G・E・C 2  時不知   作:GREATWHITE

45 / 85
失われた記憶の小路を抜けて 2

抜ける様な蒼い空を見上げる。今のこの時代において世界中が退廃し、朽ちようとしている「砂漠」とするならばまさしくこの地は「オアシス」と呼ぶにふさわしいと言えるだろう。

 

世界を主導する者達は都合の悪い事をひた隠す事もあれば、逆に隠された恩恵を限られた者同士のみで享受する事もある。

「世界が退廃している、末期である」とイメージ付け、広大な外の世界への想像力、探究心を奪い、小さな「鳥かご」を最良の安全地帯であると思いこませる。

事実この時代、「それ」自体は決して間違いではない。世界の大半が人間の力を遥か凌ぐ天敵達が蔓延る超危険地帯であることには。

 

でも世界は生きている。隠された前時代の遺産は世界各地で今も息吹き続けている。

そしてこの地もまた生きていたのだ。つい十年ほど前まで。そして確かにいたはずなのだ。

 

―何も知らない子供の私が。

 

しかし今の私には無い「全てを持ち、全てを知っていた」私自身がここに―

 

 

 

「…ただいま」

 

 

 

 

「レイス」は帰ってきた。故郷の町へ。無人と化した街へ。

 

 

美しいおとぎ話に出てくるような欧風の石造り、レンガ造りの建築物もまた極東の都市と同じようにここを襲撃したアラガミによって所々綺麗にチーズの様にくりぬかれ、奇妙なアートの如き異質な街並みを作り出している。同時年月の経過による風化、浸食が進み、植生した深緑のツタやコケによって家屋は覆われ、手入れも除去もされていない結果、小路にまでびっしりと張り出している。

 

「…」

 

その小路をただ「レイス」は一人歩く。アラガミに襲撃され、人間に放棄されて以降人の手が入って無いにも関わらず、どこか趣を残したその町を。本来故郷に戻ってきた人間なら「懐かしい」やら「この道でよく遊んだ」とかの懐郷心が生まれるはずなのだろうがやはり…

 

―思い出せない。

 

この風景を眺める今の「レイス」の中にある物はあくまで「GE」としての任務地の地形や地理、家屋、建物の配置など予め頭の中に叩き込んでおく習慣に基づいたこの街の「情報」だ。「記憶」とは程遠い。

 

「ふふっ…」

 

一応「立場」上、無意識に呟いた最初の「ただいま」という言葉がやたら空しく虚空に響き渡ったことに「レイス」は思わず苦笑する。

 

「『実家』にも挨拶しておかないとね…」

 

「レイス」は見上げた。

 

記憶では無く「GE」として仕入れた「情報」上では彼女の実家―「領主屋敷」はこの街の中心地に位置している。代々の領主が常に町を眺め、様子を確認できるようにやや小高い山に建設され、周りを木々に囲まれながらも現在の「レイス」の位置からでも僅かに物見櫓の如き塔が覗く。アラガミが現れるずっと以前から地続きの隣国の侵攻を監視する為の物の名残だ。異常を察した際に鳴らされる警鐘も残されている。この街のシンボルだったのであろう。

 

「…迷子にならなくて便利だね」

 

過去の自分に語りかけるように「レイス」はそう言った。同時―

 

タタタタタっ

 

「…!」

 

―…え?

 

小さな少女が「レイス」の前を駆け抜けていく。小さな白のワンピースが蒼い空の光を浴びて映える。光を全て呑み込む全身が真っ黒の「レイス」とは対照的な色だ。しかし深く被った麦藁の帽子の合間から覗くサラサラの髪は―

 

「レイス」と同じ綺麗な銀髪をしていた。

 

 

「…案内してくれるの?」

 

そう尋ねた「レイス」に少女は振り返り、深く被った帽子で瞳を隠したまま僅かに覗く口を見せながらにんまりと笑って頷き、そして背を向けて走り出す。屋敷に続く少し登りが続く傾斜を物ともせず、小さな背中は駆けていく。

 

 

 

 

この「案内役」の少女、どうやら中々お転婆らしい。

 

小路に続く焦点、露店の店主にちょっかいを出したり、果物をちょろまかして何の躊躇い無く口に運んでいる。少女の行動に大人達はころころと無邪気に愛らしく跳ね回る少女の姿を見て苦笑いをし、悪戯な少女の被害を最小限に抑える為に自ら果物を投げる者もいる。

それを受け取った少女は軽やかなステップで韻を踏むように舞った後、仰々しく長い白いワンピースのスカートの両端を小さな指でつまみ、愛らしいお辞儀をする。どうやら彼女なりの御礼、お代金のようだ。

 

そしてぶんぶんと店主、次々に彼女に声をかけたり、手を振る知り合い達一人一人に手を振ってまた小路を軽やかに駆けだす。

 

そんな少女に連れられて数分歩くと徐々に人通りがまばらになり、少女の実家の敷地内に入ると辺りは草原、そして更に行くと鬱蒼とした森林の中、まるで天まで続くかのような傾斜の急な坂道が続いている。

迷子にはならないかもしれない。が、毎日町と家を往復するのにこれでは骨が折れるなと「レイス」は思う。

でも目の前をひた走る少女はそんな事露ほども気にしていないのであろう。

 

少女にとって毎日が冒険だ。毎日が出会いだ。その過程で生まれる家路と旅路を繋ぐこの急な坂道の上り下りなど彼女にとって、行きは今日の出会いに胸膨らませ、帰り路には今日の出会いを反芻し、同時明日の冒険に思いを馳せる道程でしかないのであろう。

そして今少女は今日の「冒険」、「出会い」を話し、共有することのできる者達の居る場所へ一旦帰ろうとしている。つまり彼女の家族の元へ。

 

今日の出会い―未来の自分でもある「レイス」を連れて。

 

 

「…」

 

少女と「レイス」が坂を登り切ると、領主屋敷邸内への入り口―黒い門があった。ただし荘厳ではあるが威圧的ではない。一見「黒い門」と書くと重々しい、「保守的、排他的、閉鎖的」な印象を覚えかねないが、その門には手入れの行きとどいた若緑色の植物のツタが絡まり、所々に色とりどりの花が咲いている。ここを訪れる者の身分、権威など関係なく、誰しもを温かく迎え入れてくれそうな柔らかい雰囲気を保っている。ここの住人の人柄を表す解りやすい指標と思える。

 

その証拠に先行していた少女は何の警戒もなく門を開け、これまた仰々しい手招きをして「レイス」を招き入れる。その所作は気取った様な所がまだまだ抜けきらないが、逆にそこが「精一杯背伸びをしている幼い少女」という印象を与える。彼女に招かれ、ここを訪れた客人はその微笑ましさにご満悦であっただろう。

 

―しかし

 

一度邸内に入ってしまえばここは少女の家。背伸びした「領主の孫娘」からまだまだ「甘えたい盛り」、「お転婆」な少女に戻る。

 

―!

 

タタタタタタッ!

 

少女は「レイス」を邸内に招き入れたとほぼ同時、後ろ姿でも解るほどいかにも「良い物を見つけた」ような躍りあがる所作をしたかと思うと一目散に駆けだしていった。

緑、花に溢れた邸内―そこに座り込みながら庭の草木を世話している大きな背中を目指して。

 

 

少女には彼女以外全員男の五人の兄がいた。その年の差は一番下の兄では二歳、一番上に至っては十二歳とかなり幅が広い。その中の一人、一番年の離れた19歳の兄―今邸内の草木を世話している彼に少女はべったりであった。両親を早くに喪い、祖父母に引き取られた彼女にとって一番年の離れた兄は「兄」というよりも「父」に近い。

 

いずれこの地の領主になる立場の兄は幼いころから聡明で在り、そしてとても優しい少年であった。末っ子でおまけに兄妹の中でただ一人女の子である少女の立場上、どうしてもとっくみあいの喧嘩では近い歳の兄には勝てない為、少女は普段から祖父母かこの一番上の兄に引っ付き、中々強かに生きていた。

 

かと言ってこの兄、いずれこの地の領主を預かる立場だ。努めて公平に、平等にものを考える。よって可愛い妹とは言え万事全てに於いて少女を庇ってくれるわけでは無い。少女に非があると判断すればちゃんと彼女を叱る器量を持っていた。幼さゆえの失敗で少女は時に叱られ、ふくれっ面を浮かべた。

が、女の子という物は男の子に比べると比較的精神的に早熟で或る。いずれこの地を背負って立つ彼の立場を何となく幼心ながら徐々に少女は理解し、その上で少女は兄を好み、懐いていた。

 

草木の世話をしながら背後に纏わりついた妹の頭を少年は優しく撫でる。完全に構ってモードの少女に少年は草木の世話を諦め、妹と同じ色の長い銀髪を揺らして立ち上がり、纏わりつく妹を優しく抱き上げ、頬ずりする。

確かに兄弟というより親娘の様だ。このスキンシップに少女が満足したと判断した少年は次に客人の「レイス」を優しく愛おしそうに彼女のつま先から結わえた髪の登頂まで見、

 

―大きくなったね。

 

とでも言いたげな目でにこりと微笑んだ。

 

 

「……!」

 

思わず「レイス」は目を逸らし、居心地悪そうにカリカリと頬を掻く。

 

 

 

―なんか…「誰かさん」に似てる。

 

 

 

……!!―!―!!

 

 

そんな兄の姿に少しむくれて少女はむぃ~んと兄に抱かれたまま彼の頬を引っ張る。困った顔をしながら優しい微笑みを携えた少年はぐずる少女を下ろし、尚も纏わりつこうとする彼女の頭を帽子越しに右手で撫でたまま「レイス」に向き直る。

 

 

―!―!

 

 

「私を見て!もっと見て!」とでも言いたげに少女は兄の足元で尚もぐずる。

 

「…安心して。盗ったりなんかしないよ私は」

 

「レイス」はそろそろこの優しい兄が立場上、妹の駄々を諫めなければいけない段階にある事を察し、早めにそう言って手を打った。

 

―!……。

 

すると兄の足元の少女は嫉妬のあまり自分を見失っていた自分の幼い所業に気付き、バツが悪そうに視線を逸らした。でもしっかりと左手だけは兄の添えられた右手をしっかりと握っている。「これだけは譲れない」とでも言いたげに。「レイス」はあまりの少女の健気さ、そして意固地さ、歳の離れた兄への執着の強さを微笑ましそうに見る。

 

 

「ホントに…大好きなんだね」

 

 

―ホントに大好き「だった」んだね…。

 

 

 

 

 

「……さよなら」

 

 

 

 

 

そう言って「レイス」は苦笑いを浮かべながら後ずさった。目の前の少年は少し驚いた様な表情で「レイス」を制止する。

 

―! もう行くのかい?待って。まだ会わせたい人がたくさんいるのに。

 

たくさん話したいことがあるのに。

 

「...ううん。これ以上いても『ムダ』だよ。でも…会えて嬉しかったよ…さよなら」

 

 

「レイス」はふるふると被りを振ってこう言った。

会えて嬉しいのに。楽しいのに。自分がこんな良い家族や周りの人達に囲まれていた事を示す純然たる証拠が目の前にあっても…

 

 

―結局これは…

 

「私の記録」であって「私の記憶」では無いんだね。

 

 

 

記憶は閉じたままの彼女は―「手」を離した。同時「レイス」の周りの光景が一気に「覆る」。2072年の現代へ。

 

かつてと変わらず原風景は美しいこの地。だが、十年後の現在―「レイス」の今居るこの地は最早誰一人として残っていない。目の前の領主屋敷も朽果て、放置された植物や花がびっしりと屋敷を覆い尽している。これも風情があって中々美しいと言えるが主を喪ったこの屋敷はやはり少々物悲しい。

 

「…」

 

そこにただ一人「レイス」は無言で佇んでいた。「ある物達」に触れていた右手の手首を左手で抑え、抱き込むようにして顎に添えながら拳を握り、軽く口づけする。

 

彼女が触れていた物―それは今は廃墟と化しているこの街の各地、そしてかつて彼女の兄が大事に育てていた領主屋敷に植えられた木や花、そして「ツタ」「コケ」などの植物であった。

 

この時代、見た目は前時代と変わらずともこの世界の生物、または植物はオラクル細胞によって何らかの干渉、影響を多分に受けている場合が殆どだ。だが植物に置いては例えオラクル細胞に浸食されても生態をほぼ変えない場合が多い。かつて地球上に存在していたオリジナルの植物群がオラクル細胞によって大半が喰われ、喪われていても地球の大気が人間や現在辛うじて生き残っている前時代の生物の生命活動を維持できるほどのレベルを維持できているのは半アラガミ化した植物の光合成によるものだ。オラクル細胞は自らの捕食行為によって地球の大気組成が大きく変化させる事を良しとしなかったのである。

 

「レイス」は今回、それら半アラガミ化した植物に触れて感応現象を起こし、彼等の記憶からかつてのこの地の光景、自分の情報、そして家族の町の人々の情報を「再生」させ、視覚情報として体験していたのである。

 

彼女が今回の任務の参加を断らなかった、そしてレアがこの任務を敢えて引き受けたのはここに理由がある。

実質「ラストチャンス」であったからだ。

「レイス」が自分の記憶、過去、ルーツをかつての知り合い達による情報から呼び覚まそうとする「人伝」では無く、感応現象を通して自らの「眼」で確認できる最後のタイミングでったからだ。

 

というのも聖域、「サンクチュアリ」候補地などといってもオラクル細胞に浸食されている以上、人の住める環境整備を行う必要がある。つまり―アラガミから取り戻したこの地を再び人間の物にし、新たなプライベート支部を建造するには一旦はこの地を更地にする必要がある。「除染作業」に近い物と言って差し支えない。

要するに十年間放置されたこの地に群生している半アラガミ化した草木、花は処分され、彼等の持っている記憶を彼女の感応能力をもって調べる事が二度と不可能になる。先程までの様に彼女の家族、この地の記憶―つまりは彼女自身の記憶の回復の手がかりは永遠に失われてしまうのだ。

 

もっとも植物自体が十年以上も前の記憶、記録を今も尚有しているのかの懸念はあったし、植物はアラガミ化の作用、影響が比較的生物に比べると緩やかとはいえ直接触れる以上リスクは皆無でも無かった。しかし―思っていた以上に彼等は強く、そして健気にこの地で共生していた人々の事を覚えていたのだ。そして唯一この地で生き残った一人の少女のことも拒絶することなく優しく向かい入れてくれた。まるで今まで献身的に自分達の面倒を見てくれた彼女の兄への恩に対する返礼のように。

 

そんな彼等に感謝すると同時「レイス」に更なる虚無感と自責の念が襲う。

 

―私がかつていた世界は今もこんなに私を受け入れてくれているというのに。

 

私はまだ今もこの期に及んで―

 

「…」

 

「レイス」は無言のまま踵を返す。

かつての自分の「ルーツ」そのものに背を向けて。風が舞い上がり土、若草、樹木、そしていくつも咲き誇る花の香りが「レイス」を呼び止めようとするように彼女の鼻をくすぐる。

振り返ればかつての屋敷の光景が。そして兄が、祖父が、そしてかつての自分が笑いかけてくれそうだ。

 

 

―…でも。

 

 

 

結局私は貴方達に会わすカオが無い。

 

 

 

「レイス」は振り返らなかった。

振り返った先、見晴らしのいい小高い丘に建設された領主屋敷からは故郷が一望できる。何時しか「レイス」の眼下に広がる故郷は夕暮れに染まっていた。

町も。若草も。木々も。湖も。全てが茜色に染まっている。

 

ザアっ

 

尚も名残惜しそうに「レイス」をこの地に留まらせようとする優しく心地よい風に少女は美しい茜色に染まった銀髪を靡かせ、くすぐったそうに髪を掻きわけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




「……」


湖面に映る自分の姿を「レイス」はじっと眺める。
澄んだターコイズブルーの湖面は今小舟に乗った少女の美しい顔、そして空の色、湖の中央に浮かぶ小島とそこにかつて建設された朽ちかけの教会を鏡の様に映し出している。

しかし後数分もすれば日没だ。辺りは静かな暗闇に包まれ、湖面に浮かぶ少女の顔はやがては見えなくなるだろう。

―でも。例え見えた所で何になるんだろう?

私は一体誰なんだろう?この湖面に映る女の子は一体―


誰?



チャプン…

「レイス」は水面に顔をつけ、水中を覗きこむ。水面に映った少女の中に潜り込めばその中に何か見えるかもしれない―そんなバカな事を考えて。
でも当然見えるのは蒼く深い澄んだ水の中。日没を控えて陽の光は徐々に弱くなり、更に水中を深い蒼にしていく。

トプン…

「レイス」は引き摺りこまれるように。吸い込まれるようにして全身を預けた。限りなく黒に近い紺碧に向かって。

―…。

少女は水中で仰向けになり、今度は水面を見上げる。そこには美しい銀髪を天の衣の如く舞わせた少女の姿が映る。しかし彼女もまた「レイス」に何も語ってはくれない。
心許なく不安げにたゆたうだけ。水面の自分の姿に右腕を延ばし、触れてみる。しかし当然何の温かみもない。記憶を探る感応現象も当然起こらない。

―ならば。

この何も見えない背後の暗闇の中にこそ何かがあるのだろうか。暗く冷たい水の底―そこに本当の私に繋がる何かがあるのだろうか。

なら…沈んでいこう。このまま深く。とても深くまで。

何も語らない水面に映った自分の姿が遠ざかっていく。陽の光が徐々に届かない暗く深い水の底に向かってゆっくりと少女は仰向けのまま沈んでいく。













実際の所―

確かに人間―特殊部隊「ハイド」は神からこの地「は」取り戻していた。しかし―「ここ」はまだ取り戻してはいなかった。

「ハイド」の設置したオラクル反応探知装置の包囲網を潜り抜け、深い深い湖の底で気配を断ち、息を殺していた神は今ゆっくりと堕ちて来た少女の姿を確認し、


ゴボボ!!


一気に垂直、急浮上を開始した。暗闇の中で光る目、巨大な口、鋭い牙。

太古の昔から人は深い暗闇や人の手の届かない深海を恐れる。
「そこに何かいるのではないか」という恐怖、イマジネーションが生む醜い悪夢の様な怪物の姿を有史以来人は何度も書き記している。

シーサーペント。クラーケン。レヴィアタン…

そんな人間の潜在的恐怖が生んだ空想上の怪物たちの姿、恐怖、強大かつ凶悪、凶暴さを余すことなく現実に反映させた怪物が今水底より躍り出る。

「それ」は本来熟練した神機使いであればどうってことはない相手ではある。が、それはあくまで地上という人間のフィールドで彼等と相対した時の話である。水中での彼は間違いなくこの湖の「主」といっても過言ではない強大な力を誇る。

その巨体が水を裂き、掻き分けると膨大な水流が生まれ、澄んだ蒼い水中が渦を巻いて撹拌される。狙いはただひとつ。群れからはぐれ、自己を喪失した哀れでか弱い獲物。

ぐぱっ

鋭い牙が所狭しと並んだ醜悪で巨大な口を開き―

ぱぐん!


―....アンタらはいつもそうだよね。こっちの都合はお構い無し。でも―

何かホッとする。

今の「私らしさ」を存分に出せるもの。少なくともこの瞬間は私はここに自分がいていい意味を見いだせる。


―!

「気付いていたのか」と言わんばかりに体の大半を頭部が占める湖の主が空振りに終わった口をギリギリと歯軋りさせ、地上では方向転換すら難儀する鈍重な体を対照的に鮮やかに翻す。

主の魚眼には先程までとは打って変わり、戦意と自信に満ち溢れた―銀髪の死神の少女がある。

―悪いけど。

例え忘れていてもここは私にとって、そして私の大切だった人達が大切にしていた場所だったんだ。

...返してもらうよ?


先程の主との交差、少女は左手から神機を持ち替える際に軽い手傷を左手の指先に負っていた。出血は無い。が、何か焼けただれた様な傷口である。


―...回避したハズだけどね?

その疑問はすぐに解消される。
湖の主の巨大な上顎に設置された砲筒からじわりと病的な緑色をした液体が辺りを覆っていく。湖の主の体を覆い隠すように。
強酸性の液体だ。地上では範囲は限られ、空気より重いのか長く散布することはできない御しやすい技だが水中では一定範囲を漂い、不可侵の領域をじわじわと拡げていく質の悪い技と化している。

おまけに「レイス」は現在水上を取られている。空気の補給路も閉ざされた状況だ。
地上では考えられないほど強大な相手と化した主―グボロ·グボロに完全に優位に立たれた。

しかし―少女に動揺の色はない。真っ直ぐと酸の液体の結界を見据え、傷付いた左手の指先に年不相応と言えるほどの色香、妖艶さを伴わせながら

カプッ...

噛みつく。患部はじゅっという音とともに僅かに光を放って瞬時に回復した。

「....」

少女はいつも通り冷静に、思慮深く考え込むかのように左手の指をくわえたまま、酸の結界のなかでキラリと光る湖の主の2つの目を見据えていた。





▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。