薄暗い、地の底のような地下室の一室。
「ぶっ!うぶっ…!」
鉄臭い、口内を覆う不快感を男は現在口をゆすぐことも、拭うことも出来ない。なぜなら彼の両腕は彼の口内よりさらに鉄臭い鎖によって縛られ、彼の上体はさながら「磔」にされたような姿勢になっているからだ。おまけに膝こそはつけさせてもらっているものの、彼の両足首にもまた枷がつけられ、全く以て加減、容赦の感じられない黒く丸い重しが枷に繋がれた鎖の先に施されている。あたかも「別に動いてもいいが枷が足首の肉に食い込んで壊死するだけだぞ?」と言わんばかりだ。
そして何よりもこの薄暗い空間を覆うこの臭い。敢えてここに来た人間を最大限に苦しませるために「前回の獲物」を凌辱した時の状態のままにしてあるのだろう。鎖も足枷も人の血、脂、そして恐らく糞尿の類で常人には耐え難い腐臭を放ち、不衛生なことこの上ない。こんな空間に両腕、両足を繋がれ、おまけに顔の輪郭が変わるほどの暴力を体中に施されたとしたら傷口から質の悪い感染症にかかって一発であの世逝きだろう。
つまり―男にここまで理不尽な仕打ちをする以上、「連中」にとってこの男の末路はすでに決まっているようなものなのである。ただひと思いには殺さずここまで回りくどい拷問をする以上、連中にとってこの男はほんの僅かながらではあるが生かしておく理由があるという事である。その証拠に鎖に繋がられた男は―
「だ、大姐(ダージェ)…。お願いですから…俺、と協力してくだ、さい。貴方、たちの力が必、要なんで、す」
俯き口から糸のような粘つく血を吐き出しながら息も絶え絶え男はそう言った。その言葉に―
「…。その状態で話せるとは中々骨のある男のようだな?このような形で出会うことが無ければ部下に欲しいぐらいだ。だが…残念ながらお前は大きな勘違いをしているようだ」
がりりと地面を削るような音がする。その正体はこの声の主が鎖につながれた男に椅子に座った状態のまま詰め寄った音であった。男の息も絶え絶え、漸く吐き出した言葉に何の感慨も覚えない口調でなおもこう続ける。
「お前に我らと交渉する資格などないのだ。それを理解し、ただすべての事を話せ。さすれば今すぐにでも楽にしてやる」
男を取り囲む空間とは全く不釣り合いな程、均整の取れた艶やかな女の声。しかし、その口調、内容と共に全くの譲歩も感じられない。この二人の間で現在敷かれているものは「対話」、「交渉」の類ではなく、一方的な「拷問」、「詰問」であることに疑いようはない。
「姐さん…もういいでしょう。コイツから聞くことなんてもうないです。さっさと殺して海に捨ててきますよ。…ここは臭くてたまらねぇ。あんま長くいると姐さんのお体にも障りますぜ?」
その女の傍らで低く、重い声も響く。
「…おだまり。あんまり短気起こすんじゃないよ。まずは聞き出すこと聞き出してからだ。この男がなんで『ヤツ』の事を知ってんのか聞き出してからだよ」
その女は傍らに居る男に鋭い口調、そして吊り上がった視線を男に向けて一喝する。しかし縛られた男には聞こえるか聞こえないかぐらいの囁くような口調でこうも語りかける。
「…『次』にいくよ。…思ったよりこの男骨があるみたいだね。単純な体への暴力だけではダメなようだ。…塩漬けか、針山か…はたまた…?」
「…姐さんも好きですね」
男は呆れたように笑う。しかし女に向けた目にやや好奇に満ちた気色が混ざり、歪む。「まんざらでもない」という態度だ。すでにこの男自身もこの目の前の男をただ殴る、蹴るだけの拷問に飽きていたようだ。少々「趣向」を変える必要アリと感じたらしい。
「どうだ…?今の内に話した方が楽になれるぞ?ここまで耐えたお前にこれ以上の仕打ちは私も忍びない…」
一転優しく語り掛けるように女はさらに詰め寄り、俯いていた男の顎をくいと指先であげる。変形し、腫れあがった瞼の下の薄く開いた男の瞳に美しい女の姿が映る。
「せめてもの情けだ。最期に美しいものを見て逝け」
東洋系の顔立ちに、漆黒の艶やかな髪。整えられた細い眉に吊り上がった瞳、端正でどこか高貴さも伺える顔立ち。だが、さながら「遊郭」「遊女」のような毛風も混ざる。
何故なら顔を上げさせられ、目をひらいた男の目の前の女は現在全裸であったからだ。その白い肌、艶めかしく同時比率、均整の取れた豊沃な肢体を現在、申し訳程度に覆い隠しているのは、おそらく彼女の為に誂えられたであろう東洋的な装飾を施された椅子の背板のみだ。一切何も衣服を着用していない。その背板が彼女の胸、肩甲骨、…そして秘部を悩ましいほどに覆い隠している。
彼女は拷問の際、常に「獲物」の前でこの姿になる。拷問を受けながらも目を奪われるほど美しいその姿に、死を目前にしながらも人間、いや生物の本能というべき「部分」が劣情を催す姿を見るのが彼女の楽しみなのだ。
人の命が、希望が燃え尽きる直前、自分の美貌に絶対の自信を持つ自分の姿を「獲物」に見せつけ、ほんの僅かにの「獲物」の命の火が盛り、人間のより本能的な部分、少し爛れた生への希望―とでも言えばいいだろうか、そのようなものが僅かに息を吹き返す瞬間を見る事―これが溜まらない。そして其のわずかに灯らせた「獲物」の命の灯を自分の手で再び吹き消すのもまた最高に溜まらない。彼女の悦楽の時だ。
「最後に聞こう…お前が少しでも正気の内に。恐らく次の拷問にはお前の精神が耐え切れないだろうからな?さぁ?全てを話せ。大丈夫だ…話せばお前はすべて楽になるのだから…」
「お…」
「む。何だ…?」
「お、願いです、大姐(ダージェ)…力を、貸し、てください」
顔を上げた男の相変わらずの愚直が過ぎるその言葉ににんまりと彼女は微笑み―
「ふふ…残念だ?こんな形で出会わなければ…。…アンタはさぞかし私のお気に入りの子になったでしょうに。…。…ラウ!!」
優しく語り掛けるような口調が再び一転、突き刺す様な語気に戻る。不機嫌さを一切隠さない女の「素」の声色だ。
「はい」
女の傍らに立っていた男―ラウと呼ばれた男が「待っていました」と言わんばかりに応え、「如何様になさいますかと」頭を下げつつ、愛用の椅子に座ったままの女の上半身に自分が着ていたジャケットを羽織らせる。彼女の要求を身の程知らずにも無碍にした相手にこれ以上この美しい彼女の体を見せることを男は許せないようだ。
「お前に任せる。好きにするがいい。念入りに攻めて…殺せ」
「はい。では用意します。…花琳(ファリン)姐」
「花琳」と呼ばれた女はすっくと立ちあがり、縛られた男に背を向けた。その背に―
「大姐…」
繋がれた男がまた声を放つ。彼女は足を止めたのみで最早目もくれず、唾を吐くような口調でこう言い捨てる。
「…。もう喋るな。お前と話すことなどもう何もない。精々、苦しんで死ね」
「お、願いです。力を…、貸してください。でないと…―
…少々こちらも手荒になるしかない。平にご容赦を。…大姐?」
「…!?」
バキン
ドっ!!!
男の口調がまるで別人に切り替わったように生気を取り戻したと思った瞬間、異変に振り返った彼女―花琳の足元に先ほどまで男を拘束していた両腕の鎖の先端が無造作に叩きつけられ、砕かれた床が破片を巻き上げた。
「…!」
しかし―繋がれていた男は解放された両手を床に置き、俯いたままだった。鎖を強引にひきちぎった割には攻撃意志、害意が最低限であることを示す。あくまで男は先程から彼女の耳がタコになるほど聞かされた「力を貸せ」という方針を変えるつもりはないらしい。手心を加えられているようでそれが何とも彼女の気に障る。
「ラウ。…構わん。殺せ」
努めて冷静な口調を保ったまま花琳はそう命令した。彼女の部下―ラウは44口径の拳銃を持っている。ただ相手を殺すためだけの時のみ使用するため、使用頻度は案外にも少ないが、花琳の護衛を務める以上、ラウの銃の技術は高く、抜き速度も早い。しかし、彼の所持する拳銃の一向に乾いた銃声が今は響かない。花琳の命令は彼にとって絶対。その花琳が「殺せ」と言った瞬間、銃の引き金は引かれたも同然のはずなのに。
「何をしている。ラウ。…!?」
既に長身の大男―ラウはその巨体を横向けていた。ピクリとも動かない。鎖を引きちぎった轟音に振り返った花琳が彼に背を向けている僅かな時間―その間にあのタフな彼女の部下がすでに完全に意識を失い、落ちている状態なのだ。
「…ラウ。どうした?」
「大丈夫。彼…ラウは死んではいないよ。ただ眠ってもらっているだけだ。ここからの話は限られた人間のみにしてもらいたい。こっちの事情を押し付けるようで申し訳ないが…」
「…!」
自分の状況、そして男を見据えたまま花琳は後ずさる。彼女の華奢な両肩にかけられたラウの上着をきゅっと握って。怯えたように。しかし彼女の心根は確かに僅かに恐怖は覚えていても、ある程度その恐怖心をまだコントロールできている状態だった。
なぜなら彼女が後ずさった背後の台の下に誂えられた緊急ブザーがあり、それを押すための後退だったのだ。
―…。
横目で僅かにその位置を確認し、手探りでボタンを探り当てそれを押す。この部屋―拷問室には響くことはないが、この部屋の外―彼女のアジト内では異常を告げるサイレンが鳴り響き、彼女の「仲間」がすぐに異常を察してこの場に殺到する。
・・はずなのだが。
「…」
おかしい。十数秒はまた経過したがその気配がない。動揺を悟られないよう努めて平静を保つ彼女に対し目の前の男は申し訳なさそうにこう呟いた。
「残念だけど…この建物のお仲間には全員眠ってもらった。さっきも言った通り…あんまり俺の存在を知る人間がこれ以上増えてほしくないんだよ」
「…なんだと?っ…!?」
花琳は目を見開く。彼女が一向に現れない増援に内心苛立ち、再び緊急ブザーを押すために僅かに男から目を離した瞬間―また「異変」が起きていたからだ。いつの間にか縛られていたさっきまで彼女の目で捉えていた筈の男の姿がその場からぽっかり消えていたのだ。代わりに―
ドン!ドゴォン!!
男の両足首の足枷につけられていた一つ当たり軽く50キロ前後はある黒い鉄球二つがまるでピンポン玉のように彼女の真上―宙に舞い、轟音を立ててこの彼女の拷問室―獲物の悲鳴、奇声、そして逃走を完全にシャットアウトする頑丈な鉄の扉に双方直撃、結果扉は変形。女の細腕では到底開けられないほどに損壊。彼女の退路は完全に断たれた。
男の声が突然別人のように生気を取り戻してから僅か数十秒のことだった―圧倒的優位、ただ相手を一方的に蹂躙するだけだった彼女たちの立場があっさりと崩れ、そして同時悟る。あの拷問の時間が今、自分が相対しているこの男が彼女らに施したせめてもの「譲歩」の時間であったことを。
「…」
冷静に、且つ状況を正確に把握し、花琳は努めて平静を保ちつつ声がした方向に振り返り―こう言った。
「貴様『ら』…一体何者だ?」
そう。
彼女がラウからほんの一瞬目を離した隙にラウが気絶させられたあの時、まだ縛られた男はその場から動いていなかった。つまり…ラウを気絶させた人間はこの男ではない。
他に居「た」のだ。
その「姿」をようやく彼女は今確認する。一体いつから「ここ」に居たのか―彼女には見当もつかない。
「……」
すでにまるで我が物顔の様に、先ほどまで花琳が座っていた彼女愛用の椅子に躊躇なく腰掛けている男―その首にぐるりと細い両腕を絡ませ、自分の「主」を傷つけた相手にこれ以上ない敵意の眼差しを向ける巨大な鎌を携えた黒い死神のような着衣を纏った痩身の美しい少女の姿があった。
その剣呑な獣の如き光を放つオリーブの瞳が花琳を射抜く。視線だけで自分たちの生態的地位を彼女に理解させるような輝きであった。つまり「喰うものと喰われる側」の関係だ。
「…」
表情こそ大して変わらないものの、花琳の額に今ようやくうっすらと汗がにじむ。ここからは自分が相手の意図を把握しきれないと…自分が「喰われる」。そう理解した故の沈黙であった。
「…確かに」
可憐な死神に憑かれた男が再び口を開く。最早彼女の拷問を受けていた時の、終始命の灯が掻き消えそうな弱弱しい口調ではなかった。
「あなた方は荒事に於いてはこの時代の先端を行く人間だ。暴力、脅し、時には殺しによって相手を征服、屈服させて貴方たちなりのルール、秩序のもと行動し、事を成す。これが貴方たち―マフィアの生き方だ。しかし残念ながら暴力、荒事においてこの時代の最先端を行く俺たちに貴方たちの力は…無意味だ。暴力も、拷問もまるで意味を持たない」
そう言った男―青年の顔をまるでキスでもするように首に絡みついていた死神のような少女の顔が覆い隠す。そして数秒後、少女が口からやや血の混じった唾液を口から糸を引きながら垂らしつつ、離れていくと―
「…!」
花琳は内心呻くような思いで整った顔を歪める。大概のこの世の醜悪なものを見てきた彼女でさえその光景に不快感を禁じえない。その光景が「醜い」というよりもあまりに鮮やかで何とも奇妙な美しさがあったからだ。
死神のような少女が青年から顔を離したあと、つい数秒前までパンパンに腫れあがっていた彼の瞼、そして殴られて変形していた輪郭が嘘のように回復していた。
この回復力、常人ではありえない膂力、そしてが数々の人間離れした彼らの所業を前に花琳は理解し、確信する。
「貴様ら…ゴッドイーターか。フェンリルの犬が我々の組織に―
そしてこの香港に…一体何の用だ?」
「先ほども言ったとおりです。あくまで力を貸してほしい。それだけです。俺たちの目的は共通している、なら協力できる。…そう、思いませんか?」
「…残念ながら『ヤツ』はあなた方の手に負える相手じゃない。奴は『俺たち』にしか相手にできない。でもあなたも知っての通りこの香港―フェンリル香港支部は一筋縄ではいかない場所だ。だから…手を貨してほしいんです。この香港支部を陰ながら支えているあなた方にね。…大姐?」
「…何とも派手にやられたねぇ?お兄」
死神の少女―「レイス」はくすくすと鼻で笑いながら青年―榎葉 山女に腕を絡ませつつ、彼の変形した顔を眺め、耳元でささやく。
「…俺としても穏便に済ましたかったんだけど…結局武力行使かぁ…。あ、イテテ」
「男前が台無しだね。…どうする?『治した』げるよ?今すぐに」
「う~~ん個人的には遠慮したいけど…ま。『演出』にはなるかな。悪いけど頼むよ。『レイス』」
「ん。任せて。なるべく…痛くしないよ」
かぷ…
―おイチチチチ…。
―ほら。お兄。がまん。がまん。演出。演出。