神水戦姫の妖精譚(スフィアドールのバトルログ) 作:きゃら める
* 4 *
カレーをひと口食べて、片眉をぴくりとつり上げたのは、ショージさん。
「ふむ。いい彼女ができたじゃないか」
「彼女じゃないけどね、……まだ」
「ほぉ。まぁ、彼女ってより、すでに夫婦って感じだがなぁ」
僕の言葉ににやけた笑みを見せて、ショージさんは夏姫のつくってくれたカレーを食べ進める。
近くまで来たからともう遅い時間に突然やって来たショージさんは、お腹が空いたと言ってキッチンに入り込んできた。
ひとりだったときも荒れ果ててはいなかったけど、物が少なくて殺風景だったそこが、すっかり充実した調理空間になってるんだ。ショージさんの指摘に、僕は返す言葉もない。
「なんだか少し前は喧嘩してたみたいだが、仲直りしたのか」
「……まぁね」
ついこの前も用事があって会ったショージさんには、夏姫たちのことは話してない。
でもたぶん、僕の態度からバレバレだったんだろう。
「ごちそうさん。さて、見に行くか」
夕食にしても遅い食事を終え、仕事帰りらしいショージさんは、何故か胡散臭さを感じてしまうグレーのスーツのジャケットを羽織って廊下に出る。
元々客間だったサーバルーム。
冬に入るには涼しいを超えて寒いくらいのそこに入り、ショージさんは広げっぱなしだったサーバラックのコンソール画面を覗き込む。
後に着いて部屋に入った僕も、粗末なオフィスチェアに座った彼の肩越しに画面を見ていた。
「……やっぱり、そろそろハードの更新が必要だなぁ」
眉を顰めながら、チェックログをひと通り眺め終えたショージさんが言った。
いろいろ勉強してたから、一年前と違って少しはログに書かれた文字列を読めるようになった僕にも、どんな結果だったのかはある程度わかる。
サーバに構築されたリーリエ自身である疑似脳には、エラーはない。
でも疑似脳の稼働ログに、少なくない欠損が発生していた。
「そろそろこいつもシステムとしちゃあ古いしな。リーリエも充分に成長してきてるし、仕方がないんだがな」
「そうだね」
盛大なため息を吐くショージさんに、僕は勤めて冷静にそう返事をしていた。
ログの欠損は、別にシステムが老朽化してるから発生してるものじゃなく、いまみたいに多くはなかったけど、リーリエが稼働を開始した直後からあるものだ。
脳を仮想的に構築する人工個性システムは、何より疑似脳の構築と稼働を優先している。
稼働している疑似脳から情報を取得するようになってるわけだけど、人間が仮想的に構築した脳なのに、人体の不思議なのか、完璧なログは取得できないことがわかってる。量の多くないログの欠損は、正常の範囲内だ。
いま増えてる欠損のうち半分くらいは、リーリエがアリシアをアライズさせてるときのもの。
疑似脳の稼働ログだけでなく、リーリエが使ってるアプリケーションのログも取得するようになってるから、アライズしてるときのログは別領域に飛ばすよう、僕はリーリエに指示していた。
一度だけ、シンシアを使ってるときのログをショージさんに見せたことはあるけど、あのとき以降は見せてないし、まだエリキシルバトルやアライズのことは話してない。
ショージさんをモルガーナとの戦いに巻き込みたくはなかった。
――それがあるにしても、多いな。
顎に手を当てて改めてログの欠損率を見ると、僕が把握してるアライズの時間以上に、割合が大きかった。
元はショージさんの大学時代、いまから一五年かそこらは前に構築されたシステムなんだから、どこかしら旧式化していても仕方ない。
壊れたとかじゃなくて、成長しているリーリエの疑似脳の活発な動きを、フォローしきれなくなってるということだと思う。
「そう遠くないうちに入れ換えないと、そのうちヤバくなってくるな」
「そんなに?」
椅子を回して僕に渋い顔を向けてくるショージさんに、軽く首を傾げながら問う。ログが少し読めるようになっただけで、人工個性システムのことは僕にはよくわからない。
「まぁな。こいつを設計して組み上げた頃は、企業の支援を受けた大学の研究だったからな、これだけ経ってても動くようなものをつくれたが、さすがにもう古い。それに当時は疑似脳で外的刺激の反応をテストするのがとりあえずの目的だったから、引き取るときに少し手を加えてあるとはいえ、長期連続稼働は想定してなかったからな」
「そうなんだ……。そのうち、どうなるの?」
「ある意味で寿命が来る」
「え?」
寿命、と聞くとさすがにサーバルームの寒さに曝されてるからでなく、震えが来る。
渋い顔で不精ヒゲが生えた顎をさするショージさんが続ける。
「寿命と言っても今回の場合、三つの意味があって、そのうちふたつの問題だ」
「寿命が三つ?」
「あぁ。ひとつは極単純な意味の、人間と同じ寿命だが、これについては絶対じゃないが、問題はない。人間と違って人工個性からは基本的な欲求を抑制してる他に、老化要素も取り除いてある。仮想とは言え人間の脳とほぼ同じだからな、未知の要素がこれから見つかる可能性はあるが、リーリエは脳の機能的には永遠に近い寿命を持つ。今回はこれ以外の意味だ」
「うん」
僕は興味深いショージさんの話に聞き入る。
メンテナンスのときは自分が弄られるからか、口数が少なくなるリーリエは、今日はショージさんに挨拶して以降はほとんど発言していない。
でもさすがに興味はあるようで、声も出してないしアリシアも手元にないけど、サーバラックにあるディスクシステムのLEDの点滅速度が明らかに増している。
「簡単なのはシステムの物理的な寿命。メンテしてるし、不都合が出ればモジュールごと交換もしてるが、それにも限界がある。古くて交換部品ももう手に入りにくいしな。ただこれは、オレの予測じゃまだ三年くらいは大丈夫なはずだ。問題なのはもうひとつの方だ」
「どんな問題なの?」
「システムを設計以上に酷使してるからな、近いうちに性能が不足する」
「思考速度が低下するとか?」
もしそんなことになったらかなりの問題だ。
少なくともエリキシルバトルが終わるまでは、リーリエの力は僕にとっては必要なものだから。
「人工個性についてはそれはない。疑似脳をリアルタイムで稼働させることに細心の注意を払って設計してあるからな。今回の問題が進行した場合、予想では、脳の情報に欠損が出る」
「……どういうこと?」
さすがに人工個性システムに詳しくない僕は、ショージさんの言葉の意味がよくわからない。
「例えるなら、頭蓋骨以上のサイズに脳が成長しちまうんだ。リアルタイム稼働には支障はなくても、疑似脳を構築している電子的空間は無限じゃない。脳が成長すれば性能的な意味で、情報処理が追いつかなくなる部分が出てくる。はみ出した分は存在しないものとして扱われる。そんなときどんな症状になるかはわからないが、一応大学の頃に想定してたのでは、アルツハイマーに近い状態になると予想していた。症状が進めば、リーリエの疑似脳は全体的に崩壊する。つまり、死だ」
「リーリエ! 自覚症状は?!」
僕はすぐさまリーリエに声をかけた。
サーバルームにもマイクとスピーカーなんかは設置してある。いまの話はリーリエも聞いてるはずだ。
『大丈夫だよー。すぐの話じゃないんでしょ?』
「そうだな。半年から一年くらいで症状が現れ始めて、そこから一年くらいかけて進行していくと予想してるな」
「けっこうすぐじゃないか」
半年は長い時間に思えるが、けっこうすぐだ。
ハードもそうだし、ソフトも専用のシステムだから、準備をしてたらアッという間に過ぎてしまう。
そして、それ以外にも問題がある。
「……システムを更新するとして、どれくらいの費用がかかりそう?」
難しい顔をしてるショージさんに、僕はおずおずと訊いてみる。
ヒューマニティフェイスでそこそこ稼いでるし、一年以上帰ってきてない両親から生活費ももらってると言っても、いまあるシステムを大学から買い取ったくらいの金額は、年単位で仕事を頑張らないと無理だ。
「ハードはAHSのシステムがかなり流用できるから、いまのこいつより汎用性があるし、サイズも費用もかなり抑えられる。ソフトもいまのがほとんど使えるし、予想はしてたからある程度は俺がハードの移行に備えてつくってある。ただなぁ、それでもこれの半額にはならんぞ」
「ぐっ」
検査を終えてコンソールをラックの中に仕舞ったショージさんの言葉に、僕は息を詰まらせる。
半額になればかなり楽だけど、それでも一年や二年で貯まる金額じゃない。いまのシステムは幼い頃からの貯金と、ショージさんからの援助、それに平泉夫人から借りてやっと買うことができたくらいだ。
――また、お金借りないといけないかな……。
リーリエのこととなれば平泉夫人はお金を貸してくれそうだけど、今回もし借りるとしたら、その返済は社会人になっても続きそうだ。
「そもそも人工個性を動かすためのシステムじゃなかったんだし、完全に専用じゃ、それだけかかっても仕方ないよね……」
「まぁな。性能は格段に上がるが、リアルタイムで疑似脳を稼働させれば用は足りるから、いまより性能を大幅に上げる必要があるわけじゃないがな。こんな使い方は想定外だったからなぁ」
少し懐かしそうに笑みを浮かべるショージさん。
検査も終わったので、僕はショージさんと一緒にLDKに戻る。先に準備しておいたコーヒーをカップに注ぎ、ショージさんと自分の前に置いた。
湯気の立つコーヒーが、寒かったサーバルームで冷えた身体を温めてくれる。
コーヒーのカップを傾けつつ、僕に何か言いたげな鋭い視線を向けてくるショージさんより先に、僕は口を開く。
「そう思えば、いまリーリエに使ってるシステムで本来動かすはずだった脳情報の提供者って、どんな人だったの? 確か大学で一緒に研究してたんだよね?」
一年前に話してもらって以来だけど、気になったので訊いてみる。
僕の知る限り、稼働している人工個性はリーリエとエイナのふたりだけ。
エイナは、いまひとつわからない感じはあるけど、モルガーナの手先。
脳から情報を採取するの自体が、モルガーナに関わる技術の可能性が高い。だとしたら、エイナの脳情報提供者については、ショージさんが鍵を握ってるかも知れない。
見えないことの多いエリキシルバトルとモルガーナを知るために、小さいものでも手がかりがほしかった。
苦々しげな顔を見せたショージさんは、大きくため息を吐いた後、遠い目をした。
「ひとつ上の先輩でな、口うるさくてお節介焼きで、でも研究に対しては熱心な女性だったよ」
遠い昔を見つめているショージさんの瞳には、懐かしさと、苦しさが混じったような、複雑な色が浮かんでいた。
「怠けてるとすぐに罵声が飛んできたりしてな。ちっこくて中学生に間違われることもあるくらいだったのに、声はでかいし性格はまるっきり体育会系だったな」
「ショージさんとじゃ、あんまり合わないんじゃないの?」
「それがまた、割とそうでもなくってな。俺だけじゃなく他の奴らもそうだったが、無茶苦茶いい声してたのもあって、彼女の声に調教されて真面目に研究やってたよ」
複雑な感じはあるけれど、ショージさんはその先輩のことを楽しそうに話す。
「研究の目的は、仮想空間に構築した疑似脳に刺激を与えて反応を検知することで、新しい形のAIをつくることだったが。先輩はその先、医療分野での利用も視野に入れていたらしい。ロボット工学に所属してたわけだが、とにかくひとつのことに捕らわれない、自由な発想の持ち主だったよ」
「……もしかしてショージさん、その人とつき合ってたの?」
途端にイヤそうな顔をするショージさん。
「公私ともに口うるさい人だったからな、つき合おうなんて猛者はいなかったよ」
「そう、なんだ」
大きくため息を吐くショージさんは、嘘を吐いていた。
実際その人とどんな関係だったのかは、いま聞いたことから推測することしかできない。でも心底イヤそうな口ぶりほどに、ショージさんの目は彼女を嫌っていない。
いやむしろ。愛情のようなものがその瞳から見て取れた。
――夏姫も、そんな目をしてたりするからな。
つき合っていなくても、僕は夏姫のことが好きで、夏姫は僕のことを好きでいてくれる。
口うるさくしてても、文句を言ってても、夏姫は言葉以上の気持ちを瞳に浮かべてる。
それに面倒臭いと言ってるときの僕も、同じように彼女のことを想ってる。
そんなときと同じような感情が、ショージさんの瞳に浮かんでいる気がしていた。
「あのとき、疑似脳はテスト稼働直前まで来てたんだ」
想い出話を続けるショージさんは、目を伏せる。
「研究室全員で脳情報を補完するはずだったが、結局俺と先輩しか脳情報は取れなかった。俺はたいしたことがなくて、俺の分の情報は一パーセントも入っていないがな。それでも先輩の情報をメインに、稼働の一歩手前まで来てたんだ。あるいは、先輩が死ぬ前日、夜遅くまで収集してた情報で、稼働できてたかも知れない。……まぁ、先輩が死んだ途端、魔女に脳情報は全部持って行かれちまったんだがな」
深くため息を漏らした後、ショージさんは苦笑いを浮かべながら顔を上げた。
「用途がなくなったシステムだけが残った形だが、当時から改良案は出てたし、解散になった後も頭の体操程度に考えてはいたから、更新によってより人間に近接できるものができるはずだ」
『凄いのができるんだねっ。面白そうだなぁ』
「半年後にはリーリエが使うんだぞ。他人事じゃないんだからな」
『うんっ、そうだねぇ』
最後はごまかされた感じになったけど、何となくわかったことがあるような気がしていた。
いまはまだ、はっきりとはしないけど。
「それからショージさん――」
「ちょっと待て」
次の話題を振ろうとしたところで、僕の口をふさぐように広げた手を伸ばしてきたショージさんに止められる。
「なんでお前は、魔女と戦ってるんだ?」
射貫くような強い視線で言うショージさんに、僕はこれ以上ごまかせないことを知った。
クリーブの発表は、どの程度、どんな意味を持つのかはわからないけど、平泉夫人のモルガーナへの攻撃であることはわかっていた。
モルガーナを知り、いま僕たちの裏で彼女が暗躍しているとわかっているショージさんが、夫人の攻撃に気づかないはずがない。
近々本格的に追求されるのはわかっていたから、適当に煙に巻いて説明を先延ばしにしようと思っていたけど、無理だったらしい。
「平泉夫人と組んで、夏姫ちゃんや、他にも何人か友達巻き込んで、お前は魔女狩りでもするつもりか?」
「……」
椅子から立ち、眼鏡越しに僕を睨むショージさんからは逃げられそうにない。
でも、話すわけにはいかない。
モルガーナはいまのところ、エリキシルバトルの裏側で暗躍するだけで、直接的な動きは見せていない。でも終盤戦に入ったこれからは、最後までそのままでいてくれるかどうかはわからない。
僕たちバトル参加者に対しては、よほどのことがない限り仕掛けてきたりはしないと思う。でもショージさんのような、部外者に対してどうするかは不明だ。
平泉夫人みたいに、元からバトルのことを知ってて、自分から首を突っ込んできてるなら別だけど、いまのところ無関係なショージさんを、このタイミングで関わらせたいとは思わない。
だから僕は、何も話せない。
――でも、本当にそうなんだろうか?
もう過去のことのように思えるけど、人工個性のことを考えたら、ショージさんとモルガーナにはまだ何か接点があるような予感もしていた。
「リーリエ! お前も知ってるんだろ?! 克樹はいったい何をやってるんだ?」
『……おにぃちゃんが何も言わないなら、あたしも何も言えないよぉ』
「ちっ。克樹!」
伸ばされた手がテーブル越しに僕の襟首をつかもうとしたときだった。
『でもね、ショージさん。おにぃちゃんも、同じなんだよぉ?』
「同じぃ?」
リーリエの不可解な言葉に、ショージさんの手が止まる。
『うん! ショージさんがおにぃちゃんを心配してるように、おにぃちゃんはショージさんが心配なんだよっ』
「……俺の?」
怒りを少し和らげ、不審そうな目を向けてくるショージさんに、僕は言う。
「うん……。たぶん、モルガーナに関わるのは命がけになると思う。僕や夏姫、他の関係者は、完全にではないけど、ある程度の覚悟はできてる。それができるくらいのものが手に入るはずだから。でも、ショージさんには関係がない。もしいま話して巻き込まれることになったら、僕はショージさんを守れる自信がない」
「守るって、てめぇ……」
『それくらいの強さはあるんだよ、いまのおにぃちゃんにはね! もっちろん、凄く限定された力だけどさ』
リーリエのサポートを受けた僕は。ショージさんの困惑した色が浮かぶ瞳を見つめる。
「たぶん、もうすぐ話せるようになると思う」
「それは終わりが近いってことか?」
「うん。早ければ今月か、来月にも決着がつくかも知れない」
怒っているのとも、迷っているのとも違う、微妙な表情を見せるショージさん。
「……今月末にゃあ、全部話してもらうぞ」
「わかった」
今月中に決着がつく確信はなかったけど、ショージさんもそこが妥協点だったんだろう。
困惑と、心配と、まだ残る怒りが混じり合った視線を向けてくるショージさんは、大きなため息を吐いた後、椅子に置いていた鞄を手に取った。
「本当だったらすぐにも止めたいが、あいつに一度関わったらヘタに引きはがす方が危険だろうからな。お前から関わっていったんだろうし。だから、引き際は間違えるなよ。それと、夏姫ちゃんとか、友達とか、大切なものだけは手放さないようにしろよ」
「うん」
LDKから玄関に出て靴を履き、振り向いて言うショージさんに、僕はできるだけ力強く頷きを返していた。
『だぁいじょうぶだよ! おにぃちゃんにはあたしがいるんだからねっ。みんなのことも、おにぃちゃんのことも、あたしが守るよ!!』
「……頼むぜ、リーリエ」
『うん!』
リーリエの力を知らないだろうショージさんは、でも微笑みを浮かべていた。
「じゃあな。月末にはまた来る」
「うん」
『じゃあねぇ』
僕とリーリエの声に送られて、険しい表情を残しつつショージさんは帰っていった。
――この戦いはもうすぐ終わる。
LDKに戻りながら、僕はそんなことを思っていた。
まだ残りふたりの敵の影すら見えてないけど、終わりが近いのだと、そんな予感がしていた。
どんな形で決着がつくかなんて想像もできない。それでも僕はそう思えて仕方がなかった。
洗い物を終えて作業室に入る。
バトルのこととか、夏姫たちのこととか、まだ見ぬ敵とか、モルガーナとか、ショージさんのこととか、いろんなことを抱えてフルメッシュの椅子にどかっと身体を預けた。
「リーリエ」
スタンドに引っかけてある愛用のスマートギアに手を伸ばしながら、リーリエに声をかける。
「……あれ?」
いつもならすぐに返事くらいあるはずなのに、反応がない。
充電台に置かれたアリシアも動く様子はなく、リンクしていないようだ。
「裏で何かやってるのか?」
リーリエは意外と集中力が高くて、何かに熱中すると緊急メッセージ以外には反応しなくなることもある。
そんなだからあんまり気にしないことにして、バンドの調子を整えて被ったスマートギアのディスプレイを下ろした。
「わぁ!」
その途端に鳴り出す着信音。
驚いて思わず声を上げてしまった僕がよく見ると、スマートギアの視界内に現れた着信表示は、エイナとなっていた。
「リーリエ!」
もう一度呼びかけてみるけど、やっぱり反応がない。
――また、魔法を使ったとか言うんだろうか。
エイナから着信があったときは、リーリエの反応がなくなる。その原因は未だに解明できていなかった。
このタイミングでエイナからの着信に出ないわけにはいかないだろう。
次にかかってきたときのためにと用意しておいた、高レベルのセキュリティセットと数種のログ収集アプリを立ち上げてから、僕は視界内に現れている通話開始ボタンに、思考でポインタを操作してタッチした。
『遅いですよっ、まったくぅ』
頬を膨らませながら通話ウィンドウに現れたバストアップのエイナは、躊躇なくそこから出てきて、スマートギアの仮想視界に全身をさらした。
『……なんか、大きくなってる?』
ぱっと見の変化に、僕はイメージスピークで疑問を口にする。
これまで二度こうして会ってきたエイナは、エルフドールの標準サイズやエリキシルドールと同じ、一二〇センチ程度の身長だった。
けど今日現れ、椅子の側で僕に微笑みかけてくる彼女は、ヒールのある靴を除いても一五〇センチ前後ありそうだった。灯理と同じくらいの身長だ。
『えぇ。サイズはいまメインで使っているドールのサイズに合わせているんです』
ステージ衣装にしてはデザインも色合いも地味だけど、普段着と言うには飾りの多い服でスレンダーすぎる身体を包み、ふんわりと膨らむピンク色のロングヘアを揺らしているエイナ。
――しかし、このタイミングで現れるか……。
最初に彼女と会ったのはバトルに誘われたとき。
二回目は、横目で見るだけだったライブ会場を除くと、中盤戦のタイミング。
そして今回は、終盤戦に入ったいま現れた彼女。
僕は彼女に聞きたいことが、無数にあった。
『エイナ! 君は――』
『ダメです』
荒々しくぶつけようとした言葉は、エイナの人差し指でふさがれた。
いや、いまの彼女はスマートギアの視界の中だけの、仮想の存在。アバターだ。
現実に身体を持って現れたわけじゃない。押し当てられた指の感触もない。
だからそのまま言葉を続ければよかったのに、にこやかな笑顔を視界いっぱいまで近づけて、感触はないのに細く綺麗な指を唇の辺りに添えられ、僕は思わず黙ってしまっていた。
『聞きたいことがたくさんあるのはわかっています。でも、いまここで、わたしは話すわけにはいかないんです』
『でも――』
『代わりに、というのとは違いますが、わたしは今日、克樹さんにお願いがあって、こうして現れたんです』
『……お願い?』
やっと身体を少し離してくれたエイナは、何となくぎこちない感じがする笑みを浮かべ、微かに頬を染めながら、ひと言ひと言をしっかり発音して言っていた。
続きの言葉があると思うのに、エイナは息を飲むように口を開けて閉じた後、何も言わない。
緊張してるみたいに握った拳を胸に当て、言いたい言葉を言おうと、勇気を振り絞ろうとしてるように見える。
――いったいなんなんだ?
もしかしたら、という思いが過ぎり、僕が先にエイナに声をかけようとしたとき、目をつむって叫ぶようにして、彼女は言った。
『わたしとっ、デートしてください!』
「……え?」
予想外すぎるお願いに、イメージスピークも忘れて、僕はぽかんと口を開けてしまう。
『もちろんっ、いまのようなスマートギアの中の映像だけ、というのではありませんっ。さすがに持っていないので生身の身体で、というわけにはいきませんが! ……でも、実体のわたしと、デートしてほしいんです』
最初は早口に、最後は声が細くなりながら、エイナは言い終えた。
それから、胸を押さえてる右手と、ミニスカートの裾をつかむ左手とを細かに震わせ、うつむいてしまう。
恐る恐るといった感じで、少し上目遣いに僕のことを見つめてくる彼女は、まるで好きな人を初めてデートに誘う、本物の女の子のようだった。
『ダメ、ですか?』
『えぇっと……』
『本物の身体は持っていなくても、これでもアイドルですよ? わたしは。アイドルとデートできる機会なんて滅多にないですよ?! あの……、わたしとじゃ、イヤ、ですか?』
『イヤでは、ないけど』
『だったら決まりです!』
ぱぁっと表情を明るくしたエイナは、スカートの中から仮想のメッセージカードを取りだし、押しつけてくる。
『それでは明日の午後、その場所で!』
『明日ぁ?』
『ダメなんですか?!』
『ど、どうにかなるけど……』
明日は夏姫が来る予定があるけど、悲しげな表情を視界いっぱいに近づけられて、そう答えてしまっていた。
『よかったです!! では明日、よろしくお願いします!』
嬉しそうな笑みを浮かべる顔を真っ赤に染め、エイナは止める間もなく通話ウィンドウの向こうに姿を消した。
通話終了に切り替わった表示を、僕はただ呆然と眺める。
「……いったいなんだったんだ」
カードに書かれた場所と時間を見る僕は、取れてるはずのログを呼び出すのも忘れて、エイナが残していった嵐の余韻に浸っていた。