3
物凄く強いネット囲碁師が居る。プロ棋士『和谷義高』が負けたと言い出した事から始まった正体不明の棋士探しは大いに囲碁界を騒がせた。ハンドルネーム『sai』と『zelda』詰まる所和谷との対局棋譜を彼の師である『森下茂男』を始めとする名だたるプロ並びに研究生達に見せた所爆発的に広まった噂である。今日も今日とて森下研究会に置かれたノートパソコンの前には人だかりが出来ていた。その隣ではボードに今現在を以って打たれている『sai』の対局が張り出されていた。
「しかしなぁ。どうしてコイツはネットの世界に閉じこもっているんだ? これだけ打てるのならプロにだって……ううむ」
「そこなんスよねぇ。このsaiって奴一体何考えてんだか全く分かんねぇし」
「和谷、saiも良いがオレと対局してくれよ。皆saiのことが気になって誰も相手してくれないんだ」
「伊角さん! もう少しだけ待って貰って良いですか? もう少しで終わりそうなんスよ。そうだ、伊角さんも見て下さいよこれ!」
「おいおい、和谷。ボードにも張り出されてるんだぞ? 全く……にしても本当に以前お前が言っていた秀策に似ているな。何者なんだコイツは」
ソレが解ったらどんなに良い事かと和谷は苦笑交じりに『そうっすね』と返す。パソコンの中、盤上には黒白に彩られた電子の碁盤が映し出され『sai』の勝利がその上を塗り潰すようにポップした。
「嗚呼、終わっちまった。和谷、伊角と打つんだろう? サッサと行ってやれよ」
「そうっスね。よし、伊角さん! 打ちましょう」
「はぁ。お前のその言葉遣い早めに如何にかした方が良いぞ」
伊角と呼ばれた黒髪の青年と幼さを残した明るい茶髪の少年和谷は手ごろな空いた席に着き碁石を握った。『お願いします』の掛け声と共にパチリと一際大きく響いた。
4
カチリカチリとマウスのクリック音と嬉しそうに微笑む女性の声がヒカルの鼓膜を打つ。ノートパソコンに向かい操作するヒカルの隣には白装束に身を包み込んだ妙齢の美しい女性が座しており食い入るように画面をじっと見つめていた。
「(はわぁー、この『のーとぱそこん』と『ねっと囲碁』は凄いものですねぇ……ヒカル)」
「嗚呼、そうだな。どういう原理で出来ているのか俺には分からないがこうしてあるのだから凄いものだ。所で藤原いつまでも俺はこうやって時間を気にせず打つことが出来る訳じゃない。後一週間もすれば大学が始まるし、な」
「(ええっ!? もう打てないのですかぁ!?)」
「待て待て。打たないとは言ってないだろ。ただ、対局数を少し減らせと言ってるんだ。俺も目が疲れるしさっきも言ったが学校も始まるんだからネット三昧とはいかないんだよ」
そんなーと項垂れ腰元まで届く長い黒髪を垂らして落ち込む藤原に悪いなと声掛けてあと一週間は付き合ってやるさと励ます様に『何故か』触れ合う事の出来る藤原の頭を撫でるとじゃあもっと打ちましょうと次を急かす様にパソコンを扇子で突く。
「はいはい、分かったよ。ん、対局申し込み? 国籍は日本。どうする藤原、受けるか?」
「(ええ、勿論受けます)」
「オーケー、始めよう。今度のは強い奴だと良いんだが」
そうですね。と小さく返答する藤原の目は既に臨戦態勢に入っており切れ長の瞳を薄く細めて相手がどの様な手を魅せてくれるのかと期待に胸を膨らませていた。『ぴこん』という軽快な音と共に黒石が盤上に置かれ『sai』の対局が再び幕を切った。
5
「あ。やべぇ食材切らしてたの忘れてた。藤原、悪いけど一旦ネット囲碁は切り上げてスーパー行くぞ」
「(はい? 『すーぱー』とはなんでしょう? 囲碁に関連しますか?)」
どこまでも囲碁好きな藤原に軽い頭痛が走るも駄々を捏ねられても困るので適当に言葉を濁しながら色々な雑貨を売っている店だと返答する事で興味を誘導し囲碁から遠ざけようと試みる。
「興味があるならついて来るか? ……いや、その前にお前は俺から離れる事が出来るのか? 一応憑りついているんだろう?」
「(行きます! 離れられるのかと聞かれると……うーん、難しいみたいですね。精々一〇尺(三メートル)程度ではないでしょうか?)」
「そうか、まぁ迷子ならない範囲なら丁度良いというか都合が良いというべきか」
「(むっ。ヒカル! 迷子になるだなんて些か失礼ですよ!)」
「いいや、もしお前が自由に移動できるなら碁会所やら囲碁に関係する場所だったらフラフラとタンポポの綿毛みたく飛んでいきそうだ」
胸を抑え『うぐっ』と図星を突かれた様にオーバーなリアクションを取る藤原を見ていると自然と笑い声がくつくつと喉元から響いている事に気が付いた。そんな俺を見て機嫌を損ねたのか不満げにふくれっ面をしてそっぽを向き始める藤原のご機嫌を取る様に『食材買ったら碁に関する本でも買ってやるよ』と声かけると彼女の機嫌は如何やら反転した様で『さぁ行きましょう』と急かし始める始末だった。財布を斜め掛けの鞄に突っ込みガス栓の確認と戸締りをして進藤家から外へと出る。最寄りのスーパーはそれ程遠くない位置に出店しておりご近所では『近くて安く安全』の三点揃った評判の良い店だ。
「(ね、ヒカル! ヒカルってば!)」
「(なんだ、どうした藤原?)」
「(誰かの視線を感じます。家を出てからずっとです)」
「(…………ほっとけよ)」
「(え? いえ、しかし……分かりました。何やら事情が有りそうですね)」
テレパシーとでも言えばいいのか俺と藤原は脳内で伝えたいと思ったことを送受信する事が出来る様だった為に余計な事をするなと釘を刺しつつ歩を進める。誰の視線かだ何て解りきっている。『彼女』だ。『彼女』は俺に負い目を感じてある種の病気に近しい状態に陥ってしまっていた。誰にもどうすることも出来ない『彼女』の事を思い出すと胸が苦しくなる。
道中幾分か気分が悪くなりはしたが無事目的地であるスーパーに到着しカップ麺や冷凍食品を買い物籠に放り込みそそくさと会計へと足を向けようと振り返った時だった。『彼女』が声を掛けて来たのは。亜麻色の綺麗なストレートヘアに以前会った時よりも大人びた顔立ちになった美女と美少女の狭間で揺れる『彼女』は親しげに近づいて来る。
「ヒカル、偶然だね。……『また』そんなの食べてるの? ダメだよ栄養に気を付けないとっ! 今度、ぅうん今日から私が……」
「……悪いが、藤崎。もう……俺に関わるな。その方がお前のためだ」
「ど、どうしてそんな事言うの? ヒカル。私は……ヒカルの為に!」
「お前は俺に負い目を感じているだけだ。ガキの頃に起きた『詰まらない出来事』にいつまで足を取られているつもりだ? 俺はお前の助けがなくても大丈夫だといつも言っているだろう」
「で、でも! あの、その……私は、ヒカルの」
「悪い、な。俺の事は忘れてくれ……(多分、初恋だったよ。あかり)」
踵を返し藤崎から逃げる様にして呆然とする彼女から離れる。隣には藤原が悩ましげな顔をしながら追随していた。
「(良いのですか? 彼女はヒカルの事が……)」
「(ん、アイツさ。俺みたいなのには勿体ない位に器量よしで良いヤツ過ぎるんだよ。……だからこそ、アイツには幸せに成って欲しいんだ)」
「(ヒカルが、あの娘を幸せにすればいいじゃないですか)」
藤原の言葉に自嘲気味に苦笑を浮かべると首をゆっくりと横に振って無理だと告げる。『俺が隣に居ると彼女は不幸に成ってしまうだろう』と。続けて『あかりは優しすぎて意思の弱い俺では共依存してしまう』のだと藤原を説き伏せる。
「(なんて、報われない……ソレで本当に良いのですか? ヒカル)」
「(仕方がないんだよ。藤原。何も知らないクソガキだった俺だったなら。もしかすれば『あかり』とそういう関係に成っていたのかもしれないな)」
乾いた笑いを上げ疲れ果てた老人の如き重い足取りで自宅までの道を只管に歩いていく。藤原は何かを考える様に黙していたが、この時ばかりはつい先ほどまでの騒がしかった自室が途轍もなく恋しく思ったのだった。