産工場や特殊地域活動ロボットのアームのコントロールなど、用途は多岐に渡る。

 スフィアにも求められ続け、実現していなかったことをクリーブは実現している。

 しかしそれも、おそらく二年後に発表される第七世代スフィアでは制限が撤廃されると噂されており、実際そうなるだろう。

 業界関係者の誰もがそうなることを予定として組み込み、いまから動き出していたし、SR社も否定はしていない。

 最大のメリットが失われることで、製品としての寿命が尽きるか、業界に定着して存続し続けられるか、二年後がその分岐点になるはずだった。

 残った時間を考えれば、半年後などと悠長なことを言っていられないのも、彰次にはわかっていた。

 それでもあともう少し、スフィアに対する存在感を示せるところまでできなかったのか、と思ってしまうのは、彰次が商売人ではなく技術屋だからだろうか。

 漏れそうになるため息を奥歯で噛み砕き、眼鏡型スマートギアの位置を指で直す彰次は、そんなこととは別に気になっていることについて考えていた。

「平泉夫人。つかぬことをお伺いしますが……」

「何かしら?」

 問うべきかどうするか一瞬だけ悩んで、微笑みを浮かべている夫人の瞳を見据えた彰次は言葉を続ける。

「クリーブの発表は、その、魔女に対する貴女なりの攻撃ですか?」

「えぇ、その通りよ」

 溜めもためらいもなく即答した平泉夫人は、テーブルに手を伸ばして澄ました顔でコーヒーを飲む。

「なんでまたあいつに手を出そうとするんです。魔女が危険な存在であることは、夫人にもわかっていることでしょう?」

 スフィアドール業界にいる人間は、大なり小なり何かが意図的に業界の流れをコントロールしていることに気づいている。

 魔女の存在を知る彰次は、それがどれほど根が深く、広範囲で、凄まじい影響力であるかを、日々肌で感じている。

 そして直接会い、話したことがある魔女は、業界で感じている恐ろしさよりも底昏い存在であることを、彰次は知っている。

 おそらくまだ一度も直接魔女と対面したことがないだろう平泉夫人にはわからないことかも知れない。しかし彰次には、触れるべきではない存在であると、充分以上に理解できていた。

 ――魔女には触れるべきじゃない。それが幸せに生きるコツだ。

 一年近く前に克樹に言ったその言葉は、彰次にとって翻すことのできないこととして、肝に銘じている。

 やはり笑みを浮かべたままの夫人に、眉根にシワを寄せた彰次は訴える。

「魔女には触れるべきじゃない。奴は魔法なんて使わなくても底知れない、恐ろしい存在だ。いまからでも奴に対する攻撃なんてやめるべきだ」

 年上で、尊敬できる人で、自分にとっても会社にとっても世話になっているという立場をかなぐり捨てて、彰次は必死に言う。

 しかしそれでも、平泉夫人の笑みは崩れない。

 微かに表情を険しくした背後に控える芳野にも見つめられながら、夫人は彰次の訴えに応えて言った。

「これは必要なことなのよ。私にとっても、そしておそらく、すべての人間にとっても」

 いくらなんでも規模が大きすぎるように思えるが、魔女の底知れなさと、夫人の揺るがない表情が、大げさではないように思わせた。

 ――克樹の奴も、関わり続けていたな。

 仕事が忙しくてあまり構ってやれていないが、克樹もまた魔女に何らかの形で関わり続けていることには気づいていた。

 以前出されたデータでは、それが真実であるなら、まるでファンタジー小説の中でありそうなことが起こっていることになる。

 ――正気の沙汰じゃないな。

 登場人物のひとりが魔女なのだから、ファンタジックな出来事が起こっていても不思議じゃないのかも知れない。けれど現実に起こっているのだとしたら、正気を疑うには充分なことだった。

 まだデータがねつ造で、資産とカリスマ性で世界を裏から牛耳る女が暗躍しているという状況の方が、フィクション染みているが受け入れられそうに思えた。

「けれどおそらく、クリーブではあの人に毛ほどのダメージを与えられないでしょうね」

「だったら何故っ」

 表情を崩さず、澄まし顔のままで言う平泉夫人に、彰次は思わず食いついていた。

 危険だと知りながら必要だと言って攻撃を開始し、しかしその攻撃には効果がないと言う。

 ――そんなのは、奴の逆鱗に触れに行くようなものだ!

 思わず腰を浮かせて睨みつけてしまっても、夫人は平静を保ったままだ。彰次の反応も想定していたかのように。

 新しいコーヒーを注ぎに来てくれた芳野に、彰次は椅子に座り直す。ひと口カップを傾けて、気持ちを落ち着かせた。

 そんな芳野をちらりと横目で見て、それから彰次に唇の端を歪めて微笑んで見せる夫人は言う。

「貴方の心配も、その範囲もわかるけれど、攻撃の効果は決してあの人自身にある必要はないのよ」

「……どういうことです?」

「あの人にとって想定の範囲内で、今後の計画に支障のないものだと判断できても、あの人の回りにいる人たちにとってもそうとは限らないのよ」

「ん?」

「広く強い影響力を持つということはそういうこと。それを基盤にしている以上、あの人は逆に基盤の揺らぎに影響を受けることもあるのよ」

 それまで穏やかだった瞳に攻撃的な色を浮かべた夫人に、彰次は思わず息を飲んでいた。

 ――俺なんかが見える範囲じゃねぇな。

 製品や技術の発表によって、単純にその発表に直接関係する事柄以外に影響が出るのは理解できる。ユーザーや市場に波のように伝わるその効果は、時には一回の発表で多くの国を動かす熱となり得ることもある。

 商品の売り上げや技術の普及には、そうした波及効果もある程度考慮に入れて宣伝を打ったりするのは普通のことだ。

 しかし平泉夫人の見ている範囲は、魔女のその向こう側。

 夫人自身には見えているのかも知れないが、彰次には想定するのも難しい範囲にまで達しているように思えた。

「クリーブは現在の予定では今後三年、開発を継続していく予定です。その後については、市場の動向次第というところですが、三年経たずとも第七世代スフィアの発表を機に、計画の再検討がされると社内では決まっています」

 小さくため息を漏らした後、彰次はそう夫人に告げた。

 開発予定の情報は、社内でもごく一部の人間の間での決定事項だが、夫人に対しては隠すわけにも行かなかった。

 HPT社の大口出資者のひとりだからというだけでなく、モルガーナと敵対し、クリーブを武器として扱う人という意味でも。

「例え出資などで予算が充分に確保できていたも、三年の間に市場に定着できていないと判断された場合はクリーブの開発は終了し、生産も順次終了となります」

 スフィアという市場そのものを産み出し、ロボット業界すべてを席巻しそうな巨大な存在がいる中で、元々クリーブの扱いは社内でも決して良好とは言えない。

 彰次が入社した頃は町工場よりも少しマシな程度の事務所兼工場で、スフィアドールやそれ以外のロボットの部品を細々とつくっていたアットホームな雰囲気のHPT社は、スフィアドールの普及とともに巨大と言えるサイズになった。

 二〇年にも満たない歴史しか持たない会社の中では、いまや予算争いや派閥争いが発生するほどになっている。

 できれば関わり合いになりたくはなかったが、彰次も否応なしにその争いに巻き込まれているし、クリーブの失敗を待ち望んでいる者も社内にいるのは知っていた。

 ――本当、下らねぇがな。

 つまらないと言って切って捨てたいが、そうも行かずに三年で区切られたクリーブの開発期間。

 その短い間にそれなりの結果を出せる自信はあったが、出せたものが市場に受け入れられるかどうかはまた別の話でもあった。

 眉根にシワを刻みたくなるのをどうにか堪えて夫人の顔を見ると、彼女は優しげな、余裕を漂わせる笑みを浮かべていた。

「三年も待たずとも、クリーブの存在意義は出てきますよ、音山技術開発部長」

 そんなことを言う平泉夫人の自信の裏付けを、彰次は想像することすらできなかった。

「おそらく来年の春には、早ければ年内にはそういうことになるんじゃないかしら?」

「信じられない……。いったい何を根拠に?」

 予想とは明らかに次元の違うその言葉に、彰次は信じる信じないの前に、現実から遊離した夢を語っているようにしか思えなかった。

 険しくなるのを止められない視線で見つめても、夫人が漂わせる余裕が薄れることはない。

「勘、というのが本当のところかしらね。いえ、少し違うかしら? まだ乗り越えなければならないことはあるのだけれど、クリーブがあの人の周囲に波紋を投げかけられたのだとしたら、そう遠くないうちにその効果が何らかの形で見えてくるはずなのよ」

 口元にいたずらな笑みを浮かべる夫人の瞳には、不確かな夢を見ているのとも違う、疑いの欠片もない自信が浮かんでいるのが見えた。

 ――この人はいったいどんなものを見て生きているんだ?

 投資家としてだけでなく、広いとは言えなくても彼女が世界を動かしているのだと、彰次には感じられた。

 ――それに、おそらく夫人は克樹たちがやってることも知っている。

 克樹と夫人がどの程度関係が深いかは、彰次も把握していない。

 しかしモルガーナと敵対するようになったのは、夫人自身にも理由があるような気がしていたが、そのきっかけをつくったのは克樹であるように思えていた。

 克樹と平泉夫人がモルガーナを倒そうとしているのはわかる。

 だがそうしなければならない理由がまったく見えない。

 ――俺は本当に蚊帳の外だな。

 夫人は話してくれる気がないらしく、克樹もモルガーナのこととなると口をつぐんでしまう。

 話さないのにも理由があるのだと感じていたし、彼らのことは信じてもいたが、何も知らないままでずっと蚊帳の外に置かれたままなのは居心地が悪かった。

 当事者たちに近い位置にいながらも捨て置かれているという状況に、彰次は夫人から視線を逸らしてため息を吐き出すことしかできなかった。

「大丈夫よ、音山さん」

「ん?」

 やさぐれた気分でコーヒーを飲む彰次に、何故か楽しそうな顔をする夫人が話しかけてくる。

「いつかは貴方にも見てもらうことになるでしょうし、見えるようになるわ。そうなってもらわないと困るのよね」

「……どういう意味ですか?」

「さぁ、どういう意味でしょうね。まぁ、大丈夫よ。貴方に足りないのは経験であって、素質ではないわ」

 何の話をしているのかまったくわからず、彰次は顔を顰めるしかなかった。

 楽しそうにしている平泉夫人。

 彼女の後ろでは、珍しく芳野が視線を逸らし、どことも言えない方向を見ているという反応をしていた。

 ――何にせよ、いまの俺じゃ理解できないってことだろうな。

 もうひとつため息を漏らして、彰次は温くなって苦みの増したコーヒーを飲み干していた。

 

 

 

「むぅ……」

 平泉夫人にいとまを告げ、執務室を出て扉が閉じられた途端、彰次はそんなうめきともつかない声が出てしまっていた。

 駐車場までエスコートしてくれるらしい芳野にちらりと視線を投げかけられるが、それが意味するところはわからない。

 ――夫人は何を知っていて、どこを見てるんだ?

 話していてずっと、彰次にはそれがわからないでいた。

 断片的な情報からある程度の想像くらいはできるが、その想像は彰次の常識から外れ過ぎていて、ゲームの話をしていると言われた方がしっくりきそうなほどだった。

 ――本当に、何が起こっているって言うんだ。

 いつもは結ったりまとめたりしていることが多い気がした髪を、今日は背中に流している芳野の後ろ姿を見ながら、彰次は何度も小さなうめき声を上げていた。

「少し聞きたいんだが」

 玄関ではなく、玄関から少し離れたところにある廊下の途中の、駐車場に出る扉の前に立った芳野を彰次は呼び止めた。

「わたしに、ですか?」

「あぁ」

 相変わらず隠しているのか起伏が薄いのかわからない、感情を読み取れない表情で振り向いて、芳野は小首を傾げた。

「平泉夫人は、いったい何を考えてこんなことをしてるんだ?」

 モルガーナは恐ろしい存在であると同時に、こちらからわざわざ関わりに行くか、あちらに目をつけられない限り、やり過ごすことのできる相手だった。

 彰次はこれまで、スフィアドール業界で魔女の影を感じながらも、こちらからは触れないように、目をつけられないようにしてきた。

 それでやって来られたのだ。

 平泉夫人や克樹がわざわざ関わりに行く理由は、彰次にはまったく見えなかった。

 そして平泉夫人の言った、人間のためにという言葉が、どうしても飲み込み切れなかった。

 だから芳野に問うてみた。

 いつも平泉夫人と一緒にいて、彼女と同じものを見ているはずの芳野ならば、何かわかるかも知れないと思った。

「申し訳ありません、音山様。奥様が話していない以上、わたしはそれ以上のことを話すわけには参りません」

 言って深々と頭を下げ、顔を上げた芳野の瞳を見て、彰次はそれ以上問うのを諦めた。

 ――夫人以上に手強いな、こりゃ。

 あまり感情を表情に出すことのない芳野はしかし、瞳で多くのことを語っている。

 いまの彼女の瞳には、一片の揺らぎもなかった。

 弄ばれたり煙に巻かれたりする感じがある夫人とは違う、強い意志を感じる瞳だった。

「わかった。そのことはいい。ただ、俺も魔女とはそんなに会ったことがあるわけじゃないが、あいつは底が知れない。勘と言うより、動物的な本能に近いが、危険な奴だ」

「お目にかかったことはありませんが、それはわたしも、奥様も感じています」

「ただ危険ってだけじゃない。奴が持っているのはおそらく一種の狂気だ。奴にとって自分と同等の人間なんてのは、この世にひとりとしていないんだろう。例え誰であっても、あいつは邪魔なら挽き潰すし、必要なら使い潰す。奴に近づくんだったら、命を捨てるくらいの覚悟が必要だ」

 それまで揺るぎなかった瞳を曇らせ始めた芳野を見つめ、彰次は言う。

「そんな奴に宣戦布告染みたことをしてる夫人のことが、貴女は心配じゃないのか?」

 芳野を初めて見たのは、三年ほど前に開催されたロボットの展示会でだった。

 メイドが着るような服を着ていて、研ぎ澄まされたナイフのような雰囲気をまとわりつかせる彼女は、むしろ護衛のように見えた。

 ロボットとは明らかに違うのに、ロボットよりもロボットらしくあろうとしているかのように感情を見せることがなく、夫人を通してしか話したこともなかった。

 こうして一対一でまともに会話したのは、初めてくらいのことだった。

「奥様がそれをやるべきだと考えているならば、わたしはその方針に従うだけです。もしあの人を害するような者が現れたなら、わたしがそれを排除します。そのための訓練も、これまで積んできましたから。それにもし、――あまり考えたくありませんが、夫人を守り切れなかったとしても、一時的ならばあの人の代役を務めることはできます。そう、仕込まれていますので」

 彰次の険しい視線を受け止め、睨むような視線を返してくる芳野だったが、それまでの揺るぎない瞳ではなくなっていた。

 平泉夫人が芳野をどんなつもりで側に置いているのかは知らない。

 家政婦や秘書のように、さらに彼女自身も言った通り優秀な護衛としての役を担っているのは知っている。

 けれど夫人がどんなことを考えて彼女を側に置いているかは、聞いたことがない。

 ――たぶん、違うんだろうな。

 複雑な事情があるらしい育ちの芳野を拾い、様々な教育を施し、彼女の希望に添いつつも金と時間を注ぎ込んできた平泉夫人。

 その成果はかけてきたもの以上に現れていると思うが、夫人は主従や、依頼人と請負人といったもの以上の想いを、芳野に抱いているように彰次には思えていた。

 ――そのことを、夫人がはっきり言ったことはないがな。

 なんとなくはわかるが、はっきりとはしない夫人から芳野への想いを、彰次が口にすることはなかった。

「ん……、そうか」

「はい」

 彰次の相づちに力強く頷く芳野。

 彼女の引き締められた表情は、強く結ばれた唇と反比例して崩れていく。

「けれど、魔女が恐ろしいことには変わりありません」

 そう言って唇に指を添える芳野。

 いつもはロボットよりもロボットらしい彼女であるが、ほんの時折見せる笑みにも満たない表情や、何かの想いを込めた視線を向けてきているとき、それからいまのような不安に瞳を揺らしているときの彼女は、普通の女性のように見えていた。

 ――いやたぶん、普通の人なんだ、この人は。

 強くあろうとし、そうしていることを隠しているだけなのだろう芳野。

 わずかに覗いた彼女のそうした一面に、彰次は三歩の距離をひと跨ぎにして、抱きしめてしまいたい衝動に駆られた。

 ――できないけどな、そんなことは。

 護衛としての訓練を積んだというのは本当で、彼女の強さはその筋では有名だ。

 何者かに雇われたらしい暴漢が夫人に襲いかかったときには、男三人を鮮やかに昏倒させたという話は彰次も聞いていた。

 衝動に駆られて不用意なことをすれば、暴漢と同じ末路をたどることになるのは目に見えている。

 拳を握りしめて堪えた彰次は言う。

「まぁでも、平泉夫人ならば大丈夫だろう」

 泣き出しそうにも見える顔をしている芳野に、彰次は安心させられるよう笑みを浮かべてみせる。

「夫人は慎重な方だし、得るものもなく犠牲を払ったり、自分を犠牲にして何かを為すようなタイプの人じゃないだろう。魔女は差し違える覚悟程度でどうにかなる相手じゃない。そんなことはあの人もわかっていることだろうしな。それに、平泉夫人は強い人だ。いま貴女が不安に思っているようなことは、起こりはしないさ」

「そう、ですね」

 視線を逸らして言葉を選びながら言い、芳野の顔を見ると、彼女は目を見開いていた。驚いているらしい。

 ――やっちまった……。

 言わなくてもいいことを言ってしまったと思うし、自分らしくないことを言ってしまったと、芳野の顔と自分の言葉を振り返って思う。

 急速ににじんでくる汗に、彰次はさらに言葉を重ねてしまう。

「いっ、いや! 俺は、その……、夫人がやってることを手伝えるような能力もなければ立場にもないが、えぇっと、貴女の話を聞くことはできるし……。も、もしっ、何か大変なことが起きたときには、俺が貴女の元に急いで駆けつけるからっ」

 最後の方はもう半ばやけっぱちに、彰次は詰まりながらも芳野に向かって言った。

 開いた口を両手で押さえて隠す彼女は、もうはっきりと、驚いた顔を見せていた。

 それから、彰次に向けていた目をわずかに伏せ、笑んだ。

「そんなときが来ないことを祈りますが、もしそんなことが起きてしまったときは、お願いします」

 初めてだった。

 ここまではっきりと芳野が笑って見せたのは。

「そっ、それじゃあ俺はこれで!」

 優しげな色を浮かべている瞳を向けてきてくれる芳野の脇を通って、ノブに手をかける。

 焦りと驚きと恥ずかしさで爆発してしまいそうな気持ちがどうにもできなくなった彰次は、駐車場に続く扉を開け放って自分の車に急いで乗り込んだ。

 バックミラーで芳野が追ってこないのを確認してから、ハンドルに身体を預けて大きくため息を吐く。

「俺は中学生かよ」

 顔まで熱くなっている自分にそう吐き捨て、もう一度大きくため息を漏らした。

 どうにか少し落ち着きを取り戻し、シートベルトを締めエントリーボタンを押してエンジンをかける。

「祈る、か……」

 芳野の言葉を思い出し、つぶやいていた。

 彼女にはあぁ言ったが、魔女に触れることの恐ろしさは彰次自身が身をもって知っていた。

 大きすぎる犠牲を代償として。

 平泉夫人は確かに強く、芳野は優秀であるが、巨大という言葉でも足りないモルガーナという敵に積極的な行動に出たいま、不安を拭い去ることはできなかった。

「近いうちに克樹を締め上げてでも、話を聞かないといけないかもな」

 モルガーナに関わることであったから、これまでは注意はしても無理矢理にでも聞き出そうとはしてこなかった。

 正確には、聞くことを避けてきた。

 しかし事情は変わりつつある。

 蚊帳の外に置かれている自分では、何かが起こってもそれに気づくことすらできないかも知れないと、彰次は感じていた。

「ちっ」

 様々な思いを舌打ちひとつに込めて、彰次は駐車場から車を発進させた。

 

 

             *

 

 

 差し込む月明かりの角度が変わったのがわかるくらい時間が経ってから、彰次の車は駐車場から道路へと姿を見せた。

「何を話していたのかしらね」

 窓に手を着いて、走り去っていく車を眺めている平泉夫人は、そう小さくつぶやいた。

 彰次の見送りに出てまだ戻らない芳野と、執務室を出てからずいぶん経って車を出した彰次の様子から、ふたりが何かを話していたのは確かだった。

 話の内容を問う気のない夫人は、口元に笑みを浮かべる。

「貴方が不安に感じるのは当然でしょうね、彰次さん」

 見えなくなったテールランプに向けて、夫人は小さく言う。

 自分の立ち位置が克樹たちとは違っていることを、夫人は理解していた。

 克樹は克樹の場所で、モルガーナと戦っている。

 夫人は夫人で、自分のあるべき場所で戦っていた。

「私なりに、もう覚悟は決めてあるのよ」

 誰に言うでもなく、夫人は街灯の光くらいしか見えない窓の外に向かって零す。

「覚悟くらい決められないようでは、あの人と対峙することなど到底できないものね」

 モルガーナが恐ろしい存在であることは、まだ一度も直接会ったことがなくても、充分以上に感じることができていた。

 やっていることのひとつひとつは人と同じであるのに、伝わってくる存在感は神か悪魔か、人とは思えないものだった。

「だとしても、私はあの人を許すことはできないのよ」

 決意を込めた瞳をし、表情を険しくした平泉夫人は、窓に触れる手に力を込める。

 キシリと、整えられた爪がガラスを鳴らしたとき、険しかった表情が緩んだ。

「でも、私はあの子に心配ばかりかけているわね」

 夫人のことを慕い、心配してくれる芳野。

 少し前までは夫人の意に沿い、指示したことと、それに付随する夫人のためになることしかしていなかった彼女。

 彼女は、自分というものを見ていなかった。

 芳野綾(あや)という主体を、捨ててしまっていた。

 それがいま、少しだけれど変わってきているのを感じる。

「もしものことがあったら、よろしく頼むわね、彰次さん」

 ガラスに映る自分に向かって微笑み、夫人は振り返る。

「……遅くなりました」

 そう言って扉を開け、執務室に入ってきた芳野に、夫人は優しく微笑みかけた。

 

 

 


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