Summer/Shrine/Sweets   作:TTP

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十六/神代小蒔/きみの声

 ――繋いだこの手を、離したくない。

 

 

 憧と二人の逃避行は、家出など考えたこともなかった小蒔にとっては、自分でも信じられない衝動的な行動だった。

 

 京太郎が迎えに来てくれなかったら――きっと、ずっと寂れたホームで悄然としたままだったろう。小蒔はそう思う。

 

 京太郎と憧と三人で、電車の座席に腰掛ける。かたんことん、と揺れる音が小気味よかった。

 

 すっかりと赤くなった目で、京太郎と繋がれた手を小蒔は見つめる。京太郎が、強すぎるくらいの力で握りしめてくれている。八年前と変わらない安心感が、彼の手を通して小蒔の内に伝わってくるようだった。

 

 じろじろと見られているのに気が付いて、小蒔は顔を上げる。大学生くらいの男性たちと目が合ったかと思えば、すぐに逸らされてしまった。

 

 世間知らずの姫君を自覚している小蒔であったが、今の自分たちが好奇の視線に晒される理由はすぐに分かった。

 

 京太郎の逆側の手は、憧の手に繋がれている。

 

 少なくとも兄妹には見られないだろう、と小蒔は察する。三人揃って外見も雰囲気も違いすぎる。幼い頃ならまだしも、高校生にもなって三人の男女が手を重ねているのは物珍しかろう。

 

 だからと言って、恥ずかしがって小蒔が京太郎の手を振り払うことはなかった。自分のほうから、握り返したくらいだった。

 

 京太郎に手を引かれるまま宿に戻ってみれば、六女仙と阿知賀女子の面々が待ち構えていた。

 

「小蒔ちゃん!」

 

 八年前、この街で迷子になったときと同じように、霞に強く抱き締められた。けれども霞の顔は、八年前と同じようにとはいかなかった。不安だけでは、済まなかった。

 

 怒られるよりも、辛かった。

 

 霞だけではない。六女仙のみんなにも、阿知賀のみんなにも、心配をかけた。自らの感情的な行いが、彼女たちを傷付けてしまった。

 

「ごめんなさい」

 

 憧と一緒になって、枯れ果てた声で全員に謝る。それで足りるわけでもないが、できることはそのくらいだった。

 

「いいんですよー」

「無事で良かった」

「気にしないで下さい」

 

 慰めの言葉を浴びながら、小蒔は隣の京太郎が動く気配を感じた。

 

「……今日のところは、俺はこれで」

「京くん、でも」

「もう大分遅いだろ。日を改めて、八年前のこと、ちゃんと話すよ。――話すから」

 

 言って、京太郎は繋がれていた手を離そうとする。憧のほうは、思い切り抱きついていた高鴨穏乃の膂力もあって、すぐに引き剥がされていた。

 

 けれども、小蒔は。

 

 

 ――繋いだこの手を、離したくない。

 

 

 ここで、離してしまえば。

 ここで、離れてしまえば。

 

 もう二度と、京太郎と顔を合わせることはない。

 

 予感ではなく、小蒔は確信した。京太郎の顔を見れば分かる。京太郎の体温を感じれば分かる。彼の意思が、伝わってくる。

 

 だからこそ、彼女は――

 

 彼に殉ずる。

 

 自らの望みよりも、京太郎の覚悟に。それこそが、神代小蒔と在り方であると信じて。

 

 

 ◇

 

 

東京/永水女子宿泊施設

 

 未だ使い慣れない携帯電話を手に、小蒔は目を伏せ、予告されている彼からの着信を心待ちにしていた。

 

 ――あの夏の日、何が起こったのか。

 

 全てを教えられ、全てを理解したとき、まず小蒔の心に訪れたのは、安堵であった。

 

 京太郎と再会し、拒絶され、小蒔の目の前は真っ暗になった。世界が終わってしまったように感じた。大袈裟ではなく、彼女は本気でそう思った。盲目的な想いは、しかしだからこそ、八年間小蒔の中で生き続けていた。

 

 京太郎の「理由」を知って、彼女が安寧を取り戻すのは当然であった。

 

 しかし。

 

 次に小蒔の中に湧き上がった感情は、全く別のものであった。

 

 手元の携帯電話が震える。見れば、登録されていない電話番号。慌てて小蒔は受話ボタンを押した。

 

「もしもし、小蒔です。京くんですよね」

『ああ、うん、そう』

 

 ぎこちない返答をもらう。先ほどまで、京太郎も携帯電話のスピーカーを使って霞の説明に補足を入れていたので、もちろん小蒔と会話を交わしている。

 

 けれども、そのときも他の六女仙はもちろん、憧も一緒だった。こうして二人だけで話すのは、本当に久しぶりだった。

 

『――……その』

 

 かけてきた京太郎が、煮え切らない態度だ。改めて話すのが面映ゆいのは、小蒔にもよく分かる。よく分かるが、今日の小蒔は違った。

 

「京くん」

 

 だから先手をとったのは、彼女であった。

 

「私、怒っています」

『え?』

「本当に、京くんに怒ってるんですからね」

『……うん。本当に、悪かった。嘘でも、酷いことばっかり言って』

「そっちじゃありません」

『え、えぇ?』

 

 考えが噛み合わず、小蒔は珍しく声を荒げた。京太郎の困惑をよそに、彼女は言った。

 

「私が京くんを嫌うなんて、どうしてそんなことを思ったんですか」

『――俺は、小蒔ちゃんにとって』

「ばか」

 

 息を呑む音が、電話の向こうから聞こえてくる。小蒔が京太郎にそんな言葉をかけたのは、初めてだった。

 

 小蒔はたたみ掛けるように、語りかける。

 

「京くんが私にとって、どんな存在でも。私が京くんを嫌うなんて、有り得ません。有り得るはずがないでしょう。――だからもう、勘違いするのは止めて下さい」

 

 長い、長い沈黙の後。

 

『ごめん、小蒔ちゃん』

 

 真摯な京太郎の謝罪があって、

 

「許します」

 

 随分と演技めいた首肯を、小蒔が見せた。

 京太郎にも、言いたいことはあっただろう。彼なりの理由があることは、小蒔にだって分かっていた。

 

『ありがとう、小蒔ちゃん』

「はい。これで、仲直りです」

 

 けれども二人は、これで全てのわだかまりを解消させた。そういう道を選んだ。

 

「京くん、京くん」

 

 弾む声で、小蒔は話しかける。

 

「まだ、お話できますか?」

『俺は構わないけど、小蒔ちゃんは明日から個人戦あるだろ』

「明日の力を補充しておきたいんです」

『……小蒔ちゃんが、そう言うなら』

 

 照れ臭そうな京太郎の声。小蒔は気にせず、言った。

 

「この八年間、何があったか聞きたいです」

『それを語るには、ちょっと時間が足りなさすぎるだろ』

「少しずつで良いですから。――そうですね、京くんが麻雀を始めた理由を知りたいです」

『り、理由かぁ……いや、大した話じゃないと思う』

「まさか京くんに限って好みの女の子がいたから、なんてことありませんよねっ。そういえば清澄の副将の原村さんって、どことなく昔一緒にテレビで見た牌のお姉さんに似てますよねっ」

『お、おう。そりゃもう真剣に麻雀を究めたいという野望があったんだよ、うん。決して邪な気持ちなどなかったです、はい』

 

 それに、と京太郎は多少言い訳がましく付け加える。

 

『昔さ、たぶん小蒔ちゃんだったと思うんだけど……俺に、麻雀、勧めてくれなかったっけ?』

 

 ――ああ。

 

 覚えている。小蒔は、はっきりと覚えている。大した会話でもなかった。けれども京太郎に関することで、彼女が覚えていない事柄など、一つとしてなかった。

 

「そんなことも、ありましたね」

『結局俺は、小蒔ちゃんに会いたかったんだ』

 

 どきりとして、小蒔はすぐに返事ができなかった。

 

『未練を切り捨てたつもりでいて。でも、小蒔ちゃんや憧がやっていた麻雀に出会って、同じことをやりたくなった。まさか、二人がインハイに出てるとは思わなかったけどさ』

「私たちからすれば、女子の大会にいた京くんのほうが不思議でしたよ」

『そいつは間違いない』

 

 記憶にあるよりも、低くなった京太郎の笑い声が聞こえてくる。けれども、変声期を過ぎた後でも笑い方は変わっていない、と小蒔は嬉しくなった。

 二人はその後も麻雀について語り合う。

 

 今日の決勝戦のこと。

 明日から始まる個人戦のこと。

 清澄の選手――特に宮永咲と原村和のこと――のこと。

 

「京くん、強いんですか?」

『強かったら男子のインハイに出てるよ。いやこれから、これからだから!』

「ええ、きっと京くんなら強くなれます」

 

 時に冗談を交えつつ、時に笑顔を零しつつ、小蒔は京太郎の声に耳を傾ける。

 

 どきどきした。

 わくわくした。

 

 八年前の興奮が、そのまま蘇るみたいだった。京太郎と過ごす時間は、小蒔にとってやっぱり幸せ以外の何物でもなかった。それを再確認できて、良かった。

 

 今日は早く眠らなければならない、と分かっていても。

 

 彼の声という誘惑に、小蒔が抗えるはずなどなかった。京太郎もそうであって欲しい、と小蒔は願う。

 

 麻雀の話題は、しばらく続いた。

 

 しかし、二人は決して、ある言葉だけは口にしなかった。麻雀を同じく志す者同士なら、必ず口にするであろう、あの言葉。

 

 ――共に、卓を囲もう。

 

 二人にとっては、遠すぎる言葉。

 

『小蒔ちゃん』

「はい?」

『俺はもう……小蒔ちゃんに会わない』

 

 京太郎は、小蒔を慮り。

 

「京くん」

『うん』

「分かりました。私も、京くんに会いたいなんて、言いません」

 

 小蒔は、彼の気持ちを汲み取る。

 

 そうしなくてはならない、充分な理由があった。京太郎は、己に課せられた理に逆らうつもりはない。ならば、小蒔はそれに従うまで。

 

『そろそろ、終わりにしようか』

「……そうですね」

『電話なら、いつでもできるだろ』

 

 そう言われても、名残惜しいものは名残惜しい。――京太郎はまた、自分を慮ってくれている。そう思えば、「もっと」という希望は飲み込む他ない。

 

『憧、そっちにまだいるだろ?』

「ああ、はい。いますよ、すぐ近くに」

『あいつ送って帰るから、そう伝えてくれ』

「承知しました」

 

 では、と通話を終えようとして、京太郎が止めた。

 

『明日、頑張ってくれ、小蒔ちゃん』

「京くんは、宮永さんや原村さんの応援はしなくて良いんですか?」

『うっ……そこは、その……勘弁してくれよ』

「冗談です。誰を応援したって、怒ったりしませんよ」

『小蒔ちゃん、昔より意地悪くなってない? 憧の影響か?』

「さぁ、どうでしょう」

 

 くすくすくす、小蒔は笑う。気分はすっかり昂揚していた。

 

『それじゃあ』

「はい。ーーさようなら」

 

 電話を切り、ふぅ、と一息吐く。終わるときは、あっさりとしたものだった。

 

 それから、広縁に出ていた憧に向かって声をかけた。

 

「ごめんなさい、憧ちゃん。お待たせしました」

「ううん」

 

 憧が、部屋に戻ってくる。表情に、影が差していた。

 ひとまずは、京太郎から頼まれた言伝を憧に伝えなければならない。

 

「憧ちゃん、今からホテルに帰るんですよね」

「えっ、あっ、うん」

「京くんが外で待ってます。憧ちゃんを送って帰るって」

「そ、そっか。うん、分かった。ありがとう」

 

 憧は頷いた。が、動き出そうとはしない。しばらくの間を置いて、

 

「ね、小蒔」

 

 代わりに彼女は、声をかけてきた。

 

「はい?」

「このままで、良いの?」

 

 一瞬、質問の意味が分からず、小蒔は首を傾げた。堪えかねたように、憧は口を開く。

 

「京太郎と顔も合わせられなくて。一緒にいちゃいけなくて。――ねぇ、本当に良いの? さっきの話、全部納得できたの?」

 

 ようやくここで、憧の言いたいことを小蒔は理解した。

 彼女の気持ちは、痛いほど分かる。彼女の想い、彼女の悔恨、彼女の罪悪感、全て小蒔は正しく把握していた。

 

「理解はしました。納得は、できていません」

「だったら」

「けれど、今は」

 

 はっきりと、小蒔は答えた。

 

「京くんと、こうして繋がっている。それだけで充分なんです。八年間ずっと離れていたんですから。嫌われていなくて、良かった。大好きだって言って貰えて、嬉しい。――本当に、それだけ。これ以上の幸福を求めるのが、怖いくらいなんです」

 

 それが、正直な気持ちだった。京太郎とも、会わないと誓い合った。だからもう、「これ以上」を追い求めたりはしない。

 

「でも、でも……!」

 

 振り絞るような憧の声に、彼女が言わんとすることを小蒔は察する。項垂れてしまう憧に、小蒔は思わず立ち上がっていた。彼女の頬へと、勝手に手が伸びていた。

 

「憧ちゃん。憧ちゃんがいなかったら、なんて私は絶対に思いません」

「……小蒔」

「そんな世界は、私は要りません。それに、憧ちゃんがいなくても同じ結果になっていたかも知れません。だから――悲しい『もしも』の話は止めて下さい」

 

 ――ちゃんと、言えた。

 

「京くんが、待っています」

 

 小蒔は、憧の背中を押す。自分にできないこと。自分が果たせないこと。――全て、彼女ならできるのだから。

 

「行って下さい」

「ここではい分かりましたって言えるほど、あたしは単純じゃないわよ」

「私には、もう言えることはありません。京くんも、憧ちゃんに会いたがっていました」

 

 見ている小蒔が痛くなるほど、憧は唇を噛む。彼女は、自分の鞄を引っ掴むと出入り口に向かって歩き出した。

 

 が、憧は扉の前で足を止める。

 

「小蒔」

「はい?」

「この間は、ごめんね」

 

 突然の謝罪に、小蒔は小首を傾げた。

 

「何の話ですか?」

「自分の気持ちも言わずに、小蒔の気持ちを聞こうとしてた」

 

 小蒔へと振り返った憧の表情は、小蒔が見たことのないものだった。そして、次に彼女から発せられた言葉は、小蒔の胸を貫いた。

 

「あたしは、京太郎が好き」

 

 小蒔が答える前に、憧は出て行った。ぽかんと、小蒔は彼女を見送った。さようなら、の一言もかける隙はなかった。

 

「……知ってました」

 

 小蒔の独り言は、静まり返った部屋の中に消えていった。ふぅ、と彼女は溜息を吐く。

 

 ――これで良い。

 

 小蒔は、思う。

 

 ――自分はもう、彼の隣にはいられないけれど。

 

 憧が、京太郎の傍にいてくれるなら。何の心配もない。二人が一緒にいてくれるのなら、安心だ。三人ばらばらよりも、ずっと良い。京太郎も、憧のような女の子が近くにいれば幸せだろう。

 

 そう、京太郎は自らを、小蒔を傷付ける存在だと称した。けれども小蒔からすれば自分こそが、京太郎を傷付ける存在だと思う。自分がいなければ、彼はあんなにも苦しむことはなかったのだ。

 

 ――だから、これで良い。

 

 うん、と小蒔は頷いて。

 

 ぽたりと、雫が畳に落ちた。

 

「……え?」

 

 それがなにか、小蒔はすぐに理解できなかった。

 二滴目、三滴目と、続けて落ちていく。

 

「あれ……?」

 

 自分の目からこぼれ落ちる水滴は、小蒔を酷く狼狽えさせた。こんなはずではないのに、ちゃんと、割り切ったはずなのに。全てを憧に託したと言うのに。

 

 なのに、どうして。

 

 どうして、泣かなければならない。

 

「うううう」

 

 小蒔は、嗚咽を漏らす。

 察した霞が間を置いて部屋に戻ってくるまで、彼女の涙は止まらなかった。

 

 

 




次回:十七/須賀京太郎/選ぶべきもの

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