神水戦姫の妖精譚(スフィアドールのバトルログ)   作:きゃら める

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第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第四章 3

 

 

          * 3 *

 

 

「お帰り、克樹。疲れてる?」

「帰ってなかったのか」

 玄関の扉が開かれる音にすぐさま走って行くと、疲れ切った表情の克樹が立っていた。

「……どうかしたの?」

「いろいろあって」

 身体を動かすのも怠そうな様子でLDKに入って、ダイニングチェアに倒れ込むように座った彼。夏姫はちょうど淹れたところだった紅茶を差し出す。

 まだ熱いそれを一気に飲み干し、克樹は大きなため息を吐いた。

 その顔を見なくても、何かがあったのだろうことはわかっていた。

 誠が帰った後、リーリエは本当にひと言も喋らなくなっていたから。

 つくり置きの料理を冷蔵庫に収め終え、帰る準備が終わっても帰らなかったのは、克樹のことが心配で、ひと目彼の顔を見ないといてもいられなかったからだった。

「何が、あったの?」

「――残りのエリキシルソーサラーがわかった」

「本当に?! って、戦ってきたの? 克樹」

「うん……」

 重苦しい顔をしている理由はそれか、と思ったが、それだけではないようにも思えた。

 だから夏姫は、それを追求する。

「誰だったの? 残りのエリキシルソーサラーって」

「ある意味、予想通りの相手だよ。……ふたりとも」

「ふたりともって、じゃあ全員わかったってこと?」

「あぁ」

 探していた人物が見つかったはずなのに、つらそうな顔をしている克樹。彼にそんな顔をさせる相手だったのかと、夏姫は答えを聞くのが怖くなる。

「そういうことでいいんだよな? リーリエ」

「え? リーリエ?」

 なぜこのタイミングでリーリエに確認を取るのかがわからなくて、夏姫は首を傾げてしまっていた。

『うん……。そうだよ、おにぃちゃん』

「全部話してもらうぞ」

『わかってる。でもね? おにぃちゃん。いまはたぶん、こっちの方が大変だと思うんだ』

 リーリエがそう言うのと同時に、リビングのテレビのスイッチが入った。

 映し出されたのは、ニュース番組。

「ニュースなんていま――」

『ちゃんと聞いて。さっきショージさんが飛んでいったのもこれだよっ』

 リーリエにしては珍しく荒げた声で言い、眉を顰めつつも克樹はテレビに注目する。

『――現在のところ犯行声明などは出ておらず、因果関係などは不明なままです。被害者の女性は意識不明の重体。……被害者の名前が判明しました。被害者は平泉敦子――』

「え? 平泉夫人?」

『ショージさんにはいま連絡取れない。運び込まれた病院は発表されてない。いまネットで情報集めてる。だからおにぃちゃん! しっかりして!!』

 リーリエが叫ぶのと同時に、椅子から立ち上がってテレビに近づいていた克樹は、膝に力が入らなくなったように、ドサリと座り込んだ。

「克樹?」

 テレビではもう別の話題に移っているのに、克樹はただ、じっと画面を眺め続けていた。

「克樹!」

 夏姫が声をかけても反応をしない。

 意識はあるようなのに、呆然とした表情で固まってしまっている彼に、夏姫はなんと声をかけていいのかわからなかった。

 

 

             *

 

 

「例の件はどうなるんだ! 追加の出資の話はこれから詰めることになっていたんだぞ! ……本人がこんな状態では話にならんではないかっ」

「しばらくはわたしが仕事を代行することとなります」

「お前では追加の件は進められないんだろうが!」

「……それは、そうですが」

「それに、これまでの分については、いざってときはどう処理されるんだ?!」

 怒号の聞こえてくる方向に、すれ違う患者や看護師を避けて彰次は早足に向かう。

 角を曲がった先の向こう、突き当たりの扉の向こうは、集中治療室。

 その手前には、小太り人とひょろりとした男のふたりと、彼らに詰め寄られている女性がひとり。

「ふんっ。あんな小娘では話にならん」

「ですが人脈も実績もないあれであれば……」

「確かにな」

 ちょうど話が終わったらしく、振り返った男ふたりはわざと聞こえるような声でそんなことを話し合い、彰次に一瞥をくれながら歩み去った。

 窓から差し込む陽射しはすっかり高く昇り、病院の白い床や壁を明るく照らしていた。

 そんな光の中で、いつも通りピッシリとメイド服を纏い、静かに立つ芳野。

 変わらぬ無表情は、けれど視線を床に落とし、影が差している。

 一服の絵のように美しさを感じる静かな情景であるが、その主役たる芳野からは、いまにも消え去ってしまいそうな弱々しさを感じた。

 まだ距離があるにしても、彰次に気づいていない様子の彼女の疲弊の度合いは、相当のものになっているらしい。

 本当ならばもっと早くに駆けつけるつもりだった。

 会社から速報が入り、いったん会社に向かったのはいいが、収容された病院の特定に手間取ってしまった。

 やっと経済界方面との繋がりの強い顧問経由で居所をつかんだときには、陽が昇っていた。そしてすでに、平泉夫人に縁の深い人物には、その情報が伝わっていることも知った。

 いまここに彰次が駆けつけるまでに、多くの人間が芳野に詰め寄っていただろうことは、想像に難くない。

「ずいぶん遅くなった。済まない」

「……っ! 音山、様?」

 声をかけながら近づくと、目を見開きながら視線を上げる芳野。

「夫人の容態は?」

「まだ、予断を許さない状況ですが、あと一度の手術が成功すれば、ほぼ問題はなくなります」

 表情を戻し、事務的な口調で言う芳野に、彰次は眉を顰める。

「……君は、大丈夫なのか? 芳野さん」

「わ、たし、は……」

 一瞬頬を引きつらせ、芳野は色のない瞳で彰次の瞳を見つめてくる。

「済まないが、彼女が戻るまでは絶対誰もここを通さないでくれ。例え親族を名乗る者でも、外部の人はひとりも、だ」

「あ、はいっ。わかりました」

 ちょうどタイミングよく顔を出した看護師にそう声をかけ、彰次はすぐ側にある、集中治療室に収容された患者の家族用の待合室に、肩に手を回して芳野を無理矢理連れ込む。

 抵抗を見せる彼女の両肩をつかんで力業で長椅子に座らせるが、立ち上がろうとする。

 けれど表情が硬直したままの芳野は、さほどの力もかけていないのに腰を浮かせることもできず、背中までソファに身体を預けてしまった。

 ――俺が来るまでに、どれくらいのことがあったのか。

 顔色も立ち振る舞いも、さっきの男と話していたときの声も、いつもと変わらないように見えるが、彼女は生きた人間の目をしていなかった。

 平泉夫人が銃で撃たれて生死の境を彷徨っているだけでもキツいはずなのに、夫人の生死よりも金勘定のことを問うてくる者たちの対応をしていたのでは、疲弊しても仕方がない。

 長椅子に肩に提げていた鞄を放り出した彰次は、芳野の顔を見つめながら問う。

「さっきので何人目だ?」

「……十三組、二二人目です」

「夫人の詳しい容態は?」

「七発発射された弾丸の内、四発が命中し、三発が体内に残りました。二発は摘出できましたが、一発はまだ……。心臓に近い位置である上、出血量が多かったため、奥様の体力が戻ってから手術になるということです」

 うつむき、まるで機械のように喋っていた芳野が顔を上げる。

「奥様の詳しい容態を訊かれたのは、音山様が初めてです」

「みんな生死と、自分の利益のことばかりか」

「はい。あの方の生きる世界では、それが当然のことだとはわかっていましたが――」

 表情は固まったままなのに、芳野は瞳を涙で揺らす。

 アッという間に零れ落ち、雨のように白いエプロンに降り注ぐ。

「奥様は、もしかしたら、もう二度と、目を、醒まさないかも――」

 芳野が言い終える前に、彰次は彼女の身体を自分の胸に抱き寄せていた。

 鍛えられ、引き締まっている身体は、けれど細く、柔らかい。

 男を打ち負かすほどの強さを持っていても、彼女は確かに女性だった。

「怖い……。わたしは、怖いんです……」

 彰次の胸に顔を埋め、肩を震わせて嗚咽を漏らす芳野。

 そんな彼女の髪を撫でることしか、彰次にはできなかった。

 けれど、何かしたかった。

 ――俺に何ができる?

 いつもは強く、超然としている芳野。

 そんな彼女が弱り果て、泣いている様子に、彰次は自分のできることを精一杯やりたいと思っていた。

「俺には、夫人の傷を治すことも、代わりになってやれることもできない。だが、話を聞いてやることくらいはできる」

「ありがとう、ございます……」

「君がもし、必要としてるなら、俺が支えに――」

 ビクリと大きく身体を揺らし、泣いていたはずの芳野は身体の震えを止める。

 突然のことに言葉を止めてしまった彰次は、彼女にどう声をかけていいのかわからない。

 漏れていた嗚咽もなくなり、呼吸を整えているらしい様子がうかがえた。

「それは、無理ですよね」

 うつむいたまま涙を拭ってから、真っ赤になった目で顔を上げる芳野。

「いや、俺はいま、つき合ってる彼女もいないから……」

「そうかも知れませんが、貴方の胸の中には、いつもひとりの女性がいる。そうではありませんか?」

「……」

 そう指摘されて、彰次は何も言えなくなっていた。

 まだ涙で揺れている芳野の瞳はしかし、真っ直ぐに彰次の瞳を見つめてきている。

「エレメンタロイドのエイナは、東雲映奈さんにつながる存在。ですよね? そして音山様は、いまもその方を忘れることができないでいる。違いますか?」

「それは……」

 エイナと、東雲映奈との関係は昨日克樹に話した他は、まだ誰にも話したことがなかった。

 すがるような色を瞳に浮かべながら、けれども彰次から身体を離す芳野は言う。

「奥様に関係する人の身上調査は、通常業務の範囲内です。東雲映奈さんに関しては、貴方と、そして魔女に関係する情報を収集する中でわかりました。東雲映奈さんへの想いは、勘に近いものです。決して誠実な男性のものとは言い難い貴方の女性遍歴。けれど貴方は、ある一線から踏み外すことはありませんでした。それは、東雲映奈さんのことを、忘れることができなかったからではありませんか?」

「参ったな」

 芳野の目はまだ赤く、目尻に残る涙の跡も拭い切れていない。

 けれどいま彼女が彰次に向けている視線は、いつもの調子を超え、それ以上の強さが籠もっていた。

 ――身上調査くらいはされると思っていたがな。

 以前夫人から言われた「貴方も当事者のひとり」という言葉の意味を、彰次はいまさらになって思い知っていた。

 おそらくそれを言ったときには、エイナと東雲映奈の関係を夫人は把握していたということだったのだろう。

 ソファに座り、両手をエプロンの上で重ねてじっと見つめてくる芳野に、彰次はいままで知らなかった彼女のことがずいぶんわかったような気がしていた。

「奥様には敵も多くいらっしゃいますし、味方もその分多くいらっしゃいますが、身内と呼べる信頼できる方は本当に少ないのです。それはわたしも同様です。音山様の提案はわたしにとっては心強く、お受けしたいと思っています。ですが、これはわたし自身も知らなかったのですが――」

 一度言葉を切った芳野は、クシャリと顔を歪ませる。

「わたしは、わがままな人のようです」

 彰次のことを見つめて来、しっかりとした言葉で話す芳野は、それでも疲れ切っている。長椅子に座ったままの彼女の身体には、いつもの緊張が感じられない。

 ――引き下がることは、できないよな。

 強さと脆さの両方を持つ芳野のことを、彰次は放っておくことなどできなかった。

 彼女は彰次がいなくてもひとりで頑張り続けるだろう。

 けれどもし、平泉夫人が最悪の結果となったとしたら、その後はない。ポッキリと折れて、そのままになってしまう。

 放って置くことなど、できなかった。

 ――違う。

 そこまで考えたところで、彰次は自分の考えに苦虫を噛み潰す。

 ――言い訳なんていらねぇんだよ。

 東雲映奈と出会い、彼女が抱えているものを知ったときもそうだった。

 過去にどんなことがあろうと、なかろうと、そのとき見ていた彼女のことが好きになったのだ。抱えている過去を知って、そのことで自分に言い訳までして、近づいていく理由を探す必要なんてない。

 ただ、側にいたい。

 ただ、見ていたい。

 そう思うだけで充分だったのだ。過去も、言い訳も必要ない。

 いま見えているその人のことが気になる。何かをする理由なんてそれで充分だった。

 それを、東雲映奈から言われたことを思い出す。あのとき返事を保留にされたことの二の舞を、いまもまたやるところだった。

 ――なんかやっぱり似てるんだよ、芳野さんと、映奈は。

 東雲映奈と芳野の共通点をはっきりと意識した彰次は、苦笑いを浮かべてしまっていた。

「あの人工個性が、東雲映奈の脳情報で構成されているのは、昨日本人の口から確認したよ。確かに、俺は東雲先輩のことを断ち切ったとは言えない。だとしても俺は、あの人は死んだ人間だと認識してる」

 言葉を選びながら、彰次は芳野に自分の想いを告げる。

「東雲先輩のことが断ち切れていない以上、俺は近いうちにあれと決着をつけないといけないんだと思う。それでもよ、俺には生きてる人間以上に、死んだ人を大切にしたいとは思わない」

 彰次の言葉を、想いをすべて逃さないかのように、じっと瞳の奥底を見つめてくる芳野に、視線を逸らすことなく見つめ返す。

「だから、俺にできることがあるなら、手伝わせてほしい。それほどできることは多くないと思うがな」

 言いながら芳野の柔らかい頬に手を伸ばし、彰次は親指で目尻に残った涙の跡を拭った。

 その手に自分の手を重ねてきてくれた彼女は、口元を微かに、綻ばせた。

「わかりました。よろしくお願いします」

 芳野の細く長く、そして冷たい指に、自分の指を搦めて熱を伝えながら、彰次は笑みとともに頷きを返した。

「おそらく貴女は病院に泊まり込むつもりだろう?」

「えぇ。警察はプラスにもマイナスにも、積極的には動かないつもりのようです。捜査はいるようですし、警戒のために警備の方を配置されていますが、外の出入り口のチェックまでに留まっています」

「だったらとりあえず、スマートギアとかを一式、それから警戒用のセンサーとかもいるな。どうせ克樹の野郎も関係してることだろうから、あいつにも来るように言っておく」

「はい。わかりました」

 ここに来たときに見えた憔悴しきった様子はなく、芳野はいま確かに、彰次に向かって笑みを浮かべていた。

「それと、どうせここに来てから何にも食べてないんだろ?」

 言って彰次は放り出していた鞄に手を伸ばして、ビニール袋を取り出す。

 中身は飲み物と、パンなどの簡単な食べ物。すぐに食べられるようにショートブレッド系の栄養補助食など。

 パンのビニールを開けて芳野に手渡し、続いてミネラルウォーターの口も開けて押しつけた。

 もそもそと、しかし手早く食べ終えた芳野は、少し落ち着いたように小さな息を吐いた。

 それに安心を覚えた彰次は、鞄を肩に担いで立ち上がる。

「じゃあ俺は機材を取って、また後で来る」

 そう言って待合室を出ようとする。

「音山様」

「ん?」

 背中に投げかけられた声に、ノブをつかんだまま振り返る。

「すみません。わがままを押しつけてしまって……」

「いや、むしろ嬉しかったよ。貴女のことが少しわかった」

 芳野の決して恵まれていなかった境遇。それを考えれば、いつもは澄ました顔で自分を押さえ込んでいても、その内に隠している想いがあることがあるのは、決して不思議なことではなかった。

 そのことは、いつも笑っていて、元気もよかった東雲映奈のことでも、これまでつき合ってきた女の子のことでも、よく知っていた。

「それから、エイナのことは、おそらく貴方が何らかの形で決着を受けなければならなくなると思います。これはその……、根拠はありませんが」

「それは俺も、昨日あれに会って同じことを思ったよ。どんな形になるかはわからねぇ。でも、俺があいつをどうにかしてやらなきゃならいと、そう思うんだ」

「はい」

 笑みを浮かべて頷いた芳野に笑みを返し、彰次は待合室を後にした。

 

 

             *

 

 

 白い床に両膝と額を着ける男を、モルガーナは冷たい視線で見下ろしていた。

「貴方は、本当に役に立たないわね」

「くっ……」

 後頭部にヒールの踵を食い込ませてやりたいが、思いとどまる。薄くなりつつ男の頭に触れるのは、靴とは言え汚れてしまう。

 いまいる場所は、SR社のオフィス。

 今日は黒い地味なスーツに身を包むモルガーナは、技術顧問の肩書きで在籍している。顧問室は個室になっているが、昼間のいまの時間は扉一枚を隔てて多くの社員がいる。

 この場でこの男を殺してやりたい衝動に駆られるが、たとえ外に声の漏れない個室であろうと、そんなことはできない。方法ならばなくもなかったが、面倒になることは確実だった。

 よれたグレーのスーツを着、男は細かに身体を震わせている。

「やって見せるからやらせろと言ったのは、貴方でしょう?」

「はい……」

「そのとき、私が貴方になんと命じたのか、覚えているかしら?」

「確実に殺し、確認しろ、と……」

「まだ、生きているようなのだけれど?」

 平泉夫人の生存は、すでに把握していた。

 詳しい容態については情報をつかみ切れていなかったが、状態から考えるに、二度と目を醒ますことはなく、数日で事切れるだろうと予測していた。

 しかしながら、仕留めきれなかったことは、いままさに様々なことに影響を及ぼしてきている。

 夫人が死んでいれば消沈していたろう勢力は、怒りと反抗心を持って月曜になった今日、活発な動きを始めていた。

 モルガーナに組みする者たちは、潰しきれなかったクリーブの勢力に恐れおののき、消極的になりつつあった。

 すべての動きの中心であった平泉夫人を消しきれなかったことで、小さくない変化が出始めていた。

「意識がないとは言え、あの人の生存がどれほどの影響を持つのか、わからないわけではないでしょう?」

「だ、だけど! 護衛のメイドが、……その、反撃してきそうで……」

 震えた声で反論する男は顔を上げた。

 その首筋から頬にかけてあるのは、火傷の跡。

「本当に貴方は、役立たずね」

「ひぃ」

 冷たい視線を直接向けられ、男は尻を床にこすりつけながら後退る。

 ――これは、失敗だったわね。

 男は決して、無能だったわけではなかった。

 能力を見出したからこそ、いまから十年ほど前に、掃きだめのような大学で腐っていた彼を拾い上げたのだ。

 老い、徐々に衰えていく天堂翔機の後任に据えることを考えるほど、才能はあった。実際、第四世代スフィアドールの規格については、開発部長として采配を振るったのは彼だった。

 けれども男の性格は歪んでいた。

 虚栄を好み、目先の利益を求め、強い者にこびへつらい、弱い者を虐げる。

 とくに、女子供を嗜虐することを好むその嗜好は、吐き気がするほどだった。

 楽をして多くを得ることを好む男は、第三世代までは着実に発展していたスフィアドールを、第四世代で後退させてしまった。それが普及に貢献したことは確かだったが、性能は第三世代よりも低下する結果となった。

 技術面の才能があっても、天堂翔機のように、人を使う才能、そして向上心は、この男にはない。

 それどころか、歪んだ快楽を求めるが故、様々な事件を起こした。

 生きて捕らえてくることを命じた子供を連れ回し、その両親に身代金を要求した上、死なせてしまったことには目眩を覚えたほどだった。

 事件のすべては表沙汰にならないよう握りつぶしてきたが、第四世代規格発表後に自主退社を名目にSR社から切り離してからは、利用価値はほぼなくなった。

 それでもモルガーナのことも、エリキシルバトルのことも知り、またネズミのように注意深く計算高さもある男は、容易に切り捨てるわけにもいかない。

 いまここで報告に顔を見せたのも、この場所では処分しにくいのがわかっているからこそだろう。元開発部部長である彼は、時間が経ったとは言え、社内にはその顔を知る者が少なくない。

 ――簡単な仕事だと思ったのだけれどもね。

 できるだけ知る者が少ないよう、自分で汚れ役を申し出てきた彼に任せた。お膳立てはすべて済ませ、実行するだけのことですら、完遂できていなかった。

「もういいわ。貴方は当分家から出ないで過ごしなさい」

「だ、だけど――」

「何か、いまの貴方にできることがあるとでも?」

「ぐっ」

 平泉夫人のことはいまからでも仕留めておいた方が良いのはわかっていたが、強硬な手段にはもう出られなかった。

 警察にならば話を通せる人物はいるが、日本には入ってきているはずのない銃を使った上、殺害にまで失敗してしまったいま、消極的な協力が精一杯だった。

 事前に調べていたのだろう、収容されている病院には動かせる医師や看護師はいない。心が折れて木偶になっていると予想していた夫人に仕える娘は、強い警戒心を持って夫人が収容されている集中治療室の前に構えている。

 四つん這いで扉ににじり寄っていく醜い男よりもよほど有能で、夫人に依存したはずなのに心折れないのが不可思議であったが、平泉夫人の側にいる娘は男の代わりに側にほしいくらいだった。

 これから平泉夫人を処理することで負うことになるリスクは、あと数日の間に起こる不都合を許容して、命が尽きるのを待つ方がマシなほど。だからいまは、打つ手がない。

「まさかあの子まで失敗するとは思わなかったわ」

 男が扉の外に消えていったのを確認し、小さな応接セットのソファに身体を預けて、モルガーナは紅く塗った爪を噛む。

 帰還したエイナの報告は受けたが、唖然とするしかなかった。

 戦闘の記録は見てみると、確かに音山克樹は予測を大きく超えて強くなっていた。

 彼が終盤戦まで残っていることは想定の範囲内だったが、半端な人工個性とともにあれほどの強さをもつとは予想外と言わざるを得ない。

 それでも勝てない敵ではなかったのに、あの場に音山彰次が現れたのは、完全に誤算だった。

「偶然なのかしら?」

 呟きを漏らし、モルガーナは眉根にシワを寄せる。

 これまで蚊帳の外に置かれ、決着がつくまでそのままであるはずだった彰次が、あの場に現れ関係者に入ってくることは、モルガーナの想定にはない。

 エイナはもちろんのこと、克樹の人工個性も呼んではいないだろう彰次があの場に現れた理由を、モルガーナは思いつくことができなかった。

「誰かが、介入しているということ?」

 エリキシルバトルの参加者はもちろん、その周辺の、直接なり間接的に関わってくる人物は全員把握しているはずだった。そして関わってきたときの影響も考慮して、計画を進めていた。

 彰次がこの段階でバトルのことを知ることは、予定にはない。

 見えない誰かが彼をあの場に導いたような気がしていたが、そんなことをする人物はいま、モルガーナの把握している盤上にはいない。

「……まさか、ね」

 目を細め、さらに眉根のシワを深くしたモルガーナ。

「もう戦いは終わるのだから、たいした影響はないでしょう」

 そう言いながらも爪を噛み、モルガーナはどこでもないあらぬ方向を見つめ続けていた。

 

 

 


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