Summer/Shrine/Sweets   作:TTP

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十五/新子憧/残響

 ――夢かと思った。

 

 

 二回戦を終えた小蒔と会ったのは、たまたまだった。六女仙も伴わず、ふらふらとインハイ会場近くを歩いている小蒔を見つけて、憧は泣きそうになった。小蒔もまた、今にも涙を落としそうだった。

 

 二人の間に会話はなかった。

 

 けれども、お互いの気持ちは痛いくらいに理解し合っていた。

 

 どこにぶつけて良いかも分からない感情。誰に訊ねれば良いかも分からない問題。いっそ告白したら振られてしまった、くらいシンプルな話であればどれだけ良かったか。

 須賀京太郎からの拒絶は、憧の心に深い爪痕を残した。

 

 どうしてあの日のことを覚えていないのだろう、と後悔するばかりだった。あの日、自分たちは京太郎を怒らせるようなことをしでかしてしまったのか。それはもう、取り返しの付かないことなのか。

 

 答えなど、憧には見つけられなかった。探す気力もなかった。

 苦しくて苦しくて、裏切られた、と呪詛を吐きたくなる。八年間再会を願っていたのは自分だけだったのか、と。

 

 けれども、それでも。

 

 心のどこかで、京太郎を信じている自分がいた。

 

 気が付けば小蒔と共に、人気の少ない電車に揺られていた。

 

 どちらからか、誘ったのだろうか。

 それとも、期せずして同じ場所を目指したのだろうか。

 

 行ったところで何も変わるはずがないというのに――あの日、彼と出会った場所を、憧は追い求めていた。冷静ではなかった、なんて言い訳が通じないのも憧は重々承知していた。だとしても、そうせずにはいられなかった。

 

 ――かつて彼が、自分を見つけてくれた場所。もの悲しい、地下鉄のホーム。

 

 醸し出す空気は、八年前と全く変わっていなかった。多少外装が綺麗になっていたり、広告が入れ替わっていたりする程度。

 

 何もかもが、酷く懐かしかった。

 

 小蒔とベンチで腰掛けて、来るはずのない待ち人を待つ。

 どこまでも虚しくて、どこまでもくすんだ時間だった。

 

 だからこそ、であろう。

 二人の膝に、黒く、長い影が差したとき、心臓が飛び跳ねそうだった。

 

 

 ――夢かと思った。

 

 

 泣きそうな顔をして、息を切らせて、指先を震わせて。

 

 けれども、八年前と同じように、京太郎は憧の前に現れた。――来てくれた。

 

 涙で前が見えなくなり、もう頭の中はぐちゃぐちゃで、憧は彼に抱きついた。もう二度と離さない、そのつもりで彼の背中に腕を回す。

 

 このまま時が止まって欲しいという憧の願いは、当然叶わなかった。

 

 

 ◇

 

 

東京/永水女子宿泊施設

 

 夜空を見上げれば、星々が瞬いている。憧にとっては、それが当たり前の光景だ。

 けれどもこの東京という街では、その当たり前が通じない。客室の広縁から覗ける空は、黒く塗り潰されている。代わりに街明かりが煌々と輝いていた。

 

「――はい。はい。そうですね」

 

 後ろから聞こえてくるのは、小蒔の弾んだ声。耳を塞ぐべきなのだろうか。憧は悩むが、手は動かない。人の電話でのやりとりほど気になってしまうものはない。

それも、京太郎と小蒔の会話だ。気にするな、というほうが無理な相談だ。先に部屋を出て行った霞たちの流れに乗れなかったのが悔やまれる。小蒔からは、「出て行って欲しい」なんて要求は一つもなかったのだけれど。

 

 今更彼女の脇を通り抜けるのも、はばかられた。一瞬たりとも、僅かたりとも二人の邪魔をしてはならないと、憧は心に決める。

 

 くすくすくす、という小蒔の控えめな笑声。

 電話口から僅かに漏れ出る京太郎の低い声。

 

 誰にも聞こえない溜息は、憧の口から生まれた。

 

「はい。それじゃあ、お休みなさい。ありがとうございました、京くん」

 

 十五分程の、短い通話。小蒔はあっさりと、電話を切った。

 

「ごめんなさい、憧ちゃん。お待たせしました」

「ううん」

 

 憧が客間に移ると、小蒔は頬を上気させ、愛おしそうに携帯電話を胸元に寄せていた。その所作が、憧の胸を衝く。

 

「憧ちゃん、今からホテルに帰るんですよね」

「えっ、あっ、うん」

「京くんが外で待ってます。憧ちゃんを送って帰るって」

「そ、そっか。うん、分かった。ありがとう」

 

 と言いながら、憧は動けない。動き出せない。満足気に微笑んでいる小蒔を見て、訊かずにはいられなかった。

 

「……ね、小蒔」

「はい?」

「このままで、良いの?」

 

 ぽかん、と小蒔は呆ける。憧はたたみ掛けるように、口を開く。

 

「京太郎と顔も合わせられなくて。一緒にいちゃいけなくて。――ねぇ、本当に良いの? さっきの話、全部納得できたの?」

 

 憧は自らが感情的になっていることを理解しながら、強い口調を止められなかった。問いかけられた小蒔は、そっと、目を伏せる。

 

「理解はしました。納得は、できていません」

「だったら」

「けれど、今は」

 

 はっきりと、小蒔は答えた。

 

「京くんと、こうして繋がっている。それだけで充分なんです。八年間ずっと離れていたんですから。嫌われていなくて、良かった。大好きだって言って貰えて、嬉しい。――本当に、それだけ。これ以上の幸福を求めるのが、怖いくらいなんです」

「でも」

 

 続く言葉を、憧はうまく発声できない。

 

「でも……!」

 

 小蒔を直視できず、顔を俯かせる。

 

「憧ちゃん」

 

 小蒔の掌が、憧の頬に触れた。

 

「憧ちゃんがいなかったら、なんて私は絶対に思いません」

「……小蒔」

「そんな世界は、私は要りません。それに、憧ちゃんがいなくても同じ結果になっていたかも知れません。だから――悲しい『もしも』の話は止めて下さい」

 

 ――言わせてしまった。

 言わせて、しまった。

 

 優しい小蒔は、きっと自分を否定しないだろう。心の中でそんな打算があったのではないかと、憧は自問する。

 

「京くんが、待っています」

 

 そっと、憧は背中を押される。

 

「行って下さい」

「……ここではい分かりましたって言えるほど、あたしは単純じゃないわよ」

「私には、もう言えることはありません。京くんも、憧ちゃんに会いたがっていました」

 

 問答は、それ以上続かなかった。小蒔の勝ちだった。

 

 唇を噛んで、憧は歩き出す。

 扉の前で、彼女は立ち止まった。

 

「小蒔」

「はい?」

「この間は、ごめんね」

 

 謝られた小蒔は、わけがわからず首を傾げた。

 

「何の話ですか?」

「自分の気持ちも言わずに、小蒔の気持ちを聞こうとしてた」

 

 憧は小蒔に振り返り、言った。

 

「あたしは、京太郎が好き」

 

 たったその一言を発するだけで、憧の体を熱くする。本人に告げたわけでもないのに、鼓動が早まる。

 

 小蒔はどうなの? ――もう一度、そう訊ねるつもりだった。

 

 けれども、憧は逃げるように部屋を出た。沈黙した小蒔を前にして、いてもたってもいられなくなった。

 

 部屋を出たすぐ先、廊下で霞が待ち構えていた。

 京太郎と共に、八年前の真実と、自分たちの関係を語り聞かせてくれた人物。とは言っても、彼女もつい先日まで知らされていなかったと言う。

 

「小蒔ちゃんの電話、終わった?」

「うん、終わった」

「そう。憧ちゃんは、一旦ホテルに帰るのよね。気を付けてね」

「……京太郎が、送ってくれるらしいから」

「彼なら今、ロビーにいるはずよ」

「ありがと、霞さん」

 

 どうしても、素っ気ない返事になってしまう。昔はもっと、砕けた調子でお喋りできたというのに。彼女の顔を、まともに見られなかった。

 

 小蒔も霞も、京太郎と会えないのに、自分は傍に近寄れる。当たり前のように、許される。それがたまらなく、辛かった。

 

 呼び止めようとする霞の声は耳に届かないふりをして、憧は早足で立ち去った。

 エレベーターで階下に降り、ロビーの端に京太郎の姿を見つけたとき、憧はようやく理解した。

 

 ――だから彼は、自分に真実を教えなかったのだ。

 こんな風に苦しむことを、予見していたのだ。

 

「京太郎」

「憧」

 

 名前を呼ぶと、京太郎は少しばつが悪そうに笑った。

 

「ホテルまで送ってく」

「……うん」

 

 憧は、こっくりと頷いた。

 昔と比べて、随分と見上げなくてはならなくなった。無性に腹立たしくもあり、同時にそうするたびにどきどきする。

 

 空調の効いた宿を出ると、夏の熱気が憧を包み込む。きらびやかな繁華街からは離れており、薄暗い路地はいつか迷子になった日のことを思い出させた。

 

 しかしあのときとは、致命的に状況が変わってしまった。

 憧と京太郎の間にいた彼女が、いない。その隙間が、そのまま二人の距離になっていた。

 

「ごめんな、憧」

 

 謝られてばっかりだ、と憧はうんざりする。

 

「なんであんたが謝るのよ。遭難したことだってあんたのせいだけじゃないでしょ」

「そうじゃなくて」

 

 歩きながら、京太郎は言葉を選んでいるようだった。

 

「……本当は、憧にはきっちり説明しておくべきだったんだよ」

「でもそれは、あたしのために」

「違う」

 

 京太郎は足を止め、言った。

 

「俺は憧に会うのが怖かったんだ」

「――」

「憧に会ったら……全部吐き出してしまいそうで、そうなってしまうのが怖くて、会いたくないって、言ったんだ」

 

 その挙げ句――と、京太郎は不甲斐なさを滲ませながら続ける。

 

「突然会って、テンパって、結局傷付けるような言動しかとれなかった。……謝っても許されることじゃないって、分かってる。でも、ごめん」

「……はぁ」

 

 憧は、深い溜息を吐き。

 それから精一杯背伸びして、京太郎の頬をつねった。

 

「痛い」

「ん。これでチャラにしてあげる」

 

 さっぱりと言い切って、憧は先に歩き出した。京太郎は慌てて追いかける。

 

「憧」

「もう言わないでよ。本当にもう、なんであたしたち、謝り合ってばかりなんだろうね。こんなことしたくて、会いたかったわけじゃないのに」

 

 夜風に憧の髪がなびく。いつか、彼に再会したときのため手入れを怠らなかった。化粧も覚えて、着飾る術を身につけた。

 冗談っぽく、憧は京太郎に語りかけた。恥ずかしくて、顔は合わせられない。

 

「こんなに可愛くなった女の子に再会できて嬉しい、とかそういう感想はないの?」

「憧は昔から可愛かったよ」

「ふきゅっ」

 

 一瞬で頭がのぼせ上がった。背後から押し殺した笑い声が聞こえてくる。この野郎、と憧は抗議の手を振り上げようとし、

 

「でも、言うとおりだな。憧、もっと可愛くなっててびっくりした」

 

 できなかった。のぼせ上がるどころではなく、くらくらする。

 

 気が付けば、彼の腕が近くにあった。

 

「なぁ、覚えてるか? 軽井沢でも、こうして二人で歩いたよな」

「あのときは、雨、降ってたわよ」

「あれ、そうだっけか」

「うん。あんたがずっと、傘持っててくれて。色んなお店を見て回ったわ」

 

 こうして思い出話ができる日を、ずっと夢見ていた。

 こうしてまた、肩を並べて歩ける日を心待ちにしていた。

 

 そっと、憧の右手が京太郎の左手に伸びる。触れた瞬間、びくりと京太郎が震えた。言い訳するように、憧はお願いする。

 

「ホテルまでで、良いから。昔、みたいに」

 

 京太郎は、黙ったまま手を開く。憧の指先と彼の指先が、絡み合う。――最後は憧が、ぎゅうっと強く握りしめていた。

 触れ合える喜びに、代えられるものなんてない。

 

「そう言えば、言ってなかったわね」

「なんだよ」

「清澄団体戦優勝、おめでとう」

「阿知賀こそ準優勝、おめでとう」

「……上から言われると腹立つわね」

「おい、お前が言い出したんだろうが」

 

 京太郎の突っ込みにも、憧はおどけるばかり。

 

「あんた、明日以降も東京に残るのよね」

「ああ。咲と和の個人戦の応援があるしな。憧はどうするんだ?」

「ここで仲良くなった人も多くてね。明日からは別の宿に移動して、インハイ終わるまで残ることにしたの。来年以降のために勉強したいしね」

 

 応援も勉強も、本当だ。同時に言い訳だった。彼ともっと一緒にいたかったから、東京に残った。我が儘を貫いたのだ。

 

「それじゃ、帰る前までにまた東京観光、するか」

「えっ」

「なんだよ、そのくらいの余裕もないか? さっき話した、軽井沢のときみたいに二人でさ」

「……ううん」

 

 まさか京太郎から誘ってくるとは思っておらず、憧はびっくりした。二人で――二人きりで、デートができる。嬉しくないはずがない。

 

 ――だからこそ。

 だからこそ、憧は訊ねることを決めた。

 

「京太郎は」

 

 簡単には触れられなかった核心へと、触れながら。

 

「京太郎は、小蒔に会えなくて良いの?」

「もう会わない」

 

 その質問を予測していたのだろう。

 京太郎は、迷わずに断言した。

 

「この間で、最後だ。もう小蒔ちゃんとは、会ったりしない」

 

 いくつもの想いが込められた決意に、憧は息を呑む。だが、彼女は重ねて訊ねた。

 

「あたしは、良いのかって訊いたのよ」

「良くないのは、小蒔ちゃんがいなくなってしまうことだろ」

 

 だから、と京太郎は言う。

 

「――もう、会わない」

 

 誤魔化されている。彼は、自分の望みを言っていない。言いたくないのだ。もっと強く追求すれば答えてくれるかも知れない。

 

 しかし、憧はそうしなかった。

 

 聞きたくなかった。言わせたくなかった。彼が誤魔化すままに、流されようとしている自分がいることに気付いた。

 

 それと同時に。

 黒ずんでいてはっきりと掴めなかった感情の正体が、はっきりする。

 

 ――ああ。

 

 最低だ、と自覚しながら。

 

 ――そうか、あたし。

 

 酷い女だ、と思い知らされながら。

 

 ――喜んでいるんだ。

 

 小蒔と京太郎は、もう会えない。そして、もう会わない。嘆くべき関係性。その切欠を作ったのは、自分だ。

 

 だというのに、喜んでいる。

 

 だって――

 こうやって、京太郎の隣を独占できるのだから。あの、軽井沢旅行のときのように、小蒔が割り込んでくることはない。笑顔で迎え入れる必要もない。

 

 彼の気持ちが、最早どちらに向いていようが関係ない。傍にいられるのは自分だけ。彼への想いを遂げられるのは、自分だけ。肌を触れ合わせられるのは、自分だけ。

 

 ――こうして、手を引き寄せて、彼を抱き締められるのも、自分だけ。

 

「あ……こ?」

 

 心臓が痛い。

 息が荒ぶる。

 目元がじんじんする。

 見上げる彼の顔は朱に染まり、憧はどきりとした。きっと、自分はもっと酷い有様だろうと理解しながら。

 

「きょう……たろう」

 

 告げるべき想いは、ただ一つ。

 

 八年間、ずっと胸に秘めてきた。他の誰に声をかけられようとも、ぶれることはなかった。彼だけを、想ってきた。

 

 一音目を紡ぐため、舌が動き出した、そのとき。

 

 

 ――フェアじゃ、ない。

 

 

 過去からの言葉が、憧の脳裏に響いた。あのとき彼女の背中を押したその言葉が、今は彼女を縛り付ける。

 京太郎の背中に回した手を下ろす。繋がれていた手も、解かれた。二歩、後ろに下がって距離を取る。

 

 代わりに出てきたのは、全く別の言葉。

 

「京太郎」

「な、なんだよ」

「本当に――もう二度と、小蒔と会えないって思ってるの?」

 

 京太郎の答えは、やはり頑なに。

 

「当たり前だろ。小蒔ちゃんは神様の器で、俺はその供物。もう、会っちゃいけないんだよ」

「あたしは、気付いたわよ」

 

 敢えて憧は会話を噛み合わせず、言った。彼女の意図が伝わったのか、伝わらなかったのか――京太郎は、怪訝そうに眉根を寄せる。構わず、憧は彼に言った。

 

「本当は、あんたも気付いてるんじゃないの」

「気付いてるって……何の話をしてるんだよ」

「決まってるじゃない」

 

 ああ、と憧は悔やむ。悔やまずになど、いられない。されど彼女は言った。

 

 

「あんたと小蒔が一緒にいられる、可能性に」

 

 

 これが正答なのかどうかなんて、分からない。誰にも分かるはずがない。

 それでも憧は――迷いながらも、苦しみながらも、京太郎にその道を示した。

 

 

 




次回:十六/神代小蒔/きみの声

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