Summer/Shrine/Sweets   作:TTP

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一/神代小蒔/東京迷宮・前

東京/???

 

 

 生まれて初めて九州を出て東京を訪れる際、小蒔は母と三つの約束を交わした。

 

 一つは、保護者たる父親の言うことをよく聞くこと。元来小蒔は我が儘を言う性格ではないが、旅先というのは気分が高揚してしまいがちだ。まして東京という街には危険や誘惑はいくらでもある。無用なトラブルに巻き込まれぬよう、父の庇護下に置かれるのは当然のことだった。

 

 もう一つは、同行する六女仙――石戸霞、薄墨初美、狩宿巴、滝見春から離れないこと。特に霞とは行動を常に供にするよう強く命ぜられた。小蒔と一つしか歳は変わらないが、霞は小蒔の母から信頼を寄せられていた。

 

 

 神代小蒔、このとき8歳。小学三年生の夏だった。

 

 

 今も昔も素直な性格の彼女は、「よいですね」と念押しする母親に、しっかりと頷いた。背く理由も発想も、小蒔にはなかった。

 

 しかし、電車を乗り継ぎ飛行機に乗り、降り立った東京で――

 あっという間に小蒔は、三つの約束のうちの二つを破ってしまった。

 

 父は言った。「私の後をしっかり着いてくるように」。

 霞は言った。「はぐれないように気を付けて」。

 

 小蒔は確かに了承した。

 が、今彼女は独りである。知らない街、知らない駅のホームのベンチに、小蒔はぽつんと座っていた。時間帯は穏やかな午後、それとは裏腹に小蒔の胸中は荒々しく波がうねっていた。普段はおっとりとして多少のことでは動じない彼女であるが、流石にこの現状には頭を抱えざるを得ない。

 ――どうしてこうなったのでしょう。

 飛行機から降り、都内に向かうため電車に乗り込んだところまでは良かった。そのときは確かに、父も六女仙もそばにいた。

 

 誤算は想像を超える人混みだった。何か、大きな催し物があったのだろう。不運にも、小蒔たちはそれとかち合ってしまったのだ。

 

 人の波に六女仙と分断され、父の背中も見失い、流れに押されるまま名前の知らない駅で降りてしまった。あっという間の出来事だった。

 

 そして小蒔は独りとなった。

 

 小学生の小蒔は、このとき初めて「冷や汗をかく」という経験をした。だからといって、何も嬉しくはないのだが。

 

 この状況、決して小蒔だけの責とは言えない。父も六女仙も、不注意であった。携帯電話を小蒔に持たせたわけでもなく、はぐれた際の取り決めもしていなかった。しかし真面目な小蒔は、「母との約束を破ってしまった」という一念で自分を責めるばかりになり、結果思考の回転はずっと遅くなる。視野が狭くなり、これからどうして良いかさっぱり分からない状態だった。

 

 地下鉄のホームはどこか薄暗く、陰気な空気が漂う。小蒔の気は滅入る一方で、いよいよ涙腺が緩みそうになった。小蒔は必死でそれを堪える。泣いてはいけない。私が悪いのだから。自分にそう言い聞かせ、必死で目を瞑る。一滴たりとも涙を落としてはならない。そうしてしまえば、もう歯止めが利かないと彼女は知っている。

 

 だがもう、そのやせ我慢も限界に達しそうだった。鼻がつんと痛くなって、指先が震える。

 

 嗚咽が漏れそうになった、その瞬間。

 

「――なぁ」

 

 頭上から、声が降り注いだ。

 

 はっと、小蒔は俯いていた顔を上げる。

 そこにいたのは、野球帽を被った少年だった。小蒔には読めない英語のTシャツに、カーゴパンツという装い。年齢は、小蒔と同じくらいだろうか。

 

「君ら、もしかして迷子?」

「えっ」

 

 小蒔は戸惑った。どうしてこの少年は自分の状況を簡単に言い当ててしまったのか。

 そしてもう一つ。

 

「君ら……?」

「ん。そっちの君も、そうじゃないの?」

 

 少年が指差した先、こちらも小蒔と同じ年頃だろう、少女が頬を染めてベンチに座っていた。短めの髪を、両サイドで縛っている。彼女もシャツ一枚に短いズボン、そして裸足にスニーカーと、ラフな格好だ。

 彼女の存在に、小蒔はこれまで全く気付かなかった。

 

「……そうだけど?」

 

 小柄な少女は、そっぽを向いてつっけんどんに言う。小蒔にも分かった。照れ隠しだ。

 

「だったら何? 笑いに来たの?」

「いや、俺も人を笑える状況じゃない」

 

 少年は、至って真面目な顔で首を横に振る。小蒔が小首を傾げて訊ねた。

 

「どういうことですか?」

「実は俺も迷子なんだ」

 

 言って、少年は小さな悪戯が成功したときのように笑った。一瞬小蒔はぽかんとして、それからくすりと微笑んだ。隣の少女も、「なによそれ」と文句を言ったものの、結局は二人に釣られて笑っていた。

 

「俺は須賀京太郎」

 

 少年が名乗り、

 

「私は神代小蒔と言います」

 

 小蒔が丁寧に頭を下げ、

 

「あたしは新子憧」

 

 少女も笑顔で応える。

 

 いつの間にか、小蒔の瞼の奥からは、涙の気配が消えていた。重石が外されたように、心が軽い。

 

「ここは一つ迷子同士で協力しようぜ。誰か一人でも大人と合流するか連絡つけば、他の二人も何とかしてくれるだろ。どう?」

 

 京太郎の提案に、

 

「お、お願いしますっ。是非っ」

 

 小蒔はすぐさま食い付いた。実現性があるかはともかく、独りの心細さにこれ以上耐えられそうになかった。

 

「新子さんは?」

「ん、それでいきましょ」

「じゃ、ドーメイ成立だな。さっさと出発しようぜ」

「出発ってどこによ?」

「まずはここを出ないと話にならないだろ」

 

 言って、京太郎はさっさと歩き出す。慌てて小蒔はその背中を追った。憧も、「ちょっと待ちなさいよ」と言いながら、着いていく。

 

 階段を昇り、改札口に辿り着く。

 京太郎は躊躇なく、傍に居た駅員に声をかけた。どちらかと言えば引っ込み思案な小蒔には到底できない真似だった。何よりこんな勝手の知らない都会では、落ち着いて行動できない。憧と二人で、成り行きを見守るのみ。

 

 少しして、京太郎は二人を手招きした。小蒔たちはそれに応じる。

 

「事情説明してきた。改札、通してくれるってさ」

「あ、は、はい」

 

 自分の切符でこの駅から出られるか分からない。そんなことにも思い至ってなかったことに気付いて、小蒔は恥ずかしくなった。

 

「でも、ここから出てどうするのよ。電車で移動したほうが良くない?」

 

 憧がせっつくように訊ねる。

 

「二人とも、自分の目的地が分からなくて困ってたんだろ? 俺も乗り継ぎとかよく分からないし、余計迷う自信がある。たぶん親父もはぐれた場所くらい見当ついてるだろうから、無闇に動くよりさっさと交番に行って保護してもらったほうが良いだろ」

 

 すらすらと京太郎が答えて、憧は「……確かに」と頷いた。小蒔も、それよりも良い提案をできる気がしなかった。

 

「交番はどこにあるのよ」

「今駅員さんに訊いた。地図もくれたよ」

 

 京太郎に抜かりはなかった。小蒔は溜息しか出ない。そのしっかりぶりは、霞にも劣らないのではないか。

 

「須賀くん、須賀くん」

「なに? 神代さん」

「須賀くんは何年生なんですか?」

「二年だよ」

 

 京太郎はしれっと答える。自分よりも年下という事実に、小蒔は少なからずショックを受けた。古典的石が頭に降ってくる。

 

「あたしと同級生だ。神代さんは?」

 

 憧に訊ねられ、一瞬小蒔は答えに詰まった。だが、結局彼女にサバを読むという手管は使えず、正直に答えた。

 

「私は三年生です……」

「お、先輩だ」

 

 本来ならば一番年長である自分がこの場を取り仕切り、引っ張っていく立場ではないのだろうか。小蒔はそう自問するが、今更お姉さんぶる自信はなかった。

 

 京太郎を先頭に、切符だけ駅員に渡して三人は改札を通り抜けた。

 

 階段を昇って外に出てみれば、すぐに強い熱気が襲ってきた。単純な気温を論じるなら、小蒔の住む鹿児島のほうが上のはずだ。しかし同じ熱気でも、東京のそれは質が違う。そびえ立つビル、隙間ないアスファルト、あらゆる条件が街に熱をこもらせる。まして山中にある霧島神境は年中ある程度ひんやりとした空気に包まれており、小蒔は特段暑いのが得意というわけでもなかった。

 

 広い道路に目を向ければ、走り去る車の数は途方もない。鹿児島市内のように、のんびりと走る路面電車の姿は当然あるはずもなく。複雑怪奇に設置された信号は、小蒔に「車の運転は絶対に無理」と確信させるに充分だった。

 

 何もかもが別世界。本当に同じ日本という国なのか。

 

 先に激しく揺れ動いていた感情と、物理的な熱、感心と混乱、様々な要素が混じり合い、小蒔の足はふらついた。

 

「っと、危なっ」

「わわっ」

 

 ともすれば、歩道から転げ落ちそうだった。寸でのところで京太郎が小蒔の腕を引っ掴み、歩道側に引き寄せる。

 

「大丈夫? 神代さん。気ィ付けて」

「あ、ありがとうございます。少し気分が悪くなって……」

「交番まで結構遠いみたいだけど、どこかで休憩してくか?」

 

 京太郎の提案に、憧が「賛成」と応えた。

 

「あたしジュース飲みたい。コンビニ寄ろコンビニ」

 

 言うがまま、憧は空いている小蒔の左手を取った。

 

「ね、良いでしょ神代さん。ちゃんとあたしと須賀がエスコートするから。須賀、神代さんの右手は任せた」

「了解したぜ、新子」

「えっ、えっ、えっ!」

 

 京太郎と憧に挟まれる形になった小蒔は、戸惑いの声を上げる。だが二人は抗議させる暇も作らず、歩き出した。普段から姫様と慕われている小蒔ではあったが、このような扱いは初めてだった。

 

「実際またふらつかれても怖いからね。ここはあたしと須賀に任せてよ」

「……ごめんなさい、面倒をおかけします」

「面倒なんかじゃないって。どうせ俺たちイチレンタクショーなんだから、一緒に楽しく行こうぜ」

 

 京太郎は小蒔の弱気を笑い飛ばす。

 彼の笑顔を見ていると、どういうわけか小蒔の胸は暖かくなった。理屈はさっぱり分からない。しかし、それはとても嬉しい事実だった。

 

 憧の手からも、しっかりと温もりが伝わってくる。京太郎とはまた違う、穏やかな、女の子らしい優しさ。

 

 京太郎も憧も、さっき初めて出会ったばかりの相手だというのに、小蒔はとても居心地が良かった。

 

 彼女たちは地下鉄出口の向かいにあったコンビニに行き、それぞれ思い思いにジュースとお菓子を買う。買い食いという小蒔にとっての非日常は、これまでとは違う意味で彼女をどきどきさせた。

 

 三人はコンビニの近くにあった公園に寄って、三人並んでベンチに座る。もちろん並びは憧、小蒔、京太郎の順。コンビニでの戦利品を分け合う姿は、既に迷子には見えない。

 

「――なに、それじゃあ須賀も神代さんも東京の人じゃないの?」

「俺は長野から来たんだ。昔の友達に会うんだって親父が言ってさ。半ば無理矢理連れられてきたんだけど、この有様ってわけ。そういう新子は?」

「あたしは奈良よ。一昨日まで来る予定じゃなかったんだけどね、ちょっとトラブっちゃって。東京なんて中々行く機会がないから嬉しかったんだけどねー。神代さんはどこ出身なの?」

「鹿児島です、九州の。えっと、場所は分かりますか?」

 

 小蒔の場合、二年生までの授業では地図帳を使っていなかった。本州でもないし、京太郎たちが知らなくとも無理はない。恐る恐る訊ねてみると、予想外に食いつきが良かった。

 

「分かる分かる! わー、あれでしょ桜島あるとこだ! すごい、じゃあ飛行機で来たのっ?」

「ええっ、初めて乗りましたっ! とても雲が綺麗でした! 途中で虹も見えて、それも輪っかの!」

 

 初めての経験を、小蒔は喜び勇んで話し始める。彼女の場合、自慢気にならないのが人徳と言えよう。

 こうなると、他愛もない身の上話でも三人は盛り上がる。話題はあちこちの方向に飛び交った。各々の友人について、学校のこと、夏休みの予定、家族、趣味――どんな些事でも、互いの話は新鮮で聞いていて飽きが来ない。

 

 ――しかしながら。

 

「もしかして神代さん、雪見たことない? 鹿児島って暑いところだもんね、中々降らないか」

「は、灰なら降りますよ……」

「え、ほんと? それはそれで見てみたいな」

 

 彼らは話しに夢中になる余り。

 

「俺は奈良の鹿見てみたい。マジであんなに人懐っこいの?」

「餌付けされてるからね。奈良に来たら案内してあげるわよ」

「あ、私も行ってみたいですっ。鹿、可愛いですよねっ」

 

 大事なことを、失念していた。

 

 自分たちの置かれている状況。自分たちが、迷子であるということに。また、その余裕が周囲の人間に彼らが迷子とは思わせなかった。

 

 ゆっくりと陽が傾き始め、丁度良い具合に小腹が埋まり、木々が強い陽の光を遮って。

 最初に意識が落ちたのは、憧だった。こてんと小蒔の肩にもたれかかり、心地よい寝息を立て始める。

 普段と違う立場に、小蒔は舞い上がった。こういうとき、真っ先に眠って霞に助けられるのがいつもの彼女だ。

 

 しかし、それも長くは持たなかった。

 憧の呼吸のリズムを聴いている内に、小蒔もまた、船をこぎ始める。

 

「神代さん、眠いの?」

「まだ、平気です……。もっとお喋り、しましょう……」

 

 そう答えたところまで、小蒔は覚えている。

 

 次に彼女が意識を取り戻したとき、彼女の頭は京太郎の膝の上にあった。

 

「お、新子。神代さん起きたぞ」

「神代さんおはよー。よく眠れた?」

「はい……」

 

 ゆっくりと小蒔は起き上がる。やや寝惚け気味だが、すっかり眠気はとれていた。男の子に膝枕をしてもらっていた事実に気付き、赤面するのはもう少し後になってからのことだった。

 

 寝惚け眼で、小蒔は空を見上げる。

 

 あれだけ青々としていたはずの空は、既に赤味が差している。さっと、小蒔の顔から血の気が引いた。

 

「い、今何時ですか……?」

「五時回ったところ。流石にそろそろ交番行かないと不味い。下手したらソーサクネガイ出されてるかも」

 

 淡々と答える京太郎を前にして、小蒔は呼吸を落ち着ける。先に眠っていた憧はしゃきっと立ち上がって、いますぐにでも歩いて行けそうだ。

 

「しかも、あれ見て」

 

 憧が指差した先、遠くに見えるビルのさらに向こう。

 どんよりとした黒い大きな雲が、こちらに向かって動いている。どうなるかなんて、わざわざ言及する必要はなかった。

 

「行こう」

 

 京太郎が短く言った。異論を挟む余地はない。

 三人は、公園から駆けだした。

 

 

 

 




次回:二/新子憧/東京迷宮・後

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