宴会、という程豪勢ではなかったが、とても楽しい食事会は穏やかな内に終わった。
張飛ちゃんの食欲は母の想定を大きく上回ったが、運良く熊の燻製肉の備蓄が大量にあり、それを出してくれて事なきを得たのだ。
何故燻製肉なんてあるのかと聞いてみると、何でも先生から桃の木を使った燻製を教えてもらい、最近ようやく桃と並んで出せる品が安定して作れるようになってきたのだそうだ。
今では桃と一緒に献上しているらしく、宮廷内の人にも好評でここを以前よりも眼にかけてくれるようになったと村長が喜んでいたらしい。
そしてこの燻製熊肉は失敗作。熊肉は献上品としては敬遠されてしまったらしく、作ったは良いが処分に困ってしまい、村中に大量に配られたのだと言う。
この肉は駄目だったが、試行錯誤を怠らない村の人達の努力には頭が下がる。
しかし今回の宴会で母の取り分である物は殆どが無くなってしまって申し訳ない限り。娘が初めて連れてきた客人なのだから、丁重にもてなせて何よりだったとお母さんは言っていたが、私の目には少し残念に思っているのが見て取れた。
母の為に買ってきていたお土産があるので、夜にでも渡して機嫌を直してもらおう。
そして夕食も終わり、後は寝るだけとなったので関羽さんと張飛ちゃんと別れる。
二人は先生の家に泊まるので送っていこうとしたが、さすがに迷うことも危険も無いだろうと固辞された。
連日野宿だったので『今日はゆっくり休んでね、明日の昼頃に迎えに行くよ』と言って夕食の残りを包んで持っていってもらう。
関羽さんは何から何までありがとうございますと恐縮した様子だったが、張飛ちゃんの目が爛々と輝いていた。なので『朝食用だから今日食べたらメッ、だよ』と笑顔で釘を指しておく。ブンブンと頭を上下する張飛ちゃんが可愛かった。
さて、母と二人きりの空間になる。
昼の段階では色々と急だったので素直な甘えが出してしまったが、今はそうはいかない。
取り敢えず淹れてくれたお茶を二人でゆっくりと飲む。
成長した姿を見せたいという欲や見栄があるのに、しかし心が落ち着き、深く安らいでいるのを感じる。両立し難い感情なのに、とても自然だ。気の置けない友人とも違う心の有り様に、ああ、これが家族なのかと納得する。
一杯目のお茶が無くなったのを頃合いに、都から持ってきたお土産を渡す。
外套として使える美しくも丈夫な羽織と母が使いそうな刃物の詰め合わせだ。
「いっちょ前の手土産を持ってくるじゃないか。
へぇ、しかもかなりの逸品ばかり。感性も目利きも伝手もしっかり育ってるって訳かい」
嬉しそうな声に一安心。実はこの二つ、私塾時代にお世話になった人達のものなのだ。母の目利きに適って二つの意味で嬉しい。
母はお土産をしばし眺め、うんうんと頷く。
「あんたは、桃香は本当に一端の大人になったんだねぇ。
後は……桃香、剣を振りな」
「えっ、立ち会うの?」
「いいや、そこに立って剣を一振りするだけでいい」
母は居間の中央に置かれた座卓をずずずっと端に寄せ、そのまま壁に背を預けた。
「一振り、ね。分かった」
それ以上は何も言わず、何も聞かず、私は立て掛けておいた剣を手にとって居間の中央に陣取った。
天井の高さと周囲の広さを確認する。そして踏み込み、抜き打ちから横払い。
母に良い所を見せようだとかの気負いもなく、自身の技量を見せようと限界に挑んだ訳でもないごく普通の、戦場で命を預けるに足る一撃を放った。
「……非才の剣だね」
「あはは、うん、先生にもそう言われた」
残念ではあるが、才能が無いのはもう認めて受け入れている。
その事実を受け入れた上で腕を磨いた。そして今見せた一流程度の剣が私の限界点間近だった。
後はほんの少し残った伸びしろを極めるだけだ。まあその僅かな伸びしろを鍛えるのには今まで積んだ経験の数倍の努力が必要になるのだろうけど。
だがその紙一枚の技量差で生死を分かつ事もあるのだから、磨き続けるに越した事はない。
「ふふっ、先生は正直者だね。本当、教師の鑑だ。
元より二流、極めて一流の腕前。私と一緒の凡夫の腕前。
けれどその若さでよくぞそこまで高めたもんだよ」
元より一流の人間には敵わないと言われても、母と同じだと言われて少しだけ嬉しくなってしまった。私はどれだけ母親が好きなのだ。
と、少し脱線してしまった。
実際の所、母は凡夫の腕前と言ったが、私や母程度の腕前でも数百万数千万が生きる広大な大陸において千人といない腕前なのは間違いない。
だがこれから台頭してくる人間と渡り合うには圧倒的に足りないというだけの話。
しかし私の真骨頂は多彩さである、剣だけで勝負するつもりは毛頭ない。
「桃香の足りない所を補ってくれそうな良い仲間も見つけたようだし、あんたに関して心配する所はもうないんだね」
「うん、武の腕前も人格もこれ以上無いってぐらいで、私と出会ってくれて本当に感謝だよ」
逆に言うならば彼女達にとっても幸運だったに違いない。
私を過大評価している訳ではなく、現状上流にいるような人間の多くは悪質で悪辣なのだ。そうなければ生きていけない世の中になってしまっている。
彼女達は今まで年齢で侮られ、他に頼るものがないという困窮している人間からの要請でしかその実力を見せてこなかった。そして彼女達も弱き人々の為にならと喜んで盗賊を狩り、満足を得ていた。
だからこそ生き抜いてこられたのだ。
だがこれからはその美しい容貌に磨きが掛かり、強さにも拍車が掛かる年齢になる。何かしたい、何が出来るだろうかと模索のために伸ばされていた手が、何かを掴み取ろうとする為の手になる。
そうした意識と環境の変化は彼女達に活躍の場を与えるだろう、そして彼女達ならば機会を物にしてすぐさま日の目を見る。
そうなれば様々な人間が彼女達を求めるに違いない。人に認められるというのは勿論良い面もあるが、意識的に活用しなければ悪い面の方がむしろ多い。数日間一緒に過ごしてきて分かるが、純真なあの子達が悪意の手だけを見抜き、対策を打ち、巧みに躱していくというのは不可能だろう。
だから私という好意だけを抱き、彼女達を助けようと思う人間と出会ったのは幸運だったと言って良いだろう。
関羽さんは勤勉で真面目、張飛ちゃんは感と勘が鋭いので、何かきっかけがあればそちらの方面でも頼もしくなる可能性はあるので、無用の心配なのかも知れないが。
と、意識が関係のない方向へ飛んでしまった。修正。
剣を鞘に仕舞い、壁に立てかける。
座卓を中央に戻し、再び母と向かい合って座る。
「ならこれで最後だ。桃香、あんたはこれからの世をどう生きる?」
母はこれまでと違ってとても優しい目をしている。
どんな答えであろうと受け入れる、そんな懐の深さを感じさせる母親の目。
「お母さんの子供に生まれて、この村で皆に育ててもらって、先生に出会って、私塾に通わせてもらった。
これがどれだけ幸福な事なのか、外に出て初めて知ったんだ。外はとても怖くて、厳しくて、辛い事ばかりで満ちていたから、この村の人達の努力、この村の奇跡のような在り方がとても尊いと感じたんだ」
「そうか、それを知れたなら外に出した甲斐があったってもんだ」
「それでね、私はこの恵まれた環境を大陸に広げたいと思ってるの。この村のような光景を大陸の普遍としたい」
「……あんた、それは」
「最初はね、この周囲一帯の亭長、頑張って県令ぐらいになれたら良いなーと思ってたんだ。けど私塾在籍中にこの国全体の惨状を見て、それじゃあ駄目だと思った。頑張れば県令じゃない、州牧かそれに並ぶ官吏になって国政に影響を及ぼせる立場にならなきゃって奮起して、色々と準備をしてきた。
でもね、帰郷してあの桃園を見て、それも考え直した。
私は大陸の頂点に行くよ。
この奇跡の光景を見て知っているからこそ、私は誰よりも前に、上に行かなきゃならない。
私自身は非才ゆえに道半ばで倒れるかもしれないけど、頂点に向かうからこそ出会う人達に私の理想に触れて貰いたいんだ。仲間だろうが敵だろうが関係なく、私の想いはきっと皆に影響を与えられる筈だから」
「夢に溺れる理想家の妄言、という訳じゃあないんだね?」
「うん、目標の方向転換をしたばかりだから理想が先立ってるけど、勝算はちゃんとあるよ。
元より州牧になる為にある程度の実力行使を想定して準備していたから、その延長線上なんだ。遥かに厳しく険しい道のりになるだろうけどね」
「そうかい、なら私からあーだこーだと言う必要もないね。
それじゃあちょっと待ってな」
そう言って母は居間の脇に向かい、置いてあった棚の上に乗り、そして天井板の一部を外して一振りの剣を取り出した。自分が長く過ごしてきた部屋にそんな隠し場所があるとは露知らずで驚いたが、取り出してきた剣を見て驚き……いやそんな生半可な感情じゃないな。毛穴という毛穴が開くような感覚がした。
母は私の対面に座り、剣を私との間に置いて話し始めた。
「これからの話は詳しく話すだけで枷になるような厄介話だから大まかにしか話さないよ。私はね、劉という姓に恥じない程度のお家柄に生まれたお嬢さんだったのさ。
家は派閥争いや裏切りやら、まあ良くある理由で没落した。最後は炎上する家を背景に、これともう一つの家宝を父母に託された一人ぼっちの私がいた。
その後は友人だった盧植の伝を辿り、彼女の故郷であるここに匿われる形で過ごし、良人と出会ってお前を産んだ。まあ基本的に運は悪かったが、最愛の人とお前に出会えたのだからとんとん、という所か。
と、少し筋が逸れたな。
この剣は宝剣靖王伝家と呼ばれていてね、剣も鞘も装飾がとても美しく、また歴史的価値も高い、そして剣としても有用で切れ味と頑丈さはどんな名刀にも劣らない。
これを桃香、立派になったあんたに譲る。
父母から受け継いだ物ではあるが、家宝を持つような家格では無くなってしまったから、どう使おうがもはや自由だ。売り払って金にするなり、身に付けて使うなり、好きにすると良い」
「……その話を聞いて売り払うなんて出来ないと思うし、何より、これは私の剣だって見た瞬間に思ったの。
すごく不思議な感覚でね、なんだろう、懐かしい、のかな。桃園を見た時に似た郷愁を感じたんだ。
あはは、初めて見るのに、変な事言ってるね」
「……いいや、謙信さんの言ってた事が本当だったと確信したよ。お前は本当の英雄になるのかも知れない」
「先生? 英雄? なんの事? 詳しく聞かせて!」
「ああ、がっついちゃって、さっきまでの淑女然とした雰囲気はどこへやら」
「あっ、こほん。あはは、先生に関してはまだ駄目みたい」
「まあ、あの人は特別だろうさ。で、謙信さんの話だったね。
謙信さんと桃香が村を出る前日にあの人と色々話したのさ」
母は少し遠い目をして話だした。
「村にいる間に命を助けて貰ったお礼をしなきゃと思ってたけど、あの人に手助けなんてむしろ邪魔になるし、細々と食糧援助、内職で作った物品を渡すぐらいで命の借りには到底足りない。そして借りを返す所か娘に超高等教育まで施してくれて借りは増す一方。旅立ちの前日になってもとうとう借りの一割も返せずじまいと来たもんだ。
焦りに焦った私は何か無いかと考えながら家中のものをひっくり返して探して、そうしてようやく村に来てからはずっと隠してた二つの家宝を思い出したのさ。過去を忘れたい、決別しようと思ってたからすっかり忘れてたんだね。
一つはこの宝剣、もう一つは剣と対になると言われた人物が描かれた銅板。
もし家宝が相応しくない人物の手元に渡った時、何故だか相応しい人物の元に二つの家宝は辿り着く、なんて逸話も思い出してね。だったらこれは私の命を偶然救ってくれた謙信さんに渡すべきだと思ったのさ。
だから二つ差し出して『我が家の家宝です、どちらかを謙信さんに渡します。残った方を桃香にやります』と、桃香が家宝を受け継ぐに相応しく育っているなら、片割れを持つ謙信さんと引き合う事もあるだろうと考えて、そんな提案をした訳さ。
そうしたら謙信さんがつーぅと涙を流してね、いやぁあれには慌てたねぇ。何か失礼なことをしでかしてしまったのかと震えながら理由を聞いたんだ。
するとね、謙信さんはその剣と銅板の製作者である蕭何様の子孫で、言い伝えられていた物が無事だったのが嬉しかったから泣いたんだと言うじゃないか。
いきなりの信じ難い話にぽかんとしたよ。謙信さんは呆けた私の目の前で剣の柄部分をいじり始めて、刀身を取っちまったのさ。継承した私ですら知らない解体方法にもう混乱しっぱなしだったんだけど、その刃の茎にね、愛する劉邦様へってしっかりあったのさ。
そこで謙信さんの話は本物だったのだと気付かされた。
運命を感じる話だろう? 製作者の子孫が所持者の子孫にこんな寒村で出会ったんだ。家宝の存在を思い出して並べた私を褒めてやりたかったよ。
そして謙信さんは言ったのさ『私は銅板を頂きます、剣は劉備ちゃんに上げてください。きっと彼女はその剣を振るうに相応しい女性になって帰ってくるはずですから』ってね。
さっき桃香が大言壮語、誇大妄想と言われても可笑しくないような事を言った時に驚いてたけど、私は夢の大きさに驚いたんじゃないよ。あんたがそれをやり遂げる姿を幻視したからこそ驚いたんだ。
桃香、この剣とこの剣を振るった人に負けない大人物になりな。そうすればこの剣はあんたの愛おしい先生に引き合わせてくれる筈さ」
母の言葉を受け、私は目の前に置かれた剣を手に取った。
何故か身体が震えだす、しかし気にせず柄に手を伸ばし、掴んだ。
柄を握ると怖いぐらいに手に馴染むと気付かされ、そのまま導かれるように刀身を引き出していた。
冴え渡る白刃に背筋がゾクリと震える。
そして導かれるように上段に構える。
「お母さん、ちょっと離れてて」
母が部屋の隅に寄った事を確認して、振り下ろした。
技量も覚悟も何も変わらない一刀、けれどそれで、
「ちょっとだけ受け入れてくれたかな?」
剣の輝きが少しだけ柔らかくなり、背筋の震えが少しだけ収まった気がした。
受け入れてくれたけれど、まだまだ完全に認めた訳じゃないと言われているような気がする。
剣に意志なんて無いんだろうけど、私は確かにそう感じた。
刀身を鞘に収め、壁に背を預けてこっちを見ていた母に言う。
「我が家の家宝、私、桃香がしかと受け取らせて頂きました」
「ああ、これで私の肩の荷の殆どが降りちまったよ」
「家の歴史とか全然知らないし、再興とかに興味もない薄情者なんだけど、良いのかな?」
「十数年も家宝を腐らせてた私よりもマシだろうさ。ともかくこれで家長の役目は果たしたね。
後はのんびり、家族水入らずで気楽に喋ろうじゃないか」
「うん! 私ね、お母さんに話したい事がいっぱいあるんだよ! 大人になったからこそ聞きたい話もあるの、お父さんとお母さんの話とか沢山!」
「ふふ、今日は何でも話してやるさ。桃香、酒は飲めるようになったのかい?」
二人で端に寄せていたちゃぶ台を再び真ん中に置きなおす。
母がどこからかお酒を持ち出してきたのでチビチビと飲みつつ、私達親子は過去の話や恋愛なんかの下らない話をして夜を楽しむのだった。