「海の色…違うんだな」
そう呟いたエノハの目の前には極東とは異なる「蒼」さをもった海原が拡がる。
海は大別するとほとんどの場合「青色」と表現、形容されるがその「青さ」には多くの種類がある。海底の砂地、環礁、透明度、水質、汚染、深度、気候、天候など様々な要因が絡み合い、異なる「青さ」を見せる。
ここ地中海―シチリア島は形がまるで女性物のハイヒールのブーツの様なイタリア半島の丁度つま先あたりに浮かぶ島であり、そのとある港町にエノハ達は現在訪れていた。
長い年月の間改修される事無く放置され、浸食の進んだ堤防の先端に立ち、エノハはかつて多くの人々を魅了したであろうその景色を無言で眺めつづける。
海底の白い砂が太陽光を反射して鮮やかなエメラルドグリーンを放つ浅瀬、その沖の急に水深が増す境目―「瀬」から一転紺碧に色を変えるコントラストが非常に美しい。透明度も非常に高く、透明の海水の上に並んで浮かぶ朽ち果てた小型ボートの影が水底に映り、船というより小型の飛行機が列をなして雲海の上を飛んでいるかのような錯覚を覚えるほどだ。
ここはかつて漁業、そしてその海産資源を利用した観光を主要産業としていた港町だが、アラガミ出現後の混乱によって放棄され、今では遺跡の様な欧風建築の街並みと観光資源として重宝された海が絶妙に調和した絶景が残念ながら2070年代を生きる現代人の大半には御目にかかる事は無く遺されている。数は決して多くは無いが結局はここもアラガミの生息地域だ。特別な事情、立場でもない限り、内陸側に建設されたフェンリルイタリア支部から遠く離れ、有用な回収資源も特にない時代に取り残された遺跡と化した孤島を訪れるリスクを冒す者は居ない。
「♪」
しかしエノハは今確実に楽しんでいた。この時代のGEのみに許された特権を謳歌していた。
「…景色を楽しむのもいいけどそろそろ時間だよエノハさん。アナン達が指定ポイントに標的追い込んだって」
レイスが無線を外し、暫し美しい景色と風と波音に見入っていたエノハの替わりにインカムに手を当てながら別行動をしているアナン達からの報告を受け取り、エノハに伝える。
「了解。…悪いなレイス。行こう」
耳から外したイヤホンマイクを再び装着し、走り出す。海面にいくつも並ぶボート、漁船を足場にしてエノハ、レイスの二人はまるで水を切る様に走り出す。
二人が足場にしたボートはぎしりと音を立て、穏やかな海面に僅かな波紋を残していく。空を舞うような光景であった。
二分後
「…せっかくの異国情緒をブチ壊す見慣れた顔だな。おい…」
「…ま。私らここに観光しに来た訳じゃないしね。さ。お仕事お仕事」
エノハはうんざりしながら指定地点のビーチの光景を眺める。遮蔽物が無く、視界の開けた丘から白い砂浜と美しい海岸線が臨める絶景ポイントだ。じっくりと眺めたい所だがそうは問屋がおろさない。
「お。おかえりぃ~~二人とも~準備できてるよ~~」
「遅ぇぞ」
その日常の渦中に居るアナン、リグが二人を迎え入れる。
「…やってるね~」
前時代、犬とその飼い主が波打ち際で水を掛け合ったり、追いかけ合ったりして戯れている光景は世界中のビーチで見られたありふれた光景だったが、数十年後の現在の光景は残念ながらこうだ。
ッズズン!!ドドドッ!!
巨大すぎる足跡が白い砂浜を不躾にえぐり、地響き、耳障りな破壊音、重い咆哮が轟く彼らGEの2072年の日常の光景が目の前に展開している。風情も何もありゃしない。
グルルル…ガァアアアアアア!!!!
快晴。眼前に広がるは地中海の風光明媚な海岸線。絶好の行楽日和に似つかわしくない雷鳴と咆哮が辺りに轟き、空気が帯電する。のどかで美しい風景画の中に悪戯な子供が落書きしたみたいに場違いで冗談の様な生物が中央に陣取っている。
巨大なヴァジュラが新たに現れた二人のGEの内の一人―目の前に歩み寄るエノハを睨んで威嚇するように唸り、吠える。しかしその音圧、風圧をまるで意にも留めず受け流して歩きながらエノハは神機の側面の機構をリボルバー拳銃のシリンダーのように開いてそこに奇妙なカートリッジを挿入し、同時閉じる。
「じゃあ予定通り今から俺の神機―スモルトの特殊機能の神機解放Lv4の運用実験を始めようと思う。…リグ!」
「…おう」
「予定通り『3つ』くれ」
エノハが到着したと同時アナンと共に場を譲って少し離れた所に立っていたリグが掲げた神機からこの地点までヴァジュラを誘導する段階で既に幾度か捕食し、調達していた三つの受け渡し弾が白い帯を引いて輝きながら次々にエノハに着弾する。
…!???
ヴァジュラは驚愕の表情を浮かべ、一歩後ずさる。一発一発の受け渡し弾がエノハに着弾するごとに加速度的にエノハの周囲を竜巻の様に迸る烈風と金色のオーラの輝きが増すごとにヴァジュラはさらに気圧され、更に海側へ後退、後ろ足を波と砂がさらっていく。それと同時に血の気も一緒に海に吸い取られていくような怖気を覚えた。その不快な感覚、感触に思わずヴァジュラが自分の足場を確かめるために視線を動かした時である。
!!!?
「すまないな。少し付き合ってくれ」
言葉と同時ずぶずぶとエノハは神機を捕食形態に切り替え、既に間合いに入ったエノハの姿に固まっていたヴァジュラの頬を捕食形態で僅かに削り取る。まるでアリをつまむみたいに加減された一撃で或る。
…!!ガぐるッ!!
その微かな痛みと明らかに加減された屈辱に我を取り戻し、反射的にヴァジュラは最速の右フックの爪を眼前のエノハに向かって薙ぐ。が、LV3解放状態のエノハの「感覚」では顔のほんの数センチを掠めていく爪の切っ先を目で追えるほどの余裕がある。距離的にはほんの数センチ、紙一重だが、「直撃」という結果への道のりは果てしなく遠い。
弾かれた様にバックステップをしながら捕食を終えたエノハが解放状態の勢いそのままに足場の砂を巻き上げ、神機を衝立に体に急ブレーキをかける。捕食は成功。
スモルトの特殊機能―神機解放LV4の発動条件はLV3神機解放時に神機にレア特注のカートリッジを装填したうえでの捕食行動だ。その条件をヴァジュラに会敵してから数秒足らずであっさりと達し、エノハは神機内で捕食によって新たに得たヴァジュラの細胞を変換、濃縮、「練り」直す。
「…」
レベル3の時点で既に大抵のアラガミを単体、複数問わずに殲滅できる実力を持つエノハが更にそれの上をゆくレベルに達する瞬間である。
エノハ以外の三人、そして眼前の敵対するヴァジュラすらも固唾を呑んでその光景を見ていた。が、
……?
数秒経っても特にエノハに変化は無い。剣を衝立にし、着地した時の姿勢のまま俯いたまま動かない。
「エノハさん…?」
『レイス』がエノハに駆け寄る。流石にこれ以上の時間硬直していると気を取り直したヴァジュラが攻勢に移る可能性がある。危ない。
それでもエノハは『レイス』の問いかけに反応しない。『レイス』がもう一声少しトーンを上げてもう一度エノハの名前を呼ぼうとした時、ようやくエノハに動きがあった。
「……!」
エノハの両肩がカタカタと震えている。異常を感じ取った『レイス』がエノハの顔を覗き込む。
―……!
同時戦慄した。
「ぐっ…ぎぎぎぎぎっぐっ」
歯を折れんばかりに食いしばり、脂汗を掻きながら鬼の形相でちらりと目線だけ動かし『レイス』を睨む。
「…レ イ ス 」
「……っ!!!?」
「 は、 な、 れろ、おれ、か、らっ!!!! 」
絞り出すようなエノハの声を聞いた『レイス』の目が見開かれたと同時であった。
パキィンッ!!
甲高い金属の破壊音と共にエノハの神機の側面部のパーツが弾け飛び、『レイス』の右頬に赤い線を作ったと同時、
―えっ…「うっ!?」
『レイス』は一瞬呼吸が止まりかけるぐらいに首と胸の中心辺りを強く押された。エノハが『レイス』を左手で突然突き飛ばしたのだ。『レイス』への突然の手荒いエノハのその行動は『レイス』に逆に理解させた。それ程エノハが切羽詰まっているという事、抜き差しならない状況に陥っている事を確信させる。
エノハへの非難の感情より先に『レイス』は冷静にそれを見極めた。『レイス』は自らを強引に弾き飛ばしたエノハの左手を掴み、叫んだ。
「エノハさん!!!」
「…っ!!!!」
しかしその手もパシンとエノハは無言で払いのける。
その一秒後
『レイス』は悟る。その拒絶によって『レイス』は難を逃れた事を。
「……~~~っ!!!???」
エノハの左手の手首辺りまで一気にどす黒いまるで液体、スライムの様に流動的に形態を変える異物が彼を一気に覆い隠したのである。
黒い異物の正体ははっきりしていた。これは神機の生体部分―捕食形態時に主に顕在化する神機の「肉体」だ。
常に冷静な『レイス』もさすがに目を疑う。それがエノハの神機スモルトの側面から這い出し、異常な膨張率を発して神機の持ち主、エノハを覆い尽したのである。もはやエノハの体で見える部分は左手首から先と左足のブーツのみ、その内左手もすぐに覆い隠され、エノハの部位で見えるのは最早足だけとなった。
その光景を表現する言葉としてしっくりくるのは
「…エノハさんが、」
「喰われた…!?」
アナン、リグが順に発したこの二言に尽きる。
突き飛ばされた『レイス』に駆け寄った二人も唖然とその光景を見送る他ない。アラガミのヴァジュラすらもその光景に固まっている中、さらにエノハを喰らった神機の膨張、変容は続く。
黒い液体の様に蠢き、膨張を繰り返しつつ、その物体は徐々に「形成」しつつあった。原始的でただ一つの目的の為に特化した形態を取ろうとしているのだ。その目的とは言うまでも無く
「食べる事」だ。
ッカァッッ!!!!!!
スモルトの刀身形態を呑みこむ剣呑な上顎、下あごが形成される。見慣れた捕食形態―しかし普段に比べると二倍以上に巨大化した顎が形成、同時に両側面に鱗の様な棘が無数に一気に逆立つ。
頭部だけであるがそれだけで軽く三メートル以上の大きさ。かつての地上最大の肉食生物で最大の頭蓋骨を持つティラノサウルスでさえその大きさは1、5Mである。半分以下だ。
そこまの大きさに達して膨張はようやく収束、側面の逆立った鱗の様な棘を隙間なく綺麗に配列し、最後にその黒い体色をまるで蛇が脱皮するかのように顎の先端から太陽に照らされて輝く美しい銀毛に変化、主を呑みこみ、鮮やかな変態を終えた神機―否。最早コレは完全なる
キッ……シャアアアアアアア!!!!!!
―アラガミだ。
「きゃっ!!!」
「ぐっ!!」
重厚感のあるヴァジュラとは異なり鋭く甲高い奇声を虚空に響かせる。鼓膜を突き刺すような音圧に思わずリグ、『レイス』が耳を塞ぐ中―ただ一人彼女の判断は早かった。
「…」
―…殺しあえ。
緊急時を除きエノハの許可なしに「血」の力を行使することを禁じられている少女―アナンが最速の判断で既に動き、自らの判断で自らの枷を外していた。アナンの緑色の目が既に目標を捉え、「アクセス」している。
「アクセス」先はヴァジュラ。
既に「切欠」は発生している。ヴァジュラの中にある目の前で起きた理解不能の事象、突如現れた敵に対する恐怖、危機感、防衛本能。後はそれらをほんの少し煽るだけだ。
既にアナンは変貌したエノハの神機を前にして確信していたのだ。間違いなく自分達を脅かす存在であることを。危機感を嗅ぎわける嗅覚はアナンは殊更高い。
ヴァジュラはアナンの血の能力「断絶」によって煽られ、「逃走」という防衛本能だけを指向的にカットされたまま目の前に新たに現れた敵を見据え、強靭な後ろ両足で踏切り、砂を巻き上げて飛びかかった。
が―――
ぐばぁ!!
「……!!!!!」
一同絶句。
変貌を終えた白銀の神機は飛びかかったヴァジュラの頭をすっぽりと収めるほどの大きさにまでその巨大な顎を約140度もの角度に開き、飛びかかってきたヴァジュラをそのまま迎え入れ、
……!!!!
ヴァジュラの下顎、そして上顎からやや上の眼球の上―猫で言う額辺りにまですっぽりと喰らい付いた。
頭にがっぷりと喰い付かれ、口を塞がれたような恰好のまま巨大なヴァジュラは砂しぶきを巻き上げながら着地。同時に首を左右に大きく振るって喰らい付いた神機を振りほどこうとめちゃめちゃに暴れ出す。
…!!!グッ……!フガッ…!
上顎と下あごに喰いつかれている為、最早満足に吠える事も叶わないヴァジュラはなりふり構わず暴れ回る。大型トラック以上の質量と巨大さを持つ生物が自分の頭に喰らい付いた物体を引きはがす為に暴れ回り、叩きつけたりするのだ。地響きが響き、巻き上げた砂が間欠泉のように噴き上がる。しかし、神機の顎は執拗に喰らい付いた獲物からまるで離れようとしない。
「ここに居たら巻き込まれるよ!!一旦離れよ!!!」
「賛成…!!!コイツはやばすぎる!!」
「くっ…!!了解っ!!」
『レイス』は未だブーツの部分だけ見えている神機に取り込まれたエノハの足を見て、もどかしそうに唸ったがすぐに気を取り直し、アナンに賛同する。
三人は一時この場を撤退することを決め、駆けだしたが―
なりふり構わず暴れ回るヴァジュラの強靭な足腰を使ったジャンプの着地先が三人の下であった。巨大な上から覆いかぶさろうとしている黒い影にすっぽりと覆い隠された三人は
「…あぶね!!!」
「え。うわっ!!」
「きゃっ!!」
ズドォッ!!
砂塵と轟音を巻き上げ、着地と同時、転げ回るヴァジュラにはじき飛ばされる。
「うぅ~~~っ!いった~~~い」
「って~~~!!おい!アナン!!『しつけ』がなってねーぞ!!?もう少し大人しくさせろや!!?」
「無茶言わないでよぉ~~リグぅ~~~」
「痛っ…二人とも無事!?」
「帰りた~い!!」
「なら立つ!!」
お互いに励まし合いながら三人が再び上体を起こした時であった。
ゴキン…パキっ…みちっ
―――うっ…!!!
―うぇっ…!
まるで何か湿った建材や木材が弾ける様な音が三人の耳に届き、その音の方向に三人は目を向けた。
先程まで散々に暴れ回っていたヴァジュラの動きが止まっている。相変わらず頭に喰らい付いたままの神機をぶら下げながらもその行動がどんどん鈍くなっている。
その原因こそこの音の正体であると三人は理解している。三人にとってそれはこの時代のアラガミとの闘争に於いて聞き慣れた「戦場音楽」であったからだ。
それは…噛み砕かれる音。生物が咀嚼され、生きたまま噛み砕かれ、貪られるときに発される声なき悲鳴だ。人もアラガミも喰らわれる際に奏でる耳障り過ぎる音だ。
ギュっ…キューーーン、キュンギュルル…!!
ヴァジュラが口を塞がれたまま発した甲高いこの声は命乞いであったのだろう。巨大な獅子を象った巨獣がまるで脅える子猫の様な声を上げ、自分の口元に喰い付いた神機のアギトを最早力の入らない両腕で必死に引きはがそうとする姿はアラガミでありながら哀れみすら覚えるがしかし、喰らい付いた神機―「機神」と化したスモルトにそんな感情は―
無い。
…ゴキン!!ぱきッブチゅん・・
ピギュイイイイイイっ!!
それが口を防がれたままヴァジュラが発した最期の断末魔であった。
…ぐしゃあっ!!!!
機神の顎はヴァジュラの下顎、上顎、額、眼球に至るまで頭部骨格、構造物全てを噛みつぶした。ぽっかりと削り取られた頭部から赤黒い体液を撒き散らしながら巨獣は横たえた巨体を僅かに痙攣させていた。
沈黙したヴァジュラから間欠泉のように噴きでる体液を浴びながら機神は振り返る。
最早機神の興味はヴァジュラには無い。
にゅとりとした噛み砕いたヴァジュラの頭部の粘り気ある体液を口元から涎のように垂らしながら残された三人を見据える。
「……!!!」
三人はその視線だけで射抜かれた様に体が竦んだ。アナンが直感したとおりである。コイツはアラガミだろうが神機だろうが人だろうがGEだろうが見境は無い。
遍く「餌」だ。
「……来るね」
尋常じゃ無い殺意を飛ばされた残された三人は身構える。
「殺る気満々って感じだな…このクソ神機が」
「…エノハさんどうなってんだろう…あんな事になってるけど」
「恐らくダメじゃねぇか?…あれじゃ」
三人の目線の先にはエノハの左足だけが最早不要な部位として今にも飲み込まれそうになっている。もがいている様子も無い。
「…かもね」
「でも私ら多分他人の心配してる場合じゃないよね~」
「…」
「…」
三人はこう見えてGEとしての能力は全世界、全支部的に見ても非常に高い水準に入る。実戦経験はまだまだ少ないものの、素養、能力、性格も及第点以上、そして固有の「血の力」を一人一人持ち合わせているのだから当然だ。中型はおろか、大型種でも十二分に互角以上に闘い、殲滅できる手腕がある。
しかしその三人が覚悟した。それ程の相手だ。間違いなく彼女達が今まで相対したアラガミ…いや「敵」の中で最強の存在が今目の前に居る。
因果な物だ。よりにもよってその相手が完全なアラガミでなく元神機だと言うのだから。
「ぶっちゃけ…多分殺されるよ?私達」
アナンのその言葉に他の二人は何も答えない。
返事の必要が無い程言われなくても同感であった上に、既に機神が未だヴァジュラの体液の滴る鋭い歯の並んだ顎を目一杯笑う様に裂けさせたまま歓喜に満ちたような奇声を発し、彼ら目がけて跳躍していたからだ。
読了お疲れさまでした
「ハイド」いちの問題児―通称「ハイジ」がエノハ一行を襲う。
ヨーロレリヒー♪