鷹が如く   作:天狗

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9.「武」と「暴」

 樹上で足を止め、服部正重はタカの眼を使用した。彼の視界の端に宮本武蔵の姿が黄色く浮かび上がる。鬱蒼と生い茂る木々に阻まれて武蔵から正重を発見することは難しいだろう。

 だが、正重は念のために距離をおいて彼の追跡をしている。彼の位置からだと武蔵の背中しか見えないが、そこから溢れだす気配が尋常ではない。武蔵は今、獣のごとく他者の気配に敏感になっているだろう。

 正重は込み上げる欠伸をかみ殺した。武蔵を発見してから既に一刻(二時間)は経過していた。襤褸(ぼろ)で縛っただけの武蔵の足は既に血が止まっており、その歩みもしっかりしてきている。恐るべき回復力だ。

 変化が訪れたのはある神社へ続く参道に到着した時だ。武蔵を狙った賞金稼ぎの男たちが彼を取り囲んだ。武蔵の実力を正重は知らないが、手を出す気はなかった。それは、集落への道中、丸目に言われたことが関係している。

 柳生の里として、表立って武蔵を手助けすることはできない。

 そう語った丸目は表情に悔しさを滲ませていた。正重としても、進んで武蔵を助けるつもりはない。知らなかったとは言え、主君の息子である結樹秀康を暗殺した下手人であることは確かなのだ。

 天海の狙いも、丸目の後悔も理解しているが、心で納得できていない。

 武蔵が刀を抜くと、賞金稼ぎの一団も刀を抜いた。戦闘が始まる。

 戦いに集中していれば自身に気づくこともないだろう、と正重は樹上を移動し、彼らの付近にまで近づく。

 迫る刀を打ち払い、胴を薙ぐ。両側から同時に攻められれば、後方へとんぼ返りし、右手の賞金稼ぎの首を切り落とすと、左手の賞金稼ぎの腹を突き刺す。その戦いぶりはお世辞にも洗練されているとは言い難いが、読みの速さ、確実に隙をついて力強く振られる剣の速さには眼を見張るものがある。

 おそらく武蔵に剣の師はいない。独学と才能であの域まで達したのだ。師がいない分、試行錯誤と(たゆ)まぬ努力が必要だったであろう。

 やがて、武蔵が最後の一人を斬り伏せる。詰めていた息を吐き出そうとして、正重は自身が武蔵の戦いに魅了されていたことに気づく。

 悔しげに顔を歪めると、生き残りの賞金稼ぎが立ち上がるのに気付いた。咄嗟に籠手から針を取り出し、投げる。針に塗られた麻痺薬は即座に効果を発揮するが、力なく振り下ろされた刀は武蔵の肩を浅く傷つけた。そこでようやく武蔵は背後の敵に気づき、振り向きざまに刀を斬り上げる。

 倒れた賞金稼ぎを後目(しりめ)に、武蔵は納刀し、斬られた肩に手を当てた。傷は浅いが出血している。そこへ背後から新たに四人の賞金稼ぎが現れた。

 

「ふふふ、もう満足に刀も振れんだろう」

 

 賞金稼ぎは嫌らしく笑うと刀を抜く。確かに、武蔵の体力はもう尽きかけている。正重は迷いつつ、懐から煙玉を取り出す。彼の実力ならば、煙で視界を覆っている間に賞金稼ぎの四人を殺し、姿を見られずに離脱することができる。

 しかし、それでは武蔵を助ける者の存在を彼に気づかれ、柳生の思いの邪魔になってしまうかもしれない。

 

「……うるさい奴らだ」

 

 低くしわがれているが、良く通る声が聞こえた。正重はタカの眼を使用し、声の聞こえた方を観察する。その正体に知り、ため息をついた。

 木の陰で横になっていたその男は、柳生石舟斎であった。

 彼の到着に正重は全く気づいていなかった。それほど武蔵の戦いに見入ってしまっていたのだろう。石舟斎は正重へ視線もくれずに、彼の未熟さを指摘しているようだった。

 石舟斎は「自身の眠りを妨げた」という理由で賞金稼ぎに絡む。突然の老爺の登場に彼らも戸惑っていたが、ついに刀を向けた。

 突きつけられた刀を人差し指と中指の二本で挟む。賞金稼ぎは振り払おうとするが、刀はぴくりとも動かない。

 柳生新陰流「無刀取り」だ。石舟斎の剣術は、最早刀を必要としない域まで達している。

 彼が刀を挟んだまま横に振ると、賞金稼ぎはあっさりと刀を手放し、地に投げられた。石舟斎が少し脅しただけで賞金稼ぎ達は脱兎のごとく逃げて行った。

 呆然としている武蔵を振り返り、石舟斎は傷の手当てを提案した。ふらつく武蔵を支え、彼は参道の先にある古い社へと向かう。

 おそらくこれから傷の手当てをしつつ、武蔵の「人となり」を知るために会話でもするのだろう。正重はこれからの行動を少し思案すると、再び樹上を駆け、二人の後を追った。二人が落ち着いて会話できるよう、警備を請け負うのだ。

 

 

 

 古い社の屋根の上に仰向けに寝転び、正重は腕を枕にして空を見上げていた。一応護衛のつもりでここにいるが、タカの眼は使用していない。長時間使用すればそれだけ疲労がたまる。使うのはなんらかの気配を感じた時でいいだろう。

 石舟斎から依頼された仕事は既に終わっている。もう柳生の里に戻っていいのではないか、と考えるが、正重の胸の中に引っかかるものがある。宮本武蔵の存在だ。

 正重は幼い頃から訓練を重ね、才が溢れていると周囲から評価を受けていた。自身もその評価は正しいと思っている。実際、正重と同世代で上忍に至った者はいない。兄の正就でも上忍として認められたのは二十も半ばを過ぎてからだ。自身は現、半蔵を超える才を持つ。その(おご)りが現在の彼の性格を作り上げた原因である。

 宮本武蔵はどうであろうか。師はおらずとも弛まぬ鍛錬を続け、不格好な戦い方ではあるが、丸目に認められるだけの腕を持っている。彼は荒削りの宝石だ。これからの生き方次第でいくらでも光り輝くだろう。

 自身でも驚いているが、正重は武蔵に嫉妬していた。幼い頃から鍛錬を続け、ここ一年は柳生の里という、武芸者として最高の環境で練磨してきた。それでも、武蔵の才を見れば霞む。達人の領域にいる正重だからこそ、一目、彼の戦いを見ただけで理解させられてしまったのだ。もし、宮本武蔵が自身と同じ環境にいたのなら、より多くの見識を得て、正重よりも強くなっていただろう。

 治療が終わったのか、石舟斎の吸う煙草の香りが辺りを漂う。同時に正重は社に接近する不審者の気配に気づいた。軽く舌打ちをする。またしても、何者かの接近を許してしまった。

 体を起こすと、タカの眼を使用して周囲を観察する。社を囲む森の中から四人の男が接近してくる。先ほど石舟斎を恐れ、逃げ出した賞金首だ。

 正重は腰に括りつけてある縄を取る。先に鉤爪(かぎつめ)のつけられたそれは、直接敵を殺傷するほどの威力はない。主に移動や拘束の用途がある。

 彼は鉤縄(かぎなわ)を高所にある枝に掛けると、振り子のように移動し、先にある枝に飛び乗った。器用に鉤縄を回収すると樹上を伝い、賞金稼ぎの元へ移動する。

 

「いいか? 宮本武蔵だけじゃねぇ。 あのジジイもぶっ殺すぞ」

「おう。 あんだけおちょくられて黙ってられねぇよ」

 

 賞金稼ぎ達は無警戒に会話しながら社へ向かっている。自分たちの存在に気づいている者がいるとは思ってもいないのだろう。

 正重は彼らの進行方向にある繁みに降りると、しゃがんで気配を消した。少しして男たちが通る。三人が通り過ぎたあと、最後尾の男の口を押さえつつ、喉にアサシンブレードを突き刺す。死体を繁みに引き込み、静かに寝かせた。傍に落ちている石を掴み、真上にある枝に鉤縄を引っかけ、一気に登る。

 

「おい、トシはどこだ?」

 

 賞金稼ぎの一人が男の不在に気づく。正重はそれに合わせ、適当な場所に石を投げた。

 

「大便でもしてんのか? おい! トシ!」

 

 大声を出せば武蔵たちに気づかれると考えたのか、男の一人は控えめに仲間を呼ぶ。だが、応える声は無い。

 

「ちょっと見てくる」

 

 石の落下した場所へ一人の男が移動した。他の二人はその場に残っている。正重は残った二人の内、後ろの男に狙いを定め、鉤縄を投げる。それは過たず男の首へかかり、彼は即座に枝から飛び降りた。

 

「ぐえっ」

 

 呻き声をあげ、男は首を吊られる。驚いて振り返った男の首に縄の端を締めつつ、アサシンブレードで腹を突く。縄を男の死体に縛り、固定する。首を吊られた男はしばらくもがいていたが、やがて動かなくなった。

 

「トシ、いねぇのか」

 

 最初に犠牲になった男を探していた男が声を上げる。生き残っているのが自分一人であることに、全く気づいていない。

 正重は気配を消して男の背後まで歩き、その背にアサシンブレードを突き刺した。背後から心臓を貫かれた男は、声も出さずに崩れ落ちる。

 タカの眼を使用し、正重は他に襲撃者がいないか探る。どうやら、他に社に接近する者はいないようだ。彼はアサシンブレードに残った血を男の着物で拭うと、社へ向かって歩き出した。

 

 

 

 正重が社に戻ると、ちょうど石舟斎が外に出てきたところだった。

 

「話は終わったのですか?」

「ああ、宮本は中で寝入っている」

 

 石舟斎はそう言って光る物を正重に向かって放る。危なげなく受け取ってそれを見ると、武蔵の戦闘中に正重が敵に向かって投げた麻痺針だ。石舟斎はいつの間にこれを回収したのだろうか。

 正重が石舟斎の登場に気づかなかったのは、彼の注意が散漫だっただけではないらしい。おそらく石舟斎は正重に気づかれぬよう、意図的に気配を消してあの場に現れたのだ。さらに、正重と武蔵が石舟斎に注目する中、誰にも気づかれずに麻痺針を回収してみせた。

 どうやら年老いているのはその見た目だけのようだ。彼の心根は若いままであり、忍である正重をおちょくっているのだ。

 

「……どうも」

 

 それに気づいた正重は不機嫌そうに眉を顰め、短く礼を言った。その様子を見て不敵に笑った石舟斎は話題を変える。

 

「お前は宮本武蔵をどう見る?」

「俺よりは弱い」

 

 当然それは石舟斎の求める回答ではない。天邪鬼が顔を出したのだ。それも見透かしているのか、石舟斎は楽しそうに笑うと、歩き出した。柳生の里とは反対方向の北だ。

 

「どちらへ行かれるのですか?」

 

 遅れて彼についていきつつ、正重は問う。

 

「祇園だ」

「祇園?」

「まぁ、お前みたいな青二才じゃ知らんだろうな」

「知ってます。 なぜ、祇園なのか訊いているんです」

 

 石舟斎と出会ってから一年半。誰もが憧れる武芸者への尊敬の意味を込めて敬語で話していたが、止めたくなる。苛つきを隠そうともせずに正重はさらに訊く。

 

「あそこは閉じた世界だ。 宮本が気に入れば、だが、正体を隠して暮らすにはちょうどいいだろう。 名を隠して生活すれば気づく者もおるまいし、賞金稼ぎのような者たちには逆立ちしても入れん場所だ」

「……なるほど。 それは分かりましたが、なぜ宮本と共に行かないのですか?」

「地図を置いて来たから自分で行けるだろう。 宮本と共に行かんのは、お前と話をしたかったからだ」

「俺と?」

 

 石舟斎は振り返り、正重と正面から相対する。その眼は普段の飄々(ひょうひょう)とした好々爺のものではなく、剣術を極める武芸者の眼だ。

 

「お前は、宮本武蔵をどう見る?」

 

 先ほどと同じ質問だ。

 

「俺は――」

 

 正重の開いた口が悔しそうに歪む。

 

「あいつに嫉妬しています。 よい師に導かれれば、容易くその業を吸収し、己の物とするでしょう。 ……俺の才など、あいつに比べればないも同然です」

 

 眼を逸らし、(うつむ)く正重の肩に、石舟斎は手を置いた。

 

「そう卑下するな。 ワシから見れば、お前も宮本も同じだ。 もし宮本が同じ立場でお前を見れば、似たような思いを抱くかもしれん」

 

 正重は俯いたままだ。

 

「技術の面で見れば、圧倒的にお前が(まさ)っている。 お前に足りないのは、心だ」

「心……ですか」

「ああ。 お前は何かを守るための戦いをしたことがない。 そうだな?」

 

 自身の過去を思い返すと、確かに誰かを守るための戦い、というものはしたことがない。そもそも、野心に満ち溢れていた正重は、守るよりも攻める思考の持ち主だ。

 

「宮本は関ヶ原以降、愛する者を守るために剣を捨てていた」

 

 正重は拳を握りしめた。あれほどの才の持ち主が、剣を捨てる。それは同じ武芸者として許容できるものではなかった。

 

「守るためには戦う力が必要でしょう? なぜ剣を捨てるのです」

「戦う力は敵を呼ぶのだ」

「ですが、宮本は守れなかった」

 

 石舟斎は腕を組むと、頷く。

 

「そうだ。 奴は、『武』ではなく『暴』であったからだ。 『武』と『暴』の違いは分かるか?」

「『武』と『暴』……」

 

 首を捻って考えるが、正重の答えは出ない。どちらも戦うための力だ。無理やり答えを出すなら、洗練された正重の戦法は「武」、武骨な武蔵の戦法は「暴」、であろうか。だが、石舟斎は戦法の話をしているわけではないだろう。

 

「ふふふ。 もちろん、お前も『暴』だ。 今はな」

「教えて頂いてもいいですか?」

「いやだ」

 

 突然、雰囲気を変え、子供のような返答をした石舟斎に、正重はぽかんと口を開ける。

 

「心の修業は師に教えられて学ぶものではない。 だが、弟子が『暴』に染まらぬよう導くのもまた、師の務めだ」

「石舟斎殿が、私の師であると?」

「お前が師だと思えばそうだ。 どうする? 導いてほしいか?」

 

 腹が立つ。だが、ここで拒絶すれば、石舟斎は二度と自身の成長に手を貸してくれないだろう。彼と同じ天邪鬼だから分かる。そう考えた正重は、一度深く深呼吸すると怒りを腹の底に沈める。

 

「よろしく、お願いします」

 

 たどたどしくそう口にすると、頭を下げる。

 

「なら、師として命じよう。 お前に宮本武蔵を陰から護衛してもらう」

「は?」

 

 思いがけない命令に、顔を上げた正重は再び唖然とする。

 

「丸目は天海に悟られぬよう、長く離れることができんからな。 いやぁ、丁度良かった。 丸目の穴をお前が埋めてくれれば助かる。 なに、週に一度でも良いのだ。 宮本の様子を見てやってくれ」

 

 笑ってそう言うと、石舟斎は歩き出す。未だ混乱している正重は置いてけぼりだ。

 

「くそじじい」

 

 己の師となったばかりの人間を毒づくと、少し遅れて正重はついていった。

 

 

※   ※   ※

 

 

 大阪。蒼天堀。神室町と対を成す西の歓楽街だ。

 二日前の晩に東城会本家にて、並み居る幹部衆を前に一歩も退かずに交渉していたアブスターゴの社員、仲本純一は蒼天堀のバー「ステイル」で酒を飲んでいた。店内は薄暗く、客層も落ち着いた大人ばかりの店だ。仲本が飲んでいる銘柄は「山崎25年」。一杯五千円。一瓶買えば本体価格で十五万円という高級酒だ。

 相変わらず貼り付けたような笑みはそのままで、芳醇(ほうじゅん)な香りを楽しみ、一口含む。

 スーツを着、カウンターで酒を味わい、塩を振られたアーモンドをつまむ仲本の姿は惚れ惚れするほど様になっていた。

 仲本の背後でドアの開く音がする。入って来たのは黒髪をオールバックにし、黒のコート、黒のインナー、黒の革パンツ、黒のブーツ、黒の革手袋。さらにはティアドロップのサングラス。全身を黒一色で染めた怪しい風体の男だ。

 男はまっすぐカウンター席へ向かうと、仲本の二つ隣の席に座った。

 

「バーボン」

「銘柄は何にいたしましょう?」

「何でもいい」

 

 好みの酒はあるが、その銘柄にはこだわっていないようだ。バーテンダーはグラスに氷を入れると、カウンターの後ろにある棚から「ブラントン・シングルバレル」を取り出し、グラスに注ぐ。丸く形を整えられた氷が溶け、パチパチと音を立てる。

 それがカウンターに置かれ、亜門はグラスを掴むと一息に飲み干した。味わいも何もない。

 

「もう一杯」

 

 バーテンダーが再びブラントンを注ぐ。今度は手を付けず、そのまま置いてある。

 

「意外と銘柄に拘らないんですね」

「興味がない」

「なるほど、だからいつも同じ格好なんですか。 拘りではなく、興味がないから同じことを続ける」

 

 仲本の態度は東城会の幹部を相手にした時と同じく、慇懃無礼だ。対する男はそれに気を悪くした様子もない。

 

「それで、大阪の様子はどうでした?」

「アサシン教団の影も形も見当たらないな」

「そうですか。 残念です。 我々は彼らに一杯食わされたようですね」

 

 台詞とは違い、仲本の表情は怒りも悔しさも感じさせない。ただ笑みを浮かべ続けている。

 

「次はどうする?」

「そろそろ準備が整った頃でしょう。 明日には次の作戦に移りますよ。 彼らが澤村遥を連れて行ってくれたおかげで、我々にも打てる手が一つ増えました」

 

 男がブラントンを一口飲むと、それに合わせるように仲本も山崎12年を一口飲む。同調行為。共にいる者を信頼している場合、相手の口調や動作を真似てしまうことがある。仲本は男の信頼を得るために狙ってやっているが、男は彼に視線を向けようともしない。

 

「しかし……驚きましたよ。 あなたにアブスターゴのスイーパーに復帰して頂けるとは」

「気まぐれだ」

「そうじゃないことはわかっていますよ。 あなたと桐生一馬には深い因縁がある。 そうですよね? 亜門丈さん」

 

 仲本は自身が亜門丈と呼ぶ男に顔を向け、その反応を伺う。亜門の瞳だけがぎょろりと仲本を捉え、彼は薄く笑った。

 

「最強の一族を自称する俺が、たった一人の男に負け続けている。 勝ち逃げなんてさせない」

 

 亜門はそう言うと、獣じみた笑みを浮かべる。恐ろしい気配を感じ取ったのか、バーテンダーが拭いていたグラスを落としてしまった。店内にガラスの割れる音が響く。

 

「……し、失礼しました」

 

 治安の良くない蒼天堀で店を構えるバーテンダーは敏感に危機を察してしまう。圧倒的な強者の匂いを感じ取っているのだ。その匂いの元は目の前のサングラスをかけた客である。逃げ場はない。

 

「あなたの目的はアブスターゴの狙いと真逆ですが、今はあなたを頼らざるを得ません。 よろしくお願いしますよ」

「ああ、俺は、お前にも興味があるんだがな」

 

 そこで初めて亜門は仲本に顔を向けた。口の端はさらに吊り上り、獣らしさに磨きがかかっている。

 

「『武』と『暴』……。 あなたは間違いなく、『暴』の側ですね」

「どちらでもかまわない。 最強に至るためならな」

 

 そう言って亜門は席を立ち、店を出る。バーテンダーは会計を気にするよりも危険な男が店を去ったことに、安堵のため息を吐く。

 

「ああ、会計は私と一緒でお願いします。 すみません、お騒がせして」

 

 店内はようやく落ち着きを取り戻す。しかし、亜門と同等かそれ以上に危険な男がまだ残っていることに気づく者はいない。

 最強を目指す亜門の興味を惹く、穏やかな笑みを浮かべたこの男が、普通の会社員であるはずがないのだ。

 

 

※   ※   ※

 

 

 千六百三年。欲に塗れた金持ちの男たちが入り乱れる夕刻の祇園に一人、不機嫌であることを隠そうともせずに舌打ちを繰り返す男がいた。

 

「いらっしゃい! お客さん、何にしましょう?」

 

 祇園の大通り、祇園大路にある酒屋「中之蔵」に入ると、愛想の良い給仕が声をかけてくる。揚屋へ向かう前の景気づけだろうか、店内はほろ酔い加減の男たちでほぼ満席である。入店した男はたまたま空いていた手近な席に座ると、品書きも見ずに注文した。

 

「清酒と田楽をくれ」

 

 給仕は不機嫌な男の様子を全く気にしていないようで、店内の喧騒に負けぬ大声で調理場へ注文を伝えた。祇園にある大抵の店は高級志向であるが、唯一この店だけは洛外にある店と同じように大衆向けだ。洛外ほど汚くはないが、たまたま博打で儲けた金を使って祇園で遊ぼうとしているような者は、だいたいがこの店を利用する。

 男は指先で忙しなく机を叩き、酒が出てくるのを待っている。乱雑に切られた総髪の髪。袖口が通常よりも少し広い黒地の着物の背には、翼を広げ、雄大に空を飛ぶ鷹が色鮮やかに描かれている。(はかま)脚絆(きゃはん)を付けて裾を締めている。普通、着物の裾を脚絆の帯に絡げるのだが、そうせずに別の帯を締めている。銀糸で織られた帯には右腰の当たりにアサシン教団の紋章が描かれている。歌舞いた格好であるが、奇抜な格好をした者は祇園に溢れているため、悪目立ちすることはない。

 他の客の注文で忙しくしていた給仕がようやく徳利と猪口を男の机に置いた。

 男――二十三歳になった服部正重は乱暴に徳利を掴むと、猪口に注ぎ、一気に(あお)る。酒精が喉を通り、熱い息を吐くと、再び舌打ちをする。

 彼がここまで不機嫌なのには理由がある。

 師となった柳生石舟斎より命じられ、宮本武蔵の陰についてから約一年半。武蔵のあまりにも自堕落な暮らしに我慢ならなくなっていたからだ。

 

 

 

 武蔵は石舟斎とともに祇園で一晩遊んだのは一年半前のこと。石舟斎の狙い通り祇園が気に入ったのか、武蔵は「桐生一馬之介」と名を変え、博打で儲けた金を使って「掛回 龍屋」の店を構えた。祇園に存在するあらゆる店から依頼を受け、警護やツケの取り立てなどを代行する何でも屋だ。

 もともと腕っ節が強い桐生の評判は瞬く間に祇園中に広がり、店を構えて数日後にはそこそこ稼げるようになっていた。桐生は稼いだ金を博打や女遊びで使い、さらに数日後には悪名も轟かせる。

 この男を見守ることが石舟斎の命じた修行でなければ、正重は背後からアサシンブレードで刺し殺していたところだ。

 週に一度程度ではあるが、正重は桐生の姿を見かける度に己の腹の底に殺意が溜まっていく気がしていた。

 正重の歌舞いた格好には理由がある。祇園を出入りする以上、武具の持ち込みは認められない。彼の身体能力ならば祇園を囲む塀を越えて侵入することもできるが、そうしなかった。嫌でも週に一度訪れることになるのだ。わざわざ面倒な手順を使う必要はない。それに、小太刀がなくとも敵を制圧できる自信が正重にはあった。

 それでも万が一ということは考えられる。そのため、袖口の広い着物の下にアサシンブレードを身に着け、その他の装備も豊かに膨らんだ着物の中に仕込んでいる。

 頻繁に祇園を訪れる都合上、正重は洛外の長屋を一部屋借りていた。そこで洛外や祇園で活動するための装備と忍として活動するための装備を入れ替えている。ないとは思うが、泥棒に入られたり火事に巻かれたりしないよう、重要な物は鉄製の箱に入れ、床下に埋めてある。

 

 

 

「田楽、お待ちです!」

 

 相変わらず声の大きな給仕が器に盛られた加茂茄子の田楽を置く。箸でつまみ、一口かじる。味噌の香りが芳ばしく、しょっぱい味付けは正重の好みだ。柳生の里に長くいたせいか、彼はすっかり塩辛い味を好むようになってしまっていた。灘の清酒を飲み、ようやく気分が落ち着いていくのを感じた。

 この日も桐生の様子を見ていた。彼は昼前に起床し、小料理屋に依頼されたツケの回収を終えると、その足で賭場へ向かった。そこで一稼ぎしたのか、次は揚屋で遊女遊びだ。

 こうなったらしばらく出てこない。正重には気に食わない男の女遊びを覗き見る趣味はない。それ故、こうして中之蔵で酒を飲んでいるのだ。

 もう大分前からだが、これが本当に石舟斎の言う、心の修業になっているのか疑問に思う。怒りを抑える修行なのだとしたら、正重はやり遂げる自信がない。このままではどこかで爆発してしまうだろう。

 

「相席、かまわないか?」

「ああ」

 

 店内が混んでいる為、空いている席は正重の向かいの席しかない。新たに入ってきた客と相席になることは仕方のないことだ。

 しかし、向かいの席に座った男が誰か知って彼は後悔することになる。

 銀糸で織られた着物の背に龍が描かれ、虎皮の帯を巻いた男、桐生一馬之介だ。

 彼は頬に赤い紅葉を付け、厳つい顔である。おそらく、何かやらかして遊女に頬をはたかれたのだろう。

 正重の視線に気づいたのか、ばつが悪そうに桐生は指先で頬をかいた。

 

「これのことは気にしないでくれ」

「そんな奴は祇園に溢れているさ」

 

 正重の冗談を聞いて桐生は自嘲したように微笑む。給仕が注文を聞きに訪れ、「この客と同じものを」と彼は頼んだ。

 さっさと立ち去りたいところだが、食べ始めたばかりなのは正重の皿を見れば分かってしまうだろう。酒もまだ残っている。気に食わない男と向かい合って酒を飲むのは業腹だが、極力印象に残るようなことは避けるべきだ。

 

「あんた、随分洒落た格好をしているな」

 

 桐生が正重に話を振る。酒屋で相席になったのだ。会話をするのはごく自然なことだろう。

 

「あんたも見事な龍じゃないか」

 

 正重は己の情報を相手に与えぬよう、返事をする。とにかく早く食べ終え、席を立ってしまおうと田楽を口に運ぶ。

 

「ああ、これは旅の僧にもらったんだ。結構気に入っている」

「だろうな。 あんた、掛回りの龍屋だろ? 背中の龍を見てすぐにわかったよ」

 

 自慢するように着物の襟を引っ張った桐生は、そのままの姿勢で正重を見た。

 

「なんだ、知っていたのか」

「しょっちゅう祇園に来るわけじゃないが、それでも龍屋の噂は聞いている。 なかなか腕っ節が強いらしいじゃないか」

 

 桐生は口の端を下げ、気まずそうに頭を掻いた。龍屋の噂は良いものばかりではないからだ。

 

「……まぁ、それなりに自身はある」

 

 ふと、正重は以前石舟斎に言われたことを思い出す。「武」と「暴」。その違いは一体何か。あの時、彼は正重も宮本武蔵と同じく「暴」であると言われた。祇園を訪れてから一年半、正重から見て桐生は自堕落な生活を送っているようにしか見えなかったが、彼の中で何か変化はあったのだろうか。

 

「龍屋の旦那。 あんた、『武』と『暴』の違いってわかるか?」

「『武』と『暴』?」

「率直に思ったことを聞かせてくれ」

 

 質問を聞いた桐生はその眼を鋭いものに変えた。正重はそれを見て、彼は心底腐っているわけではないのだと悟る。桐生と名を変えた今でも、宮本武蔵は腹の底に獣を飼っている。

 

「どちらも同じだな。 戦うための力だ。 敵を倒す上で、その力が『武』と呼ばれるものであっても、『暴』と呼ばれるものであっても、結果は同じだ。 なら、その二つの本質は同じ、ということではないか」

 

 桐生の答えを聞いて、正重は薄く笑った。自身が考えているものと同じ答えだったからだ。桐生も正重と同じく、石舟斎の意図など知らない。

 

「ありがとよ。 参考になった」

 

 給仕が酒と田楽を桐生に運んできたのと丁度同時に正重は食事を終え、席を立つ。

 

「待て。 あんた、名をなんと言うんだ?」

「服部正重。 俺は貧乏でな。 二度と祇園に来られないかもしれん。 憶えててもいいことないぞ」

 

 そう言って後ろ手に手を振ると正重は店を出た。

 祇園大路を大門に向かって歩きながら、彼は思考する。思いがけず桐生と出会ってしまった。自分の立場を理解していたつもりだが、結局名を名乗り、情報を与えてしまった。相当、諸国の大名に詳しくなければ服部の名を知る者は少ない。桐生の育ちを考えると、自身の正体に気づくことはないだろう。それに服部正重と柳生の里、および丸目長恵との関係を知る者は柳生の里の外には存在しないはずだ。

 自身でも単純だと思うが、少し会話しただけで桐生への評価を上げてしまった。正重の突拍子もない質問に対し、誠実に受け答えする様は実に男ぶりが良い。まだまだ天邪鬼がでかい顔をしている正重にはなかなかできないことだ。

 だから、自身の名を偽ることはしたくないと正重が思ってしまっても仕方がない。

 そう自分を慰め、大門を出て洛外に入ると、自身が住む貧乏長屋へ足を向ける。

 もう夜になろうとしていることもあってか、洛外を歩く者は少ない。皆、仕事を終えて帰り道を行く者ばかりだ。

 正重は木戸番に挨拶し、長屋に入ると、自分が借りている部屋の戸を開ける。

 日も沈みかけ、だんだんと暗くなっているが、上り(かまち)に置かれた封書に気づく。宛名も差出人もない。この部屋を借りてから幾度かこのように手紙が置かれていることがあった。届く手紙は例外なく、柳生の里からのものである。

 燭台に火を灯し、中身を読む。

 

「兄上の居場所が判明。 すぐに参られたし」

 

 短い一文であったが、正重にとって重大な意味が込められている。鍵をかける習慣のないこの時代に重要な書面を送る場合、手渡しするのが普通だ。だが、基本的に柳生の里の者と外で接触するつもりはお互いにない。そのため、このように手紙を残し、双方にしかわからない言葉を選んで書いているのだ。

 差出人不明のこの手紙を読み、内容を理解できるのは正重だけだ。

 そして此度の知らせは、関ヶ原の夜から数えて三年。彼が待ち続けていたものだった。


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