Summer/Shrine/Sweets   作:TTP

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十九/神代小蒔/夢を謳う

 夜は更け、少女たちの戦いは終局を迎えようとしていた。

 

 吐く息は荒く、既に満身創痍。激闘に次ぐ激闘を乗り越え、あらゆる手段、あらゆる力を総動員して、彼女はここまで辿り着いた。

 

 高校生最強の雀士を決める、この決勝卓に。

 

 頂点を獲る可能性が残されたのは、たったの四人。麻雀の競技人口を考えれば、正にこの卓につけるのは奇跡的な確率と言えよう。

 

 選ばれし者とも言える彼女たちは、しかし全員ここで満足できるはずもない。

 

 目指すは一着のみ。他は、何も要らない。

 意地と意地のぶつかりあい。

 

 ――その果てで、彼女の指から牌が滑り落ちた。誰かが息を呑む。

 

 狙い撃ったかのように牌を倒したのは、

 

「ロン」

 

 前年度インハイチャンピオン、宮永照。

 

 彼女の手を確認するまでもない。下馬評通りの実力を見せつけた彼女は、しかし想像以上に食らいつかれ、疲労が色濃い。

 

 神代小蒔は、卓上から指を膝元に戻し、ゆっくりと一礼する。

 

 インターハイ女子個人戦は、ここに決着した。

 

 

 ◇

 

 

東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場

 

 表彰式はつつがなく終了し、すぐに会場の撤収作業が始まった。

 

 記者たちからのインタビューから解放された小蒔は、ふぅ、と溜息を吐く。

 

 ――それから。

 団体戦の開会式から数えると、二週間もの長い時間を過ごしたこの場所に、彼女は改めて深く頭を下げた。自然と、そうしていた。

 

「私たちは、これで最後ね」

 

 霞たちが、それに倣う。彼女と巴は寂しげに微笑み、初美は僅かに涙ぐんでいる。

 

「ひとまず今日は、宿に帰ってゆっくり休みましょう。姫様と初美はお疲れ様でした」

 

 巴が皆を促し、会場を後にしようとする。

 

 小蒔は今一度立ち止まり、ぐるりと周囲を見渡した。

 

 探そうとした彼女の姿は、ない。闘牌の最中では、考えようとしなかった。だが、こうして落ち着いてしまえばもう無理だった。

 

 彼女は今日もどこかで、自分を応援してくれたのだろうか。

 

 それとも――彼の傍に、いたのだろうか。

 

 胸にひっかかるものを、打ち消せない。――だめだ。考えてはいけない。もう自分は、諦めたのだから。夢見てはいけないのだから。小蒔は自らに言い聞かせ、立ち去ろうとする。

 

 しかし、足が動いてくれない。

 

 先ほどまでは、何の問題もなかったのに。ぴくりとも、動いてくれないのだ。

 

「小蒔ちゃん?」

「な、なんでもありませんっ」

 

 名前を呼ばれ、ようやく硬直から解き放たれる。

 

 気遣わしげな霞の視線から逃れるように、小蒔は歩き出した。――その彼女の前に、巴が携帯電話を差し出してきた。

 

「憧ちゃんからです」

「えっ」

 

 心臓が、跳ねた。画面には、確かに彼女の名前が踊っている。

 恐る恐る、小蒔は電話をとった。

 

「もしもし」

『ああ、小蒔。あたしよ』

 

 外にいるのだろうか――受話口の向こう側からは、憧の声に混じって風の音と雑踏が聞こえてくる。

 

『お疲れ様、試合見てたわ。惜しかったね』

「いえ……まだまだ未熟と、思い知らされました」

『何言ってるのよ、あれだけチャンピオンに肉薄できたんだから。凄かったわ』

 

 おめでとう、と憧は惜しみない賛辞を送ってくれる。しかし小蒔は、携帯電話を握る手に力を込めた。

 

「あの――」

『次は秋の新人戦ね。もう一度小蒔たちと戦いたいわ』

「そう、ですね」

 

 小蒔の言葉を制して、憧はマイペースに語りかけてくる。

 

『あたしもあんな場所で打ってみたいって、思ったんだから。羨ましいな』

「……そう、ですね」

 

 同じ相槌を、小蒔は繰り返す。

 

 ――羨ましいのは、自分のほうだ。なんて、口が裂けても言えない。言ってはならない。認めては、ならない。

 

 けれども、憧は。

 

『小蒔が、羨ましいよ』

 

 小蒔の心をざわつかせる言葉を、放ってくる。

 

『本当に、羨ましい』

 

 それはまるで、呪詛のようだった。

 挑発と言い換えても良い。意図して彼女は言っている。意図して彼女は、小蒔を煽っている。

 

「――私、だって……!」

 

 言い募ろうとしたのは、何だったのか。必死に感情を堰き止めて、小蒔は口を閉ざした。打ち捨てたはずの望みを、拾ってはならないのだと。

 

 しかし、憧にとっては、その声で充分だったようだ。ふっと、緊張感が消え去る。電話の向こうで、憧が笑った気がした。

 

『うん』

 

 誘導されたことに気付き、小蒔は目を見開く。

 

『これで心置きなく、奈良に帰れる』

「憧ちゃん?」

『またね、小蒔』

 

 通話は、一方的に切断された。味気ない電子音が、小蒔の耳を打つ。

 しばしの間、小蒔は呆然としていた。

 

「姫様」

 

 巴に呼びかけられ、反射的に小蒔は笑った。そうして、誤魔化そうとした。六女仙たちは、深く追求してこなかった

 

「帰りましょう」

 

 改めて霞が言って、一同は帰路に就く。

 既に慣れ親しんだ客間に戻ると、小蒔は机に突っ伏した。――疲れた。本当に疲れた。

 

「小蒔ちゃん、お風呂、どうするの?」

「私は、後で」

「そう……」

 

 答える言葉も短い。

 

 霞たちは部屋付きの風呂ではなく、外の露天風呂に出かけていった。一人、小蒔は客室に取り残される。そうして欲しいと、彼女自身が望んだことだった。

 

 頬と机をくっつけたまま、小蒔は何をするわけでもなく、そこにいた。時計の秒針が進む音だけが、室内を支配する。

 

 どれだけの時間、そうしていただろう。

 

 霞たちがそろそろ戻ってきてもおかしくないくらいには、小蒔は動けないでいた。疲労を考えればそのまま眠ってしまいそうであったが、彼女の目は冴えていた。

 

 シャワーだけでも浴びてしまおうか、と小蒔が考えたときと同時。

 

 こんこん、と戸をノックする音が聞こえた。

 

 霞たちが帰ってきたのだろうか、と小蒔は立ち上がりかけ、聞こえてきた声に全身を硬直させた。

 

「ごめん、ください」

「きょう……くん……?」

 

 呆けながら。

 足元をふらつかせながら。

 

 しかし、小蒔は引き寄せられるように戸へと近づく。締められた鍵には――触れられない。触れてはいけない。

 

「小蒔ちゃん」

「京くん、なんですか。どうして、ここに」

「巴さんたちに頼んで、入れて貰った」

「そうではなくて。そうじゃ、なくて……!」

「うん。分かってる」

 

 触れ合っては、ならない。

 顔を合わせては、ならない。

 

 本来なら、この状況も許されてはならないだろう。彼自身が許さないだろう。けれども彼は、やってきた。彼女の傍に、やってきた。

 

 声が、言葉にならない。

 

 どれだけ危険な行為であっても――神代小蒔の心は、歓喜に踊る。彼がすぐそこにいるという安心感が、全てに勝る。

 

 扉を挟んで、二人は並び立つ。

 

 この最後の一線は、決して開けてはならない天岩戸。

 

「今日の試合、もうちょっとだったな。でも、初心者目線だけどさ、チャンピオンを追い詰めていたと思う」

「……憧ちゃんにも、同じことを言われました」

 

 くすりと小蒔は笑う。笑ってしまった。

 

「ありがとうございます、京くん。来年こそは、勝って見せます」

「ああ。凄く期待してる。小蒔ちゃんなら、きっと勝てるさ」

「はい」

 

 渇水した大地に、潤いが染み渡るようだった。直接顔を合わせられなくても。その手を握りしめられなくても。充分だった。

 

 しかし、

 

「俺、明日、長野に帰るんだ。小蒔ちゃんは?」

「……私も、明日鹿児島に帰ります」

 

 この距離も、すぐに失われる。

 

 小蒔は扉に手を伸ばす。反対側で、京太郎もそうしている気がした。

 

 ――ああ。

 

 彼が、愛しい。狂おしいほどに愛しい。望んではいけない「これ以上」を、望んでしまいそうになる。

 

「その前に、聞いて欲しいことがあるんだ」

 

 京太郎の真摯な声が、小蒔の意識を現実に引き戻す。

 

「聞いて欲しいこと、ですか?」

「ああ。大切なこと」

 

 扉の向こうで、京太郎が大きく深呼吸した。

 

「俺と、小蒔ちゃんがもう一度会える可能性」

「――っ」

 

 小蒔の心に、衝撃が走る。

 

「あのな、小蒔ちゃん」

「待って!」

 

 小蒔は必死になって、京太郎の言を遮った。息を呑む音が、聞こえてきた。

 

「待って……下さい……!」

「小蒔、ちゃん? どうした」

「言わないで」

 

 彼が何を言おうとしているのか。

 予想がついた。想像がついた。

 

「言わないで下さい……!」

 

 何故ならば。

 その可能性に真っ先に気付いたのは、小蒔だったのだから。

 

 しかし、京太郎は謝りながらも言った。

 

「ごめん、小蒔ちゃん。言わないと、いけない」

 

 ――自らが、神を降ろす力を得られれば。

 共に過ごせる可能性は、あると。彼は語った。まさしく小蒔の考えと、同じだった。

 一縷の希望だ。

 

 成就すれば、どれだけ良いだろう。どれだけ嬉しいだろう。幸福なんて一言で、済ませられないだろう。

 

 けれども、あまりにも低い可能性だ。

 

 京太郎にその才覚があるとは限らない。

 素養があったとしても、開花するとは限らない。

 身につけられたとしても、本当に供物としての力を打ち消せるとは限らない。

 

 ないない尽くしである。

 

 そんな道に、京太郎を進ませるなんて――小蒔には、許容できなかった。その修行が、決して生半可なものでもないと、彼女は知っている。終わりさえ見えない迷路に、地図一つ持たないまま飛び込む愚挙だ。

 

「俺は、やるよ」

「いけません」

「小蒔ちゃんに、もう一度真正面から会うために」

「いけません……!」

 

 制止の声が、震える。

 

「昔、親父に言われたんだ。やりたいことはなんでもやっとけって。その内やりたいこともやれなくなるときが来るって。……これ、昔小蒔ちゃんに言ったっけか。とにかくさ、そう覚悟して、色んなことに挑戦してきた。麻雀も、そうだ。――でもな」

 

 京太郎は、一度言葉を切って。

 

 穏やかな声のまま、続けた。幼い頃のように、あどけなく彼は言った。

 

「俺は、幸せだよ。他のやりたいことなんて全部霞んで消えちゃうくらいに――本当に、やりたいことが生まれたんだから」

 

 ぽろぽろと。

 小蒔の瞳から、玉のような涙が零れる。

 

「好きだよ、小蒔ちゃん」

 

 声を押し殺して、小蒔は泣く。

 

「ずっとずっと、好きだった」

 

 その根源は、どこから来ているのか。悲しみか、怒りか――あるいは喜びか。ぐちゃぐちゃになった感情は、小蒔から冷静さをはぎ取ってゆく。

 

「待たなくて良い。俺が、勝手にすることだから。俺が、勝手に会いに行くだけだから」

 

 ――突き放せ。

 

 頭の奥で、声がした。

 

 そうしなければならない。自分のために、彼の人生を縛るようなことがあってはならない。彼にはもっと、素敵な未来があるはずだ。

 

 そうだ。新子憧と寄り添う未来。そんな未来を、彼は望めるのだ。何の憂いも苦しみもない、美しい未来だ。

 

 可愛くて、凛として、賢くて、自分にないものを沢山持っている少女。彼女と手を取り合って欲しいとさえ、小蒔は心の底から思っている。羨んでしまうのと、同じくらいに。

 

 だから――突き放さなければならない。

 

 迷惑だと。

 余計なお世話だと。

 

 彼の選ぶべき道を、正しい道へと戻すために。

 

「私は」

 

 ――言え。

 言うのだ。

 

 為すべき責務を果たすため、震える喉を叱咤する。

 

「私は――」

 

 堅牢な意思は、崩れない。小蒔には自信があった。こうなることも、心の何処かで予感していた。覚悟していたのだから。

 

 ――なのに。

 

 

「ずっと、お慕いしておりました……!」

 

 

 結局出てきたのは、全く別の答え。

 

 彼をこの道に引き込む、あってはならない言葉。一生口にすまいと決めていた、燃え上がるようなその感情。八年間、胸に秘めてきた想い。

 

 彼女の答えを、軽率だと糾弾するのは容易い。

 

 しかし本当は、誰にも正しい道なんて分からないのだ。夢のような話だとしても、嘲笑うなんて誰にもできない。

 

「本当は……今すぐにだってこの扉を開けたい」

「私だって、そうです」

「でも、それはきっと正しくない」

「はい」

「誰からも認められるようになってから、会いに行く」

「はいっ……」

 

 膝から崩れ落ちそうになる体を、小蒔は必死で支える。

 

 姫様、姫様と呼び慕われる彼女であったが。

 お伽噺に出てくるような、王子様を待つだけのお姫様であり続けるのは、嫌だった。

 

「京くん、聞いて下さい」

「なに?」

「今日、私は負けました。全力を尽くした上での敗北です、後悔はありません」

 

 ですが、と小蒔は切り返す。

 

「未熟であったことは、確かです」

「――、小蒔ちゃんが未熟だなんて」

「いいえ。きっとまだ私は上を目指せます。目指さなくてはならないんです」

 

 小蒔は微笑んだ。未だに流れ落ちる涙にも構わず、優しく笑った。京太郎に見せられないのが、残念になるくらいに。

 

「待っているだけは、嫌です」

「小蒔、ちゃん」

「私の力を、もっと上手く扱えるようになります。――京くんが、私で良かったって思える人になってみせます」

 

 うん、と京太郎があちら側で頷いた。

 

 小蒔は自然と、戸に体重を預ける。ぎぃ、と僅かに軋む音が鳴った。

 押し返してくる力があった。微かな均衡が、二人の間で生まれる。

 

 ――今は、これが限界。

 

 二人を隔てる扉一枚、取り除けない。もどかしさとせつなさが、小蒔の胸の中で際限なく溢れ出る。

 

 だが、小蒔はこの運命を受け入れる。

 

 薄幸の少女などと、気取るつもりは毛筋ほどもない。目一杯抵抗して、その上で勝ち取ってみせると、小蒔は決意する。

 

「行って下さい、京くん」

「……ああ」

「私はもう、大丈夫ですから。泣いてなんか、いませんから」

 

 この程度の虚言は許して欲しい。そう思いながら、小蒔は京太郎を送り出す。

 

「行ってくる」

「はい」

「また、会おう」

「また、会いましょう」

 

 二人の声は重なり。向こうから伝わる力が、ふっと消えた。

 

 足音が、遠ざかってゆく。完全に聞こえなくなるまで、小蒔は戸にしなだれかかったままであった。

 

 だが、彼女は立ち上がる。支えなど不要と、強い意志を抱く。

 

 涙を拭う。両の頬を叩く。

 

 いつまでも、悲嘆に暮れている暇などない。既に賽は投げられたのだ。熱いシャワーで穢れを落とし――寝間着には着替えない。袖を通すのは、巫女服であった。

 

「ひ、姫様?」

 

 戻ってきていた六女仙たちが一様に戸惑う。

 小蒔の纏う空気が、いつもと違った。

 

「卓と、牌の準備を」

「え……?」

「今日の反省会を始めます」

「今から……ですか?」

「お願いします。付き合って下さい」

 

 下げられた小蒔の頭頂部を見つめ――霞がたおやかに笑った。

 

「やりましょう。いくらでも付き合うわ」

 

 他の六女仙たちも、続く。

 

「私も今のままでは悔しいですからねー、もっとがんばるですよー」

「宮永さんの今日のデータ、整理しますね」

「黒糖は……また後で」

 

 小蒔は――五人は、明日のことも忘れて牌を握る。

 もっと先、遙か未来を夢見て、今を精一杯戦う。

 

 

 




次回:終幕/須賀京太郎/桜花、憧憬

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