東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場 入場口
どうして彼に恋をしたのだろう。新子憧は、自問する。
頼りがいがあるからなのか。優しかったからなのか。格好良かったからなのか。あるいは全部ひっくるめて好きになったのか。
何もかも今更で、しかし憧は考えずにはいられない。
彼を好きになってしまったせいで、例えようもない苦々しさを味わった。
彼を好きになってしまったせいで、大切な友達を、大切な友達のままにできなかった。
だけど、それでも、どうあっても――彼を好きにならなければ良かったと、憧は思えない。相反する感情が胸でうずき、彼女は自ら辿ってきた道を反芻する。
見つめるは、紫紺の空。ゆっくりと、陽が沈もうとしていた。
もうすぐ約束の時間だった。当然問いに対する答えなど出るはずもなく、憧は行かなければならない。
その前に。
どうしても、会っておかなければならない相手がいた。
「――憧ちゃん」
「小蒔」
一日にわたる戦いを終え、会場から出てきた神代小蒔と、憧は向かい合う。小蒔に随伴していた六女仙たちは、一礼の後、黙って二人から離れていった。
会えば、いつも笑顔を咲かせた二人。性格も、麻雀の打ち方も全く違うのに、どういうわけか気が合った。好きになった。親友同士になれた。――少なくとも、憧はそう思っている。しかし彼女の今の表情は、固い。
強い風が吹き、周囲の木々が揺らす。聞こえるざわめきは、憧の胸の内を表しているようだった。
「明日、優勝争いに絡めそうね」
「……はい、なんとか」
用意していたはずの賛辞は、ほんの短い言葉に変わり果ててしまう。小蒔は俯き、ぽつりと答えたきり、何も言わなかった。
夜に近いと言っても、季節は夏。気温は昼間からさっぱり落ちていない。しかし、二人の間にある空気は、冷たい。喧嘩など、していないはずなのに。
「……ねぇ、小蒔。昔、この街で出会った日のこと、覚えてる?」
「忘れるわけがありません」
探るような憧の問いかけに、小蒔は即答する。
「京くんと憧ちゃんが、私の手を引いて歩いてくれたこと。――この先もずっと、忘れません」
――ああ。
綺麗だな、と憧は思った。どこまでも真っ直ぐで、どこまでも頑張り屋で、どこまでも綺麗な女の子だと、憧は思った。
だから彼女は、答える。
「あたしも、覚えてる」
神代小蒔という少女に、負けないために。
「京太郎に背負われて、小蒔に傘差して貰って、みんなで交番に行ったこと。――絶対に、忘れたりなんかしない」
あの夏は、三人だった。三人、揃っていた。
「一緒に京くんの看病もしましたね」
「お粥、小蒔が作ってくれたのよね」
「東京観光も行きました」
「お祭りにも、参加したわ」
今はもう揃わない、三人の思い出。
「小蒔たちと一緒に食べた西瓜、美味しかったわ」
「ええ。あんなに甘い西瓜、もう食べたことありません」
「……そうね」
語らいは、長く続かなかった。
一時、静寂が二人の間に落ちる。
「憧ちゃん……」
意を決したように先に口を開いたのは、小蒔だった。
しかし、憧はそれを制する。
「ね、小蒔」
もう、彼女から言わせてはならない。あんな悔しい気持ちは、一度で充分だ。
「あたしも、小蒔がいてくれて良かったって、思ってる。これから先、どうなろうと……あたしたち三人が、三人で良かったって――きっと、そう思う」
憧は、微笑んだ。彼女の中に渦巻く感情は、それを許せるはずがない。しかし彼女は、微笑んで見せた。
そして、憧ははっきりと宣言する。大切な、絶対に負けたくない親友に向けて、毅然と言い放った。
「先に、行くね」
「――はい」
真正面から、小蒔は相対する。その姿は、思わず憧が羨んでしまうほど美しかった。
だから、憧は言わずにいられなかった。
「あのね」
「なんですか?」
「大好き」
一間、小蒔はぽかんと呆けてから、答えた。
「私も、です」
二人は、何の含みもなく笑い合った。――笑い合えた。
◇
この夏、憧が東京を訪れた理由はインターハイに出場するためである。当然学校の代表として参加しているため、期間中外出する際はできる限り制服を着用するのが望ましい。ジャージ姿で大将戦に臨もうとした穏乃にも、憧は制服を貸し与えた。
当然着回し出来るよう制服は数着用意してきたが、私服はホテルの中で着る程度と考え、色気のないものを最低限持参するのみであった。荷物の量を考えれば、当然の判断である。遊びに来たわけではないのだから。しかし、阿知賀女子の中でもお洒落に関しては一家言を持つ彼女にとって、致命的なミスとなった。
京太郎との、デートである。
予想外の展開と言ってしまえばそれまでだが、それでも半月前の自分を憧は恨まざるを得ない。生半可な準備は、本来許されるものではなかった。せめて一着、いや上下揃えなくても良いから、あるいは小物の一つでも――彼女の後悔は深い。
個人戦が始まってからは、自腹で宿をとっている。当然貯金はどんどん削れていき、東京で新しい服を見繕うのもままならない状況だった。
絶望する憧に向かって、あっけらかんと言ったのは、一緒に東京に残っていた穏乃だった。
「制服デートで良くない?」
憧は目から鱗が落ちた。逆転の発想である。実に男子高校生が好みそうなワードではないか。
もちろん制服は特急でクリーニングに出した。持てる技術全てを注ぎ込んで、着飾った。団体戦でテレビに映るときよりも気合を入れた。
なのに。
だと言うのに。
「なんであんたは私服なのよっ!」
「ええっ、いや、なんでって言われても」
インハイ会場の最寄り駅で落ち合って、開口一番憧に責められた京太郎は、困惑するしかない。
ぱりっとした空色のワイシャツに、ジーンズ。シンプルな組み合わせではあるが、清潔感があって実に好印象だ。高校生として気取りすぎてもいなくて、憧としてもそこのところに文句はない。ないのだが、予想外の手に振り込んでしまったときと同じ感覚に、憧はとても腹が立った。
「そんなに変な格好だったか……?」
「そういうわけじゃなくてね……ううん、もういいや。あたしが悪かったから」
「なんだよ、気になるな。はっきり言ってくれよ」
「良いったら良いの!」
憧は、京太郎の腕を取る。もう離さないぞと言わんばかりに、強く。
「ほら、あんまり時間ないのよ。東京観光はできなくても、遊べるだけ遊ぶんだから。行こ!」
「……はいはい。分かったよ、どこへなりとも着いていくよ」
「うむ、くるしゅうない」
鷹揚に頷く憧と、笑う京太郎。
ファストフードで軽く夕食を済ませると、憧は駅前で目に付いたゲームセンターに足を踏み入れた。恥ずかしがる京太郎を写真シール機に引き込んで、憧はとびきり可愛らしい写真を撮る。麻雀ゲームの筐体では、憧が無双の強さを見せつけた。ふふん、と憧は勝ち誇る。二人プレイのガンシューティングに挑戦すると、京太郎はとんでもない反射神経を発揮し、先にゲームオーバーになった憧を置き去りにしてクリアしてしまった。元体育会系は伊達ではなかった。今度は京太郎が、ふふんと勝ち誇った。
ふつうの、デートだった。ふつうの高校生がやるような、デート。憧は、初めての経験だったけれども。
意外と京太郎が手慣れていて、憧はついつい訊いてしまう。
「こういうところ、よく来るの?」
「んー? 中学のときはそれなりに。高校入ってからめっきり遠ざかってたな」
「ふぅん」
憧が意味ありげに視線を送ると、京太郎は「なんだよ」と文句をつける。
「彼女と一緒に、とか?」
「いたことねぇよ。部活仲間とだよ、全員男」
「あ、そうなんだ」
何でもない風に言い捨てて、憧は京太郎から顔を背ける。そのまま、別のゲームへ興味を示す振りをした。
そうでもしなければ、緩みきった頬を見せてしまいそうだった。――つまり、京太郎にはこれまで彼女はいなかった。女の子とのデートも初めて。幼い頃のあれやこれやは、カウントしないでおく。
こんな些細なことでも喜んでしまうあたり、完全に参っている。憧は自分を笑ってしまいそうになるが、仕方ないものは仕方ない。好きなものは、仕方ない。
「それにしても、京太郎が麻雀始めたとわねー。あれだけスポーツ少年だったのに」
「毎日叩きのめされてるけどな。いやほんと強いんだよなあ、みんな」
「確かに、清澄の環境は初心者に厳しいかもね」
一通りゲームを楽しみ終えると、憧の先導で二人は電車に乗り込んだ。道中の他愛のない雑談は、当然と言うべきか、麻雀の話題となる。
「折角清澄には和もいるんだし、練習試合もしたいわね」
「そもそも俺はお前が和と友達だってことに驚いたよ」
「それはこっちの台詞。ほんっと人の縁って分からないものね」
「ああ。――憧とも、またこうして遊べるとも思ってなかったよ」
「……うん」
けれども、意図してか――京太郎の口からは、彼女の名前が出てこない。今日も、明日も卓上で戦う彼女の名前は出てこない。
仕事帰りのサラリーマンが溢れる電車の中で、京太郎に庇われながら憧はドアを背に立つ。身長差のせいで、彼の胸元に顔が埋まりそうだった。少しだけ、汗臭い。しかし憧は、決して嫌だとは思わなかった。心臓が痛いくらい、強く鼓動する。
地下鉄を乗り継いで、憧たちが辿り着いたのは、皇居の近く。
「懐かしいな、ここ」
「あ、やっぱり京太郎も覚えてる?」
「当たり前だろ。みんなで来たよな、あの夏に」
「うん。みんな、一緒だった」
堀の傍を、生暖かい夏の夜風を受けながら、憧が先を歩く。着いてくる彼の足音は、きっちり憧の耳に届いていた。
「でも、二人だけで、どこかに行ってた人たちがいるのよね」
「……そんなことも、あったかな」
「あったわよ。あたしはちゃんと、覚えてるわよ」
羨ましくて、ちょっぴり悔しくて。――新子憧は、あの日を忘れたことなんて、なかった。あの日だけではない。京太郎と彼女が近くにいたときのこと全部、ちゃんと覚えている。彼女を妬む気持ちも受け入れて、覚えているのだ。
「だからあんたとこうやってここを歩くのは、ちょっとした意趣返し、かも知れない」
堀に映る月が綺麗で、憧は立ち止まる。京太郎も、足を止めた。
「京太郎」
憧が、振り返る。彼女の長い髪が、ふわりと舞った。
二人の近くには、他に誰もいない。堀に住む鳥と虫の声、それから車が通り過ぎる音だけが、静かな夜を彩っていた。
「宿題の答え合わせ、しよっか」
笑顔で切り出したのは、彼女の精一杯の強がり。
「――ああ」
京太郎は、頷いた。彼の目に迷いはない。――彼は、答えを出してきたのだ。
「小蒔ちゃんの、神を降ろす力は消せない。色んな意味で、無理だ。だから何とかするのは俺のほう、なんだろ」
「……うん」
「となれば、一つだ」
京太郎は、一度言葉を切ってから。
はっきりと、答えを口にした。
「――俺も、神を降ろす力を得る」
そうだろう? と京太郎が確認してくる。が、憧は頷けなかった。唇が、勝手に震えていた。
構わず京太郎は、続けた。
「須賀本家にある、神代と同質の力。そいつがあれば……供物としての力は失われるかも知れない。あるいは、宿した神が供物としての俺を占有するかも知れない。そうすれば、他の神は手出しできず、結果供物としての力は発揮されないかも知れない」
どこまで行っても、「かも知れない」。確証など、どこにもない。想像と予測による、小さな小さな光。されど、小蒔と京太郎にとっては、希望の光だ。
なおも憧は黙り込み、語るは京太郎ばかり。
「それに、そもそも俺にそのセンスがあるかも分からない。俺が須賀の血筋を引いてるのは確かだけど、神を降ろす力まで受け継がれているかは、分からない。――事実、憧に出会って初めて、俺は供物の力を得たんだから」
最後の言葉は、憧に歯噛みさせる。だが、それでも彼女は何も言えなかった。
「もしかしたら、神代の指導の元で、身につけられるかも知れない。けれどもいつになるかは分からない。才能があったって、一生身につかない可能性だってある」
傾いた土地の上に、塔を打ち立てるような愚行だ。暴挙だ。加えて上手く全てを積み重ねたとしても、願いが叶う保証はどこにもないのだ。
そんな道を選ぶほうが、どうかしている。
どんな夢を叶えるよりも、可能性は低い。そう見積もっても、差し支えない。
「……才能は、あると思う」
絞り出した声は、憧の口から発せられた。
「遭難したときのこと、小蒔とあたしは覚えていないという結果は同じだけど、過程が違うでしょ。小蒔の場合、長い時間神を降ろし続けた影響で。あたしの場合、神様の力で眠らされたから、よね」
「……そう、聞いてるけど」
「でも、あんたは? あんたもあたしと同じように眠らされたんでしょ? でも、あたしよりもずっと早く目覚めた。記憶も失っていなかった。きっと、神様の力に耐性がある。――須賀の血脈は、あんたの中に受け継がれてる。……あたしはそう思う。昨日、お父さんに訊いたら、同じことを言ってた」
京太郎の表情が明るくなる。希望の第一歩となる、言葉だった。可能性は、繋がっている。
「憧、俺は――」
「待ってッ!」
京太郎の言わんとするところを、憧は大声で遮った。びくりと京太郎の巨躯が震える。
――聞きたくなかった。言わせたくなかった。分かっていた。
彼が、容易にその道を選ぶことを、知っていた。でも、聞きたくなかった。聞いてしまえば、終わってしまう。この胸に点った想いが、潰えてしまう。
「まだ、答え合わせは終わっていないわよ。それだけじゃ、満点はあげられない」
「え……」
「ちょっと、こっち来なさいよ」
憧の手招きに、京太郎は素直に応じた。ふらふらと、傍まで近寄ってくる。
「屈んで。耳貸して」
「なんだよ、他に人なんて……」
「良いから」
有無を言わさない憧の物言いに、京太郎は顔の高さを彼女に合わせる。
その一瞬の隙を狙って。
憧は、自らの唇を、彼の唇に押し付けた。
「あいたっ!」
「痛っ!」
そして、歯がぶつかった。
二人して、口を押さえて悶絶する。
「な、な、な、憧、おま、なにして……」
「うるさい!」
顔を真っ赤にして、憧は吠えた。目に涙が溜まる。
「あんたの供物としての力は、あたしの影響で目覚めたんでしょ! だったら新しい力を目覚めさせるには、あたしがいればきっと普通にやるより可能性が高い! 早い!」
「お前、憧――」
「お父さん、こうも言ってたわ。新子の社の影響を直接受けるより、あたしを経由するほうが可能性が高いって。事実、一度は成立しちゃってる。しかもたった数時間の出来事でよ!」
喚く憧は、止まらない。
「肉体的、精神的接触……そういうことよ。あたしがいることで、現状を、変えられるかも知れない。ううん、きっとそうよ。だから」
もう、自分でも何を言っているのかよく分からない。分からないが、憧は、体当たりするように京太郎に抱きついた。突然の行動に、それでも彼は、彼女の体を支える。
「あたしを――」
力を込めて、精一杯彼の体を抱き締める。熱い。自分の体か、それとも彼の体か。きっと、どちらもだ。
はらりと、憧の髪が京太郎の肩に落ちる。
今だ、と憧はもう一度顔を近づける。これが、最後の機会だと――自分に残された最後のチャンスだと、彼女は知っていた。
けれども、希望は成らなかった。
ぐい、と大きな掌で肩を押される。距離が生まれる。
「憧」
一度顔を伏せ、しかし京太郎は面を上げ直した。目をはっきりと合わせ、彼は言った。
「小蒔ちゃんに会うために、お前を踏み台にするような真似は、できない」
それが、彼の「答え」だった。
彼の選んだ、道だった。
違う、だとか。
そうじゃない、だとか。
憧の中で言葉が生まれは消え、生まれは消えてゆく。踏み台でも良かった。道具として扱われても良かった。そう言いたかった。
けれどもそれを言えば――京太郎を、苦しめる。苦しめてしまう。
知っていた。
京太郎の一番近くにいたのが、誰なのかを。
知っていた。
京太郎が会いたくて会いたくて、仕方なかった相手を。
知っていた。
京太郎がかけてくれたあの言葉は、自分が望んだものと違う意味なのだと。
知っていた。
それでも新子憧は、諦められないことを。彼のことが、大好きなのだと。
――彼を恨むことなんて、できないのだと。
誰かに向けた、か細い声が彼女の口から生まれる。
「ば……か……」
「うん」
「ほんっと、ばか……」
「うん」
「ばかで、ばかで……なんで、あんたみたいなばか、なんで、もう……」
「うん」
「あたしの……ばか……」
京太郎の手が、憧の頭に添えられる。漏れ出る嗚咽は、止められず。しかし、彼女の最後の意地は、落涙を許さなかった。
ずっとずっと、憧の傍に、京太郎は寄り添った。
◇
「お帰り、憧」
宿の入口に、穏乃が立っていた。いつものジャージ姿は、よく知らない街でも憧を安心させてくれる。
「ただいま、シズ」
憧は、微笑んだ。そうするのが正しいと、思った。このまま一緒に宿へ戻ろう、そう思った。
けれども、憧の予想に反して。
親友は、すたすたと目の前に歩いてきたかと思うと――がばりと、憧の体を抱きすくめた。
言葉はなかった。
たった、その一つの行動だけがあった。
憧の瞳から、堰を切ったかのように涙が溢れ出す。もう、止められなかった。止められるはずがなかった。
親友の肩に、憧は全てを預けた。
次回:十九/神代小蒔/夢を謳う
次々回:終幕/須賀京太郎/桜花、憧憬