京都洛外。祇園唯一の出入り口である大門のある町である。この時代の建築らしく、木造の家が並んでいる。今まで裕福に暮らしていた遥には、全くと言っていいほど縁のない町であった。様々な店があり、路地に入ると賭場もある。今のように日中でも決して治安が良いとは言えない。
遥は石畳の敷かれた大通りに出ると、豪奢に飾り付けられた高い塀につながる大きな門を見つけた。
遥は自分一人で入れてもらえないだろう、と予想する。目的地はもう目の前なのに、すっかり立ち往生してしまった。
しばらく門前を右往左往していると、河原町へとつながる大通りの向こうから、強面の男たちが大勢の少女を引き連れて歩いてきた。少女たちの中には、泣いている者が多い。祇園、という地がどのような場所なのか、遥はその詳細を知らないが、金に困った両親などに売られる者がいるらしいことは聞いたことがある。
あの娘たちに紛れていれば、中に入れるかもしれない。遥は決意すると、男たちが守衛と話している隙を狙って、少女たちの列の最後尾に並ぶ。
閉じられていた門が開き、最前列の少女が男に背中を押され、中に入っていく。一人二人と中へ入り、いよいよ遥の番が来た。
男は彼女の姿を見ると、一瞬、怪訝そうな顔をする。その衣装だけを見れば、遥は貧しそうには見えない。桃色の仕立ての良い着物を着ており、髪を結いあげて
しかし、ここまで歩き通していた遥の髪はほつれ、着物は泥に塗れていた。俯き加減の様子も他の少女たちと同じように、暗い雰囲気を纏っている。
男は遥の背を押すと、大門の中へ入れた。
無事、中に入れたことを安堵する間もなく、遥は目の前の景色に圧倒された。
そこは、洛外と違い、煌びやかさで溢れていた。まだ日が出ているのにも関わらず、
「ここが……祇園」
思わず呟く。
「ほら、さっさと歩け!」
意図せず立ち止まっていた遥は、乱暴に背を押され、たたらを踏んだ。彼女は素直に歩き出し、泣いている少女の隣に並ぶ。
下卑た表情の老爺が端から順に少女の顎を掴み、顔を上げさせ、品定めしている。老爺が気に入った少女は別の男に腕を引かれ、列を離れる。気に入られなかった少女は乱暴に顎を離され、その場に残された。
やがて老爺は遥の正面に立つ。彼女の顎を上げ、眼を見る。
「ほう……これは」
一目で彼女を気に入ったのか、老爺が彼女の腕を引こうとすると、遥はそれを振り払った。
「ああ?」
それを不快に思ったのか、老爺は彼女を睨みつける。
「お嬢ちゃん、お前は売られたんや。 そこら辺、理解できて――」
「桐生一馬之介という人を探しています」
自分の置かれた立場を理解できず、反抗する娘たちは多い。この娘もその手の者か、と老爺が声をかけようとした時、少女の口から意外な人物の名前が飛び出した。
「桐生って……
「掛回り、というのは分かりません。 私は、桐生一馬之介という人に会いに、祇園に来たんです」
老爺は付き従えていた大柄な男に目線をやると、男が遥の腕を掴む。
「いや! 離して!」
「お嬢ちゃん、どこでその名を知ったんか見当もつかんが、そいつは他の掛回りにとっちゃあ商売敵だ。 それに、お前が誰だろうと関係あらへん。 お前は売られてきた娘と一緒に大門を通った。 その結果は他の娘とおんなじや」
無理やり腕を引かれるのに抗い、その小さな体にどれだけの力を隠していたのか、遥が男の方へ体当たりするとその手は離れた。
「てめぇ……」
「おい! 何があった!」
男が凄むのと同時に、騒動に気づいた
「行くで」
問題になるのを嫌ったのか、老爺と掛回りの男はその場を去って行った。
「おい! お前! こんな場所で暴れるんじゃない!」
「桐生って人に会わせてください!」
興奮しているのか、遥の答える声も大きくなってしまっている。
「こっちに来い!」
細面の門番は声を荒げる。いつの間にか周囲に野次馬が集まっており、遥はきょろきょろと視線を動かす。門番は遥の腕を掴み、何処かへ引っ張って行こうとする。
「やめて!」
「おら! こっちへ来い! 言うこときかねぇか!」
遥は門番の手を振り払い、主張する。心なしか、門番の表情もうんざりしているように見える。
「早く、桐生って人に会わせて! いや! やめてって言ってるでしょ!」
「ちょっと待ってくださいよ、桐生の旦那!」
探し求めていた名を呼ぶ声が聞こえた。遥ははっと顔を上げ、声の聞こえた方を見る。そこには、龍の描かれた銀色の着物を羽織っている大柄な男の後姿があった。
彼女は門番の手を再び振り払うと、そちらへ駆け寄る。
「桐生さん……ですか?」
男は振り返らない。
「あなたが、桐生さん……ですか?」
遥が再び問いかけると、男はゆっくりと振り返り、答えた。
「ああ、そうだが……?」
『おじさん!』
振り返った男の顔は、現代に生きる桐生一馬と瓜二つであった。
「おじさん! おじさん……!」
少女、遥が彼を呼び、その腹に抱きつく。
周囲の景色にノイズが走り、歪む。
「眼を覚ましてよ! ……早く、沖縄に帰ろうよ。 みんな……みんな待ってるんだよ」
桐生は動かない、ノイズはさらに歪み、彼の顔もだんだんと見えなくなる。
『接続を切るわ』
平衡感覚が崩れるほど視界は歪み、眼を開けていられない中、優子の声が脳内に響いた。
※ ※ ※
遥はゆっくりと眼を開けた。
涙で滲む視界には、コンクリートの天井と、心配そうにこちらを見つめる優子の顔。
「……ごめんなさい。 ちょっと、混乱しちゃって」
「大丈夫よ。 今日はここまでにしましょう」
遥は目元に滲んだ涙を拭うと、体を起こした。
「よくやったわ。 桐生さんと共通するシークエンスを発見できた。 これで明日にでも、彼をアニムスに接続して治療を始めることができる」
優子は柔らかい手つきで遥の頭を撫でる。それだけで、混乱していた気持ちが落ち着いていく。
「はい!」
遥はようやく笑みを浮かべると、嬉しそうに頷いた。
昼食の席に啓介の姿はなかった。遥より先にアニムスとの接続を終えた彼は既に食事を済ませ、外に出ている。朝、昼、晩と食事を買いに行くついでに、神室町に何か変化がないか、と偵察を行っているのだと南田が言っていた。
いつも通りのコンビニ弁当を半分以上残し、遥は食事を終えた。早食いなのか、食べ終えた南田は早々にアニムスをいじりに部屋を出ており、優子も遥より先に食事を終え、桐生の体を調べていた。心電図をチェックし、瞼を開けて眼球にライトを当て、口を開けて舌を見る。遥には何をしているのか全く分からないが、彼女の様子を見ていると、異常は出ていないようだ。
「どうしたの? ほとんど残してるじゃない」
彼女が食事を残したのはこれが初めてだ。優子は心配そうに遥に問う。
「ごめんなさい、何だか食欲がなくて」
「そう……少し衝撃的な体験をしたからかしらね。 体調が悪かったらすぐに言ってね」
「はい、ありがとうございます」
遥はアニムスとの接続を切った後、昨夜洗濯し、既に乾いていた普段着に着替えていた。赤いインナーに白いパーカー、デニムスカートと黒いタイツ、茶色いブーツを履いている。
彼女は桐生が寝ているベッドの傍にスツールを移すと、そこに座り、彼の手を握った。
「待っててね、おじさん」
いよいよ明日には桐生を助けられるかもしれない。それを思うと、否応なく焦りが生まれる。先ほど、午後から桐生の治療を始めることはできないのか、と優子に聞いたが、それは無理だと答えが返ってきた。午後には、桐生をアニムスに接続させる必要があるらしい。何でも、彼が記憶の海で迷子にならないように檻を作る必要があるのだ、と南田は語った。
以前、デズモンドが意識を失った際、彼を覚醒させるためにアニムスに接続したことがあったそうだ。その間、アニムスを管理しているスタッフはデズモンドの意識をモニタリングするのに、非常に苦労したらしい。それを防ぐために、遥と啓介のデータを使って檻を作り、桐生の意識をロストしないようにする、とのことだ。
アニムスの専門家である二人の意見を聞き、素人である遥は納得せざるを得なかった。
遥が桐生の手を握ったまま、ぼんやりとしていたのはどれほどの時間だっただろうか、相変わらず轟音を響かせるエレベーターの音で彼女は我に返った。啓介が帰って来たのだろう。
「ヤクザの数が増えている。 アブスターゴと東城会が接触したようだ」
寝室のドアを開けて、開口一番に啓介はそう報告した。炊飯器の入った段ボール箱を脇に抱え、ごちゃごちゃと調理器具の押し込まれたドンキホーテのビニール袋が提げられている。
「だが、アブスターゴのスイーパーの姿は見当たらない。 俺たちの狙い通り、大阪を重点的に探しているんだろう」
彼は段ボール箱とビニール袋をガス台の前に置くと、続けて言った。
「了解。 澤村さんのシンクロは順調に進んだわ。 もし彼女の体調に問題がなさそうなら、アニムストレーニングの続きをやってほしいんだけど……」
優子は心配そうに遥を見る。昼食を残した上、さっきまで呆けていたのだ。無事にアニムストレーニングをこなせるか不安になるのも当然だろう。
「大丈夫です! やらせてください」
遥は気丈に答える。確かに体調は万全とは言い難いが、自分だけが何もせずにいるのは、不安と焦りで精神的に耐えられないのだ。
そんな彼女の悩みを理解しているのか、優子はそれについて追及せず、頷いた。
「なら、桐生さんをアニムスに接続している間、澤村さんにはトレーニングを続けてもらうわ。 ……そろそろ行きましょうか」
優子は腕時計を見ると、ドアに向かった。
「ドクター、準備は出来てる?」
アニムスの傍に屈み込んでいる南田に、優子が話しかけた。彼はひっひっひっと相変わらず不気味に笑いながら立ち上がる。
「ああ、バッチリだ。 桐生くんを連れて来てくれたまえ」
「啓介、お願い」
優子は頷くと、啓介に頼む。
少しして車椅子に乗った桐生とそれを押す啓介、点滴棒を押す遥が現れる。啓介が桐生をアニムスに寝かせると、甲高い音とともにアニムスが起動する。各部が青く発光しており、その光はどこかIFに似ていた。
遥は手を組んで胸に手を当て、その様子を見守っていた。
モニターに表示されている人型の隣に、様々なデータが流れる。自分の時も同じような表示が出ていたのか、それとも意識のない桐生だからなのか。考えても答えなど出ないのだが、遥の思考は止まらない。
優子は食い入るようにそのモニターを見つめており、南田は二重
「お前は隣のアニムスを使え。 モニタリングは俺がする」
啓介はそう言うと、桐生の隣のアニムスを顎で示した。
「はい。 よろしくお願いします」
指示に従い、遥はアニムスに横になる。甲高い起動音を聞き、閉じた視界が白く染まった。再び、アニムストレーニングが始まる。
※ ※ ※
「釣りはいいよ」
タクシーの降車時に多めの金額を渡し、ワインレッドのジャケットを着た無精髭の男、秋山駿は東都大病院に訪れた。
昼を過ぎて既に日は昇りきっているのだが、欠伸をし、後頭部をかくその様子は気怠さで溢れている。普段からだらしがなく、規則正しい行動をとらない彼だが、週に二度はここを訪れていた。
一応、東都大病院に入院している桐生一馬の見舞いに来ているのだが、秋山には別の目的があった。
それは桐生のためにほとんどの時間を病院で過ごしている澤村遥を心配し、彼女の話し相手になることだ。遥は一ヶ月前に、母親代わりとも言える大切な女性、朴美麗を亡くした。秋山自身もその事件の渦中におり、当時遥が所属していた芸能事務所「ダイナチェア」の人員不足のため、遥のマネージャーの真似事までしていた。
それ故、秋山は彼女の気持ちの浮き沈みを間近で見ていた。桐生はまだ生きているとは言え、意識が回復していない。彼女は立て続けに二人も大切な人を失ったのだ。
美麗が亡くなった時は、その真相を探る、という目的のために行動することができた遥だが、桐生の時は違った。彼が回復する為に彼女にできることは何もなかったのだ。そのせいか、遥は己の心身を省みず、献身的に桐生を介護していた。
彼女の様子があまりにも痛々しく、話し相手程度しかできないが、秋山は桐生の見舞いと称して遥のケアをしていた。
右手に提げた紙袋には、彼もよく利用している「韓来」の焼き肉弁当が入っている。昼食には遅いが、夕食にでも食べてもらえれば幸いだ。外見にそぐわず、意外と健啖家である遥ならば喜ぶだろうと思っての選択だ。
面会者用入口へとまっすぐ向かった秋山は、カウンターに置いてある面会者管理用の用紙をいつも通りに無視し、エレベーターホールへと進む。
「あ、秋山さん」
声をかけてきたのは看護師の女性だ。人当たりが柔らかく、話題の豊富な秋山はそこかしこで知り合いを作る。彼女もその中の一人だ。
「桐生さんなら、もういませんよ」
「え? どういうこと?」
退院か転院か。つい数日前に彼を見舞った時にはそのような話題は欠片も出ていなかった。仮に突然、それが決定したのだとしても、遥から連絡が来るはずだ。
「それがよくわからないんですけど、今朝にはもう退院されてたそうです。 誰に聞いても事情を知ってる人がいないし、あのフロアは立ち入り禁止になってしまって……。 まぁ、暴力団関係の方なので、うちの病院で深入りするような人は……ね」
東都大病院は東城会から多額の寄付を受けていることもあり、その設備は充実しているが、それ故に事件の舞台になることが少なくない。
「そっか……。 教えてくれてありがとう。 こっちで色々調べてみるよ」
「はい。 あの、気を付けてくださいね」
「わかってる。 あ、それと遥ちゃんは今日来たかな?」
看護師は首を傾げると、首を横に振った。
「ちょっとわからないですね。 面会シートに書いてあるかもしれません。 あの娘は律儀に毎日書いてましたから」
「そっか、見てみるよ」
秋山は看護師に手を振って別れると、来た道を戻り、警備室の前の記入シートを取った。
今日の日付のページに遥の名はない。用紙を
秋山の眼に真剣な物が宿る。彼は足早に病院を後にし、外に出ると、携帯電話を取り出す。発信履歴から遥の名を探し、電話をかけた。
短い発信音の後、「電源が入っていない」とのメッセージが流れる。彼は電話を切ると、すぐさま次の名を探す。冴島大河。東城会の大幹部であり、秋山の知る者の中では最も事情に詳しいと思われる人物だ。何度かコール音が鳴り、留守番電話につながる。
「もしもし、秋山です。 少しお聞きしたいことがあるので、メッセージを聞いたら連絡をお願いします」
一応メッセージを残しはしたが、彼はまともに話が聞けると思っていない。彼らの行方に東城会が関わっているのだとしたら、冴島の口から言えないことの方が多いだろう。
もちろん、彼の取り越し苦労であることを期待してはいるのだが。
秋山は続けて電話をかける。今度はすぐにつながったようだ。
「もしもし? 久しぶり、秋山だよ。 ……ああ、まだ分からないんだけど、桐生さんと遥ちゃんが厄介ごとに巻き込まれてる可能性があってね。 ……それで、聞きたいことがあるんだ。 昨日の午後四時過ぎ、東都大病院で何かあったか知ってる? ……そっか。 いや、なら調べてもらおうかな。 ……悪いね。 ……じゃあ、連絡してもらえる?」
礼を言って電話を切ると、秋山は敷地外に向けて歩き出した。とりあえず、今できることはこの程度であろうか。思案しながら歩いていると、ふと立ち止まる。
「あぁ、タクシー呼ばなきゃ」
スラックスのポケットから先ほどしまったばかりの携帯電話を取り出し、秋山はこの短時間で四度目の電話をかけた。
※ ※ ※
遥は群衆の中を歩いていた。周囲の人たちは誰一人として彼女に意識を向けることはなく、皆自由に移動し、立ち止まり、会話にふける。
群衆に厳しい視線を向ける警察官の姿がある。遥はあえて警察官の目の前でたむろしている若者の輪に入る。彼らの会話に入ることはないが、彼女がその輪の中にいるのが当たり前だと、警察官にも若者にも思わせる。いや、思わせるのとは少し違う。あまりにも自然で、遥がその輪の中にいること自体に違和感がないのだ。
少しして警察官が移動を始める。遥は若者の輪を外れ、周囲の人たちが元アイドルである彼女を認識する前に、警察官の背後を通って別のグループの輪に入った。その中を通り、移動するサラリーマンの輪に入る。
視界の右端に鷹村啓介が設定したゴール地点である、淡く輝くサークルを捉える。しかし、そちらに視線を向けることはしない。先ほどの挑戦では、その視線の動きが違和感となり、即席握手会が始まりそうになってしまったのだ。ゴール地点の周辺は特に配備されている警察官が多く、気を抜くことができない。
ゴール地点に近づくとサラリーマンの輪を抜け、輝くサークルに一歩、足を踏み入れた。胸の内から喜びが溢れるが、それを外に出さない。ただぼんやりと、気配を消してその場に
『……合格だ』
しばらくして空間に啓介の声が響いた。遥はそれまで溜めていた喜びを爆発させるように両手を高く突き上げ、叫ぶ。
「やったぁ!」
彼女が二度目のアニムストレーニングを始めて既に三時間が経過していた。一般市民の眼を欺くことは午前中にあっさりとクリアできたのだが、江戸時代の遥とシンクロする寸前まで挑戦していた警察官攻略は段違いの難易度だった。
それを何度も挑戦し、ようやくクリアすることができたのだ。
彼女は以前、桐生に「ボクセリオス」というゲームの攻略やバッティングセンターで全打席ホームランを頼んだことを思い出した。遥の無茶なおねだりにも関わらず、彼は何度も挑戦し、クリアする姿を見せてくれた。その経験があるからだろうか、彼女も桐生と同じく、どんなことでも諦めることが大嫌いなのだ。
ましてや、この挑戦は誰に頼まれたわけでもなく、自分自身の希望で挑戦していることだ。最初から諦めるという選択肢はない。
遥は満足感からか、顔中に笑みを広げ、その場で大の字に倒れた。
『大丈夫か? バイタルに異常はないようだが』
「ふふふ、大丈夫ですよ。 ちょっと達成感に浸ってるだけです」
相変わらず啓介は人の気持ちを察するのが苦手なようだ。
『接続を解くぞ』
「わかりました。 お願いします」
遥は立ち上がると、汚れているはずもない尻をはたく。仮想現実であることは理解しているのだが、条件反射のようなものだろう。
先ほどまでいた群衆が粒子となって散り、自身の体も発光し始める。彼女は眼を閉じ、意識が現実に帰るのを待った。
遥が眼を覚ますと、啓介は黙々とアニムスを停止させる作業をしていた。
「澤村さん、おめでとう」
やはり最初に祝いの言葉をかけてくれたのは女医の吉川優子であった。彼女は桐生のバイタルをチェックしつつ、遥の様子も気にかけていたようだ。
「ありがとうございます」
遥は恥ずかしそうに微笑み、礼を言う。隣でアニムスに接続している桐生は長時間に及ぶことを考慮したのか、いつの間にか毛布をかけられていた。
南田は集中しているのか、遥が目覚めたのに気付いている様子はない。一心不乱にキーボードを叩いている。
「桐生さんなら大丈夫よ。 でも、やっぱり澤村さんのデータとシンクロさせるのは明日ね。 今日は檻を作るだけで終わりにするわ」
「わかりました。 ……これで、私も外に出られるんですよね?」
遥は少し心配そうに優子に問う。技術を習得できたとは言え、外出の許可はアサシン教団の判断で決まる。神室町に極道者が増えているという報告を昼に聞いたばかりだ。遥から見れば、習得できているつもりであっても、彼らから見れば外での活動に不安があるかもしれない。
「ええ。 アニムストレーニングに設定されている警察官の警戒レベルは最高設定のものよ。 スイーパーの眼がない今のうちなら、問題なく行動できるでしょう」
それを聞いて、遥はほっと安堵のため息を吐く。
「それじゃあ、早速晩御飯の買い物に行ってもいいですか?」
「あら、休まなくて大丈夫なの? 仮想現実でのトレーニングとは言え、IFを組み合わせたアニムスでは脳だけじゃなく、肉体にも疲労がたまっているはずよ」
遥は立ち上がり、その場で軽く屈伸をしてみた。確かに、疲労感はある。しかし、ダンスのトレーニングで鍛えられた体は、この程度で音を上げるものではない。
「大丈夫です。 それに早く現実で試して、忘れないようにしたいんです」
「そう……啓介、いいかしら?」
「ああ、構わない。 ただし、外では俺の指示に従え。 勝手な真似をすれば、二度と許可は出さない」
脅すような口ぶりだが、感情がこもっていないせいか、恐れは感じない。しかし機械はあらかじめ入力されたプログラムから外れるような動きをしない。遥が彼の指示を無視すれば、間違いなく外出の許可を取り消すだろう、と遥は胸に刻んだ。
「……それじゃあ、準備をしてきて。 桐生さんの方が終わったら、私とドクターでベッドに戻しておくから」
緩んだ空気を緊迫させるのは、もはや啓介の特技と言える。優子はそれに慣れているのか、何でもないように話を先に進めた。
「はい、わかりました」
「澤村さん」
啓介が先に寝室へ向かい、遥も後を追おうとすると、優子に呼び止められた。
「どうしました? あ、晩御飯のメニューで何か?」
「ふふ、それも魅力的だけど、あなたに頼みがあるの。 啓介のことで」
「鷹村さんの?」
優子は啓介がいる寝室のドアへ視線を向ける。その表情はどこか、寂しげだ。
「ええ。 ……あなたに、あの子を人間にして欲しいの」
よく分からない頼みに、遥は首を傾げた。
「あの子……啓介はね、幼い頃からアサシンの訓練を受けて来た。 悲しいことに学校にも行ってなかったわ」
「そうなんですか……」
遥も同情したのか、眉を潜める。
「だからね、あの子は普通の楽しみを知らない。 遊んだこともないし、アサシンの使命から外れた行動を取ったこともないわ」
アブスターゴが設立し、アサシン教団は追い詰められていた。さらに導師がダニエル・クロスに殺害され、各拠点は壊滅状態に陥った。そんな状況だったからだろうか、日本のアサシン教団支部はたった一人の子供であった啓介に厳しい訓練を課し、人間としての感情を奪って行った。
そうして成長してきた啓介は、アサシンの使命を遂行するためだけのロボットと化してしまったのだ。
優子は彼を思ってなのか、悲痛な表情で遥にそう語った。
遥に語っていないことであるが、優子自身も啓介の育成に関わっている。アサシン教団の吉川優子として彼の成長を誇りに思っている反面、一人の人間として彼から奪った多くの物を返してあげられたら、と願っているのだ。
「……でも、私に一体、何ができるんでしょう?」
「普通にしてくれればいいのよ。 できれば、彼と楽しく過ごして欲しいの。 幸いなことに、ほとんどの神室町の監視カメラはこちらで抑えているわ。 アサシンの技能を身に着けたあなたたちなら、この街にある大抵のお店で普通に遊ぶこともできるでしょう」
遥は沈黙し、思案していた。優子が遊んでもかまわない、というのならそうなのだろう。彼女がアサシン教団の不利になることを進んでさせるわけがない。だが、何より問題なのは遥自身が啓介と楽しく遊んでいる姿を全く想像できないことだ。
「澤村さんにある程度の自由を許すよう、私から啓介に言っておくわ。 だから、できるだけ、お願いできないかしら」
「……わかりました。 でも、あまり期待しないでくださいね」
「それだけで十分だわ。 ありがとう」
遥の返答を聞き、優子は嬉しそうに微笑んだ。