劉邦様の下から旅立って四ヶ月、俺達はようやく沛県近くの村に辿り着くことが出来た。
一直線かつ馬を気で治療しつつ行けば一ヶ月とかからずにお婆さんの元に行けたのだが、お婆さんも体調を崩している訳ではないとの事だったので、あまり急がず二ヶ月を目安に旅して行こう!と決めた。
だがどう思ってしまったのが良くなかったのだと後々気づいた。
後悔は先に立たないのだ。
決して遠回りをした訳ではない。
時間と機会を有効活用しようと思い、一泊する町村では張術の教育も兼ねて夕方から夜まで無料の診察なんかをやって経験を積ませ、有望そうな若者がいれば声をかけて認定試験の受験料を渡して後進の育成に励み、不作の村には近くの街にいる長を通じてお上に免税を働きかけたりしていただけだ。
あくまでも夕から夜に生じる暇な時間の有効活用、買い付けなどで立ち寄った村での簡単な勧誘、次の行き先でのついでの言付けだった筈のそれらが、いつしか意味を持ち始めた。
俺達の知らない所で、貧窮する村々を救う二人の正義の味方が長安から遣わされた!との噂となって急速な広がりを見せていたのだ。
その早さは俺達をとうに追い越し、先々の村に伝わってしまっていた。
とりあえず二人組の見目麗しい女性が来たら歓待なり何なりして全力で引き留めろ!そしたら怪我の治療から困窮の救済から色々やってくれるぞ!
そんな共通認識が先に行く村の人々に植え付けられているとは露とも知らず、行ってみたらどの村も歓迎してくれてるなぁ、無碍に出来ないなぁなどと、俺達はまんまと足止めを受けてしまった訳だ。
ちょっと俺達ゆっくりし過ぎじゃね?と二ヶ月経って行程が半分しか消化されていないという驚愕の事実に気づいた時、光琳さんの言葉を思い出して焦りに焦った。
しかし行く先々で心臓の弱い娘が…とか、三日前に倒れて以来意識不明の父が…とか、飢饉で来月には子供を売らなきゃ…とか言われたら、ねぇ?
そうした理由があり、のんびり余裕を持った二ヶ月の旅が、騒がしく慌ただしい四ヶ月の治療行脚となってしまった訳である。
予定の倍の時間をかけ、どうにかこうにか俺にとっての始まりの村まで辿り着き、お婆さんが元気に出迎えてくれた時は心底安心したよ。
とはいえ、闊達に笑うお婆さんは二年前に見た時よりも確実に細くなっていて、気も淀んでいた。
もしもう二、三ヶ月遅れていたら、何らかの病にかかって身罷っていたかも知れない。
村長宅にて一夜を過ごし、久しぶりに静かに微睡める気持ちの良い朝を迎える事ができた。
これだけの事がなんと幸せなのか、強く実感する。
これまでであれば早朝だろうと構わず、俺の部屋の前には何らかの事情を抱えた人が行列をなしていた。
戸の前に立たれると気配で目が覚めてしまうので、ゆっくりと起きるという事が出来なかったのだ。
けれどここではしばらく腰を落ち着けると宣言していたので、朝から早速!という人はいなかったのが幸いだった。
俺は久しぶりに二度寝の惰眠を貪った後、お婆さんが用意してくれていた手料理を食べ終え、これからの予定を立て始めた。
張術を呼び、地図を広げ、次何処に向かうかを話し合う。
目的地であった沛県には来れたので、お婆さんの様子を曹参さんに伝える為に一旦引き返そうか、という話も出たのだが、そうするとこの村以降で今か今かと待ち構えている人達から要らぬ反感と軋轢を生んでしまうとお婆さんにお願いされてしまった。
確かに、と考えこんでしまう。
例えば悪質なインフルエンザが流行していたと仮定する。しかし政府の作った薬で予防と治療が可能で、なんと薬は配給所で並べば無料で貰えるらしい。
これで助かるんだと意気揚々と配給所で行列に並んでいたら、目の前で配布の終了宣言された。
さて、ワクチンを貰えなかった人達はどう思うだろう、どう行動するだろう?
命のかかった場面だ、大人しく引き下がるとは思えない。薬を配給していた人と、目の前で配給を受けられた人を逆恨みし、強奪、暴動などを起こしてしまうのではなかろうか。
どうやら滞在させてもらったお礼に一日で出来る事をしていただけ、それほど大した事をしていない、という認識は改めた方が良いようだ。
ならばいっそ本拠を沛県に置いて長期滞在しよう。
俺らから出向くのではなく、腰を落ち着けて治療と嘆願を受け付けようという魂胆。
旅は続けたいので、一年、二年限定と銘打っていれば何とかなるだろ。
そう方針を固め、張術とお婆さんに話すと、それが良いと賛同を得る事ができた。
沛県の役所の一角を借り受け、治療所兼相談所として使わせてもらう運びになり、更にそこで噂の二人組が治療と相談を受け付けていると大々的に発表した。
するとその反響は凄まじく、来るわ来るわ人の波。
とはいえ今までは何の防波堤もない状態で人波に揉まれながらの作業だったが、ここはかなり大きい役所なので、壁も人員もあって俺としては大分やりやすかった。
サイクルとしては五日をそこで寝泊まりし、二日はお婆さんの所でゆっくりするというもの。時たま治療に来られない人達の元へと遠出したりなんかして、気付いたら二年の期限がすぐそこまで迫っていた。
俺は期限の延長はせず、次の逗留ポイントとして南の長沙を目指すとさっさと決めていた。
理由は三つ。
一つ目はこの近隣の相談がほぼほぼ無くなったから。
国の政策が地方にも影響を及ぼし始めたのが大きい。
相談の内容はほとんど飢饉、農業、商売に関するものだったので、国の飢饉対策の徹底と、俺の指南書による農業改革と、国の商業優遇政策ががっつり問題を浚っていった形だ。
二つ目は治療院が俺なしでも回せるようになったから。
張術は沛県での二年逗留の間に特級試験を合格してしまった。本当に筋が良く、勤勉な子だよ。
診察や治療に俺の付き添いが必要なくなったお陰で効率は倍になり、余裕が出来ていた。
なので他に有望そうな子をアシスタントとして雇い、教育しだしたのだ。
張術も後輩が出来ると張りも出るし、後進にものを教えるとなると復習になって良い影響を及ぼすだろうと思っていたのだが…予想以上というか、予想外というか、彼女は俺よりもものを教えるのが上手かった。
彼女は一年足らずで下級医術試験合格者を複数育てる事に成功していた。
下級とは言え、村医者としては十二分にやっていけるレベルである。
不確かな知識しか持っていなかった者を一年でそのレベルに引き上げたのだから、張術の教え方がどれだけ上手かったのか分かろうというものだ。
三つ目、最大の理由はお婆さんが亡くなってしまったから。
……手の施しようのない老衰であり、また見事な大往生だった。
つい一ヶ月前、光琳さんが仕事を終わらせたので、大急ぎで村に戻ると連絡があった。
俺達一堂は歓迎の為に準備をし、身内だけの宴を行った。
俺が趣味で作った果実酒とこれまた俺が作った創作料理で光琳さんを持て成し、飲めや歌えやで皆大いに楽しんだ。光琳さんは母親を元気な姿で見る事が出来たと喜びと安堵をこぼし、珍しく羽目を外していた。
また大事な記憶の一ページが増えたと喜んでいた、その一週間後の事。
朝、いつも早起きのお婆さんが中々起きてこないのを心配した光琳さんがお婆さんを起こしに行った際、お婆さんが安らかな笑顔を浮かべて亡くなっていたのを発見した。
お婆さんが亡くなったという知らせが周囲を駆け巡ったその日、近隣の村々は悲しみに暮れた。
光琳さんが戦いに赴いてからは近隣の村々を公正かつ親身に治めていたお婆さんは、近隣住民に例外なくとても慕われていたのだ。
彼女の葬儀には多くの人が詰めかけた。
光琳さんはお婆さんが多くの人に惜しまれている光景を見て、そこでようやく一筋の涙を流していた。
どれだけの苦境にあろうと弱音も涙も見せなかった光琳さんが見せた、初めての涙だった。
普通ならばそこでしばらく喪に服して仕事を休むのが常識だったのだが、彼はすぐさま仕事に戻った。
お婆さんなら、仕事をほっぽり出して何をしてるんじゃ!と怒る事を重々知っていたからだ。
俺はというと、大事な人がいなくなった場所には居辛いという後ろ向きな理由から村には顔を出さなくなっていた。
最初にお婆さんに出会った時、大好きな夫が亡くなった本宅へ近付けないと言っていたのを思い出す。
今ならその気持ちが痛いほど分かる。
一ヶ月後、親しい人との初死別になんとか気持ちの整理をつけた俺はお婆さんの墓の前にいた。
共同墓地の一角にぽつんと立つその墓に、お婆さんの好きだった百合の花を供える。
隣には張術がいる。
彼女もこの二年間でお婆さんに家族同然でお世話になっていた。娘のように扱われるのも満更ではなかったようで、二人は本物の家族のように見える程親しくなっていた。
俺がこの一ヶ月村に来れなかった分、治療所を休んでいた時は毎日こちらに来てお墓の掃除をしてくれていたようだ。
本当に、よく出来た娘だ。すごく有難かった。
俺はまず一ヶ月顔を見せに来れなかった事を詫び、そしてまたしばらく会えなくなる事も詫びた。そして今までの思い出を語り、最後に深く深く感謝を述べた。
この時、俺はこちらに来て三度目の涙を流した。
お婆さんに別れを告げた後、俺はそのまま長沙に向う。
張術も付いて来たがっていたが、もう彼女に教える事は何もない。
しかもつい先日、医術特級合格者として、また教育者として都で治療院と医学校を開いて欲しいと劉邦様からの勅令が届いていた。
彼女はそれはもう名残惜しそうにしていたが、勅令とあらばどうしようもない。
俺は昨日の内に、彼女に俺謹製の医療器具を送り、真名の名付けと真名の交換を済ませていた。
実用性抜群の医療器具群よりも真名の名付けを彼女はいたく喜んだ。
「私もようやく師匠を真名で呼べるのですね?」
「むしろ真名の交換は遅すぎたぐらいだ」
「いえ、初めに言った通りです。いずれ特級試験を合格したなら、ご褒美は最上の物が良い。それを目指していたからこそ、短時間でここまで至れたのです」
「ご褒美が名前ねぇ、本当にそれでいいのか?」
「ええ、名付け以上の贈り物などありませんよ。気にされるのなら、一杯一杯考えて下さい」
「いやまあ実はさ、試験に合格した時から考えていたんだよ。
喜び和むと書いてシーホーと読む。俺がお前に抱いた印象をそのまま当てた。この名前を持って、周囲に喜びと和をもたらし続けてくれると信じている」
「しーほー、喜和、良い名前です。とっても良い名前です!一生大事にします!」
「おうおう、精一杯考えたんだ、大事にしてやってくれ」
そんなやり取りをして、昨日の別れは締めくくられた。
お婆さんと喜和との別れを済ませたので、何も思い残すこと無く長沙に向かえる。
「いってらっしゃい。白様、都で待ってますね」
「いってくる。長沙での活動が終われば長安に行く。それまで都の皆を頼むぞ、喜和」
そうして俺達は笑顔で別れた。
長沙までの道のりは順調そのものだった。
ただ長安から沛県に向かう道中でもやっていたボランティアを長沙に向かう道のりでも行っていたのだが、やはり一人では多少効率が下がってしまった。
とはいえ不満点はそれぐらいであり、予定していた到着時間よりも一ヶ月ほど遅れて俺は長沙に辿り着いた。
一人旅、というよりも一人で行動するというのは初めてだったのだが、思うよりも上手く行った。
張術から旅の常識やサバイバル術を学んでいたし、一人という事で軽妙に動けたのも上手く行った要因だろう。
精神的な苦痛もあまりなかった。寂しさは勿論あったが、何だろうか、一人暮らしを始めたばかりの奇妙なハイテンションに似た高揚感が寂しさを消してくれた。
もっと長く続くとホームシックに罹っていたかもしれないが……って、それはないか。俺は唐突な転生という異常事態を経験しても孤独を感じてこなかった精神的不感症人間だしな。
そして長沙に着き、役所に行ってみれば、何故だか待ち構えていた長沙の県令がやってきて、直々に役所近くに用意されていた治療所兼相談所へ案内をしてくれた。
随分と立派な建物だと外から驚き、中に入って既に人員が勢揃いして俺を出迎えたことでまた驚いた。
どうやら『次は長沙にでも行きます、何かあればそこに連絡下さい』とほいほい劉邦様に手紙を出したのが良くなかったらしい。
一応名前を変えてのお忍び旅なんだけど……。蕭何って分からなくても、国の認めたお偉い人なんだって気を遣われたら意味が薄れちゃうんだよなぁ。
県令さんから設備も人員も好きに使ってください、物が足りなければ言ってくださいと畏まった対応をされ、俺は苦笑いでそれに応えるしかなかった。
長沙での活動は何事も無く進んだ。
相談も一年ほどでまばらになり、治療所の人員も漏れ無く医術下級合格者に育て上げた。
一年以降俺はかなり暇になってしまったので、出張治療に精を出す事にした。ついでとばかりに海に行きバカンスを楽しんだりもしつつ、寄った海辺の村に塩の精製、船の造り方、各種漁業方法の伝授なんかもしておいた。
そうして二年、見所のある子が上級認定試験を合格したので、そろそろこの場所も移動しようと思っている。
これから長安に戻りますよ。と手紙を出して一ヶ月。便りが長安に届きそうなタイミングでその噂は飛び込んできた。
国と匈奴が戦争を起こしたと、それが二ヶ月前の事だったと。
有り得ない!どうして?!という疑問と、やってしまった!という後悔と不安で頭が真っ白になる。
取る物も取り敢えず、俺は最低限の旅支度を済ませて長沙を発った。
申し訳ないと思いながらも馬を使い潰しては村から村へ。
寝食すら惜み、本来なら三ヶ月~四ヶ月を見越す道中を一ヶ月で駆け抜け、長安に辿り着いた時にはしかし、全てが終わってしまっていた。
本当に、後悔は先に立たないのだ。