美しい母だった。
そして
最低の母親だった。
フェンリルの統治、庇護のヒエラルキーの中では最低クラスの配給、公共サービスが後回しなのが犯罪者だ。
元犯罪者、元囚人である母の下に彼―リグは生まれた。第二子として。
リグには兄弟がいた。七つ「ほど」年上ぐらいの姉が。
「ほど」というのは厳密な年齢差を教えられていないからだ。そういう物に全くリグの母親は頓着が無かった。そして姉と弟二人の身体的特徴の差から明らかにリグとその姉は「種違い」の姉弟であった。
リグの母は娼婦だった。
フェンリルの管轄内で以前犯罪行為を犯して服役し、出戻ってきた元囚人が就ける職業など所詮限られている。その中で最も安易かつ一定の需要が在り、継続的に稼げる職業がそれであった。(元々犯罪者として逮捕され、服役したのもその客とトラブルを起こし、傷害事件を起こしたのがきっかけで或る。)
その母親が数知れない程相手にしてきた男の「どれか」がリグと姉の父親である。自分が腹を痛めて生んだ子の「ルーツ」は母の興味の範疇にない。興味が在るのは自分の「スペア」が生まれたことぐらいであろう。
リグの姉は美しい少女であった。この母親から唯一と言っていい「取り柄」を余すことなく受け取った子供。年齢を重ねるごとに母は内心歓喜していただろう。自分に日に日に似てくるその少女に。
―コイツで稼げる。
日に日に衰え、劣化してくる自分の替わりに飯の種を運んでくる逸材―母の興味、感心は遅く生まれ、「物になる」まで姉と比べればまだまだ時間のかかる男子―リグには向きにくい。
明確な「扱い」の差は幼いリグの心を容赦なく抉り、歪ませる。
そして「最後」の時もそれは一切ぶれなかった。
リグ達が住む最下層居住区にいつにも増して多くのアラガミが侵入し、住民の9割方が彼らの胃袋に収まったあの日も。
フェンリルの庇護の最下層ともなれば当然、一番命が軽んじられる場所に住居が割り当てられる。常日頃よりアラガミの襲撃に晒され、命を落とす最前線でやんごとなき方々がお逃げになるまでアラガミ様のお相手が仕事だ。
今考えてみると母には適役の仕事のように思えてリグは笑える。
―しかし
姉は違う。断じて違う。
姉は無口で在った。素っ気なかった。しかし美しく、そして唯一リグに優しかった。
といっても姉の生来の性格は無愛想で素っ気ない。しかし姉はその態度のままにリグの世話を淡々とこっそりとしてくれた。その淡泊さがリグには心地よかった。
露骨な母の自分と弟であるリグの扱いの差を憐れんで内心嘲笑しながら施しをするような姉であればリグは決して姉には懐かなかっただろう。ニコニコ姉に接する母親の偽りの愛情より遥かにその無愛想さ、在る意味無機質とも言える姉の性格、態度が心地よかった。
姉も気付いていたのだろう。リグを卑下し、自分を特別扱いするこの母親の内心の下卑た皮算用に。
その母のどす黒い打算が遺憾なく発揮された「あの日」もまた姉は無愛想だった。しかし最後に・・「最期」にその無表情をほんの少し緩ませてリグに微笑んだ姉の表情をリグは忘れる事が出来ない。
「あの日」―
リグ達親子は外部居住区にて老朽化した装甲壁を破って侵入したアラガミに追われていた。いつも通り大事な姉の手だけを母親は引き、幼いリグの先を走っていた。
しかし追いつかれるのは時間の問題。
そのような状況で母親が選んだのは至極単純明快な回答であった。ここまでのリグの母親の思考回路を鑑みれば誰にでも容易に想像はつくであろう行為を期待を裏切ることなく母は実行した。
トン
突き飛ばして尻もちをついたリグをちょっと惜しそうに一瞥する。
成長すればそれなりの労働力。若しくは一部に「需要」が発生して思いの外早めに「物になる」可能性もある幼いが整った顔立ちの息子を捨てるほんの少しの躊躇いをあっさり振り切り、次の瞬間に母親は前を向いていた。立ち止まろうとする姉を引きずりながら。
リグにとって予想のついた行動であったがショックは当然大きく、立ち上がる気力すら湧かない。まだ物心もついていない年頃の幼子は既に自分の人生を、世界を諦めていたのだ。
そんなリグの姿を引きずられながらも姉はじっと見つめていた。いつものように無表情で。
―リグ。
―悲しまないで。
―落ち着いて。
―動かないでそのままにしてるのよ?
姉の眼はそう語っていた。
一見慕っていた姉すらもリグを捨て駒にしたような文面に見えるかもしれない。しかしこれは真逆の意味で在った。
リグの母親がリグを愛せなかった理由は姉に比べて目先の利用価値が低かった事だけでは無い。
母親は気味が悪かったのだ。このリグという息子が。何故かは解らないがとてつもなく薄気味悪かった。
リグの出産後、リグの母親はいつも獣に四六時中狙われている様な感覚に陥り、直ぐその原因に気付いた。そこにはいつもリグが居たのだ。
まだ言葉も話せない、それどころか目も開いていない時分から奇妙な存在感を放つ自分の息子をすぐに母は嫌悪した。
かと思うとリグが成長し、幼子ゆえの粗相をした時に怒り狂ってリグを折檻する際、無抵抗のリグが目の前に居るのに消え入る様に気配が薄れ、同時に自らの憤りが潮のようにさーっとひいていくようなうすら寒い感覚を何度も覚えた。
リグの母親が家庭内暴力を理由に再び服役する事が無かったのはこのおかげでもある。
この原因不明の奇妙な感覚はさらに母親を前後不覚にさせ、リグからへの逃避、忌避に繋がった。
リグの父親が誰かも解らない、興味も頓着も無かったこの母親に無意識のその感情の意味が解る筈もなかった。
かつて母親を買った人間。つまりリグの遺伝子上の父親である男は―
ゴッドイーターであった。
と言っても現在の完全かつ安全に制御された偏食因子を使用された純粋なGEなわけではない。まだまだ試作段階の、人体実験を経ている段階の因子を注入された「被験者」程度の男である。その被験者になってフェンリルから得た金を使い、男はリグの母を買った結果―母親はリグを孕んだのである。
当時成人の生体投与では失敗の連続であった因子注入も胎児段階では一定の成果を見せていた。P73偏食因子を胎児段階で投与されたソーマ・シックザールがその成功例だ。
ここでは思索段階の因子の注入によって変容した男の遺伝子が息子のリグに反映された形である。
リグは言わば不完全なゴッドイーターの親を持つ子供―プロトタイプの「ゴッドイーターチルドレン」と言える。
それもその試作段階の因子の正体が極めて運用が難しいとされていた「P-66偏食因子」で在った。そんな因子を投与した人間を厳重な監視下に置かず、性行為にまで至らせてしまう所に杜撰な管理体制が垣間見えるがこれはこの話の主旨ではない。
リグは公式では「初のP66偏食因子に適合した人間」であるブラッド隊隊長―ジュリウス・ヴィスコンティよりも先に適合した人間であった。
しかしその異常性が明らかになるのは当分先のこと、当時のリグの母親にとっては自分の子供が生まれながらに「化物」であるという浅い認識しかない。
そしてその「化け物」の本領が「あの日」如何なく発揮されようとは夢にも思わなかっただろう。
突き飛ばし、見捨てた息子の断末魔が背後で未だに響かない事に業を煮やした鬼女が振りかえると同時、この世の中でもっとも醜い物の類の表情が彼女の顔に張り付いた。
その眼前の信じられない光景に。
彼女達を追っていたアラガミが突き飛ばした息子、見捨てた息子を貪ることなく未だ自分達をまっすぐに追い、迫ってきている光景であった。
未知、不理解、恐怖、絶望、そして理不尽とも言えるリグへの怒りの感情も含まれた見るに堪えない表情をして母親はこう思う。
―アンタなんか・・アンタなんか・・生まなければ良かった!!!!
この、この・・!
「化物・・!」
しかしそんな母とは対照的に。
―そう。そうよ。リグ。いい子ね。そのままでじっとしているのよ。
それで。
貴方だけは助かる。
鈍く頭の悪い母親に比べ、聡明で在った姉が弟のリグの異常性に気付かないわけがなかった。しかし、彼女はリグを怖れたり忌避もせず、ただ淡々と傍に居続け、支え続けたのだ。
「・・リグ」
リグの姉が初めて微笑んだ。慈愛に満ちた美しい姉のその笑顔―大好きな姉の最後の光景はリグの網膜に永遠に焼きつく。だからこそその姉の笑顔を覆い隠すように目の前を通過していく「異物」共に心底憤りが募った。
異物共―彼ら親子を追っていたアラガミ達はまるで取り残されたリグだけが存在していないかの様に彼を無視し、側面を通過していく。いや、「無視」というのは語弊がある。完全にアラガミ達はリグを知覚していなかった。
彼らの狙い、見えているのは二人だけ。リグの母と姉二人だけであった。
リグを否定し続けた存在である母親とこの世界で唯一彼を在らしめてくれる存在である姉がアラガミ達の背中に覆い隠され、見えなくなる。
泣きだしたい叫び出したい。
しかし幼いリグは必死で最後の姉の言いつけを守った。ただひたすら心の中を掻き毟る様な凄惨な光景を見据えながらこう祈った。
―行かないで。
行かないで。
連れて行かないで。
・・・・・・・置いて行かないで。
しかしそんな無垢なる願いが届くほどこの世界はリグに優しくなかった。
リグは「あの日」自らの異常性によって救われ―同時に全てを喪い、ただ一人この世界に取り残された。
十年後―
旧ロンドン市内
旧市街地跡にあるかつて市役所であった建物の屋上にて―
「・・!」
エノハは目の前の光景にただただ目を丸くしていた。
「ふん。驚いたかよ。エノハさんよ」
「・・。『あの鬼ごっこ』の時それ使ってたら勝ってたんじゃないのかリグ・・?」
「うっせ!!思い出させんな!!・・ここまではさすがに俺の神機と連結しないと出来ないんだよ。アンタみたいにGEやら感知能力の高いアラガミに知覚されねぇレベルに『落とす』のはな」
「へぇ・・・!」
リグが先日自己紹介の際言い放った「驚かせてやるよ」の強気なセリフに偽りは無かった。リグの体を隔てた向こうの空間が透けて見える様な錯覚を覚えるほど希薄になったリグの気配にエノハは心底感心する。
そして彼の手に現在握られている神機をエノハは見やる―
リグの対応神機はやや緑がかった黒色のスナイパーライフルであった。盾、刀身は無い。
―完全な遠距離狙撃タイプか。確かにこの「能力」にはうってつけだな。
「・・これを『ステルスフィールド』ってママは呼んでる」
「・・ステルスフィールド」
「まぁ・・原理的には結構単純らしくてな?程度や精度、銃身によって制限はあるがいずれ一般の神機使いにも広く使えるようにはなるらしいぜ」
意外にも殊勝にリグは自分の能力を尊大に自慢しようとしなかった。
「しかし・・君には更にあの能力がある。神機解放を自ら起こせるあの能力とその力、そして適合神機は第一世代型神機スナイパー銃身・・」
この新能力「ステルスフィールド」で敵に察知されることなく索敵し、距離を詰め、彼の固有能力の血の力―自ら神機解放可能なその能力でその距離を詰める為の機動力、瞬発力、オラクル自動生成能力の底上げし、適正な距離から速やかに対象を射抜く事が出来るスナイパーライフルという対応神機―
「・・成程斥候、奇襲、索敵に最適だなリグ?君の能力は」
「・・」
そのエノハの感嘆の表情にもまたリグは露骨に自慢げな顔をすることなく無表情でエノハを見る意外な反応をした。
「・・?」
「それだけって思われちゃあ困るな・・エノハさん?俺達はあくまで第三世代神機使いだぜ?・・・『レイス』とアナンの神機をさっき見たろ?あの奇天烈さ、異常性を。俺達を今までアンタが会った神機使い達と一緒にしないでもらいたいね」
「・・何が言いたい?」
「まぁ見ていてくれれば解るさ・・もう少し驚いてもらわなきゃ割にあわねぇってこと」
リグは獰猛そうな視線をして含み笑いをしたと同時エノハに無線が入った。
『エノハさん?聞こえますか?予想通りオウガテイル7匹がそろそろ作戦エリアに侵入します。欧州第二支部が取り逃したアラガミの残党です。この地点に居る内に確実に始末しておきたいところですね』
「ハイド」は公には存在していない部隊である。基本的に正式なGE部隊との接触は好ましくない。
「了解ノエル。引き続き警戒を―・・?って・・・おいっ!!」
『・・エノハさん?・・あ』
モニター室―
ノエルは即合点が行った。
今回オペレーターを務めるノエルの手元のモニターに先程までエノハの近くに在った反応がものすごい速度で距離を離している。
リグが動いたのだ。制止しようとノエルが声を張り上げるがリグに充てられた無線から反応が無い。
「リグ?!おい!?」
『・・無駄だな。リグの奴・・無線をここに置きっぱなしだ』
エノハはやれやれと言った溜息を洩らしながらそう言った。
「すいません・・」
『・・君が謝る事じゃない。・・さてリグを追いますか。ちゃんとリグのお手並みを拝見しないと』
この初陣はそもそもその為の任務だ。「ハイド」のGE達一人一人の神機や特性を見る為の。しかしスタート早々部下が単独行動とは流石に頭が痛い。
『じゃあ・・ノエル?案内よろしく』
「は、はい!よろしくお願いします!」
ノエルは気を取り直し、モニター室で二人のバイタルをチェックする。
「・・ん!」
ノエルはリグのバイタルの各数字が顕著に異常変化した事を確認する。同時にリグの反応を示すモニターの輝点の速度がさらに跳ね上がった。
「・・解放したなリグの奴。エノハさん!?リグが解放!更に移動速度を速めてます!恐らく目標アラガミを視認したかと思われます」
『了解』
エノハもフリーラン速度を速め、廃墟と化したロンドン市街を駆け抜ける。
やはり異国情緒を楽しむ暇は無い様だ。
長くなった為一旦切ります。
今回も読了お疲れさまでした。