家についた私は勢い良く戸を叩いた。
「おかーさん、おきゃくさんだよ! はいってもらっていーい?」
「私に客だって? ちょっと待っておくれ」
がさごそという音がして少し、母が戸を開ける。
「待たせたね。ふむ、見ない顔だが……まあいい、上がっておくれ」
「失礼する」
「失礼します」
「ただいまです。自分はお水とお昼の用意をしますね」
「あっ、あたしもよーいてつだうよ!」
「いや、水は劉備に用意させて、謙信さんには傍についててもらいたい。まだちょっと身体が言う事きかなくてね」
「そうですか、では付き添わせてもらいます。劉備ちゃん、お水頼めるかな?」
「まっかせてよ!」
聞かせたくない話の可能性を考えて私の席を外させるのと、知らない人物に対しての警戒の為に先生を同席させたんだろうけど、この時はそんな事気づきもしなかったなぁ。
しかし五感の鋭い私はお客さんをもてなす準備をしながらでも母達の会話が筒抜けだったし、先程の会話で華陀先生達が悪い人ではないと確信していたから無用の気遣いだったのかな。
「それで、用向きはなんだい?……ああ、この人は私の命の恩人で懐の広いお人だ。聞かせても大丈夫だよ。謙信さんも大丈夫かい?」
「ええ、医者として個人情報の管理はばっちりですよ。それに付き合いは短いですが、瑠花さんも劉備ちゃんも家族のように思っていますから、聞かせて頂けるなら是非同席させて貰いたいです」
「有り難い言葉だよ。という訳で、話をお願いするよ」
「そちらが良いなら構わない。
まずは自己紹介だな。俺の名は華陀、五斗米道の旅医者だ。こっちのちっこいのは俺の弟子になる。
それで用件だが、俺の恩人である盧植という人物からあんたの様子を見に来るようにと頼まれた。あんたの友人という事だったが、間違いないか?」
「はぁ、良かった、あいつだったか。友人という事で間違いないよ、厄介事を抱えてた私を地元であるここに隠す提案してくれた恩人でもある。盧植が頼んだというのなら本当だろうね」
安堵の息を聞いた私は安心して、お水を持っていった。
「どーぞー」
「ありがとう。劉備ちゃん、悪いんだけど、お米を炊く準備をしておいてもらえるかな?」
「わかったー」
「出来る範囲で良いからね」
「うん!」
私は台所に行き、お米を釜に入れて、水瓶と釜の間を小さい杓を持って往復し始める。
そして居間の会話が再開される。
「用件としては先程言ったように様子見だけだ。子供が生まれそうだという報告以後全く連絡がなく、大層心配だったそうだ
無事であれば何で連絡を寄越さないのかという文句を伝えておいてくれ、と頼まれた」
「そうか、連絡を怠った私の尻拭いをさせてしまった訳か。済まなかったね」
「さっき身体の自由がきかないと言っていたからな、なにがしかの理由があったのだろう?」
「まあそうだね、私は死ぬ一歩手前まで行っていたから、もう連絡はしない方が良いだろうと思ってね」
「何と、そんな事が……原因を聞いても?」
「生きる希望が見えた時から改めてあいつには報告しようと思っていた、その手間が省けるから説明するのに否はないんだが……ここで詳細を話すのは少し勘弁してもらいたい、聞かせたくない相手がいる」
「む、何か理由が」
「瑠花さん、この方は五斗米道の上級医師です。その身に触れるだけで事情を察してもらえるはずです」
「それもそうか。なら背中とかで構わないかい?」
「ああ、服越しでも大丈夫だ」
「そりゃ助かるね」
「では失礼する……これは、つまりそういう事か……いやしかし、これほどの規模の治療など……。
ふむ、委細把握した。確かにここでは言いにくい話だ。
しかしこの治療、謙信殿が行われたのか?」
「ええ、数日の猶予もないとすぐさま掛かりました」
「謙信殿はもしや……いや、詮索が過ぎるか。
謙信殿、恐らく私では身命を賭したとしても劉弘殿を完治まで持っていけたかも分からん。恩人の友人を助けてくれた事に礼を言いたい」
「礼は本人から頂いていますから必要ありません。それにそうかしこまらないでください、きっと貴方なら同じように彼女を救えていたはずです」
「そう言ってくれるか。……とかく俺の用件は終わった。盧植に伝言があれば伝えておくが?」
「ならそうだな。とりあえず心配してくれてありがとう、お前も早く子を産め、ぐらいだろうか」
「それは……ほぼ確実に激怒すると思うぞ?」
「はっ、だからいいのさ。一頻り怒った後に、私らしいと言ってくたびれた笑いをする。いつものやり取りさ」
「ふむ、ならありのままに伝えておこう。では用事も済ませたから俺は中央に戻ろうと思うのだが、謙信殿、一つ頼まれてくれぬか?」
「はい、私の出来る範囲の事であれば」
「俺は報告の為に盧植の元に戻らなければいけない。役目を終えたら再びここに戻ってくるが、その間阿陀を貴方に預けたい。そして医術と薬術をこいつに教えてやって欲しい」
「ああ、そんな事ですか、私は一向に構いませんよ。後進の積極的な育成もまた医聖の教えの一つですしね」
「往復の時間や旅の準備に掛かる時間を諸々含めて二ヶ月ぐらい掛かるが、宜しいか? 勿論それなりの対価は払わせてもらいたい」
「はい、大丈夫ですよ。対価については……私の頼み事を一つ聞いてもらうという事でどうでしょう。とある人の治療をしたいのですが、自分は訳あってその患者に会いに行けないのです。ですので私の代わりにその人物を治療していただきたい」
「受け入れ非常に助かる。俺以外の医者の術も学ばせなければと思っていた所でな、謙信殿程の名医ならばこいつの知見と器も大いに広がる事だろう。
しかし、謙信殿に治療できない患者を俺が治せるだろうか?」
「自分がその患者に会いに行く事が出来ないだけなので、華陀殿の腕前ならば十二分に完治させられるでしょう。時間に関してもそう気にする必要はありません」
「自分に果たせると謙信殿が言われるなら、その条件で頼む。では阿陀、そういう事だ」
「分かりました、精一杯学ばせてもらいます!」
「うん、短い間だけど宜しくね」
話が終わった気配を感じ、私は居間に向かう。
とっくに準備は済んでいたが、私は空気が読めたのだ。
「ひをつける前までできたよー」
「そっか、ありがとう。それじゃあそこからは私がやるよ」
「ん、いっしょにやろう?」
空気を読んでずっと我慢していたけれど、だけど仲間外れにされているような寂しさを完全に殺せる訳でもない。だからぎゅっと先生の袖を掴んでしまった。
すると急に視界が高くなり、先生の顔が間近にあった。
一瞬の間にだっこされたのだと気付く間もなく、先生は私の目をしっかりと見返してきて、
「それじゃあ手伝ってもらおうかな」
と言って優しく微笑んだ。これだけでもうね、寂しかった気持ちとかぜーんぶ無くなった。
けどそれだけじゃなくて、台所まできた先生は私を降ろして目線を合わせ、
「ごめんね、ありがとう」
優しい声と頭を撫でる温かい感覚に、私はもうこれ以上なく満たされてしまった。
私の感情を全部分かって、必要な言葉をかけてくれたのだと心が察した。
それまであった蟠り、阿陀という少年に先生が取られるのではないか、という不安が洗われた。だってこんなに私の気持ちを知ってくれている人が私を大事にしてくれない筈ないし。
「それじゃあ美味しいご飯、作ろっか」
「うん!」
それから二ヶ月程はごくごく普通の生活だった。
阿陀兄さんは既に完成していた先生宅の居住空間に住む事になり、学び舎部分の改築の手伝いをしながら医術の勉強をしていた。
初日で蟠りが無くなっていたけれど、彼に負けたくなかった私は競うように先生の手伝いを頑張った。
学び舎が完成して授業が始まるようになっても、私が一番弟子だと言わんばかりに学んだ。
彼は妹分が出来たと普通に喜んでいて、先生は優しく微笑んでその様子を見ていた。
とても平和な日常が過ぎ、そして期限がやって来た。
本当にあっと言う間だった。私は日々に夢中で、二ヶ月の期限が迫っているという意識すら皆無だった。
期限の前日、授業の終わりに阿陀兄さんが今までお世話になりましたと畏まって言った時にようやく思い出したのだから。
「二ヶ月というのは存外に早いなぁ。これ、餞別に書いた本と予備の鍼。大事に使ってやってよ」
「はい、ありがとうございます。ずずっ、俺、先生の教え、絶対に忘れません。
勉強がこんなに楽しいものなんだと教えてくれた事、辛ければ辛いと言わなきゃいけない事、他にも色々な事を教えてもらいました。その一つ一つが俺の宝です。
あくまでも俺が目指す医者は師匠です。けど先生という見習うべき人が一人増えたのは俺の人生の中でも最上の幸運になると思います。
本当に、今まで有難うございました」
「うん、短い間だったけど、君の面倒を見られて良かった。君は生徒としても医者としても稀有な資質の持ち主だ、これからもその資質を真っ直ぐ伸ばしなさい」
「はい!」
そのやり取りを見て、ああ、本当にこの人は行ってしまうんだと理解した。
私にとっての最初の別れ。感覚としてはまだよく分かっていなかったけれど、何かをしなくちゃと思って私は学び舎を飛び出した。そして家に帰り、先生に渡そうと溜めていた漢方類を引っ掴んで学び舎に戻る。
「突然飛び出して行ってどうしたんだよ? 劉備にもお別れを言おうと思ってたのに」
「これ、あげる!」
「ん、これって……先生に渡す筈の」
「いいのっ! せんせーはせんせーでちゃんとお薬もってるけど、阿陀おにいちゃんはもってないでしょ、だからあげる。せんせーにはもっと良いものわたすからだいじょーぶ!」
「そっか、ありがとな。今後病気とか怪我とかしたら、俺に言え。全部無料で治してやるから」
「いらない、せんせーにみてもらうから」
「うっ、そりゃ先生が傍にいりゃ俺なんていらないだろうけどさ、こういう時は素直に受け取るもんだろ」
「知らないもん、それにあたしは阿陀おにいちゃんよりもずっとながくせんせーに教えてもらえるから、けがもびょーきも自分でなおすし!」
「それは素直に羨ましいんだよな。先生は医学以外の学問にも明るいから、学べる事はいっぱいあるし」
「ふふーん」
「なんでお前が得意気なんだよ。
まあだからさ、俺の分も賢くなって、劉備は劉備にしか出来ない事を見つけろよ」
「うん、分かった」
「お別れは済んだ? 一応お別れ会として夜はご馳走を用意しようと思ってるから、楽しみにしててね」
「「やったーっ!」」
そしてその翌日、華陀さんが迎えに来て、先生と会話を交わし、阿陀兄さんは去っていった。
短い付き合いだったけれど、彼の真っ直ぐな姿勢は私の中に手本としてしっかり残されるのだった。
これが二つ目の大きな出来事。
次いで三つ目の事件はこの二ヶ月後に起きた。
三十人程のはぐれ盗賊団に村が襲われたのだが、母と先生がいとも簡単に撃退してしまった。以上。
……本当にこれについては語る事がないのだ。家に隠れてなさいと言われて、数時間後には処理も何もかもが終わっていたのだから。
余りに容易く盗賊を蹴散らしてしまったから勘違いしそうになるが、馬を持ち、武器を整え、場数を踏み、そこそこ腕と頭の良い親玉がいた盗賊だったらしく、普通ならこんな長閑な村で対処できるほど彼らは弱くなかった。
つまり彼らを蹴散らした母がそれだけ強かったという事なのだが……もし先生がおらず、母が完治していなければ? と考えた時、身が竦む恐怖を感じた。
先生がおらず、母が全快していなければ、この村は盗賊達に乗っ取られて好き放題にされていただろう。悪辣に、辛辣に、村人達は苦しんで死んだ事だろう。
その恐怖に押され、母が村の皆からの賞賛を受けいている隣を抜けて、私は先生に会いに行った。
先生は母を補佐するように陰で偵察や警戒にあたっていたそうだ。それも賞賛される行為なのだが、先生はそれを誇ろうとせず、皆の輪から外れた所に佇んでいた。
何かを考えている素振りの先生の元に走り寄り、私は頭を下げてお礼を言った。
私は何もしていないよ。賊は戦力の分散もさせてなかったから、偵察なんかも結果的に意味がなかったよ。と言っていたが、それを知る事も重要な戦略の一つだと学んでいたので、そう先生に反論しようとして、
「もはや運命は形作られているという事か。私はここに、必要なかった」
そうぽつりと、視線を上にして先生が零した言葉に私は凍りつかされた。
その言葉の何処に私が凍りつく部分があったのか、その時の私は知るよしもなかった。
ただ私は先生が必要なかった等という言葉があまりに悲しくて、先生に抱きつき、そんな事無いと否定の言葉を発しながら泣くことしか出来なかった。
先生は泣きじゃくる私の頭を優しく撫で続けてくれ、私は安心感からそのまま寝てしまった。
しかし今なら分かる。先生の手からは私への気遣いしか感じ取れず、きっと先生の顔は悲しいままだったんだろうって。
この第三の事件、何事もなく収束した話ではあるが、これこそが私に運命という存在を認識させた最初の一件だったのだ。