入日影が差し込む病室、窓際のベッド。京太郎はそこに横たわり、ぼうっと窓の外を眺めていた。体のあちこちが痛み、まともに動かなくて、そうするしかなかった。
「なんだ、目、覚めてたのか」
頭上から、太い声が降ってくる。見慣れた顔が、そこにあった。
「……親父」
「おう。お前、診察が終わったと思ったらまたすぐに眠っちまったからな、焦ったぞ。母さんは後で来るそうだから、もう少しゆっくりしとけ」
京太郎の父は、手近にあったパイプ椅子を引き寄せ座る。ぎぃ、と椅子が鳴いた。
――そうだ。京太郎には、確かめなければならないことがあった。
「小蒔ちゃんと、憧は」
恐る恐るといった様子で、京太郎は父に尋ねる。
「無事なのか?」
「ああ」
その質問を予見していたのだろう、父は淀みなく頷いた。
「さっき、連絡があった。怪我も大したことはない。まだ意識がはっきりしないところはあるが、じきに元通りになるとさ」
「良かった……」
じわり、と京太郎の眦が濡れる。
「すぐ会いたい。この病院に二人ともいるんだろう?」
「……京太郎」
父は、首を横に振った。京太郎の表情が、硬直する。
「まず、ことの一部始終を俺に説明しろ。大体察しは付いているが、お前の口から説明がないとどうにもならん部分がある。警察にも話さなくちゃならないんだ、予行演習と思え」
「……分かった」
京太郎は、素直に頷いた。もっともな要求だった。酷く怒られると覚悟しながら、小蒔と憧を連れて山を登ったところから彼は話し始める。
いつのまにか二人がいなくなったこと。
彼女たちを追いかけ、崩落に巻き込まれたこと。
森の中を彷徨い、川沿いに山を降ったこと。
辿り着いた先が、滝であったこと。
――そこで、野犬の群れに襲われたこと。
「……それから、小蒔ちゃんが変になったんだ」
思い出しながら、京太郎は身震いする。
あのときの彼女は、小蒔でありながら小蒔でなかった。自分でも何を言っているのか理解できなかったが、そうとしか言い表しようがない。ばたばたと倒れていく野犬たち。同じく意識を失った憧。そして――
「親父は、何か知ってるのか?」
「聞かされている」
京太郎の父は、霧島神境の巫女たちの神降ろしについて、語った。
神をその身に宿した巫女たちは、尋常ならざる力を発揮できること。神代小蒔は、何世代遡っても例を見ないほどの才覚を宿した巫女であること。
京太郎たちを助けたのが、その力であること。
ああやっぱり、と京太郎は納得する。やはりあれは、小蒔ではなかった、と。経験を踏まえれば、信じるに値する話だった。同時に、混乱していたとは言え助けてくれた相手を邪険にしたことを悔いた。お礼を言わなくてはならない。
「小蒔ちゃんに会いたい」
「ダメだ」
即座に切って捨てられ、京太郎は眉根を寄せる。
「なんでだよ。無事、なんだろ?」
「ようやく無事と言える状態になった……と言ったところだ」
「じゃあ、時間を置いて」
「それもダメだ」
否定する父に、怒りよりも先に京太郎は困惑を覚えた。自分の父は、もっとはっきりさっぱりした性格で、こんな迂遠な話し方はしない。
「京太郎」
父は、京太郎の目をはっきり見据えて、言った。
「お前はもう、神代小蒔に会ってはならない」
「え……?」
「霧島神境からも、申し入れがあった。俺はそれを承諾した。――今日より我々は、彼らに近づいてはならない」
わなわなと、京太郎の肩が震える。彼は、必死で感情を抑えていた。
「俺が……俺が、小蒔ちゃんを危ない目に合わせたから?」
「それは違う。全く別の問題だ」
「じゃあ、どうして?」
父はしばし考え込んでいた。どこから語り聞かせるべきか、悩んでいるようだった。
やがて彼は、口を開いた。
「うちが、勧請された神社ってことはお前も知ってるな。うち自体は特に珍しくもない神社だが、大元を辿っていけば霧島神境にも負けない歴史と格を持っている」
彼の声に、決してうぬぼれなどはない。
「霧島神境が神降ろしの力を持っているって話はさっきやったな。実は須賀の系譜も、類似の力を持っているんだ。俺たちは、その血筋を引いている。分家の分家、そのまた分家で出涸らしみたいなもんだがな」
「初めて聞いたぞ、そんな話」
「言ってなかったからな」
悪びれず、父は続けた。
「霧島神境は、器を磨くことでより強い力を持つ神を降ろしてきた。須賀も同じやり方を採っていたが、どうにも霧島神境には敵わなかったそうだ。――だから、彼らは別のアプローチを考えた」
声を細めて、京太郎の父は言った。
「神に捧げる供物を用意したんだ」
「神に……捧げる……?」
「本来、人の器に神が降りている状態は普通じゃない。荒ぶる神は、いつまでもそこにいられない。だから、彼らの猛々しい怒りを鎮める役割を持つ人間を作り出した。……簡単に言えば、一人で神を降ろしていたところを、他の人間がサポートする形だな」
それは、神を「祓う」とは真逆の発想。神をその場に留め繋げる力。
「神様が気に入る雰囲気、空気って奴なのか。そういうものを持った人間を抽出し、須賀は血縁に加えていったんだ」
ここまで話されて、勘付かないほど京太郎は鈍くなかった。
「俺に、そんな力があるって言いたいのか」
小蒔がその身に降ろした神。彼女は、異常なまでに京太郎への執着を見せていた。それだけは、京太郎自身も肌で感じていた。
「言いたいんじゃなくて、あるんだよ」
「本気かよ」
「ああ。事実、神代小蒔は数時間前まで神を宿したままだった」
「……え?」
「霧島神境の大人総出で、なんとか祓ったそうだ。次も同じことができるかどうかは、分からないそうだ。もちろん、こんな事態は初めてだ。彼女に降りた神を祓うのは、これまで問題になったことがないんだ」
分かるか京太郎、と父は確かめるように訊ねた。
「神代小蒔は、二度と彼女に戻れなくなるところだったんだ」
京太郎は、言葉を失った。
小蒔が、いなくなる。彼女の微笑みが、彼女の優しさが、永遠に失われる。――そんなこと、信じられなかった。
「神の器として磨かれすぎた神代小蒔と、神の供物としてのお前は、噛み合わせが悪すぎる。神を降ろさなければ良い、という問題ではない。今回のような事故がまたあるとも限らん。幸い、神の視界にでも入らない限りお前の力は発揮されない」
「だから……近づくなって?」
「……そうだ」
父とて、本意ではないのだろう。仲の良い子供を引き離すことに、良心の呵責を感じないわけがない。だからといって、妥協する人間でもなかった。彼は、あえて厳しい言葉を京太郎に浴びせかける。
「お前は、彼女にとって抱えきれない爆弾なんだ」
ぎり、と歯噛みしたのはどちらだったか。あるいは、両方だったのか。
シーツが破れそうになるくらい、京太郎の手に力が込められる。感情の奔流が、痛みさえ忘れさせた。
そして、湧いて出てきた疑問が一つ。
「親父」
「なんだ」
「どうして、そんな俺を小蒔ちゃんと会わせたんだ」
その質問を受け、父は露骨に嫌そうな顔をした。
「気分の良い話じゃないぞ」
「どうせ、最低の気分だ」
「……少なくとも一ヶ月前まで、お前にそんな力はなかった。言っただろう、俺たちは分家筋も分家筋。血なんて薄れきって、そっち方面の才能なんてからっきしだ。神職の仕事くらいならできるけどな。――まぁ、きっちり『検査』もしていた。そこは間違いない。あの時点で、神代小蒔と会っても何ら問題はなかったはずなんだ」
ならば何故、と京太郎が言い募る前に、父親は答えを明示した。京太郎が、考えもしなかった名前だった。
「新子の娘だ」
「……憧が? なんでここで憧が出てくるんだよ」
「新子んところもな、何代か前によそから宮司をとって、神霊的なセンスはゼロの家系なんだ。だが、新子の山と社は違う。あそこはそれこそ霧島神境に負けず劣らずの力を有している。そこで生まれ育った新子憧は、言い換えれば新子の社そのものなんだろう」
「新子の、社……?」
「そうだ。あそこはな、人の持つ特異な力を芽吹かせ、安定させる性質を有しているんだ。きっと将来、新子憧の周囲には、大なり小なり『力』を持った人間が集まっているはずだ」
その推測が、阿知賀女子学院麻雀部という形で京太郎の前に現出することを、当然このときの二人はまだ知らない。
お前はその影響を受けたんだろう――溜息混じりに、父は言う。
「本来ならそう簡単に影響を受けたりはしないんだが……かなり根が深い肉体的、精神的接触があったはずだ。一ヶ月前、お前、彼女と会った次の日に寝込んだろう? あれはただの風邪じゃない。突然目覚めた力に、お前の体がびっくりしてついていかなくなったんだ。――そうだと確信したのは、俺もついさっきだが」
「……憧に、会ったから」
「そうだ。お前は神の供物として目覚めた」
もう、京太郎の頭は混乱の極みだった。
――どうして、こうなったんだろう。
ただ、二人と遊んでいたかっただけなのに。二人が、大好きなだけなのに。こんな、お互いがお互いを刺すような関係だったなんて。
こんなこと、おかしい。どうして、自分たちがこんな目に遭わなければならないんだ。
京太郎は項垂れる。
「このこと、二人に話したの?」
「……いいや。彼女たちもまだ目覚めたばかりだからな。言っていないはずだ」
「話さないで」
京太郎は、父に頼み込む。これまでの我が儘なんて比じゃないくらい、必死になって頼み込んだ。
「小蒔ちゃんに、嫌われたくない。――もう、会いたいなんて言わないから」
それは、子供らしい願いだった。
傍にいれば自らを傷付けてしまう存在を、優しい小蒔でも望むとは、彼には思えなかった。
「憧にも、話さないで。あいつは何も悪くない、でもきっとあいつ、自分を責めて、苦しむと思う。――あいつとも、もう会わない。絶対に、言わないから」
それは、半分本音で半分嘘だった。
もしも彼女に会ってしまえば、彼女に甘えて全てを打ち明けてしまいそうだったから。何もかもが、瓦解しそうだったから。
決して、彼女たちを慮っただけの結論ではなかった。京太郎自身傷付きたくないという逃避が、そう決めさせた。弱い、彼の答えだった。
だが、少なくとも、京太郎の父にはそれを責めたりはできなかった。
「色々言ったがな、京太郎。今までの話はほとんど俺の言い訳だ。見通しの甘かった俺たち大人の責任だ。だから、お前が罪悪感を覚えることはない。辛い想いをさせた、すまなかった」
優しく、頭を撫でられる。父にそうされたのは、本当に久しぶりだった。だが、今まで貰ったどんな拳骨よりも、痛かった。
「山で迷ったことも、言ってしまえば俺の監督不行届だ。お前は最後まであの娘たちを守ろうとしていたんだろう? 神代も新子も、お前を恨んじゃいない。ひとまず、俺たちが喧嘩したってことで距離をとろうと思っている」
そんな言葉を聞きたいのではなかった。
彼の真の望みは違う。違うのだ。
だが、彼はそれを求めない。求めてはいけない、と決意する。
おそらくきっと、それは世界で最も頑なな決意だった。
父は、母が病室に来るまでずっと、息子の頭を撫で続けた。
日が沈む。
夏が、終わろうとしていた。
◇ ◇ ◇
それからの京太郎は、全てを忘れてより一層スポーツに打ち込むようになった。中学に入ってからは、ハンドボール一本に絞り、最後の県大会では見事な成績を収めるに至った。
だが、足の古傷のせいで、彼は膝に過剰な負担をかけていた。医師から、もう激しい運動はできないと宣告された。ショックはショックであったが、過去の経験からすれば耐えられないほどではなかった。
スポーツ推薦の目が失われ、高校はどこに行くか悩んだが、中学で仲良くなった友人が清澄に行くと言ったので、なんとなく着いていくことにした。特に、深い理由はなかった。
入学式を終えて体育館を出ると、部活の勧誘の海にでくわした。上背があるため運動系からの勧誘は激しかったが、当然全て断った。
人の波を抜け出した先で、京太郎は声をかけられた。またか、と一瞬うんざりしたが、京太郎は声の主に興味が湧いた。
先ほどの入学式の壇上で挨拶をしていた、学生議会長だったのだ。
「ねぇ、君」
彼女は、嗜虐的な笑みを浮かべて、京太郎を誘った。
「麻雀に、興味ない?」
その単語を耳にして。
京太郎は、いつか、誰かと交わした会話を思い出した。
――スポーツに疲れたら一度やってみてください。
――とっても面白いゲームですよ。
果たして、あのとき自分は何と答えたのだろうか。京太郎は自問する。だけどきっと、『やらない』なんて、連れない返事はしなかったはずだ。
――なら、行こう。
京太郎は議会長の背中を追いかけた。いつか、誰かが語った面白さを、確かめるために。
夏が始まる。
少女たちの戦いが始まる。
その先に、望んで止まなかった、そして決して成就してはならなかった再会が待っていることに、このときの彼はまだ知らない。
次回:幕間/高鴨穏乃/フローレス