――繋いだこの手を、離したくない。
憧と二人の逃避行は、家出など考えたこともなかった小蒔にとっては、自分でも信じられない衝動的な行動だった。
京太郎が迎えに来てくれなかったら――きっと、ずっと寂れたホームで悄然としたままだったろう。小蒔はそう思う。
京太郎と憧と三人で、電車の座席に腰掛ける。かたんことん、と揺れる音が小気味よかった。
すっかりと赤くなった目で、京太郎と繋がれた手を小蒔は見つめる。京太郎が、強すぎるくらいの力で握りしめてくれている。八年前と変わらない安心感が、彼の手を通して小蒔の内に伝わってくるようだった。
じろじろと見られているのに気が付いて、小蒔は顔を上げる。大学生くらいの男性たちと目が合ったかと思えば、すぐに逸らされてしまった。
世間知らずの姫君を自覚している小蒔であったが、今の自分たちが好奇の視線に晒される理由はすぐに分かった。
京太郎の逆側の手は、憧の手に繋がれている。
少なくとも兄妹には見られないだろう、と小蒔は察する。三人揃って外見も雰囲気も違いすぎる。幼い頃ならまだしも、高校生にもなって三人の男女が手を重ねているのは物珍しかろう。
だからと言って、恥ずかしがって小蒔が京太郎の手を振り払うことはなかった。自分のほうから、握り返したくらいだった。
京太郎に手を引かれるまま宿に戻ってみれば、六女仙と阿知賀女子の面々が待ち構えていた。
「小蒔ちゃん!」
八年前、この街で迷子になったときと同じように、霞に強く抱き締められた。けれども霞の顔は、八年前と同じようにとはいかなかった。不安だけでは、済まなかった。
怒られるよりも、辛かった。
霞だけではない。六女仙のみんなにも、阿知賀のみんなにも、心配をかけた。自らの感情的な行いが、彼女たちを傷付けてしまった。
「ごめんなさい」
憧と一緒になって、枯れ果てた声で全員に謝る。それで足りるわけでもないが、できることはそのくらいだった。
「いいんですよー」
「無事で良かった」
「気にしないで下さい」
慰めの言葉を浴びながら、小蒔は隣の京太郎が動く気配を感じた。
「……今日のところは、俺はこれで」
「京くん、でも」
「もう大分遅いだろ。日を改めて、八年前のこと、ちゃんと話すよ。――話すから」
言って、京太郎は繋がれていた手を離そうとする。憧のほうは、思い切り抱きついていた高鴨穏乃の膂力もあって、すぐに引き剥がされていた。
けれども、小蒔は。
――繋いだこの手を、離したくない。
ここで、離してしまえば。
ここで、離れてしまえば。
もう二度と、京太郎と顔を合わせることはない。
予感ではなく、小蒔は確信した。京太郎の顔を見れば分かる。京太郎の体温を感じれば分かる。彼の意思が、伝わってくる。
だからこそ、彼女は――
彼に殉ずる。
自らの望みよりも、京太郎の覚悟に。それこそが、神代小蒔と在り方であると信じて。
◇
東京/永水女子宿泊施設
未だ使い慣れない携帯電話を手に、小蒔は目を伏せ、予告されている彼からの着信を心待ちにしていた。
――あの夏の日、何が起こったのか。
全てを教えられ、全てを理解したとき、まず小蒔の心に訪れたのは、安堵であった。
京太郎と再会し、拒絶され、小蒔の目の前は真っ暗になった。世界が終わってしまったように感じた。大袈裟ではなく、彼女は本気でそう思った。盲目的な想いは、しかしだからこそ、八年間小蒔の中で生き続けていた。
京太郎の「理由」を知って、彼女が安寧を取り戻すのは当然であった。
しかし。
次に小蒔の中に湧き上がった感情は、全く別のものであった。
手元の携帯電話が震える。見れば、登録されていない電話番号。慌てて小蒔は受話ボタンを押した。
「もしもし、小蒔です。京くんですよね」
『ああ、うん、そう』
ぎこちない返答をもらう。先ほどまで、京太郎も携帯電話のスピーカーを使って霞の説明に補足を入れていたので、もちろん小蒔と会話を交わしている。
けれども、そのときも他の六女仙はもちろん、憧も一緒だった。こうして二人だけで話すのは、本当に久しぶりだった。
『――……その』
かけてきた京太郎が、煮え切らない態度だ。改めて話すのが面映ゆいのは、小蒔にもよく分かる。よく分かるが、今日の小蒔は違った。
「京くん」
だから先手をとったのは、彼女であった。
「私、怒っています」
『え?』
「本当に、京くんに怒ってるんですからね」
『……うん。本当に、悪かった。嘘でも、酷いことばっかり言って』
「そっちじゃありません」
『え、えぇ?』
考えが噛み合わず、小蒔は珍しく声を荒げた。京太郎の困惑をよそに、彼女は言った。
「私が京くんを嫌うなんて、どうしてそんなことを思ったんですか」
『――俺は、小蒔ちゃんにとって』
「ばか」
息を呑む音が、電話の向こうから聞こえてくる。小蒔が京太郎にそんな言葉をかけたのは、初めてだった。
小蒔はたたみ掛けるように、語りかける。
「京くんが私にとって、どんな存在でも。私が京くんを嫌うなんて、有り得ません。有り得るはずがないでしょう。――だからもう、勘違いするのは止めて下さい」
長い、長い沈黙の後。
『ごめん、小蒔ちゃん』
真摯な京太郎の謝罪があって、
「許します」
随分と演技めいた首肯を、小蒔が見せた。
京太郎にも、言いたいことはあっただろう。彼なりの理由があることは、小蒔にだって分かっていた。
『ありがとう、小蒔ちゃん』
「はい。これで、仲直りです」
けれども二人は、これで全てのわだかまりを解消させた。そういう道を選んだ。
「京くん、京くん」
弾む声で、小蒔は話しかける。
「まだ、お話できますか?」
『俺は構わないけど、小蒔ちゃんは明日から個人戦あるだろ』
「明日の力を補充しておきたいんです」
『……小蒔ちゃんが、そう言うなら』
照れ臭そうな京太郎の声。小蒔は気にせず、言った。
「この八年間、何があったか聞きたいです」
『それを語るには、ちょっと時間が足りなさすぎるだろ』
「少しずつで良いですから。――そうですね、京くんが麻雀を始めた理由を知りたいです」
『り、理由かぁ……いや、大した話じゃないと思う』
「まさか京くんに限って好みの女の子がいたから、なんてことありませんよねっ。そういえば清澄の副将の原村さんって、どことなく昔一緒にテレビで見た牌のお姉さんに似てますよねっ」
『お、おう。そりゃもう真剣に麻雀を究めたいという野望があったんだよ、うん。決して邪な気持ちなどなかったです、はい』
それに、と京太郎は多少言い訳がましく付け加える。
『昔さ、たぶん小蒔ちゃんだったと思うんだけど……俺に、麻雀、勧めてくれなかったっけ?』
――ああ。
覚えている。小蒔は、はっきりと覚えている。大した会話でもなかった。けれども京太郎に関することで、彼女が覚えていない事柄など、一つとしてなかった。
「そんなことも、ありましたね」
『結局俺は、小蒔ちゃんに会いたかったんだ』
どきりとして、小蒔はすぐに返事ができなかった。
『未練を切り捨てたつもりでいて。でも、小蒔ちゃんや憧がやっていた麻雀に出会って、同じことをやりたくなった。まさか、二人がインハイに出てるとは思わなかったけどさ』
「私たちからすれば、女子の大会にいた京くんのほうが不思議でしたよ」
『そいつは間違いない』
記憶にあるよりも、低くなった京太郎の笑い声が聞こえてくる。けれども、変声期を過ぎた後でも笑い方は変わっていない、と小蒔は嬉しくなった。
二人はその後も麻雀について語り合う。
今日の決勝戦のこと。
明日から始まる個人戦のこと。
清澄の選手――特に宮永咲と原村和のこと――のこと。
「京くん、強いんですか?」
『強かったら男子のインハイに出てるよ。いやこれから、これからだから!』
「ええ、きっと京くんなら強くなれます」
時に冗談を交えつつ、時に笑顔を零しつつ、小蒔は京太郎の声に耳を傾ける。
どきどきした。
わくわくした。
八年前の興奮が、そのまま蘇るみたいだった。京太郎と過ごす時間は、小蒔にとってやっぱり幸せ以外の何物でもなかった。それを再確認できて、良かった。
今日は早く眠らなければならない、と分かっていても。
彼の声という誘惑に、小蒔が抗えるはずなどなかった。京太郎もそうであって欲しい、と小蒔は願う。
麻雀の話題は、しばらく続いた。
しかし、二人は決して、ある言葉だけは口にしなかった。麻雀を同じく志す者同士なら、必ず口にするであろう、あの言葉。
――共に、卓を囲もう。
二人にとっては、遠すぎる言葉。
『小蒔ちゃん』
「はい?」
『俺はもう……小蒔ちゃんに会わない』
京太郎は、小蒔を慮り。
「京くん」
『うん』
「分かりました。私も、京くんに会いたいなんて、言いません」
小蒔は、彼の気持ちを汲み取る。
そうしなくてはならない、充分な理由があった。京太郎は、己に課せられた理に逆らうつもりはない。ならば、小蒔はそれに従うまで。
『そろそろ、終わりにしようか』
「……そうですね」
『電話なら、いつでもできるだろ』
そう言われても、名残惜しいものは名残惜しい。――京太郎はまた、自分を慮ってくれている。そう思えば、「もっと」という希望は飲み込む他ない。
『憧、そっちにまだいるだろ?』
「ああ、はい。いますよ、すぐ近くに」
『あいつ送って帰るから、そう伝えてくれ』
「承知しました」
では、と通話を終えようとして、京太郎が止めた。
『明日、頑張ってくれ、小蒔ちゃん』
「京くんは、宮永さんや原村さんの応援はしなくて良いんですか?」
『うっ……そこは、その……勘弁してくれよ』
「冗談です。誰を応援したって、怒ったりしませんよ」
『小蒔ちゃん、昔より意地悪くなってない? 憧の影響か?』
「さぁ、どうでしょう」
くすくすくす、小蒔は笑う。気分はすっかり昂揚していた。
『それじゃあ』
「はい。ーーさようなら」
電話を切り、ふぅ、と一息吐く。終わるときは、あっさりとしたものだった。
それから、広縁に出ていた憧に向かって声をかけた。
「ごめんなさい、憧ちゃん。お待たせしました」
「ううん」
憧が、部屋に戻ってくる。表情に、影が差していた。
ひとまずは、京太郎から頼まれた言伝を憧に伝えなければならない。
「憧ちゃん、今からホテルに帰るんですよね」
「えっ、あっ、うん」
「京くんが外で待ってます。憧ちゃんを送って帰るって」
「そ、そっか。うん、分かった。ありがとう」
憧は頷いた。が、動き出そうとはしない。しばらくの間を置いて、
「ね、小蒔」
代わりに彼女は、声をかけてきた。
「はい?」
「このままで、良いの?」
一瞬、質問の意味が分からず、小蒔は首を傾げた。堪えかねたように、憧は口を開く。
「京太郎と顔も合わせられなくて。一緒にいちゃいけなくて。――ねぇ、本当に良いの? さっきの話、全部納得できたの?」
ようやくここで、憧の言いたいことを小蒔は理解した。
彼女の気持ちは、痛いほど分かる。彼女の想い、彼女の悔恨、彼女の罪悪感、全て小蒔は正しく把握していた。
「理解はしました。納得は、できていません」
「だったら」
「けれど、今は」
はっきりと、小蒔は答えた。
「京くんと、こうして繋がっている。それだけで充分なんです。八年間ずっと離れていたんですから。嫌われていなくて、良かった。大好きだって言って貰えて、嬉しい。――本当に、それだけ。これ以上の幸福を求めるのが、怖いくらいなんです」
それが、正直な気持ちだった。京太郎とも、会わないと誓い合った。だからもう、「これ以上」を追い求めたりはしない。
「でも、でも……!」
振り絞るような憧の声に、彼女が言わんとすることを小蒔は察する。項垂れてしまう憧に、小蒔は思わず立ち上がっていた。彼女の頬へと、勝手に手が伸びていた。
「憧ちゃん。憧ちゃんがいなかったら、なんて私は絶対に思いません」
「……小蒔」
「そんな世界は、私は要りません。それに、憧ちゃんがいなくても同じ結果になっていたかも知れません。だから――悲しい『もしも』の話は止めて下さい」
――ちゃんと、言えた。
「京くんが、待っています」
小蒔は、憧の背中を押す。自分にできないこと。自分が果たせないこと。――全て、彼女ならできるのだから。
「行って下さい」
「ここではい分かりましたって言えるほど、あたしは単純じゃないわよ」
「私には、もう言えることはありません。京くんも、憧ちゃんに会いたがっていました」
見ている小蒔が痛くなるほど、憧は唇を噛む。彼女は、自分の鞄を引っ掴むと出入り口に向かって歩き出した。
が、憧は扉の前で足を止める。
「小蒔」
「はい?」
「この間は、ごめんね」
突然の謝罪に、小蒔は小首を傾げた。
「何の話ですか?」
「自分の気持ちも言わずに、小蒔の気持ちを聞こうとしてた」
小蒔へと振り返った憧の表情は、小蒔が見たことのないものだった。そして、次に彼女から発せられた言葉は、小蒔の胸を貫いた。
「あたしは、京太郎が好き」
小蒔が答える前に、憧は出て行った。ぽかんと、小蒔は彼女を見送った。さようなら、の一言もかける隙はなかった。
「……知ってました」
小蒔の独り言は、静まり返った部屋の中に消えていった。ふぅ、と彼女は溜息を吐く。
――これで良い。
小蒔は、思う。
――自分はもう、彼の隣にはいられないけれど。
憧が、京太郎の傍にいてくれるなら。何の心配もない。二人が一緒にいてくれるのなら、安心だ。三人ばらばらよりも、ずっと良い。京太郎も、憧のような女の子が近くにいれば幸せだろう。
そう、京太郎は自らを、小蒔を傷付ける存在だと称した。けれども小蒔からすれば自分こそが、京太郎を傷付ける存在だと思う。自分がいなければ、彼はあんなにも苦しむことはなかったのだ。
――だから、これで良い。
うん、と小蒔は頷いて。
ぽたりと、雫が畳に落ちた。
「……え?」
それがなにか、小蒔はすぐに理解できなかった。
二滴目、三滴目と、続けて落ちていく。
「あれ……?」
自分の目からこぼれ落ちる水滴は、小蒔を酷く狼狽えさせた。こんなはずではないのに、ちゃんと、割り切ったはずなのに。全てを憧に託したと言うのに。
なのに、どうして。
どうして、泣かなければならない。
「うううう」
小蒔は、嗚咽を漏らす。
察した霞が間を置いて部屋に戻ってくるまで、彼女の涙は止まらなかった。
次回:十七/須賀京太郎/選ぶべきもの