鷹が如く   作:天狗

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10.三種の神器

 長門国、巌流島。長門国と豊前国を分断する海峡上にあるこの小さな島に、数日かけて服部正重は辿り着いた。全身黒尽くめの忍装束。身に着けている籠手には伊賀忍者の上忍の証であるアサシン教団の紋章が刻まれている。

 燦々(さんさん)と降り注ぐ太陽の光が巌流島の全景を照らしている。巌流島は中央に岩山が(そび)えており、外側に行くにつれて段々と岩山の高さが低くなっている。

 切り立った岩山がそびえ立つこの島に船を寄せ、岩の陰に船を係留する。船を寄せた際、浜辺に立つ物見櫓(ものみやぐら)を見つけている。あそこからなら島の全域を見渡せるだろう。

 岩の上に身を伏せ、浜辺を見渡す。十名ほどの屈強な大工が中央の岩山の麓に大きな扉を取り付けている。岩山に穴を掘って内部に何らかの施設を建築しているようだ。大工たちは仕事に集中しているようで、こちらに視線を向けることもない。

 肝心の物見櫓には、弓を持った壮年の男と若い男、二名の衛兵がいる。集中力を欠いているのか、壮年の男は西側の大工の仕事を見ており、若者はぼうっと南側の海を眺めている。天井に半鐘(はんしょう)が取り付けられている。見つかれば即座にあれを鳴らされ、逃げ出すことも困難になるだろう。

 正重は大工と見張り、それぞれの視線に注意して行動し、物見櫓の下に辿り着いた。常備している鉤縄は使用せず、物見櫓の南側梯子(はしご)を登り始める。そのまま梯子を上れば、海を眺めている若い男の視覚に入ってしまうだろう。ある程度の高さまで登ると、彼らの足元、物見の塔の淵に手をかけ、ぶら下がる。そのまま東側に移動して若者の側面に回ると、片手でぶら下がったまま器用に籠手から睡眠薬を塗布した針を取り出し、顔を覗かせて二人の様子を見た。

 二人は会話もせず、やはりぼうっとしたまま正重に気づきそうもない。彼は若者の首を目がけて針を投げ、それが効果を発揮する前に顔を伏せる。さらに外周を移動し、物見櫓の北側へ回る。

 若者が倒れる音が小さく響いた。睡眠薬が効いたのだろう。その音に気づいた壮年の見張りはやはりぼんやりとした足取りで若者へ近づく。

 

「……どう、した」

 

 壮年の男は呂律(ろれつ)が回っておらず、その口調もゆっくりしている。正重は手すりを越えて物見櫓に侵入し、アサシンブレードを出した。すぐさま壮年の男を殺そうと思っていたのだが、どうも様子がおかしい。壮年の男の足取りはまるで白昼夢でも見ているかのように、ふらふらしている。

 正重はアサシンブレードを納めると、背後から壮年の男の首を絞め、意識を奪った。倒れた二人の顔をよく見てみると、どこか見覚えがある。

この場に服部半蔵がいるとなれば、二人は伊賀者であるかもしれない。正重は若者の首から針を抜くと、懐にしまう。

 物見櫓の手すりに足をかけ、さらに上に登る。ものの数秒で物見櫓の天辺に至ると姿勢を安定させ、タカの眼を使用した。

 巌流島全域の情報が視界に映し出される。自身がいる島の南側にあるのは、浜辺、大工が建設している大扉。いや、岩山の中腹に内部へ通じる大穴が空いていて、広くはないが水平に整えられた足場もある。北側には港が整備されている。複数の桟橋がかけられ、停泊している大型船から建築資材や兵器を運ぶ大勢の人足が見える。どうやら現在の巌流島は要塞と化しているようだ。島へ上陸するのに南側を選択したのは正解だった。北側へ回れば即座に発見されていただろう。

 巌流島の地形を把握した正重は、内部へ侵入するための経路を模索する。発見されずに侵入するには岩山の中腹の大穴が最も適しているだろう。しかし、あまりにもあからさまだ。普通の兵であれば長大な梯子でもなければ登れないだろうが、忍のような特殊技術を持つ者からすれば容易く侵入できる。

 正重は奥歯を噛みしめ、眉間に皺を寄せる。これは兄である半蔵の試練である、そう悟った。幼い頃から負けず嫌いであった正重が半蔵の前に再び現れると、彼は予期していたのだ。傍目には警備が万全であるように見せ、正重だけが侵入できるようにしているとしか見えない。

 鍵縄を取り出すと、正重は大穴の近くにある松の木に向かって投げた。物見櫓の天辺よりも低い位置にある松の木に鉤縄がひっかかり、自身の持つ縄の端を物見櫓に括りつけた。小太刀の鞘を縄にかけ、滑るように大穴へと移動する。

 

「やってやろうじゃねぇか」

 

 正重は罠だと知りつつ、だがその反骨心ゆえに大穴へ飛び込む。「くれぐれも気をつけるように」。そう当然の忠告をした柳生石舟斎の言葉など、すっかり頭から消えていた。

 

 

※   ※   ※

 

 

 京都洛外の長屋で手紙を読んだ正重は、すぐさま柳生の里へ向かった。そこで待っていたのは徐々に病に蝕まれている柳生石舟斎であった。

 以前、丸目長恵とともに宮本武蔵捜索の依頼を受けた部屋だ。立ち居振る舞いは相変わらず矍鑠(かくしゃく)としているのだが、会話の合間に時折咳をすることがある。

 

「久しいな。 正重」

「お久しぶりです。 石舟斎殿」

 

 正重が洛外に居を移してから、幾度か同じように手紙を受け取り、柳生の里へ赴いたことはあった。しかし、対面するのは直接天海の元で情報を収集している丸目ばかりで、石舟斎と会うことはあまりなかった。彼が病に侵されていると知ったのは一年前だ。正重は気づかなかったが、関ヶ原の戦いの以前からその兆候は表れていたらしい。石舟斎が旅の僧に扮して諸国を巡るのは、己の死期を悟ってのことだろう。彼の病状を正重に打ち明けた丸目は、そう語った。

 

「服部半蔵の居場所が分かった」

 

 予想していた言葉だが、正重は僅かに眼を見開いた。だが、表情は変わっていない。自分の取る行動は変わらないが、正重を生かした兄の意図が未だにわからない以上、その心には複雑な物が(うごめ)いている。

 

「どこに?」

「長門国、巌流島だ」

 

 長門国は京都から見れば西にある本州の端だ。巌流島、という地には聞き覚えがない。当然、そこで半蔵が何をしているのかも想像がつかない。

 

「秘宝は天海が使っている。 関ヶ原以後、長州藩藩主となった毛利秀就を秘宝によって傀儡(くぐつ)とし、巌流島を天海のためだけの要塞にしようとしているようだ。 それだけじゃない。 伊賀者は一人残らず操られておる」

「伊賀者が……」

 

 正重の父、服部正成の代から服部家の出身地は三河であるが、服部家は代々伊賀同心を率いてきた。祖父、服部保長の代から受け継いでいるものだ。以前、柳生の里に呼び出された時に伊賀には人っ子一人いない、と聞いていたのだが、操られてなんらかの任務に就かされているなどとは予想していなかった。

 どうやら半蔵は伊賀者ごと天海に売り渡してしまったようだ。

 

「それで、半蔵は巌流島で何をしようとしているのでしょう?」

「それをお前に探ってもらいたい」

 

 正重は拳を強く握りしめた。

 柳生新陰流の影響は全国に広がっており、多くの門弟を持つ石舟斎の情報収集能力は並ではない。それをもってしても得られない情報があるのならば、いよいよ忍である正重の出番だ。

 

「すぐに参ります」

「くれぐれも気をつけろよ。 お前の死の報など、聞きたくはない」

 

 病で気が弱っているのだろうか。石舟斎は若者を死地へ送ることを悔いているようであった。

 

「何がなんでも、生き残ってやりますよ。 師匠」

 

 正重はそう言って不敵に笑うと、兄の居場所へと駆けて行った。

 

 

※   ※   ※

 

 

 大穴の内部に侵入した正重はタカの眼で周囲の様子を探りつつ、ゆっくりと移動していた。洞窟は緩く下っており、暗く、長い。こまめにタカの眼を使用し、空間を把握しているからこそ明かりが無くても移動できている。

 やがて、巌流島の東側に当たる場所にある入り江に出た。その先はまた洞窟だ。そちらの脇に建築資材が積まれているところを見ると、ここでも何か作る予定なのだろう。正重は誰もいないことを確認し、先に進む。

 再び暗い洞窟を行く。今度の洞窟は短く、すぐに太陽の明かりが正重を照らした。この場所は高い岩山が断裂したように深い谷になっている。

 ここにも人影は見当たらない。

 先に通った入り江に建築資材が置いてあったことを考えると、日常的に人足が出入りしていてもおかしくない。やはり、正重の侵入を見越して人払いしていた可能性が高い。

 だが、彼に撤退の意思はない。罠だと知りつつも、危険に跳びこまなければ得られない情報はある。ただでさえ、柳生の持つ情報網でも入手しきれなかったのだ。貴重な情報を得る機会をみすみす逃すわけにはいかない。

 谷の先にあったのは扉だ。続く洞窟を塞ぐように設置されている。正重はその手前で立ち止まり、タカの眼を使用した。扉の向こうまで探るが、やはり人影はない。扉にそっと手を当てる。開いた。

 彼は侮られていると感じ、一度強く舌打ちをすると、中に入る。

 洞窟の内部は幻想的な光景が広がっていた。

 自然にできたものなのか、人工的なものなのか。知識のない正重には判断できないが、これまで通って来た洞窟とは違い、広場となっている。天井を抜けて空を見ることはできないが、細かい穴が空いているのか、太陽の光が降り注いでいる。洞窟の中央には湖がある。そこに、屋根つきの座敷が建てられていた。

 建築の計画を立てたのが天海なのか半蔵なのかはわからない。だが、半蔵が正重を待ち構えていると考えると、特にこの座敷の建築は急がれたのだろう。

 現に正重は感じ取っていた。水上に建てられた座敷の中央に、探し求めた男がいる。

 正重は橋を渡り、正面から堂々と閉じられた障子を開けた。

 

「待ちわびたぞ。 正重」

 

 最後に会った時と同じように(かみしも)を身に着け、月代(さかやき)を綺麗に剃りあげた服部半蔵が正重に背を向けたまま胡坐をかいている。

 

「久しぶりだな。 兄上」

 

 言いながら正重は逆手に小太刀を抜いた。抜刀の音を聞いたからか、半蔵はゆっくりと立ち上がり、振り返った。(たもと)を分かってから三年。半蔵の様子は驚くほどに変化がなかった。変わらぬままの無表情。顔の皺、毛髪の色や量にも変化はない。

 敬語を止めた正重の無礼な態度にも、反応しない。

 

「俺を待っていた、ということは、聞かせてくれるのか? 全てを」

 

 正重は半蔵の答えを既に予期しているのか、籠手を嵌めた左腕を前に出し、小太刀を背後に隠す構えをとった。対する半蔵はそもそも腰に刀を差していない。構えもとらず、殺気も発していない。

 

「それはお前次第だ」

 

 やはり、半蔵の答えは否であった。

 答えを聞いた瞬間、正重は懐に隠していた針を左手で投げる。同時に、小太刀を振りかぶって躍りかかった。柳生の里で身に着けた、一気に距離を詰めての斬撃だ。

 半蔵は頭部を狙って放たれた針を、首を傾げることで躱し、左腕を小太刀の軌道上に置いた。

 小太刀と腕がぶつかり、甲高い音を立てる。切れた着物の中には鈍く光る籠手。

 

「腕を上げたようだな」

 

 思いの外、強力な一撃に半蔵は僅かに眼を見開いた。初撃で勝負を決するつもりであった正重は舌打ちをして素早く後退する。

 

「今まで誰の世話になっていた?」

「誰が、話すか!」

 

 余裕綽々と言った様子の半蔵の態度に腹が立ち、正重は怒号と共に鉤縄を投げつけた。半蔵は半身になり、胸目がけて飛んでくる鉤爪を躱す。正重が手元の縄を振ると、先端の鉤爪が進路を変え、背後から半蔵の頭部に向かって襲いかかった。

 背後に目もくれず、半蔵は僅かにしゃがむことでそれを回避し、縄を掴む。

 

「……なぜ、俺を生かした」

 

 縄を引っ張り合いながら正重は問う。彼の記憶では、半蔵にこれほどの腕はなかったはずだ。彼はもともと慎重に戦う男であった。今のように擦れ擦れで敵の攻撃を回避するような戦いは初めて見る。

 

「お前が死ねば、服部家の血が途絶えるからだ」

「……どういうことだ?」

 

 半蔵の不可解な変化を観察するための時間稼ぎにした質問だったが、全く予想していない答えに正重は興味を惹かれた。

 身内の情でないことはわかっていたが、服部家の血が途絶える、とはどういうことだろうか。関ヶ原の時点で半蔵に子はいなかったが、正重が死んだとしても子を作ればいいだけだ。

 

「そう遠くない内に天海は秀忠様を家康様の跡継ぎに据える。 その時、天海が実権を握るのならば俺が、そうでないのならばお前が服部家の正統となる」

「天海の策が破られると思っているのか?」

「いや、万が一にもないだろう。 だが、いくつか懸念はある」

 

 会話を続けつつも、正重は縄をひっぱる手に力を加減して次の攻撃につなげようとするが、半蔵もそれを敏感に察知し、対応している。

 

「……宮本武蔵のことか?」

「よく調べているな。 そう、秀康様を手に掛けた宮本武蔵がまだ生きている。 佐々木殿からも逃げ延びたのだ。 それなりの腕の持ち主であろう」

 

 正重の持つ情報は柳生の者によって集められた情報だが、半蔵はそれを知らない。仮にそれを知ったとしても、大きな情報網を持つ者とつながりを得られていることを褒めこそすれ、乏しめることはしないだろう。

 

「それだけではない。 宮本武蔵を逃がしてから佐々木殿の眼が変わった。 天海の傀儡ではなく、一人の剣士として生きようとしている」

 

 それらがなぜ天海の策の失敗を予兆しているのか、正重にはわからない。

 

「兄上は天海を信用していないようだな。 なぜ、奴に協力する」

 

 これまで全く表情を変えなかった半蔵が、初めて口元を歪めた。それを見て正重は少し驚く。彼は今まで兄が僅かでも感情を露わにする場面を見たことがない。

 だが、それを見せたのも一瞬。半蔵は再び無表情に戻った。

 

「別に天海でなくても良かった。 強いて言えば、天海はテンプル騎士団とつながりがあったからだ」

「テンプル騎士団?」

 

 南蛮の言葉であるようだが、初めて聞く名だ。

 

「さすがにそこまで知らんか。 アサシン教団は知っているか?」

「ああ。 この紋章は、元はアサシン教団のものであると」

 

 正重の籠手に刻まれているものと同じものが、半蔵の籠手にも刻まれているはずだ。

 

「そうだ。 テンプル騎士団とアサシン教団はもう何百年も前から対立している。 理由は一つだ。 テンプル騎士団は秩序を尊び、アサシン教団は自由を尊ぶ」

「で、兄上は秩序を選んだ、ということか」

 

 正重の答えを聞き、半蔵は頷いた。

 

「自由を望んだ結果が、この長きに渡る戦乱だ。 徳川家が治めるこれからの時代は、秩序を重んじ、民を導かねばならん」

 

 強く縄を引っ張られ、正重は反射的に腕に力を込める。それを狙ったのか、半蔵は縄を持つ手を離した。会話に気を取られていた正重は思いがけず後ろに体を逸らしてしまう。

 正重の視線が自身から逸れた隙を狙って半蔵は距離を詰める。彼の瞳が半蔵を再び捉えた時には、既に目の前に迫っていた。正重から見れば、瞬間的に移動したように感じただろう。

 

「ぐっ!」

 

 半蔵に鳩尾(みぞおち)を拳で突かれ、正重は呻く。彼は続けざまに小太刀を持つ右手首を手刀で打つ。手放された小太刀は畳に突き立った。咄嗟に距離を離そうと突き出された正重の左手を掴み、逆一本背負いを決める。

 柔らかいはずの畳に叩きつけられたのにも関わらず、正重の背骨に激痛が走った。

 

「天海はテンプル騎士団から秘宝の一つを譲り受ける取引を交わした。 その条件が、東洋にテンプル騎士団に従属する国家を樹立することだ。

 知っているか? 正重。 南蛮では肌の色の違いで支配者と奴隷に分けられる。 当然、我ら東洋人も奴隷の側だ」

「ならっ! なぜそいつらに協力する! 言ってることが滅茶苦茶だぞ!」

 

 正重は背中の痛みに耐え、震える足で立ち上がった。

 

「戦国の世がようやく終わり、さらに外敵と戦う余裕など、この国にはない。 だが、秘宝があれば違う。 残念ながら、この国に存在した秘宝の洗脳効果は弱いものだった。

 現に秘宝の影響下から長期間離れると、巌流島に詰めている伊賀者のように夢現(ゆめうつつ)の状態になってしまう」

 

 物見櫓にいた伊賀者の二人は、洗脳が解けかけていたようだ。

 

「私は、秘宝を手に入れた天海からそれを奪い、外敵を排除する。 その後、徳川家を筆頭に諸大名を洗脳し、二度と戦など起こらない世を作る」

 

 自身の理想を語りながら、半蔵は満面の笑みを浮かべた。

 いつからなのか、正重には見当もつかないが、半蔵は既に狂っている。

 その理想こそ輝かしいものだ。しかし、支配者が死に、代替わりすればするほどその理想は歪み、いずれ破綻(はたん)する。

 

「正重。 そのために、服部家は残さねばならん。 服部半蔵の血を引く一族が日本を陰から支えるのだ」

 

 半蔵の理想を実現させてはならない。彼の腕ならば、愚鈍な天海に気づかれずに殺害することなど容易いだろう。天海の野望を阻止し、半蔵が秘宝を手に入れる前に殺さなければならない。

 そう考えた正重は、左手の籠手からアサシンブレードを引き出し、がむしゃらに躍りかかった。

 

「服部家の鍛錬は私が主導して行う。 私には情報の取捨選択を適切に行える手足が必要なのだ。 お前の使命は、服部家の血筋を増やし、絶やさないことだ」

 

 巧みな体捌きで触れることなく半蔵は正重の背後に回った。未だに痛みの残る背中にひじ打ちを入れられ、正重は再び呻く。

 

「三年前はわざわざ急所を逸らし、命を繋ぐように腹に穴を開けたのだ。 あそこから生き延びることができたお前の血筋なら、優秀な血族となるだろう」

「……気色の悪い夢想を、語ってんじゃねぇ!」

 

 正重は懐から煙玉を取り出し、それを床に叩きつける。その衝撃で破裂した煙玉によって、座敷は瞬時に白煙で満たされ、両者の視界を奪った。

 床に落ちていた鉤縄を拾い、下から上に向けてそれを振った。先端の鉤爪で半蔵の顎を狙うが、何の手応えもないことから躱されたことがわかる。鉤爪はそのまま天井の梁に引っかかった。

 正重は跳躍するのと同時に鉤縄を強く引っ張る。それによって彼はさらに高く上がり、半蔵の背後へと降り立った。

 素早くアサシンブレードを引き出し、半蔵の心臓目がけてその背を突く。

 手応えあり。正重の掌に生暖かい血の感触が広がった。

 

「兄上の野望が成ったとしても、命に限りあるかぎり、その治世は永遠ではない。

 眠れ。 安らかに」

 

 ゆっくりと半蔵の心臓に突き刺さったアサシンブレードを抜く。実の兄を手に掛けたのだ。正重は既に聞こえていないだろう兄に向って、哀悼の意を伝えた。

 

「それは違うぞ、正重」

 

 手に掛けたはずの自身の兄の声が聞こえ、正重は眼を見開いた。確実に心臓を貫いたはずだが、半蔵の裃に残る血痕は広がっていない。突き刺した際に吹き出た血は、既に止まっている。

 

「なっ! どういうことだ!?」

「私はもう死ねないのだ。 この秘宝の力によってな」

 

 煙が晴れ、振り返った半蔵は着物を肌蹴(はだけ)て己の胸を見せた。

 彼の鳩尾の少し上のあたりに、握り拳ほどの大きさの勾玉(まがたま)が半分ほど埋まっている。以前見た草薙剣と似た文様が鈍く発光しており、二、三度明滅した後にその光が消えた。

 

「発見した秘宝は三つ。 一つはお前も知っている草薙剣。 もう一つは服部家に代々伝わる八咫鏡(やたのかがみ)。 これは秘宝を保管していた遺跡に入るための鍵だ」

 

 半蔵の首に麻紐を通した秘宝が提げられている。それは「回」の字と同形で、やはり他の秘宝と同じ文様が刻まれている。

 

「三つ目が八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。 傷ついた生物の肉体を即座に修復する機能がある。 その代償か、私は子を成すことができなくなったのだ」

 

 彼の戦法が以前と違うのは、その秘宝が原因だ。半蔵は死を恐れることがない。だからこそ、慎重ではなく大胆に敵の攻撃を躱し、攻撃に移れるのだ。

 

「私の言うことがこれで理解できたか? 私の治世は永久(とわ)に続き、死を超越した私が一人で外敵を打ち払う。

 正重、私が秘宝を手に入れるその時まで、世の中の在り方について学べ。 お前が死ぬその時まで、共にこの国を支えようではないか」

 

 服部半蔵は既に人間ではない。死を超越し、永遠に生き続けられるのなら、彼が語った理想は実現できるかもしれない。しかし、満面の笑みを浮かべ、狂気に染まった半蔵の瞳に射抜かれている正重は、そう思えなかった。

 正重は凍えるような冷気が全身を駆け巡るのを感じた。彼は今、心底自身の兄を恐れていた。最早、化け物と呼んで差し支えない半蔵は、ニヤニヤと不快感を煽るような笑みを顔中に張り付けている。

 

「――断る!」

 

 恐れを振り払うかのように、正重は叫んだ。その宣言を聞いた瞬間、半蔵は以前までと同じ無表情に戻り、ため息をつく。

 

「馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたが、まさかここまでとはな。 時代の流れを理解し、その裏側を聞いた今でも、お前は眼を閉ざし、耳を塞ぐ」

「ふざけるな! なぜそうも自分だけが正しいと思える!? 死を超越したことで誰よりも偉くなったつもりか!」

「もう良い。 お前には何も期待しない」

 

 半蔵の左手の裾からアサシンブレードが現れる。彼は迷うことなく正重の頭部めがけてそれを突き出した。背筋に痛みが残っているせいか、正重はそれを払おうとするが、その力は弱い。

 いや、先程投げられた時にも感じたが、半蔵の膂力は強すぎる。尋常ではなく鍛えられた筋力は、僅かにその矛先を逸らされはしたが、未だに正重の頭部を向いている。

 それでも何とか躱そうと、正重は首を捻った。

 正重の顔に到達したアサシンブレードは、彼の口腔(こうくう)内を通り、左頬を貫いた。

 

「あがっ!」

 

 奇妙な声を発した正重は、さらに頭部をのけ反らせ、畳を転がって後退した。

 素早く顔を上げた彼の口は耳の下近くまで大きく裂けており、だらだらと血を流している。血の味が口内を満たし、負傷のせいか味覚のせいか、吐き気を覚えた。

 

「私に協力しないのなら、お前は邪魔なだけだ。 今ここで、その命を――」

「お逃げください! 正重様!」

 

 突如、低い男の声が半蔵の言葉を遮って座敷内に響き渡る。同時に、煙玉が弾ける炸裂音とともに白煙が座敷内を満たした。

 僅かに見えた声の主の姿は、赤い鬼の面を付けた忍び装束の男だ。

 

「赤鬼。 洗脳が解けたのか」

 

 半蔵に赤鬼と呼ばれたその男は、生涯服部家に仕えることを誓った「五鬼衆」の一人、赤鬼だ。

 正重は頬に走る痛みのせいか、声も出せず、小太刀を拾いあげると無我夢中で座敷を跳び出た。

 

「お館様! 正気に戻ってください!」

「お前はまだ役に立つ。 (わめ)くな。 うっかり殺してしまうぞ」

 

 逃げる正重の背後から二人の会話が聞こえた。秘宝で操られている伊賀者の中には、抜きんでた実力を持つ五鬼衆もいたようだ。

 洞窟を出た正重は、血が全く止まる気配を見せない左頬を押さえつつ、走る。谷を越え、巌流島の東側の入り江に辿り着いた。

 痛みで思考が纏まらないせいか、タカの眼を上手く使えない。今にも背後から半蔵が襲い掛かってくるような気がする。

 正重の足はふらつき、朦朧とする意識の中で海中に落下した。

 

 

※   ※   ※

 

 

 さらに二年後。千六百五年。

 徐々に日が西に傾き、段々と空を赤く染める中、清水寺に続く石段に腰かけた柳生石舟斎は煙管で一服すると咳をした。

 いよいよ彼の病状も悪くなり、以前のように遠出をするのは難しくなっている。

 

「あと四半刻(しはんとき)(三十分)もしない内に遥様がここへ参ります」

「そうか、ありがとよ」

 

 石舟斎は僅かに頬を上げて笑うと、気配を感じさせずに現れた忍装束の男――服部正重を見た。

 

「いよいよ天海の計画が動き出した、ということでしょうか」

「ああ、ワシらは何としても奴の陰謀を砕かねばならん」

 

 覆面を首まで下ろした正重の左頬には、赤い蚯蚓腫(みみずば)れの傷跡がくっきりと残っている。

 

「遥様は宮本武蔵に任せる、ということですね?」

「桐生一馬之介、だ。 あいつが相応しいだろう。 丸目も、お前も、柳生の里も、陰で動かねばならんのだからな」

 

 苦虫を噛み潰したような顔をする正重を見て、石舟斎は楽しそうに笑った。

 

「お前が桐生を認めていないのはわかっている。 だが、無茶はするなよ」

「……承知しています」

 

 とても納得していないような表情で彼はそう答えた。

 やがて、汚れた着物を身に着け、脇差を抱えた少女――遥が暗い表情で歩いてくるのが見える。

 正重は素早く木陰に寄り、身を隠した。

 

「おや、こんなところに一人で、どうしたんだ?」

 

 遥は石舟斎を一瞥(いちべつ)することもなく、ただ俯いている。

 その理由を知る石舟斎は、何も知らぬふりをして懐から握り飯を取り出した。

 膝をついて遥と視線を合わせると、それを差し出す。

 

「……腹、減ってるか?」

 

 少女の腹が鳴り、石舟斎は呵々大笑する。病に侵されているのにも関わらず、彼はその様子を一切見せない。

 二人連れだって清水寺へ向かうと、正重は姿を現した。

 これから、遥が無事、祇園に辿りつくまで陰から護衛をする。

 桐生一馬之介は、彼女と出会って何かが変わるのだろうか。

 決して歴史の表に出ない、世界の行く末を左右する裏の戦争が始まろうとしていた。


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