鷹が如く   作:天狗

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7.服部半蔵

 澤村遥と鷹村啓介がアサシン教団のアジトへと帰った時、桐生一馬は既に寝室へと移されていた。アニムスが設置されている大広間で作業している者はいない。エレベーターの音が聞こえたのか、心配そうな表情を浮かべた吉川優子が寝室から出てきた。ジャージに着替え、髪が濡れているところを見ると、シャワーを浴びた直後らしい。

 

「おかえりなさい。 ……何か問題があったようね」

 

 優子は啓介のパーカーについた血の染みに気づいた。よほど彼の腕を信頼しているのか、返り血であると判断したようだ。

 

「大した問題じゃない。 ブレードを使っていないから、即座にアサシンの仕業であると気づくのは難しいだろう」

「そう……なら良かったわ」

 

 返り血を浴びるほどの戦闘をしたのだ。余程のことが起こったのだろう。しかし、普段ならばありのままを説明する彼が、何か隠している。その原因となり得る者は一人しかいない。

 優子は遥に視線を向けた。彼女の視線を受け、遥は「あっ」と声を出して口を押えた。

 

「ごめんなさい。 啓介は私のために――」

「俺は遥のために戦ったわけじゃない。 必要なことをしただけだ」

 

 啓介は無表情のまま先に歩きだし、寝室へ入って行く。先ほどのやり取りを聞いて、優子が何も感づかないはずがない。彼女は優しげな微笑みを遥に向けた。

 

「ありがとう、澤村さん」

 

 優子の感謝の意味がわからなかったのか、遥は首を傾げた。

 

「え? なんでですか?」

「あら? 忘れていたのかしら。 啓介を人間にしてほしいってお願いしたの」

「あ――」

 

 優子に頼まれていたことを遥は再び思い出し、忘れていたことを申し訳なく思った。

 

「でも、それでいいのかもしれないわね。 変になんとかしようと思うより、あなたは自然体でいる方が他人に良い影響を与えられそうだわ」

「……ありがとうございます。 でも、啓介を混乱させてしまったみたいで」

 

 優子は遥の肩に手を置き、心から嬉しそうに微笑んでいる。

 

「いいのよ。 苦悩するのは人として当たり前のことだもの。 むしろ、本当なら私たちがやらなきゃいけないことをあなたに押し付けてしまって、申し訳なく思うわ」

「いえ、いいんです。 ……お腹空いてますよね? すぐご飯作ります」

「うわぁ! ありがとう! 本当に楽しみだわ!」

 

 彼女は余程楽しみにしていたのか、遥からドンキホーテのビニール袋を奪うと、寝室へ向かった。あまりにも嬉しげなその後ろ姿は、今にもスキップを始めそうだ。

 遥は苦笑すると優子のあとを追い、晩御飯のレシピを頭に思い浮かべた。

 

 

 

 手早く米を洗い、炊飯器のスイッチを入れる。鍋に湯を沸かし、野菜を洗う。エプロンを付けた遥の料理の手際は実に手慣れたものであり、優子は手伝うこともできずに彼女のことを見守っていた。

 

「吉川さんもお疲れですよね。 ゆっくりしてていいですよ」

 

 キャベツをまな板に載せ、トントントンと小気味いい音を響かせながら遥は言った。言われた優子は眉尻を下げ、情けない顔をしている。

 

「そう、ごめんなさいね。 私も何か手伝えればよかったんだけど」

「大丈夫ですよ。 私、アサガオでは十人分作ってたんですから。 四人分なんて軽いもんです」

 

 振り返った遥の朗らかな様子に、優子は思わず微笑んでしまう。彼女の進言を素直に受け入れ、優子はソファに座ると昨夜、啓介が買って来た雑誌を広げた。そんな二人の様子を晩酌しながら見守っていた南田はひっひっひっと不気味に笑った。

 

「……なんですか、ドクター」

「いやぁ、遥くんは男の理想を体現したような女性だね」

「そうですね。 人当たりが良くて、家事ができて、元アイドル。 完璧です」

「それだけじゃないぞ。 運動神経が良く、頭も良くて理解力もある。 何よりまだ若い」

 

 優子には南田の言い口が挑発的に聞こえる。彼女は勉学一辺倒の人生を送ってきたせいか、家事ができず、運動神経も悪い。一度結婚を経験しているが、上手く行かず、数年で離婚してしまった。それ以来、恋愛などのロマンスからは遠ざかっている。

 上機嫌に料理をする遥の鼻歌が聞こえてきた。

 優子は彼女に視線を向けると、少しだけ嫉妬してしまう。アサシン教団の一員として生きてきた今の人生を後悔などしていないが、純粋に女として羨ましいのだ。

 それを南田も理解して優子をからかっているのだろう。

 

「ま、ドクターに何を言われても響かないですけどね」

「ひっひっひっ、権力も金もないジジイだからな」

 

 そう自虐的に言った南田は、過去に勤めていた会社でゲームクリエイターとして活躍し、退職後はIFシリーズの制作に全てを注ぎ込んだ。高額なプレイ料金はそのほぼ全額が開発費用になり、南田自身はギリギリ生活できる程度の額しか受け取っていなかった。一年前にアサシン教団から資金提供を受けられなければ、開発を終えるどころか、その不健康な生活のせいで死んでいてもおかしくなかっただろう。

 

「しかし、若いと言うのはそれだけで宝だな。 啓介くんもこれからさらに成長するだろう」

「ええ、そうあってほしいと思うわ」

 

 二人は遥の鼻歌と部屋に漂う美味しそうな食事の香りに浸る。殺伐としたアサシン教団のアジトが、遥がやって来たことによって居心地の良い空間に変わっているのを実感した。

 優子はベッドで寝ている桐生に視線を向ける。意識のない状態でも、彼の五感は生きている。彼もきっと、自分の愛する娘の鼻歌を聞き、料理の匂いを堪能しているだろう。

 もはや日常になり、意識しなくなった心電図の音は定期的なリズムを繰り返している。

 

 

 

 啓介は熱いシャワーを浴びながら、ぐるぐると脳内を巡る遥の台詞について考えをまとめようとしていた。

 誰も信じられない者は夢を叶えられない。

 今のままでは、啓介はテンプル騎士団に勝てない。

 アサシン教団の行動規範は民衆とともにあることだ。今の自分はどうであろうか。人の気持ちを理解しようとせず、目的を達成するために必要な任務をこなす機械だ。私的な感情を完全に廃し、戦闘、工作を効率的に行えるよう徹底的に教育された。

 そのせいか、啓介にはやりたいことも夢もない。今の自分はテンプル騎士団を滅ぼし、市民の自由を守るためだけに生きているのだ。

 遥の言うことが事実であるのならば、自分にはまだ学ばなければならないことがある。

 

「そのためには……」

 

 啓介は呟くと湯を止め、シャワー室を出た。バスマットに立ち、バスタオルで濡れた体を拭う。彼の身体は鍛えられているが、無駄な筋肉は一切ついていない。潜入、暗殺、工作を主な任務とするアサシンは身軽であることが必須だからだ。その肉体には無数の傷跡が残っている。物心つく前から繰り返されてきた、死ぬ寸前まで追いつめられる厳しい訓練の結果だ。

 彼はそれを誇らしく思うことも、醜く思うこともない。

 ふと、返り血を浴びたパーカーに視線をやる。血を落とすために別で洗濯するから、と遥に言われ、他の洗濯物を避けて床に置いたものだ。彼女は料理だけでなく、アジトでの家事全般を引き受けるつもりらしい。確かに、今までいた三人では必要最低限の部分以外の家事にほとんど手をつけていない。シャワー室の他に洗濯機、トイレ、洗面台が設置されているこの部屋も、綺麗好きな人間から見れば汚いだろう。ましてやアニムスが設置されている大広間では、隅の方に埃がたまっている。

 正直、彼女がやってくれれば助かる。衛生面で見れば、劣悪と言って差し支えないからだ。

 現在のアサシン教団日本支部を実質的に動かしているのは啓介だ。大抵は優子の提案を彼が選択し、受け入れることによって行動の指針が決まる。思えば、アサシン教団の実利的な面だけを考えてそうしてきたが、優子や南田は本当に自分の選択に納得し、ついて来ているのだろうか。

 啓介は学ぶ必要がある。かつてアサシン教団日本支部支部長として日本の裏の歴史を支えていた、自身の先祖の生き様を。

 

 

 

 寝室は暗い雰囲気で満ちていた。ドアを開けて入室した啓介はその空気に触れ、眉を(しか)める。

 

「遅い!」

 

 ドアを開けた啓介の姿を認めた瞬間、南田が怒鳴った。彼はテーブルの傍の床に直に座っており、向かい側のソファに座っている優子も、彼と同じように不機嫌な様子で腕を組んでいる。テーブルの上には豚の生姜焼きと、キャベツの千切りやプチトマトが色とりどりに盛られたサラダの器が並べられている。

 啓介がシャワーから上がったのに気付いた遥は、茶碗に白米を盛り、みそ汁をよそう。

 

「遅かったわね。 いつもならカラスの行水みたいにすぐ出るのに。 ほら、早く座って」

「ああ、少し考え事をしていたんだ。 なぜ先に食べ始めていないんだ?」

 

 優子は不満そうに言うと、ドア側のスツールを指さした。彼は素直に従い、疑問を口にする。

 

「遥くんが、全員揃うまで待てと言うんだ。 君が長々とシャワーを浴びていたおかげで我々はお預けをくらっているんだよ」

 

 そこへ白米とみそ汁をお盆に載せた遥が、テーブルにそれらを並べる。

 

「南田さんなんか摘み食いしようとして大変だったんだよ。 やっぱりご飯はみんな揃って食べないと。 はい」

 

 啓介の向かい側にあるスツールに座ると、遥は手を合わせる。箸を取ろうとしていた優子も彼女に合わせ、慌てて手を合わせた。

 

「ほら、手を合わせて」

「あ、ああ」

 

 既に箸を手に取り、食べ始めようとしていた南田は鬱陶しそうに手を合わせ、啓介も珍しく困惑した様子でそれに(なら)う。

 

「いただきます!」

「いただきます」

 

 遥の号令に合わせ、一同が唱和する。美味しそうな食事の香りに刺激され、既に空腹の限界だったのか、優子と南田は勢いよく食べ始める。啓介も彼らから一歩遅れて箸を取った。

 

「美味しい」

「うん、こりゃうまいぞ」

 

 優子と南田の感想を聞いて満足そうに頷くと、遥は啓介を見た。彼はみそ汁の椀を取り、啜る。啓介は感想を言わないが、豚の生姜焼きに白米、と次々に箸をつけているところを見ると、口に合ったのだろう。

 彼らの反応を見て嬉しそうに微笑むと、遥も食事を始めた。

 

 

 

「ごちそうさまでした」

 

 一同が食事を終えると、遥はそれぞれの食器をお盆に集め、流しで洗う。久々に食べた家庭的な料理のせいか、優子と南田は幸せそうな表情で、気怠そうに食後のお茶を飲んでいる。

 

「話がある」

 

 そんな空気など関係ないのが啓介だ。彼の声を聞き、優子と南田の二人は啓介を見る。

 

「アニムスに接続したい。 シンクロ率を百パーセントにする」

 

 啓介の話を聞いた二人は目を見張った。確かに啓介のシンクロ率はそれほど高くない。彼がやりやすいよう、効率的に行動していたため、次のシークエンスに進めるための最低限のシンクロ率しか達成していなかったのだ。彼の記憶の中に秘宝の在り処を示すシークエンスが無い以上、彼をアニムスに接続する意味を見出せない。

 

「アサシン教団を最終的に勝利に導くために、それが必要だと判断した」

「まだ発見していないシークエンスがあるということか?」

「いや、違う」

 

 南田の質問を彼は即座に否定する。

 

「それじゃあ、澤村さんの影響かしら?」

 

 優子はどこか嬉しそうに啓介に質問した。彼は少し思案する様子を見せると、頷く。

 

「……そうだ。 明日は桐生と遥をシンクロさせる。 俺が接続するのはこれからでも構わないな?」

 

 普段ならば問答無用で決定を告げる啓介であるが、今回は彼らの許可を求めている。これから自身をアニムスに接続することが、アサシン教団にとって必要なのかどうか僅かな迷いがあるからだ。

 

「もちろん」

「さて、わたしは啓介くんのデータを先に起こしておくよ」

 

 優子は笑みを浮かべて頷く。南田は立ち上がると、部屋を出て行った。あっさりと啓介の希望を叶えてくれると言う二人の様子に呆気にとられ、彼は動き出すのが遅れてしまう。

 

「どうしたの?」

 

 一人、片づけをしていた遥が啓介に問う。

 

「……いや、少しは反対意見が出ると思ったんだが」

「それだけ吉川さんたちがあなたを信頼してるんでしょ。 ふふ、そんなことにも気づかなかったんだね」

 

 遥の笑い声を聞き、どこか居心地の悪い気がしたのか、啓介は足早に部屋を出て行った。

 

 

※   ※   ※

 

 

 乱暴に投げられた生首は畳の上を跳ね、ある男の前で止まった。外では雨が降り出し、屋根を打つ音がやけにうるさい。行燈の明かりで生首が照らされる。西軍の侍大将のものだ。

 

「なんのつもりだ? 正重」

 

 (かみしも)を羽織り、月代(さかやき)を綺麗に剃りあげた三十代半ばの男、服部半蔵が無表情のまま問う。

 正重と呼ばれた男は全身黒装束を身に着けており、左腕につけられた籠手に零れる雫のような紋章――アサシン教団の紋章が刻まれている。正重は鉢金ごと頭巾を外すと、二十歳の男が見せるには少々幼い、挑発的な笑みを半蔵へ向けた。

 

「これで俺も一人前の(しのび)だと認めざるを得ないんじゃないかと思ってね。 兄上」

 

 正重は腰に差された小太刀を外し、畳の上に胡坐をかいて座る。横柄な彼の態度に対し、半蔵は相変わらず無表情のまま背筋を伸ばし、正座を続けている。

 

「そんな命令はしていない」

「指示を出される前に組織にとって有益な行動がとれる。 有能である証じゃないか」

 

 雑に切られた総髪を乱暴に掻きながら、正重は半蔵の顔を覗き込むように見る。

 

「だからお前はいつまで経っても半人前なんだ。 これ以上勝手な行動を取るようなら、こちらにも相応の考えがある」

「脅してんのか?」

 

 ニヤニヤと笑みを浮かべていた正重の表情が変わった。目付きに剣呑な意思が宿り、木立を持つ手に力が入る。彼の言葉とは裏腹に、相手を威圧しているのは正重の方だ。半蔵は全く意に介した様子もなく、淡々と言葉を続ける。

 

「お前は忍の在り方を理解していない。 どれだけ技を磨いたとて、忍を率いる器とはなりえん」

「服部家は既に他の武士と変わらないだろうが! 此度の戦で徳川は天下を取り、太平の世になってしまう! そうなれば、俺の立身出世の機会は永久に失われる!

 俺らは! 今! 伊賀同心を関ケ原に集め、手柄を挙げるべきなんだ!」

 

 正重は畳を強く拳で叩き、叫んだ。暖簾に腕押し、糠に釘。正重の慟哭(どうこく)を聞いても半蔵の表情筋はぴくりとも動かない。

 

「もう行け。 戦が終わるまで屋敷を出ることは許さん」

 

 憤怒の形相で半蔵を睨みつけた正重はもう一度強く畳を叩くと、乱暴に襖を開け、部屋を出て行った。

 少しして、開いたままの襖から静かに男が入ってくる。長刀を背負い、冷たい目をしている美青年だ。

 

「弟殿は随分と(いら)ついているようだな。 半蔵」

「お見苦しいところをお見せしました。 佐々木殿」

 

 男の名は佐々木小次郎。当代随一の剣豪である。彼は未だ床に転がっていた生首を掴むと、庭先へ放り投げた。

 

「構わん。 報告を聞こう」

「結城秀康様の居場所、警備の状況に変わりはございません。 襲撃に参加する者は?」

「そちらは天海と丸目が行っている。 それなりに腕のある者を揃えたそうだ。 計画通り、二名を除いて陽動。 本命の二名は宮本と真島という男だ」

 

 話ながら小次郎は半蔵の向かい側に座る。

 

「秀忠様の教育も順調だ。 計画が成り、家康様が隠居されれば日の本は天海の思うままになる。 ……それで、半蔵。 秘宝は手に入れたか?」

「こちらに」

 

 半蔵は背後から細長い桐箱を滑らせ、小次郎の正面で蓋を開ける。

 中には金色の剣が入っていた。所々に空いた丸い穴をつなぐように溝が走っている。

 

「ほう。 これが秘宝、草薙剣(くさなぎのつるぎ)か」

 

 小次郎は剣を手に取り、掲げた。

 

「このような物で人を操れるなど、信じられんな」

「それだけではございません」

 

 半蔵は小次郎から剣を受け取ると、剣先を天井に向けた。剣の文様が発光し、剣先から光の波動が広がる。波動はやがて剣先に収束し、目にも止まらぬ速度で天井の一点へ真っ直ぐ伸びた。

 

「ぐっ!」

 

 天井に大穴が開き、木片と共に黒装束の男が落下した。

 

「正重。 度が過ぎたな」

 

 落下した男、正重は抜身の小太刀の柄を握った手で脇腹を押さえている。そこから(おびただ)しい量の血液が流れ出ており、瞬く間に畳を血で染めた。

 その出血量のせいで気を失っていてもおかしくないが、彼は憎々しげに半蔵を睨んでいる。

 

「兄上! 秀康様の暗殺に加担するなどと……一体何を考えている!」

「秩序のためだ。 お前こそ、刀を抜いて天井裏に潜み、何をするつもりだった」

「ふ、大方、お前を殺して次の服部半蔵にでもなろうとしたのだろう。 出世欲に目が眩んで知らずとも良いことを知ってしまったな」

 

 小次郎はゆっくり立ち上がると、背負った長刀を抜いた。

 

「ふざけるな! 仕えるべき主君のお身内を謀殺するつもりか! それが武士の……忍のやることか!」

「天海の世になればお前の望む出世も思うがままだぞ。 弟殿」

「そんな形の出世など望んでいない!」

 

 叫ぶと同時に正重は血を吐く。刻一刻と命が漏れ出ている。

 小次郎が長刀を振り上げるのと同時に、煙幕を床に叩きつけ、背後に跳んだ。籠手から針を取り出し、投げる。

 腹に穴が開いているのにも関わらず、針は正確に小次郎と半蔵へ飛んだ。小次郎はそれを長刀で弾き、半蔵は人差し指と中指の二本で受け止めた。

 小次郎は白煙の中に飛び込むと、長刀を振り下ろす。視界が悪い中でも過たず捉えられ、正重は小太刀に腕を添えてそれを受けた。彼は弾き飛ばされ、襖を倒して庭に投げ出された。

 正重は泥に塗れ、さらに血を吐き出した。地を這い、必死に小次郎から離れようとしているその姿は無様と言う他ない。

 

「小次郎殿」

「なんだ?」

 

 先の一太刀を受けられたのが不満なのか、声をかけてきた半蔵を、小次郎は不機嫌そうに振り返った。

 

「身内の始末は私がつけます」

 

 半蔵は発光し続ける草薙剣を持ち、庭へ降りた。小次郎は息を吐くと、刀を納める。

 

「正重」

 

 朦朧とする意識の中、重い(まぶた)を無理やり持ち上げ、正重は半蔵の姿を捉えた。

 

「戦国の世を通して、お前が何も学ばなかったことを、私は兄として残念に思う」

 

 半蔵は正重の首めがけ、草薙剣を振り下ろした。

 

「……弟の生首を手にしても顔色一つ変えんか」

「お目汚し、失礼いたしました」

「既に秀康様は打ち取られたことだろう。 俺は生き残りを処分できたか確認しに行く」

「御意。 では、秘宝は私が天海殿へ確かにお届けしておきます」

 

 

 

 瞼に刺さる日の光を感じ、正重はゆっくりと眼を開けた。

 

「うっ……」

 

 脇腹に手を当て、痛みに耐えつつ体を起こす。どうやら彼は治療され、布団に寝かされていたようだ。裸の上半身にサラシが巻かれ、負傷していた脇腹はうっすらと血が滲んでいる。

 周囲に視線をやると、箪笥などの家具がない殺風景な部屋だ。二面は土壁で、残る二面は襖で仕切られている。角部屋のようだ。枕元に自身の忍び装束と小太刀の他、籠手などの装備がまとめて置かれていた。

 牢獄でなく、装備もそのまま。正重を保護した者は彼を警戒していないようだ。立ち上がろうと足に力を入れるが、上手く立てない。血を失いすぎているらしく、頭もくらくらする。

 周囲の様子を探ろうと、視覚以外の五感に神経を集中させた。「タカの眼」だ。この能力を使うと壁の有無に関わらず、その場に存在する人の動き、狩りの標的の動きが手に取るようにわかる。

 タカの眼が発動し、襖の向こうに何者かが立っているのを認識した瞬間、その襖が開いた。

 正重は体を転がすことで無理やり移動し、小太刀を手に取った。すぐさま逆手に抜き、襖を開けた人物を睨む。

 

「そう警戒しなくとも良い。 服部正重殿」

「貴様……丸目長恵(まるめ ながよし)か!」

 

 正重に丸目長恵と呼ばれたのは髭を生やした壮年の男だ。彼は着流し姿で刀を差しておらず、武装していない。彼は入室すると、畳に膝を付き、まっすぐに正重の眼を見た。

 

「結樹秀康様をどうした! ……まさかもう、身罷(みまか)られたのか……?」

 

 悲痛な表情を浮かべた正重の問いを聞き、丸目は訝しげに眉を上げた。

 

「ご存知なのか。 秀康様は天海の計画通り、討たれた」

「貴様も天海の計画に加担していたのだろう! 俺は知っているぞ!」

「私の立場では!」

 

 丸目も怒鳴り返す。その手は固く握られ、己の力が及ばないことを確かに悔いていた。

 

「私の立場では止められなかったのだ」

「……どういうことだ?」

 

 次に訝しげな表情をしたのは正重だ。彼は未だに小太刀を構えつつ、問う。

 

「どうやら正重殿には私の知る全てをお話ししなければならないらしい。 一度刀を納め、聞いて頂けないだろうか」

 

 そうして丸目は畳に手を付き、深く頭を下げた。正重は半蔵と小次郎の会話を思い出し、丸目の態度を観察する。丸目が秀康の暗殺に関わっているのは間違いないが、その計画の成就を彼は望んでいなかったようだ。迷いつつも、正重は丸目の話を聞く必要があると判断し、小太刀を鞘に納めた。

 

「……聞こう」

「かたじけない」

 

 丸目は顔を上げると、再び正重の眼を見る。

 

「私は確かに天海の手先として動いているが、その本質は違う。 私の目的は、柳生石舟斎殿と結託し、天海の野望を阻み、秀康様の弟である秀忠様を天海の手から救い出すことにある」

「柳生石舟斎……あの、剣豪の?」

「そうだ。 天海の身内に潜入できたのは柳生の者でも私だけだった。 私一人では、秀康様をお救いすることも、計画を阻むこともできなかった」

 

 一本調子な口調ではあるが、丸目の握られた拳は震えていた。その怒りの矛先は天海か、それとも自分自身か。

 

「秀康様を暗殺した者は二人。 宮本武蔵と真島五六八だ。 彼らは暗殺の標的が誰か知らずに下手人となった。

 本来ならば私が彼らを殺し、それで此度の事件を終わりにする計画だったのだが……。 失敗した。 二人は逃亡し、現在も行方はつかめていない」

「つまり、その二人に罪はない、と」

「ああ。 私はこれから二人の行方を探し、見守るつもりだ」

 

 南光坊天海のような強大な権力を持つ相手と戦っているのだ。ただ事実を公表して解決することはできない。唯一敵方に潜入できている丸目を失えば、柳生の者はもう打てる手がなくなってしまうのだ。

 

「……私が石舟斎殿に報告へ向かう途中、山道で倒れている正重殿を発見した。 腹に穴が開き、半死半生の状態であったが、無事、意識が戻ったことを嬉しく思う」

「治療は、お前がしてくれたのか」

「ああ、生きるか死ぬかはお主次第であったがな」

 

 正重は居住まいを正すと、丸目に頭を下げた。

 

「感謝する。 ……だが、なぜ助けを?」

「お主が服部家の中でも上位の者であることが分かったからだ。 その衣装を見てな」

 

 丸目は顎で忍装束を示す。正確には、アサシン教団の紋章が刻まれた籠手をだ。

 

「顔を見て、現当主、服部半蔵正就殿の弟である正重殿であることに気づいた。 それだけだったが――」

「俺が、秀康様の暗殺計画を知っていた」

「そこで、こちらとしても訊かねばならぬことがある。 半蔵殿と天海は、つながっていると見て相違ないな?」

 

 丸目の質問を聞き、正重ははっきりと頷いた。

 

「想像するに、正重殿は半蔵殿の計画を知ったことで殺されかけ、寸でのところで逃げられた、というところか?」

「いや――」

 

 正重は己の首筋を撫でた。あの時、降りしきる雨の中、半蔵は剣を振り上げ、それを正重の首に振り下ろした。

 

「俺は、首を落とされたはずだ」

「どういうことだ?」

 

 目の前の正重には、確かに首がある。そもそも、殺されたのならばここにはいないはずだ。

 

「……わからん。 いや、秘宝だ」

「秘宝?」

「草薙剣。 確かにそう言っていた。 それには人を操る力があると」

「何を言っているのだ?」

 

 顎を撫でた丸目は心底理解できないようで、眼を眇めている。

 

「この腹の傷も草薙剣によるものだ。 種子島に似ていたが、違う。 剣先から光のようなものが――」

「それは剣なのか、鉄砲なのか、どっちなのだ」

 

 正重も混乱しているのか、話がまとまらない。そこで、再び襖が開く。

 

「なんだ、起きてるのなら声をかけてくれればいいじゃないか」

「石舟斎殿」

 

 丸目は現れた老爺の名を呼ぶ。彼は微笑み、正重を見た。

 

「あなたが、柳生石舟斎……」

「ああ、お前は服部正重だな。 無事で何よりだ」

「お心遣い、感謝いたします」

 

 正重は石舟斎に向けて深く頭を下げた。

 

「いや、気にするな。 五日も寝こけていたんだ。 さすがに心配したぞ」

「……は? 今、五日、と申しましたか?」

「ん? 丸目から聞いていなかったのか? 正確には、お前がここに運び込まれてから五日だ。 丸目が助けてからだともっと経っているぞ」

 

 正重は丸目に視線を移す。彼は頷いただけだ。

 

「……では、ここは」

「柳生の里だよ。 戦国は既に終わり、徳川の世となったも同然だ」

 

 正重が意識を失っている間に、時代は大きく動いていた。


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